獰猛な指先 第五話



 この会社の社員それぞれに与えられた昼休みは一時間ちょうどだ。昼食を終えた二人に残された時間は、およそ四十分程になる。会社に戻って昼寝をするならば充分すぎる時間だ。しかし、セックスをするには少し短いのではないだろうか。
「……っつ」
 社内には各階にトイレが設置してある。そして、そのトイレの中には普段あまり使われる事のないものもある。
 それが、地下一階にある男子トイレだった。使われていない理由は至極明解なもので、倉庫としてしか使用されていないその階のトイレは、どの部署からも遠く位置しているからだ。人の出入りは極端に少なく、照明は最低限のものしか設置されていない。他の階にいけば明るいトイレがあるのだから、わざわざこんな場所で用を足したがる人間はいない、絶好の穴場スポットだった。
 そのトイレの個室で本山は今、スラックスと下着を纏めて膝まで下ろし、孔を碌に慣らすこともそこそこに長岡を受け入れていた。それでも慣れすぎた身体は淫らにも快楽を覚え、本山の精神を追い詰める。
「すっげ……締まる」
 体内を男根に擦られ、息を呑む。いくら人があまり来ないトイレだとは言え、いつ誰がきてもおかしくはない。見つかればタダでは済まない事も自明の理だ。本山は出そうになってしまう声を、下唇を噛み締める事で堪える。
 洋式トイレの便座に両手をつき、尻だけを長岡に突き出した格好で覚える快楽は酷く倒錯的だった。長岡に腰を揺さぶられる度に本山が手をついている便座が軋んだ。
 ほとんど誰も来ない倉庫と言えど空調はよく行き届いている。しかし、それもこのトイレに関しては対象外だった。外気に比べればまだ些かマシなような気もしたけれど、人が一人入るために設計された個室に二人で入り、密着して快楽を求めているうちに二人の額には玉のような汗が浮き出ていた。
「んっ……うぅっ……」
 内壁の一番悦い場所を捏ねられて腰をくねらす。腰をくねらせた分、自ら深くまで咥えこんでしまい、痺れるような快感が下腹を貫通した。声を我慢している分、その快楽の逃し先は涙となり本山の瞳を潤ませる。
 腰のくねりに合わせて感じる場所ばかりを突かれ、体内の男根の形を覚えてしまう程に締め上げると、背後の長岡も苦しそうに息を漏らすのだった。
 内壁の感じる部分を雄の先端で抉りこまれると前からはぽたぽたと先走りの液体が淫らに溢れた。
 自分の身体で相手が感じているのだと思うと、それだけでぞくぞくと背筋が震える。
「本山っ……」
 敏感な耳元に息を吹きかけるように掠れた声で囁かれて、腹の奥がきゅんと跳ね上がった。不自由な体勢で後ろから抱え込まれ、触れ合う肌は汗ばんでいた。
 会社の中で、誰かに見つかってしまうかもしれないこんな場所でセックスをしているのだと思うと、妙な背徳感に身体を渦巻く悦楽は増幅していく。
 身体を揺さぶられ、今日はまだ一度足りとも触れられていない、勃起した乳首がアンダーウェアに擦れて痺れるような快感を発信する。
「……そろそろ、イっとかないとな」
 そうしているうちにも刻一刻と時間は過ぎていく。セックスをはじめてから時計を確認していないので、実際にどれくらいの時間が経過しているのかはわかならなかったが、随分と長い間快楽を貪っているような気がしていた。
 長岡の動きはより一層、自らの快楽のものへと変化する。力任せに奥の奥まで抉られて、本山は押し殺した悲鳴をあげた。こうして乱暴に背後から犯されているのに、快楽を享受する事の出来る身体が嫌だった。
「なっ……がおか……」
 激しく中を擦られ、触れられてもいないペニスがもう絶頂は間近だと先端から蜜を零す。
「んっ……」
 肉塊が一際奥まで突きこまれたと思ったら、その最奥で男の精が弾けた。脈打つ男根が最後の刺激となり、そして本山も絶頂を迎える。体内に蟠っていた悦楽が濁流となって押し寄せ、身体を駆け抜けていく。身体の中心から足の先まで広がる痺れに侵されて何も考える事も出来ず、ただ体内の男を締め上げるだけだった。そこからもたらされる精を一滴足りとも逃さないように、と。
 嵐のように過ぎ去った快楽の余韻に浸れるような時間の余裕はない。今は短い昼休みの間なのだ。額から滴る汗を拭う。
 快楽の証を全て放出しきった長岡はまだ整わぬ息のまま、本山の体内からペニスを引き抜いた。
「……っ最悪」
 携帯電話を開いて時計を確認しながら、本山は舌打ちまじりに悪態をつく。その理由は――貴重な昼休みをおよそ半分程も費やしてしまった事もあるが、何より体内奥深くに残された粘ついた男の液体だった。
 夢中になっている時は深く考えていなかったものの、ここは会社で、まだこれから仕事をしなければいけないのだ。
 狭い場所で身体を反転し、今まで手を着いていた便座に腰掛けて上目遣いに長岡を睨む。すると、長岡も本山の言わんとする事に気付いたようで困ったように笑んだ。
「ああ……うっかりしてたかも。……悪かったよ、今度からゴム用意しとく」
 まだ乱れた服装のままの本山とは違い、元からスラックスの前を寛げただけの長岡は既に着衣を整え終えていて、今すぐにでもこのトイレを出て仕事へ戻れるくらいだった。それは、当然と言えば当然の事だったけれど、今はなぜか無性に腹がたった。
 今度――つまり、次がある、という事だ。今の気分ではとてもではないがそれを許したくはなかった――しかし、そうも言ってられないのが現実だ。
「後片付け、するからさっさと出て行けよ」
 本山はトイレに備え付けられたウォシュレットに視線を遣って指し示してぶっきらぼうに言う。一瞬でも長岡の事を良い奴だ、なんて思いかけた自分を恨みながらぐっと唇を噛み締めた。
「……じゃあ、またあとで」
 そう言い残して長岡がトイレの個室を立ち去り、更には廊下とこのトイレを繋ぐドアを開き、遠ざかる足音を確認した上で、本山はようやくウォシュレットのスイッチを入れる。息を吐いて力を抜き、体内に程よい温度に調整された湯を受け入れた。


◆◆◆


 本山が身支度を整え終え、自分の机に戻る事が出来たのは昼休み終了のチャイムを告げる音とほぼ同時だった。
 昼休みが始まるまではおさまりかけていた怒りは、また再び熱さを取り戻し本山の心を酷く乱していた。
 また、次もある。もう一度――何回でも、長岡が本山の身体に飽きるまで本山は足を開き続けなければいけない、そう思うと言いようのない虚無感が心を満たすのだ。
 せっかく見つけた職を、安定して居られる場所を、失いたくない。長岡に自分の性癖について吹聴されたくない。だが、吹聴されずとも先程のような事を繰り返していればいつかそのうちバレてしまうのではないかと、心配だった。その場合は本山の性癖だけでなく、長岡の性癖まで露呈してしまうのだが。
 いずれにせよ、今のこの場所に長く居る事はもう出来ないのではないかと不安になる。――環境が変わるのはあまり好む方ではない。人並みな生活を送れている”今”をそう易易と手放したくはない。出来る事なら今までと何も変わらないまま、何事もなかったように過ごしていたかった。
 そんな考えに悶々としながら、本山は今日一日の業務を終えた。
 一週間のはじまりの日だというのに、最悪の一日だった。肉体的にも、精神的にも。プライベートでは多少派手な性生活を送っていたとしても、それを仕事の関わる場所に持ち込むという事は相応の負担があるのだ。それに、きっかけはどうあれ自ら好んで持ち込んだわけではない。
 言いようのない苛立ちと、全てを投げ出したい気分だった。
 そういう時はどこかへ飲みに行くと決めている。本山は酒に強いタイプの人間だ。深酒さえしなければ翌日が平日でも何の問題もない。
 自宅から歩いて二十分程の場所にお気に入りのバーがあり、本山はそこへ行く事にした。
 時刻は二十時を少し回ったところで、そのバーは本日の営業をはじめた頃だった。雑居ビルの一室に入っているその店は、とても小さな店でカウンター席が四席しかない店だ。大きな看板も出していないため新規の客は全くと言ってもいい程入ってこない。
 しかし、マスターの人柄の良さが手伝って客足が途絶える事はない。本山を含めた数人の常連が足繁く通うのだ。
 本山がそのバーの重厚な入り口扉を開けると、カウンターの中でグラスを磨いていたマスターは「おっ」という風に片眉をあげた。
「本山くん、平日に来るなんて珍しいね」
 客はまだ誰一人ともおらず、本山は迷わずカウンターの真ん中の席へと座った。
 マスターは四十代はじめといった風貌で、細身の身体に口元にたくわえた髭がどこか風格さえも漂わせる。カウンターの上や、カウンター背後の棚には所狭しと酒瓶が並べられていた。
「……ちょっと、飲みたい気分だったんで。何か適当に甘い系の作ってもらえます?」
 本山の注文に視線で頷いたマスターは並べられた酒瓶を数本ピックアップしながら酒を作り始めた。本山がここで飲む時はいつだってマスター任せのチョイスにしてしまう。酒の味に拘らないわけではないが、それを考えるのも面倒で、ただ酔いたいだけの時だってあるのだ。
 橙色の少し暗めの照明に、磨き上げられた重厚な木目のカウンターを見つめていると気分がすっと落ち着いていく。
 カラン、と冷たい音がして、本山の前には鮮やかなライムグリーンの色をした液体が入ったグラスが置かれた。空気の気泡が下から昇っては弾けるその液体には、大きな丸い氷が一つ浮かべられている。
 グラスを手に取り、口を付けた。ほのかなレモンの香りと、緩やかな炭酸の刺激がのどの奥を流れ落ち、後にはアルコール混じりの甘みが漂う。
 耳に聞こえるのはグラスと氷のぶつかる音、それに店内のスピーカーから流れる音量を絞られたクラシックだけだった。
 この店は、馴染みの常連客たちと内輪だけで盛り上がるのも楽しかったが、その常連客たちと時間が被らなければこうして一人で物思いに耽る事ができるので好きだった。
 自宅で一人で飲むのとは違う、沈み込みそうになる気分を引っ張りあげてくれる場所がこの場所だ。
「はぁ……」
 本山は知らず知らずのうちに溜息を吐く。
 長岡の事は、もう好きでもなんでもない。強引な男は好みではなかった。それに、仕事とプライベートを分けきれていないあたりも好ましくはない。昼休みだったとは言え――会社にいる時の行為は出来れば避けたかった。
 いっそ、いつまでも悩むくらいなら今すぐにでも転職活動をはじめてしまおうかとさえ思える。――思ってはいるけれど、踏ん切りが付かないでいるのもまた事実だ。三十路を目前にした年齢で、それなりに責任のある仕事だってしている、おいそれと投げ出すわけにはいかない。それに、転職となればこの先の一生を左右する重大な事項だ。それをたかだかそんな事で、とも思う。
 どれだけ悩み足掻こうとも、この状況から抜け出せなかった。本気で抜けだそうと思えば方法はいくらでもある。しかし、様々なしがらみがそれを拒絶するのだ。
 舌に滲みるアルコールの味がじんわりと脳を蕩けさせる。
 どうせ一度きりしかない人生なのだから、いつだって楽しんでいたい、そう思ったのは確か十代の終わりの頃だった。いよいよ自分の性癖について理解し、自分には所謂「普通」の男女の恋愛は出来ないし、結婚をして子供を作る「普通」の生活とは縁がない事を理解し、突き付けられて初めて気付く「普通」を常とした世間の目の厳しさを実感していた頃だった。
 過ぎ去った事を後悔して、先の事を悩んでも、何も楽しくはない。泣いていてもはじまらないし、怒ったところで疲れるだけだ。ならば、逃れられない「普通じゃない」という事を存分に楽しんでいたい、と、そう思った事があった。
 だから、十代後半から、二十代になってすぐの頃の数年間は誰よりも気ままに、自由に生きていた気がする。それも、主に性的な部分に関してだ。
 様々な人間と出会い、別れた。一夜限りの男もいれば、本気の恋だと思ったような相手もいた。殴った事もあれば殴られた事もあるし、非道徳的な事だって経験した。
 今思い出して後悔する事がないと言えば嘘になるが、それでもその期間があってよかったとは思える。その期間がなければ、今の本山は存在しないのだから。
「もっと、自由に生きたいですよね」
 カウンターの中で酒瓶を眺めていたマスターに、まるで独り言かのように語りかける。実際、それはただの独り言だったのかもしれない。
「自由、ねぇ」
 マスターはその「自由」の言葉の意味を咀嚼するように顎に手をつき、何度か頷いてみせる。
「なにが自由かっていうのは、主観的な問題でしかないと思うけど、後悔しないように好きなように生きるのが一番いいんじゃないかな」
 ふっと目を眇めると、整った顔立ちが歪んで笑む。
「好きなように生きる……好きなように生きたいです」
 グラスを握った手に力を込める。グラスがかいた冷たい汗は、テーブルの上にポトリと落ちた。
「好きなように生きて、全ての責任は自分で負う。好きなように生きた結果、後悔してしまうような未来も待っているかもしれない――――それでも、好きなように生きてみる価値はあると思うよ」
 口髭のよく似合う紳士的な中年――渋く、そして格好良く年齢を重ねた姿は尊敬できるものがあった。恋愛対象ではなく、ただ単純に同性として憧れる存在というものはこのマスターが初めてだった。
「責任、ですか。」
 本山の問いかけとも言えないようなつぶやきにマスターは静かに頷いた。
「好きなように生きる代償、かな。好きなように生きたいのなら、それなりの覚悟は必要だからね」
 手首を捻り、グラスをゆっくりと回すと、グラスが揺れてまた冷たい音を奏でる。
「マスターは今まで自由に生きてこられましたか?」
 しかし、マスターは「自由に生きてきたつもりだけどね」と言ったきり、どこか遠くを見詰めて本山から視線を逸らす。本山もそれ以上深く問い詰める事はなく、再びグラスの中の液体を喉に流し込んだ。
 誰しも、人には触れられたくない領域というものを持つ。もちろん、本山だってあるのだから、無闇矢鱈にそこを踏み抜いてしまうような事はしたくない。
 グラスを煽り、全ての液体を飲みきってしまうと、本山は
「おかわりください」
 とグラスを差し出した。マスターはそのグラスを受け取り、また新たな酒を作り始める。
 マスターと出会ってから、まだたったの数年程しか経っていない。この場所にオープンした時に、たまたま近くを通りがかって発見したのだ。繁華街からは少し離れ、看板だってそう目立たないこの店に出会えたのは奇跡と言っても差障りないだろう。
 そのたった数年間の付き合いで、こうして踏み込み切らない関係――それは、客と店員という立場からくるものなのかもしれないが――それをずっと続けられているから、この店は気楽だった。好きだったし、安らげる場所だった。本山にとって唯一の癒やしとも言える場所だった。
 おかわりの酒は他愛もない雑談を肴にのむ。実のない毒にも薬にもならない世間話は、今の現状から程よく逃れるには都合がいい。二杯の酒を飲み終わった本山は代金を払って店を後にした。アルコールは程よくまわっていて、少しの気分の向上が心地良い。
 屋外に出ると夏の夜の湿気が不快に身を包む。けれど、夏の香りはどこか懐かしく、郷愁を誘った。夜道を照らす街灯を頼りに自宅までの道を辿る。
 自由に生きる事、好きなように生きる事――憧れはするけれど、会社勤めをしながらでは実現できない事だってある。それに、実のところ、そんなに自由に生きたいわけではない。ただ――ただ、今を楽しんで生きていたいだけだ。
 悩みのない人生なんてない。生きている限りそれは避けられない事だ。いくら壁を乗り越えようとも、壁は繰り返し、どこにいても現れる。それから逃れるという事は例え自由に生きていたとしてもあまりに無責任すぎる。しかし、悩む必要のない事で悩みたくはない。
 どうせ将来の事はわからない。最善を選んだつもりでも最悪を引く事だってある。それならば、くだらない事で悩むのはやめて――愉しむ事だけを考えて生きてみるというのも、また一つの選択肢だった。
 その考えに行き着いた瞬間、本山の心に蔓延っていた重く暗い霧がすっと晴れていく。心なしか足取りだって軽い。
「……明日からまた頑張るか」
 そうして呟いた独り言は、風に流れて闇に溶け、本山の身体に染み込むように響いた。


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