獰猛な指先 第十三話



「はぁ……」
 本山は一人きりの室内で溜息を吐く。
 土曜日の昼下がり、さして面白いとも思わないテレビをつけて意味もなく眺めてみる。外はよく晴れていて、昼寝が出来れば気持ち良いのだろうとは思うが生憎な事に眠気はない。
 休日に甘えて朝はゆっくり眠りを貪り、目を覚ましたのはほんの一時間程前だ。朝食を食べ逃し、昼食を用意したい気もするが面倒でその場から動く気力はなかった。
 昨夜、圭吾と行為を終えてそのまま真っ直ぐに帰宅した。無惨にも潰えた恋に落胆し、やる気というものが根こそぎどこかへ行ってしまったのだ。
「はぁ……」
 本日何度目かの溜息を吐く。
 恋人に、セックスの上手さを求めているわけではない。上手い事にこした事はないとも考えているがそれよりも――楽しい時間を共有でき、愛し愛される関係を築きたいだけだ。
 それなのに、圭吾に落胆してしまった。
 そして、落胆して恋心を失ってしまった自分に失望していた。
 セックスの技術は、突き詰めれば相手をいかに思いやれるかだ。自身の快楽だけを追求するのではなく、相手をどう気持ちよく出来るかだ。――その精神は恐らく日常生活にも反映される。
 恋人を気遣い、互いに思いやりを持って接する事のできる関係を目指したかったのだから、圭吾とは合わなかったのだろう。
――などともっともらしい事を思考しながら、視線を彷徨わせる。
 結局のところ自分は色欲にしか興味がないどうしようもない人間なのではないかとさえ思う。――否定したいのに、否定できる材料は見当たらず更に自分を追い詰める。
 ぐぅ、と腹が鳴る。いくら失望していようと食欲はあるのだから嗤える話だ。
 家にはすぐ食べられるような物は置いておらず、店屋物でもとろうかと携帯電話に手を伸ばしたところで、昨夜の事が蘇る。
 潰えてしまった恋の方はともかく、セックスは気持ちよくなければ意味がない。溺れきれなかった快楽が恋しくて、不満が残っていた。
 ほんの少しだけ迷ってから、電話帳を開く。つい最近知ったばかりなのに覚えてしまいそうな程に見知った電話番号は、長岡のものだった。
 数度のコール音のあと、
『なに』
 と、通話を開始するなりそんな無愛想な長岡の声が聞こえてきた。
「ヤりたいんだけど」
 だから本山も単刀直入に、用件だけを伝える。
『今から?』
「今からじゃなくてもいいけど。今日か、明日か」
 セックスがしたいというよりも、潰えてしまった恋を誤魔化したかった。それを長岡に頼るのは可笑しいような気もしたが、今はそうするしか選択肢が見えない。
『んー……じゃあ今日、夕方からとかどう?』
「じゃあそれで」
 約束を取り付けて、電話を切る。用のなくなった携帯電話はぽん、とベッドの上へと放り投げた。
「はぁ……」
 そして再び溜息を吐く。
 ほんの少し前までは長岡と恋人になりたいと思っていた。それが流れるままに流されるうちに恋人ではなく、セックスを共にする間柄になっていた。
 身体の相性は抜群で、長岡の見た目だって好みだ。性格は腹の立つ時もあるが、それはお互い様だろう。
 長岡と恋人になる事ができれば、今抱えている恋人が欲しいという欲求は満たされるのではないか、と考えたところでくすり、と笑った。
 長岡が恋人になるなんてあり得ない事だろう、と思ったからだ。恋人になれるなら、今のような関係にはなっていなかった。
 好きになって、セックスをして、嫌いになって、普通になった。長岡はこの先誰かを愛する事はあるのだろうか――。
 本山たちは所謂結婚適齢期と呼ばれる年代だ。
 男しか愛せない本山は結婚なんて縁のない話だが、長岡は違う。今は本山とセックスをしているが、本来はノンケのはずだ。いつかそのうち、本命の恋人を作って結婚するのだろう。そうなれば本山は身を引く他はない。
 世の中うまく行かないものだ、などと声に出して呟いてみながらのろのろと立ち上がり、出かける準備をはじめた。


■■■


 自ら強請った長岡とのセックスは、本山が文句なく満足できるものだった。
 意識してみて初めてわかる長岡の技術の上手さは、やはり惚れ惚れする。誰かに渡してしまうのが惜しい。出来る事なら、独り占めしたい。
 今更になって長岡と恋人になれたら、などという欲求が再燃するとは思っていなかった。
 それも、恋をしたから恋人になりたいのではなく、セックスが上手いから恋人になりたい、なのだ。
 つまるところ、自分には肉欲しかないのだと改めて自覚し、本山は思わず笑い出しそうな気分だった。
 暗闇の中、隣で眠る男の様子をそっと窺う。
 普段なら行為が終わった後はすぐにホテルを出るのだが、今日に限っては眠くて仕方ないという長岡に付き合っていた。
 行為が終わり、簡単な後処理だけをした長岡は「寝るから起こすな」とだけ言い残して、そのまますやすやと安らかな寝息を立てて寝入りはじめた。
 置いて帰るかどうか、ほんの少しだけ迷って――本山も付き合う事にした。
 軽くシャワーを浴びて一つしかない、長岡も使う掛布に潜り込み、その体温を感じる。
 とは言え、時刻はまだ夕飯時を過ぎたくらいで、本山に眠気はない。素肌に感じる滑らかなシーツの手触りと、綿布団に篭もる長岡の体温を味わっていた。
 セックスをしている時以外で、こうして長岡の体温を感じたのは初めてだ。
 本山が少し空いていた身体の距離を詰めると、長岡の肩に自分の肩があたる。
 メインの照明は消していて、壁際と足元に設置された橙色の間接照明だけが室内を照らしている。文字を読むような事は出来ないが、隣で眠る男の顔を見るくらいには充分な光量だ。
 形の良い鼻筋、何度も触れ合った唇、余分な脂肪のついていない顎から首筋にかけてのライン、規則正しく上下する胸元を順に視線で辿る。
――長岡が、恋人だったらいいのに。
 長岡は、本山の理想そのものだった。性格について若干不満な点はあるものの――初めの方こそ気に入らなかったその性格も、今では気にならない。横暴だ、と思った事もあったが、元はと言えば本山が長岡を無理矢理襲った事に起因するのだ。普段、普通に話をして、セックスをするには気にならないし、共に仕事をするにしてもなんの問題もない。
 けれど、恋人になりたいとは思っても、恋人になる気はなかった。
 その時、ブブ、と小さく響く振動音が聞こえた。本山の携帯電話からのもので、今日何度目かのものだ。
 誰からの連絡なのか、一度目は確認してそれからは確認すらしていない。確認しなくても――一度目がそうだったように相手は圭吾に違いない、という確信があった。
 どうせ、本山が携帯電話の番号を教えているような相手で、重要な連絡を寄越してくるような人間はいない。昔の男か、はたまた気まぐれに一夜を共にした相手か、くらいだ。
 圭吾とはもう会う気もなかったし、他の男だったにしろ今は長岡と一緒にいる方が大事だった。
 恋は幻の感情で、いずれ潰えて消えてしまうものだ。だから、例え望み通り長岡と恋人になれたとしても、いつかまた他人に戻ってしまう時がくるのだろう。
 それに長岡は、本山のようにゲイだったわけではない。女のように孕む事もない都合の良い性欲解消手段として使われている事はわかっている。そして、それは本山だって同じだ。
 それなのに本山が恋人になりたいと駄々を捏ねればこの関係さえ終わってしまう事だろう。
 遅かれ早かれこの身体だけの関係は、いつかは終わりを迎える時がくる。いつまでも形の変わらないものなんて有り得ない。
 けれど、今は少しでも長く、長岡と一緒にいたかった。
「ん……」
 不意に長岡は寝返りを打ち、仰向けだった身体を本山の方へと向ける。
 起きるのかと内心慌てたが、長岡はそのまま眠りを継続させる。規則正しい寝息が再び聞こえてきてから、本山はほっと息を吐く。
 目の前に迫った長岡の顔が、好きだった。
 吐息を感じられる程の距離に迫る唇に、キスを落とした。起こしてしまわないよう、ほんの少し触れるだけのキスだ。
 慣れているはずのキスは、いつも求めているとのとはまた別のものだ。唇に残った柔らかな感覚が酷く甘い。
 湧き上がる罪悪感に、胸が押し潰されてしまいそうだった。

 長岡が目を覚ましたのは、それからおよそ三十分後の事だった。眠たげに目を擦って伸びをし、隣にいる本山の存在を認めると抱き着くように密着する。
「おはよ」
 眠っていたせいか、声はいつも聞いているようなものではなく、やけに掠れていた。
 近付いた男の肌に気恥ずかしさを感じながら、それでも本山は身を任せた。
「普通は今から寝るような時間なんだけどな」
 近すぎる距離に、視線の遣り場がなくふらふらと彷徨わせながら答える。
「いや、昨日寝てなくてさ」
 そんな本山の内心を知ってか知らずか、長岡は眉を八の字に曲げて笑う。
「寝てない、って、なんで?」
 もしや忙しいところを呼び出してしまったのか、と焦りかけるが――
「徹夜でゲームしてた」
「自業自得じゃん」
 答えは単純なもので、本山は身体を脱力させた。
「……ゲームって、どんなゲーム?」
 本山にとって、ゲームは縁遠いものだ。幼い頃や学生時代にはそれなりに遊んだ記憶はあるものの、大学へ通うために実家を出て一人暮らしを始めてから、ゲームの類は買った事がない。
「ん?んー……」
 けれど、長岡は本山の質問にすぐ答えようとはせず、目を細めて渋い顔をした。
「なに?言えないようなゲーム?」
 その表情の意味がわからず、本山は更に深く問いかける。じっと距離を詰め視線を合わせて見つめる。
「言えない、ってわけじゃないけど」
 長岡は更に口ごもり、
「……笑うなよ?」
と、念押しのように言う。
 ゲームをしないとは言っても、ゲーム自体が嫌いだったり、偏見があるわけではない。ゲームで潰さなければならない暇がないだけだ。それに、五分、十分程の時間潰しなら携帯電話についているゲームをする事もある。
 本山はこくこくと首を振って頷き、続きの言葉を促した。
 長岡は諦めたように一度小さく息を吐き、そして口を開く。
「テト○ス」
 その懐かしい名前は、ゲームをしない本山だって知っている。ランダムに落ちてくるブロックを決められた枠内に並べて横に埋めると、埋められた列のブロックが消え、スコアが入る。いかにはやく、ミスなくブロックを敷き詰めて高いスコアを目指すゲームだ。――そんな説明は不要なくらい、一定の年齢以下の日本人ならば知らない人間などいないのではないかと思える程ポピュラーなものだ。
「ブロック横に並べて消すやつ……?」
 しかし、長岡は確か寝ていない、と言ったはずで本山が知っているそのゲームは寝る時間を削ってやるような性格ではない。空いた時間に簡単にできる手軽な暇潰しだと思っていた。
「うん、そう。……いや、つい夢中になっちゃってさ」
「夢中」
 言葉を繰り返しながら、本山は首を傾げる。自分の覚えているゲームと、長岡の言っているゲームはまさか別物なのかとも思ったが、長岡の口ぶりからするにやはりそのゲームで間違いはないのだろう。
 本山の頭の中に疑問符が飛び回っているのを察したのか、長岡は更に詳しい説明を始めた。
「ブロック消すとレベルあがっていくモードでやっててさ、レベルがあがると落ちてくるブロックのスピードが速くなるやつ」
「……ああ」
 ゲーム開始当初は自らの手ではやく落ちてくるよう操作してしまう程ゆっくりと落ちてくるブロックが、レベルがあがるにつれて目にもとまらぬ速さで落ちてくるようになる。
「あれが得意なんだけど、やりはじめたら終わりがなくて……」
 そこまで説明されて、合点がいった。ゲームが終わるのは、ブロックが消せずに積み上がり、ゲームオーバーになる時だけだ。長岡はそのゲームオーバーが来ない、という事なのだろう。
「それで徹夜なんてできるんだ……?」
 ゲームに興味のない本山からしてみればにわかには信じられ難い事だ。
 だが、気まずそうに目を逸らす長岡がそんな嘘をつかなければならない理由も思い当たらず、本当の事なんだろうと信じる事にした。
「っつか、もうそんな若くないんだし無茶すんなよ……」
 そして、それが本山の素直な感想だった。
 二人ともまだ二十代とは言え、あとしばらくで三十代にも手が届く。世間的に見ればまだ若いとされてもおかしくない年代だが、学生の頃に比べれば、デスクワークな事も伴って体力は格段に落ちた。あの頃は平気だった徹夜や深酒も、近頃は尾を引くようになってきたのを意識している。
「それはわかってるんだけど、一人で部屋にいるとつい夢中になるんだよな。実家とかだと誰かが止めてくれるんだけど」
 そうして、長岡は眉を寄せて笑って見せた。
 特に趣味と言える趣味を持たない本山だったが、何かに集中すると周囲の事が見えなくなる人間がいる、というのは知識の上で知っていた。長岡のように落ち物ゲームを延々やり続けるというのは極端でも、本山にも時間を忘れて本を読み込んでしまうような経験はある。
 本山は笑う長岡につられて笑みを作ってしまう。
「長岡って意外に可愛いところもあるんだな」
 まるで、子供のようだ。
 仕事を共にする同僚はいつだって大人の男の魅力を醸していて、そこに惹かれて惚れた。
 そのイメージと、寝る時間も忘れてゲームに熱中してしまうという話はかけ離れているようにも思えて意外だった。
「……うっせーよ」
 長岡は拗ねたようなぶっきらぼうな口調で膨れてみせる。
 思えば長岡のプライベートの話を聞くのはこれが初めてだ。
 会社では仕事の話しかしないし、社外で会う気は肌を重ねるばかりで話という話はする事がない。
「本山は趣味とかねーの?」
 長岡に訊ねられて、視線を彷徨わせる。
「趣味、ねぇ……」
 だが、先述したように本山には趣味と言えるような趣味は見当たらない。
 本を読んだり映画を見たりはするが、どちらかと言えば暇潰しの側面が強く、生活から消えてしまってもなんら問題のないものだ。
「じゃあ休みの日とか一人で、何してんの?」
 答えの出せない本山を、長岡は理解できないといった風に怪訝な顔で覗き込んだ。
 趣味と言えるものを持つ人間からしてみれば、趣味を持たない人間の事は理解できないのだろう。
 だが、趣味のない本山からしてみれば、趣味がさして重要な事だとは思わない。なくても生きていけるし――楽しそうで羨ましい、と思う事はあっても趣味の作り方もわからなかった。
「休みの日……は、大体寝るか家でごろごろするか、とかかな」
 休日とは、身体を休める日だ。趣味を生きがいにする人間の中には、休日を全て趣味に費やす人間もいるが、本山にはそれこそ理解できないものだ。
「なんか、時間もったいなくね……?」
 そして、長岡の意見は恐らく休日を趣味に費やしても惜しくない側の人間の意見なのだろう。
 趣味が欲しいというわけでもないのに、何故か悔しくなってしまって
「……あとは、セックスとか。相手がいればだけど」
 と、悪戯に口角をあげる。
 ここしばらくの土日のうちどちらかは、ほんの数時間と言えど長岡と時間を共にする事も少なくはない。
「……趣味?」
 長岡は呆れたように笑って肩を揺らした。
「いいじゃん。……好きなんだし」
 セックスは好きだった。肉欲に突き動かされて、本能のままに貪る瞬間が好きだった。
 読書も映画もなくても困らないが、セックスだけはないと困ってしまう。――本能に基づくそれを趣味に括ってしまうのはおかしいような気もしたが、本山の場合は生産性のないものなのだから趣味に括る方が正しい気がした。


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