闇夜の憂鬱 第九話
一緒に水族館へ行く日程も決まり、胸に淡い期待のようなものを抱きながらも、またいつもの日常を過ごしていた。ただ一つ違う事と言えば、ただでさえ少ない日々の食費をさらに削り、遊びにいくための準備をしていると言う事だろうか。
約束をしたのはおよそ一ヶ月後になる。その間に給料日は一度しかこない。入ってくる金額は決まっているし、僅かな貯金はあるが、出来ればそちらには手をつけたくない。となれば、どこかを削らなければいけないのだ。
しかし、バイトのある日は廃棄品を食べて過ごし、スーパーに行ってもセール品や見切り品ばかりを買う歩だ。これ以上抑えられる部分はない。遊びに行くお金をどうやって捻出するのか――悩んだ末、スーパーに行く回数を減らす事にした。食べなければ食費にお金を持っていかれる事はない。だからと言って全く食べないのではなく、一日家を出なくていい日は昼食だけを抜いてみたり、バイトで夕飯に廃棄品を貰える時は朝と昼を抜くだとか――そんな生活だ。幸いな事に米は実家からの仕送りがあるので、米だけを食べると言う選択肢もある。
それで節約できるのは、一日あたりに換算すればおよそ百円、二百円程度だ。しかしそれも一ヶ月分溜まれば、水族館への交通費と入場料くらいにはなるのだ。その歩の涙ぐましい努力の成果は、自宅の小さなクッキーの缶に着実に形を残していた。
この缶は先日、実家からの仕送りの中に混じっていたものだ。どうやら貰い物だったらしいが、そのまま歩へと回ってきた形だ。中身はとうに食べきり、今は小銭貯金の容器へと姿を変えていた。初めの方は容器を振ると小銭がぶつかるカラカラとした缶特有の音が鳴っていたが、今では中身も増えて重量を持ち、振れば小銭が僅かに跳ねる音が聞けるくらいだ。中身はほとんどが十円玉や五十円玉なせいで無駄に重量を増しているせいもあるが――ここまであからさまにお金が貯まったと言う実感があると、さすがに嬉しさがこみ上げてくる。
約束の日を目前に控えた頃に溜まった小銭は札に両替し、歩の準備はもう万端だった。
これを最後の思い出に――。
佐原と一緒にいるのは楽しかったし、この一ヶ月の間毎日のようにメールをし、仕事帰りにコンビニに寄る佐原と顔を合わせた。しかし、それも今日で終わってしまう。歩は佐原と友達になる事は――友達のままで傍にいる事なんて出来ないのだから、それも仕方ないのだろう、とまだ迷う気持ちに何度も言い聞かせる。
まだ、迷っているのだ。
友達になれば今の楽しい毎日をこれからも過ごせる。しかし、辛い思いを抱えたままになってしまう。それが何かの拍子に爆発してしまわない保障はどこにもない。けれど、そんなものを抱えてでも、佐原の隣にいたいと願う自分がいるのだ。だが、自分の性癖が佐原にバレてしまった時、きっと佐原は自分を嫌いになって離れていってしまうのではないかと思うと、今離れるべきなのだという思いの方が増す。
傷付きたくなかった。
いつか傷付いてしまうのなら、明日からの孤独を選ぶべきなのだろう――と自分に言い聞かせる。
楽しみなはずの水族館。それを超越する不安と緊張――。約束の日を翌日に控えて、終わらない自問自答を繰り返しながら、眠れない夜を過ごした。
「おまたせ、待った?」
待ち合わせは午前9時50分、歩の働くコンビニの最寄駅の改札前だ。寒い日が続いていたが、今日は一段と寒い気がした。普段、厚着すると動きづらくなるので避けていたが、今日だけはきっちりコートを羽織り、マフラーを巻いた。吐き出す吐息が視界に白く映る。
普段、電車を利用する事の少ない歩なので、改札のすぐ脇に設置されている券売機の上に掲示された路線図とにらめっこしていると、後ろからぽん、と肩に温かい手が置かれるのと同時に聞き覚えのある声が耳に入った。
「あ……今きたところ……です」
振り返り、もはや定石とも言えるやり取りを交わす。歩にとっては初めての経験だ。
にこりと笑う佐原が眩しくて、これからの事を考えるとちくりと胸が痛む。歩は小さくかぶりを振り、押し寄せる不安を払った。
「じゃあ、いこうか。切符はもう買った?」
佐原の言葉に、歩は首を左右に振った。いましがた買おうとしていたのだが、複雑な運賃表から目的の場所を見つける事ができず、まだ購入する事が出来ないでいたのだ。
それを伝えると、佐原は真っ直ぐに券売機にむかい、手早くタッチパネルを操作して切符を購入し、歩の元へと戻ってきた。
「はい、歩くんの分も買ってきた」
そう差し出されたのは、水族館の最寄駅までの切符だった。
「え、あ……、有難う御座います。……えっと、いくらでした?」
それを受け取り、佐原の顔と運賃表を見比べながら尋ねる。元々、こう言う探し物は得意な方ではないのだ。
「うん?いいよ、それくらい。それより早く行かないと電車来ちゃうから、ほら行くよ」
そう言って佐原は戸惑う歩を無視し、さっさと改札へと進んで行ってしまう。「えっちょっ……」
いいわけがない。けれど佐原を引き留めようとする歩の「ちょっと待ってください」の声が放たれるよりも、佐原が進むペースの方が早いのだ。手の中に残されたのは、歩がまだ料金を払っていない、歩のための切符だ。佐原はもう改札を通過しようとしているところで、歩は少しばかり慌てながらも、その切符で佐原の後を追った。
「ちゃんとお金払わせてくださいよ」
改札を通過し、佐原の横に並んだ歩むが不機嫌そうに言うと
「……今財布出すと面倒だから……まあ、じゃあ後でもらおうかな」
そんな風に佐原は曖昧に笑むばかりだった。
ホームにも人はそれなりにいるが、混雑しているわけではない。電車の到着を告げる電子掲示板に示されている、歩たちの乗る予定の電車の到着時刻まであと五分程の余裕もある。一体何が面倒なのかは全く理解できなかった。しかし、あまりおしの強い性格ではないのだ。それ以上強く言う事は出来ず、歩さえ忘れずに後から金額を調べて払えばいいだけの事で、その場でのその話題はやめる事にした。
到着した電車に乗り込むと、日曜の昼前と言う事も手伝ってか、これからどこかへ遊びにでかけるのであろう若者の姿が目立った。友人同士で電車に乗ると、盛り上がる会話と共に声のボリュームも上がってしまう事が原因だろう。
「結構混んでますね」
座席は空いておらず、入り口付近の手すりにつかまると、佐原も歩と同じ手すり、歩の手よりもすぐ上の場所を掴んで隣に立った。
「日曜日だからね」
ほんの少し手を動かせば、互いの手が触れ合ってしまう。息遣いさえ感じてしまえそうな程の距離では、どうしても意識してしまう。
触れたい、と思ってしまう。
他愛のない会話が幸せで、これを今日で終わらせなければいけない事を後悔する。今は、今だけは。
一足飛ばしで翔けて行くいくような鼓動の高鳴りを、ずっと感じていたかった。
ふと視線をあげれば、優しげな笑みを浮かべた佐原の瞳とぶつかってしまう。電車と言う閉じ込められたこの空間では、いつぞやのように逃げる事もできない。
溢れるのは狂おしいほどの愛おしさ、だ。離れたくないと、心が訴えている。けれど、友達なんて、友達のままでいるだけなんて、耐えられるわけがなかった。
電車は二人の降りる駅へ到着し、その電車に乗っていたおよそ三分の二程の乗客と共に二人を降ろした。駅は水族館と隣接しており、この駅で降りるのはほとんどが水族館目当ての客なのだ。改札を抜けるとそうでもないのだが、改札までは少し狭めの造りである事も手伝ってとても混み合っている。二人は肩を寄せ合い改札を抜ける順番を待つ。
「水族館、楽しみだね」
「……ええ、そうですね」
正直に言ってしまえば、歩の気分はとても重い。この後の佐原に告げなければいけない事があるからだ。今のこの二人の空気をぶち壊しにしてしまわなければいけないからだ。
「凄く、楽しみです」
笑顔は苦手だったけれど、佐原のように笑ってみたくて、笑顔を作る。それはきっと泣き笑いのような表情だっただろう。
この数か月間。佐原と出会ってからの数か月間は、歩が経験した事のなかった数か月間だった。初めて身内以外の誰かと私用のメールを交わし、生きて行くうえでこれっぽっちも必要のない雑談を楽しんだ。初めての酒を飲み、初めての理由のない外泊をした。
誰かを好きなのだと、初めて自覚した。
誰かと離れたくないのだと、初めて心の底から願った。
これで、最後だから。
佐原と縁が途切れてしまえば、もうこんな幸せな時間は過ごせないだろう。だから。
今日は笑ってみたいと、そう思ったのだ。
「……今日は歩くんと遊びにこれて、嬉しいよ」
そう言って佐原は、下手な笑顔を作った歩の頬を軽く撫でる。触れたのはほんの一瞬で、撫でたと言うよりも偶然にあたってしまったと言う方が正しいのではないだろうかと言う触れ方だった。冷たく冷えた指先がやけに印象的で、心地よかった。
「……はい」
鼓動が更に加速する。外気の冷たさに反して、頬の熱が高まっていくのを感じた。きっと頬は真っ赤になっているであろう事を、鏡を見ずともわかるくらいだ。
今日だけは、佐原の隣に居る事が出来る。これで終わってしまうけれど、今日だけは。佐原の隣で楽しみたい、とそう思った。
改札を越え、人の波に連なって水族館を目指す。数年ぶりに目にするガラス張りの大きな建物はとても特徴的で、懐かしささえも込み上げる。まだ何も知らず、幼かった日々を思い出す。
「はい、これ」
駅からの波が水族館へたどり着き、前売り券を持っている者はそのまま入館の行列へ、それ以外の者は券売機へと向かう。真っ直ぐに券売機へ進もうとした歩だったが、佐原はそれを引き留めて長方形の紙を二枚差し出した。
「え……」
一目見ればわかる。特徴的な外観をしたこの水族館の写真が掲載され、紙の四分の三程のあたりにミシン目もついたそれは、紛れもなくここの前売り券だ。
「あ、えっと、いくらですか?なんか……すみません、俺、何も準備できてなくて……」
先程の切符の件と言い、佐原は随分準備がいいようだ。歩は下調べをしていなさすぎる自分がとても申し訳なかった。しかし、それも無理もないだろう。誰かと遊びに出かけるなんて初めての経験なのだ。
「たまたま貰ったものだから、代金はいいよ」
差し出したチケットを歩に受け取らせると、佐原はそう朗らかな笑みを浮かべる。
「そうなんですか……?」
水族館のチケットを貰う事なんてあるのだろうか、と一瞬頭を過るが、そういえば実家で暮らしていた頃は父の仕事の都合や、家でとっていた新聞社からのサービスなどで、こんな風な公共施設や町にやってくるサーカスのチケットがまわってきていた事を思い出す。今現在はただの大学生で、新聞もとっていない歩にはよくわからないが、こんなにもタイミングよくチケットを貰える事なんてあるのだろうかと疑問を覚えつつ、やはりよくわからないのでそれ以上深く訊く事はやめた。
「じゃあ、行こうか」
そして佐原は入口の方を指さした。係員にチケットを渡し、千切ってもらった半券と入場すると言うアナログ方式だ。佐原に先導される形で入口を通り、内部へと入る。通路は薄暗く、足元の青い光だけが頼りだ。真っ直ぐ続くその通路はしばらく先で右に折れていて、そちらから青白い光が漏れだし、人々の小さな歓声が聞こえる。順路に従い、歩たちもそこへ行くと、壁一面に大きな水槽が設置されていた。
温かい地域の海をイメージしている事が両脇の柱に書かれていて、同じくこの水槽に棲む魚達の紹介も載っている。
「わぁ……」
黄色や赤色など、色とりどりの様々な魚が混在している水槽らしく、それらが同じ種類の者同士で群体を組み、水槽の中を自在にラインを描いて泳ぐ。群体が交差して混ざり合い、また群体へと戻る。一面を満たす青をキャンパスに描かれるそれは、なんとも幻想的な雰囲気を醸し出すのだ。
「綺麗だね」
水槽の前の人だかりの後ろからそれを眺めても、建物自体の背がとても高いので、ストレスなく見る事ができる。歩がちらりと横を窺うと、水槽から漏れだす青い光に照らされた佐原の横顔が目に入った。
「ええ、とっても」
思わず見惚れてしまう。水槽ではなく、佐原の方に。
これで最後なのだと思うと、こんなにも幻想的で人を虜にする程に美しい水槽でも、それを見ている場合ではなく思えた。もう見る事のできなくなるであろう、佐原の横顔が、もう二度と来る事のないであろう佐原の隣と言う位置を、余すこと無く噛み締めたかった。
切なさが胸に押し寄せる。
伝わる事のない想いを抱える事がこれ程までに辛いだなんて、今まで想像もした事がなかった。
「……ん?」
歩の視線に気付いたのか、佐原は首を傾げ、歩に視線を遣る。
視線がぶつかり、交錯する。
想いをぶつけてしまえば、佐原はどんな反応をするのだろうかと、少しだけ気になった。いつだって優しくて大人だった佐原は、一体どんな拒否の言葉を口にするのだろうか、と。
ぶつけてしまえば少しはすっきりするのだろうか、と迷う。どうせこれで終わりなんだから、どうせもう二度と合う事はないんだから、抱えた想いを伝えてしまおうか、と迷う。
「……なんでも、ないです」
迷って、切なくて、悲しくて。
歩は視線を落とす。
そんな事をしても、佐原を困らせてしまうだけな事は明白なのだ。これから、友達になれない、と、もう二度と連絡を取る気はない、と伝えなければいけないのだ。佐原を傷つけなくてはいけないのだ。それだけでも充分に罪深い事なのに、その上自分勝手な想いをぶつけて更に困らせようだなんて、自分の図々しさに辟易した。
「そう?ならいいけど……暗い顔して、大丈夫?悩み事があるんなら相談に乗るよ」
無表情な歩ではあるが、自分で思っている以上に、歩の感情は表に出やすいのだろうか。歩の心の機微を佐原は敏感にキャッチしてしまう。それがとても申し訳なくて、悲しい。
「いえ、……大丈夫です。なにもないんです」
そう自分に言い聞かせる。そして、自分に覆い被さる悩みを、佐原への想いを、罪悪感を、全て振り払うかのように頭を左右に振り、顔をあげる。
「先、進みましょうか。ペンギンはやく見たいです」
そう誤魔化す。いつまでも立ち止まってはいられないのだから。いつかは進まなければいけないのだから。進んだその先に何があろうとも、停滞する事は許されない。
「……そうだね」
佐原は困ったような、どこか歩を心配するような表情で、静かに頷いた。
青い光の溢れる水槽を眺めながら、雑談も交えつつ二人は歩みを進める。話はやはり佐原が主体で、歩は相槌を打つか、尋ねられた事に対する返答ばかりだ。それでも、そんな一方的とも言える交流でも、歩には至福の時間だ。水槽を指さし、展示されている魚たちへの感想を述べる。たったそれだけの事でも、だ。
ところどころで水槽は区切られており、水槽に棲む魚の種類が変わるので、飽きる事はない。魚ばかりではなく、アシカやラッコなどの姿も見る事が出来るのだ。そしてその先には本日のメインであるペンギンがいる。泳いでいるペンギンを間近で見る事ができるのだ。ルート通りに進めば、この先で地上に出て、地上を歩くペンギンだって眺める事ができる。
可愛いペンギンはやはり人気が高いのか、ペンギンの水槽の前にはこれまでに増して人だかりが出来ていた。
歩はその人だかりの一番後ろの方で少し背伸びをする。愛らしいペンギンたちが縦横無尽に水槽の中を泳いでいる姿は、まるで自らの愛らしさをここぞとばかりにアピールしているかのようだ。
ペンギンを見たいとは言ったものの、実のところ今まで特段にペンギンが好きだったわけではない。けれど、そんな歩を持ってしてでもペンギンを可愛いと思わせる。可愛いものを素直に可愛いと思える感情があった事に、少しばかり驚きつつも、歩は夢中になってペンギンの姿を追った。これで終わりだからこそ、今だけは楽しんでいたかったのだ。
佐原はその一歩後ろで、腕を組んで歩の後ろ姿を眺めていた。ペンギンを追う事に必死になってしまっている歩は、佐原のそんな視線には気付かない。
そして、楽しい一時はあっと言う間に終わってしまった。どんな理由があろうとも、時間は情け容赦なく進んでいくのだ。