闇夜の憂鬱 その後のお話し



 佐原と歩が恋人と呼ばれる関係になってからはや数ヵ月が経とうとしている。
「お疲れ様」
 コンビニでのバイトも終わり、従業員用の裏口を出た歩を迎えてそう声を掛けたのは佐原だった。
 月明かりに照らされながら革靴の裏でアスファルトを蹴り、一歩を踏み出した佐原の地面に映った影がにゅっと伸びる。
 大きな道路に面した明るい表側とは違い、街灯もない路地裏にあるこの裏口では目の前に立つ人間の表情さえもよく見なければ判断できない程の暗さだ。
「……お疲れ様です」
 歩は暗闇から現れた恋人にさして驚いた顔もせず挨拶を返す。
 週に五日か六日、生活のために時間の許す限り働く歩を佐原が待っているのはいつもの事だ。
 昼間は互いに会社や学校にいて顔を合わせる事は出来ない。たまの休日だって歩はアルバイトに励む毎日だ。
 歩がバイトを終え、日付の変わる時刻も近付いたこの時間だけが、二人の唯一にも近い共に過ごせる時間だった。
 だが、歩にはひとつ気になっている事があった。
 佐原も昼間仕事をしていて、仕事が終わってから一度家に帰って着替えてから迎えに来る事もあれば、仕事帰りに歩を迎えに来る事もあった。
 佐原だって決して暇ではないはずで、歩を迎えに来る時間が負担になっているのではないか、という事だ。
 その時間があれば自身の趣味や疲労回復へとあてる事だってできる。
 以前からずっと気になっていた事で、なんとなく言い出せずにいた事だ。
「あの、毎日わざわざ来てもらってますけど、面倒じゃないですか?」
 それを今日切り出した事に特に理由はない。なんとなく言い出せる雰囲気だったからだ。
 佐原は少し首を傾げると正面から歩を見詰める。
「面倒?なんで?夜道は暗いし危ないし、歩くんが心配だよ?毎日無事に帰れるか心配してる方が面倒だと思うけど」
「女子供じゃあるまいし、それに佐原さんと付き合い出す前までは一人で帰ってましたし、大丈夫ですよ」
 街灯は少ないとは言え、家とこのコンビニはそう離れていない。走ってしまえばカップ麺にお湯を入れて出来上がるくらいの時間しかかからない。
 歩が言い返すと佐原の眉はハの字を描いた。
 感情が顔にほとんど表れない歩とは違って、佐原の表情は豊だった。
「迷惑、だった?」
「あ、いえ……迷惑っていうわけじゃなくて、その……」
 迷惑なはずがない。佐原に毎日会えて、本当に恋人なのだという実感を得る事のできる貴重な時間を、迷惑だなんて言えるわけがない。
 ただ歩が気になっているのは、自分の存在が負担になってしまっているのではないかという事だけだ。
 たった数分の夜道を、歩が仕事から帰る時間を待って送り届け、時には自宅で雑談を交わす。電話やメールでも出来る他愛のない話だ。
 口ごもる歩に、佐原は一歩近付くとその頭に手を置いた。そして、髪を梳くように撫でる。
「ねぇ歩くん、僕は君と一緒にいたいだけだよ?適当な理由つけて好きな人と一緒にいたい、好きな人に触れたいって思うのは、僕だけだったりするのかな?」
 佐原の声はどこまでも優しく、不安に強張る歩の心を融かしていく。心地良くて、安心する。
 春の気配は日々感じているが、まだ寒い日も続く。
 ずっと外で待っていたせいか少し冷えた、歩を撫でる佐原の手に自身の手を重ねた。
「……俺も……佐原さんと一緒に、いたいです」
 頬に熱が昇り行くのを感じ、視線は佐原から外れ宙を彷徨う。
 手に感じる佐原の熱が堪らなく愛おしくて、切なかった。
 佐原の手はゆっくりと歩の頬へと移動し、爪の先で肌を優しく撫でる。
「……今日、うち来る?」
 そっと囁かれた言葉に、歩は素直に頷いた。明日は佐原の仕事がない日曜日だった。


 佐原の家へたどり着いた歩は浴室へと直行すると、湯船にお湯を溜めて肩まで浸かり束の間の安寧に身を委ねた。
 歩の自宅にある湯船は足を抱えて身体を丸めなければ、全身浸かる事ができない。それに対して佐原の家の湯船はファミリー向けのもので、成人男性でも足を伸ばして浸かる事のできるものだ。
 湯船に溜めたお湯から立ち上った湯気は天井に水滴を作り、それが垂れてぽちゃん、と水滴を垂らして音をたてる。
 歩は小さなため息を吐き、お湯を手のひらに掬う。
 ここ最近、佐原の家には一週間に一、二日のペースで通っていた。そしてその度にこうして風呂を借り、時には食事まで世話になっていた。
 風呂の水だって、それを沸かすガスだって、浴室を照らす照明の電気代だってタダではない。
 お礼に、と、現金を渡そうするが佐原は決して受け取らず、仕方なく佐原の好きな菓子類や飲み物を買って渡していた。
 仕送りはほとんど得られず、学費や生活費をバイトで賄っている歩の経済状況は決して良いとは言えない。周囲の学生たちと比べても恵まれていない方だろう。
 そんな歩を気遣って、佐原は歩から現金を受け取ろうとしないし一緒にどこかへ出かければ歩が財布を出す前に全て終わってしまっている事もあった。――それが歩には不本意だった。
 はっきりと訊いた事こそなかったが、佐原は恐らく歩の倍以上の収入を得ているのだろう。そんな佐原には微々たる金額のものなのかもしれなかったが、恋人である限り対等でいたかった。
 ギリギリの生活ではあったが毎月僅かずつでも貯金をする事ができるし、たまにでかけて遊ぶくらいのお金も用意できる。
 佐原から施しを受ける理由はない。
 佐原への不満と言えばそれくらいだろうか。
 それ以外の点で佐原への不満はどこにもない。
 よく笑って、よく喋る。誰に対しても友好的で物怖じしない佐原は、歩とは真逆の生き方で心底憧れる。
 そんな人と自分が恋人同士になれているなんて、まるで夢のようだ、と常々思っていた。付き合い初めて何か月も経つのに、いまだに夢なのではないかと思う事さえある。
「歩くん」
 その時、脱衣場から扉越しに話しかけられて、歩は顔をあげた。扉にはめ込まれたすりガラスには佐原の影が映っている。
「あ……ごめんなさい、俺、長風呂しすぎました……?今でますね」
 歩は慌てて湯船からあがろうとしたが、佐原はそれを待たずに扉を開けた。
「あのっ……」
 思わず言葉をのんでしまったのは、股間をタオルで覆っただけの全裸だったからだ。
 目の遣り場に困り、あてもなくさっと逸らす。
「一緒に入ろうかと思ったんだけど、だめだった……?」
 恋人になってから、この風呂へは何度も入ったがいつもひとりだった。
 身体だって幾度も重ねたけれど、いつだって部屋の照明は暗く、こんなにも明るい場所で佐原の裸体を拝むのははじめてだ。
 無駄な脂肪のない胸は程よく筋肉がついていて、男らしく筋張った腕や脚に心がときめく。
「だめ……では、ないんですが……」
 恥ずかしさから気を逸そうとしても佐原の一挙手一投足が気になってしまう。
 鼓動が高鳴り、冷静なんかではいられない。
「じゃあ一緒にはいろうよ」
 羞恥なのか興奮なのか色情なのか、ぐるぐると混ざり合っては消える歩の内心を知ってか知らずか、佐原はにこりと笑んで浴室へと足を踏み入れた。
 湯船に浸かる歩に背を向け、シャワーで髪や身体を洗う。
 無防備に曝された恋人の背中に触れてみたくて、けれどそれを実行する勇気など出るわけもない。
 佐原の背をぼんやりと見つめながら、歩は聞こえないように小さなため息を吐いた。
 ほんの数ヶ月前まで、自分がこうして恋愛をできる日がくるなんて思ってもいなかった。
 異性を愛する事のできない、性的欲求の対象は同性しかいない、マイノリティ。
 いつか結婚する事も、子供を持つ事も叶わない。
 昔に比べれば寛容な時代になったとは言え、世間の目はまだ冷ややかだ。
 その冷ややかな視線に晒されて、一生生きていくのだと思っていた。誰にも頼らず一人で生きていくのだと思っていた。
 それなのに、なぜか恋人が出来てしまった。
 同性の恋人を求めていたわけでなく、好きになってしまった人が、歩と同じく同性を恋愛対象としている人間だった。
 そんな作り話のような奇跡が現実に起こり得るだなんて一体誰が想像するだろうか。
 佐原が身体を洗うために腕を動かす度、背中の肩甲骨が動く。
 好きで好きで、たまらない恋人。想う度に心臓は早鐘を打ち、身体が熱くなる。何をしていても佐原の事を考えてしまって、心を専有されてしまう。
 身体を清め終えた佐原が振り返ると、歩は視線反らして湯船に溜まった湯の水面を見詰めた。
 佐原の事は好きで、ずっと一緒にいたいとは思っているが、実際に一緒の空間にいると緊張してしまって、相手の目を見る事もできない。歩の人見知りや引っ込み思案は生まれ持った性格だった。
「僕も一緒に入っていい?」
 歩が膝を曲げて抱きかかえるようにしたのは了承の合図だ。それを敏感に察知した佐原は股間を覆っていたタオルを取り去って湯船へと入り込む。
 ほんの一瞬視界に入ってしまった萎えた男性器から慌てて目をそらす。
 佐原の体積分、湯船の許容量を超えたお湯が溢れて津波を起こし、排水溝へと流れ行った。
 いくらファミリー向けの湯船と言えども成人男性が二人も入れば狭く、互いの肌が触れ合わずにはいられない。
 一糸纏わぬ姿で、互いを阻むのは柔らかな湯だけだ。
 足先に触れる佐原を感じて歩は身を強張らせた。
「歩くん」
 佐原は歩の顔を覗き込むようにして、そう名前を呼ぶ。にっこりと笑むと目尻が下がり、歩は佐原のその表情が好きだった。
「なん……ですか」
 自らの膝を抱える歩の手に、佐原の指が絡まる。
 その指がどのように動いて、どれ程優しく、そして愉悦をもたらすのか――歩は知っていた。
「キスしていい?」
 言いながら顔を寄せてくる佐原に、抵抗するつもりはない。歩も心持ち首を伸ばし近付いて来る佐原に身を任せて瞼を閉じる。
 弾力のある唇が触れ合う。
「んっ……」
 いつも唇を重ねる寝室とは違って、浴室にいる今は互いの肌が湿気に濡れている。身動ぐ度に身体を沈めた湯がはねて音を立てた。
 下唇を啄み合い、どちらからともなく舌を絡める。漏れる吐息に熱がこもり始め、歩は縋るように佐原の首に腕を伸ばした。
 佐原の舌を受け入れ、味わい、求める。
 甘く切ない感覚が腰へと流れ込み、欲情を自覚する。
 佐原の腕が歩の背に回った。そのまま抱き寄せられて、身体を佐原に預ける。
 唇が離れるのが名残惜しく、佐原の耳元へと唇を寄せた。
「佐原、さんっ……」
 興奮のためか僅かに上擦った声で愛しい男の名を呼んだ。
 触れ合った肌が、見詰めあった瞳が、今のこの瞬間だけが歩の全てだった。

 のぼせてしまう前に、と二人は昂った情欲を抑えこんで風呂を出た。
 用意してあったバスタオルで水分を拭い、最近佐原の家に置くようになった歩の部屋着に着替え、ドライヤーで髪を乾かしバスルームを出る。
 佐原が同じように髪を乾かしている間、歩はキッチンでグラスをとり、冷蔵庫をあけて冷たい麦茶を注ぎいで喉に流し込んだ。
 風呂場で汗をかいた事で水分の抜けてしまった身体に、新たな水分が補給される。
 寝室に向かい、ベッドに腰をかけた。ピンと皺のないように整えられたシーツが、歩が座った事によってくしゃりと歪む。
 心臓が壊れてしまうのではないかと錯覚する程に高鳴る。
 身体を重ねるのは何度目だろうか。もう片手で数えきれないくらいに繰り返したはずだ。
 互いの唇を重ね体温を感じた。手を繋ぎ、男の肌を撫でた。
 身体を満たすのは快楽で、心にはそれ以上の愛が満ち溢れた。
 幸せとはこういう事を言うのだ、と生まれてはじめて実感する事ができた。
 幸せなはずのその瞬間なのに、こうして行為を待つという状況はやけに緊張する。
 できる事ならこのまま逃げ出してしまいたいくらいだ。
 歩が深呼吸をしていると、遠くから足音が近付いた。
 もう逃げる事は出来ないのだと覚悟を決め、ぎゅっと拳を握る。
 がらり、と扉が開いて寝室に佐原が現れた。
「お待たせ」
 そう言って、歩の隣に腰掛ける。
 ぽん、と頭に手を置いて、その手を肩に移動させると歩を抱き寄せた。
 抵抗もせず佐原に身を任せる。
 佐原はリモコンを使って部屋の照明を落とし、歩を押し倒す。
 少し硬めのマットはしなって歩の身体を受け止めた。
 照明が消された事で、歩はもう佐原の表情を読み取ることはできない。しかし、それは佐原も同じだ。
 触れる肌と絡む指、吐息、声、それだけが相手を確認する唯一の方法だった。
「佐原っ……さん……!」
 シャツの隙間から侵入してくる佐原の手が熱く、くすぐったい。
 羞恥と興奮で目の前がチカチカする。
「歩くん、愛してる」
 囁かれる愛の言葉が腰へと流れ込む。
 佐原に出会うまでは空洞だった心を満たしていく。
 優しく抱き締められて、愛されているのだと実感する。
 歩が今まで知らなかった愛を、与えられているのだと実感する。
 だからせめて、少しでも、その愛を返す事ができればいい、と、歩は佐原の背に回した腕に力を込めた。
 ずっと離さないとばかりに強く、いつまでもこの幸せが続けばいい、と願った。



 窓から入り込む陽射しは暖かく、時折車が通り過ぎる音や、人々の話し声さえも聞こえ、今がもう朝ではなく昼に近いのだと教えてくれた。
 遅刻だ――勢いよく身体を起こした歩は、その瞬間にここが自宅ではなく佐原の寝室で、今日は学校もバイトもない日だという事を思い出した。
「……びっくりした……」
 安堵のため息を吐き、隣で眠る恋人を見下ろした。
 いつもはめまぐるしく変わり歩を楽しませる表情も、今はひとときの休息を味わっている。
 瞼が伏せられていると佐原の睫毛の長さが際立った。
 歩は眠る佐原の顔に自らの顔をぐっと近付いた。
 一定のリズムで繰り返される呼吸が、愛おしさを膨らませる。
 そして、昨晩散々貪ったはずの唇にそっとキスを落とし、佐原を起こしてしまわないように静かにベッドを出た。
 昨夜の情事の名残は身体に汗を残し、全身がベタベタしている。それに臭いだって気になる。佐原が起きるより前に風呂に入りたくて仕方がなかった。
 佐原に許可を得ず風呂を使う事は初めてだったが、こうして家に遊びに来た時には風呂もトイレもキッチンも自由に使っていいと言われていたので遠慮はしなかった。
 歩は昨夜着てきた服を脱衣場に用意し、バスタオルを探す。
 いつもここで風呂に入る時は佐原が用意してくれていたが、どこにしまってあるのかくらいは把握している。脱衣場に備え付けられた扉付きの棚の中だ。
 歩はその棚を開けて覗きこむ。
 棚の中にはいくつかの箱と引き出しが、佐原の性格を表しているかのように几帳面に並べられている。
「バスタオル……って、どこ?」
 歩は、ぽつりと独り言を零した。バスタオルが引き出しの中にあるという事はわかっているが、引き出しは複数あり、どこを開ければいいのかわからない。普段佐原が用意している時にもそこまで観察していなかった。
 歩は小さな溜息のあと、一番左の引き出しを開けた。
 だが、そこはバスタオルではなく佐原の下着の引き出しだったようだ。歩にも見覚えのあるものが目に入り、思わず赤面してしまい慌てて引き出しを閉じた。
 佐原のプライベートに土足で踏み込んでしまったような気がして、申し訳ない気分だった。
 バスタオルを見つけるために手当り次第引き出しを開けることの罪深さを改めて実感し、このままベッドへ引き返そうかと悩む。
 残された引き出しはあと三つで、そう多くはない。間違えて開けてしまったところで脱衣場の棚、という性質上、隠したいものを引き当てる可能性も低そうだ。――経験論でそう判断してしまう。
 歩の経験なんてたかだか二十年生きてきただけのそれに過ぎないのに、判断してしまう。
 歩はぎゅっと唇を結び、左から二番目の引き出しに手をかけた。
 そして、それを思いきり引っ張る。
 軽く動いた引き出しの中身は、柔軟剤がよく効いたふわふわのバスタオルだ。
 佐原の家にあるバスタオルは全てチョコレート色に統一されているのでひと目見るだけで、それが歩の求めていたものだとわかった。バスタオルは引き出しに半分程詰められている。
 間違わなくてよかった、と安心しながらバスタオルを一枚取り出した。
「あっ……」
 しかし、引き出しの奥の方で何かと絡まっていたのか、歩の取り出し方が悪かったのか、それとも佐原のしまい方が悪かったのだろうか。
 一枚の写真立てが音を立てて滑り落ちた。
「なに、これ……」
 ガタン、と派手な音で床にぶつかったそれをひろいあげ、設置された写真を見る。
 その写真は佐原と、歩の知らない男が写っている。二人は仲睦まじげで、まるで――恋人のようだ。
 佐原は今よりは少し若そうで、髪型も違う。が、それが具体的にいつのものかは判断がつかない。少なくともすごく前、というわけではなさそうだ。ここ数年以内に撮ったものだろうか。
 場所も家具のレイアウトこそ違っていてわかりにくいが、間違いなくこの家のリビングルームで撮ったものだ。
 大きな窓と、その向こうに見える景色は変わらなかった。
 歩は疑問に思い、バスタオルをしまってあった引き出しの中を覗き込む。
 引き出しは思っていたよりも奥行が深く、前半分にはバスタオルを、後ろ半分には小さな箱が置いてあった。
 見てはいけない――その箱は佐原のプライベートで、歩が見てはいけないものだという事は直感でわかった。
 けれど、好奇心と焦燥だろうか。突き動かされるままに歩は箱へ手を伸ばす。
 箱は手のひらより少し大きいくらいのサイズで厚みもそうない。バスタオルがいっぱいに詰まっていればきっと気付く事もなかっただろうし、取り出す事も出来なかっただろう。
 取り出した箱は黒色だった。
 今ならばまだ引き返す事ができる。
 この箱を元あった場所にしまい、何も見ていないフリをしてまた佐原の隣に戻ればいい。
 だが――そんな事よりも写真に写っていた佐原の隣にる男の事が気になった。
 今まで気付かなかったが、佐原には以前にも恋人がいたはずだ。
 恋愛を、人と触れ合う事を怖がって逃げ回っていた歩とは違い、佐原は年相応に恋愛経験を積んできているはずだ。
 それは当然の事で、今更佐原に何かを言うつもりはない。過去は過去で、今さえあれば、今が幸せでさえあれば――それでいいはずだ。
 それなのに、写真の中で笑い合う二人に苛ついてしまう。
 歩は唾を飲み込んで、黒い箱を開封した。
 箱の中にはシルバーの指輪が一つだけ入っていた。箱の中身はそれだけで、いくら小さな箱とは言え指輪一つだけを入れておくには大きすぎる。
 足元がぐらつくような錯覚を覚え、歩は黒い箱を元の場所にしまい、写真立てもその隣にしまいこんで引き出しを締めた。
 過去があるのは当たり前だ。
 過去は誰にも等しくあるもので、過去の出会いや別れに嫉妬をしたところで一体何になると言うのだろうか。
 意味のない事だ。
 そうわかっていても、歩の胸は引き裂かれるように痛み続けた。
 痛みを無理矢理ねじ伏せて、シャワーを浴びる。
 写真の中で見た佐原は、今と同じように笑っていた。
 今自分に向けられている笑みも、昔は誰か別の人間に向けられていたのだと思うとやけに苛立つ。
 そんな事を考えてしまう自分が嫌で、歩はシャワーを水に切り替えて頭を冷やした。嫉妬で火照った身体に、冷水が心地良かった。
 浴室を出た歩は身体を拭きキッチンを目指す。
 今まで意識した事はなかったので気付かなかったが、食器棚の中にある茶碗や湯呑みなど、どの皿も二つずつ揃えてある。
 佐原は一人暮らしのはずで、一つあれば十分なはずだ。客人用だと考える事もできたが、この場合、佐原は一人暮らしではなかったと考えるのが妥当ではないだろうか。
 今は間違いなく一人暮らしで、その昔――歩の知らない男と二人で暮らしていた。
 辿り着いた解答は、決しておかしいものではない。
 それなのに痛む心が暴れだしそうになるのはなぜだろうか。
 歩が寝室に戻ると、佐原も目を覚まし上体を起こしていた。
「おはようございます」
「おはよ。シャワー、浴びてきたんだ?」
 歩の濡れた髪を見て佐原はそう優しく笑んでみせた。歩の好きで、愛おしくて堪らない笑顔だった。
「すみません、勝手に借りちゃって」
「ん、好きに使ってくれていいんだよ」
 そう言うと佐原は立ち上がる。
「朝ご飯にしよっか」
 頷いて、促されるままに佐原と共にリビングルームへと向かった。
 朝ご飯、というには少し遅すぎる。昼は近く、どちらかと言えばブランチに該当するのだろうか。
 おとなしくソファで座る歩をよそに佐原は手際良く料理をはじめる。
 何か手伝った方がいいのではないか、と招かれる度に思うのだが、自宅ではろくに自炊もしない歩ではかえって足手まといになってしまう事が容易に予想できた。
 だからせめて、とテーブルの上を清潔な布巾で拭き、食器の配膳を手伝った。
 トーストとサラダ、ハムエッグにスープという組み合わせは、普段一人でいる時の食事をコンビニで調達する歩にとってとても豪勢なメニューだ。
 佐原の作ったそれらをテーブルに並べ、二人で食事を開始する。
「味はどうだろう?」
「……美味しいです」
 一人暮らしをはじめてから、トーストを食べるようになったのは佐原の家に招かれるようになってからだ。一人暮らしをする歩の家にはオーブントースターを買うような金銭的余裕はなかった。
 こんがり焼けたパン染みこむバターの芳しい香りが優しく舌に溶け込んだ。
 食事を終えたあとの片付けは歩が請け負った。
 食器や調理器具を洗い、片付けるというだけの仕事だったが、今の歩にできる僅かな仕事だ。
 今日は休日で、二人とも出掛けなければいけない用事はない。
 片付けを終えた歩は、ソファに座る佐原の隣に腰掛けた。
 ソファの正面にあるテレビには歩もよく知っている芸能人がマイクを持ち、有名な観光スポットを歩いている。特に興味はないが、それでも画面を見ているとその場へ行ってみたくなるのだから不思議だった。
 隣の佐原へいつもより少しだけ身を寄せると、服越しに佐原の体温が伝わってくる。
 愛おしくて、心地良い。
 ほっと息を吐き、今のこの現実に安堵する。
「……?歩くん?」
 いつもと違う歩に気付いたのか、佐原は歩をそっと抱き寄せ顔を覗き込んだ。
「どうかした?」
 真っ直ぐで真摯な目は出会った頃から何ひとつ変わらない。
 言うか言うまいか迷って、歩は微かに唇を噛む。
 人の過去を詮索する事に何か意味があるとは思えなかったし、それがどれほどに無粋な事か自覚しているからだ。
 それでも歩は、訊かずにはいられなかった。
「……佐原さんは、今までどれくらいの人と付き合った事があるんですか?」
 真っ直ぐで真摯な目を一直線に見つめ返し、訊ねる。
 それはあまりに唐突な質問だったのか、佐原はきょとんとした顔で動きを止めた。
「えっ……何、急に。どうしたの?」
「別に……どうかしたってわけじゃないんですけど……」
 言葉尻を濁し口篭る。
「なにか、見ちゃった?」
 そして、佐原に問われて俯いた。
 初めの写真は事故だったとしても、それ以上に踏み込んでしまったのは歩の責任だ。
 そこが佐原にとってどういうものなのかも理解せず、好奇心の赴くままに踏み込んだ。
 歩は佐原の問いかけに否定する事も肯定する事もせずに俯いて黙り込む。
 佐原は手を伸ばしてテレビのリモコンを取り、電源を切った。部屋には静寂が訪れ気まずさを増す。
「そうだね、きちんと付き合ったのは君も含めて片手で数えられるくらいかな」
 何も映して出していないテレビに何かを見ようとしているかのように見詰め、佐原は言う。
 考えてみれば佐原の過去は何も知らなかった。
 終わった過去を知る必要がないと言われればそれまでで、けれど、どうしてもその過去に踏み込んでみたかった。
「その人はこの家に……今の俺みたいに遊びに来る事はあったんですか……?」
 何かを見てしまった事はもう隠しようがない。
 胸に渦巻く焦燥は、過去の男への嫉妬だ。
 今こうして隣にいる佐原の愛を、かつて受けた事のある男への嫉妬だ。
「歩くん、おいで」
 佐原に肩を引き寄せられ、歩はその胸に頭を預ける。服越しに聞こえる脈打つ鼓動が不思議だった。
「洗面所の、見た?」
「……ごめんなさい」
 自身の肩を抱く佐原に甘えるように歩は小さな声で言う。
 佐原はそれを訊いても怒ることなく、「そっか」とだけ答えた。
 過去がどうであれ、今は佐原の腕の中にいる事ができる。
 その事実だけでよかったのではないだろうか。
 わざわざ過去を掘り返していいことなどなにもなかったのではないだろうか。
 後悔の二文字が脳裏をよぎる。
 嫉妬に任せて、開けなければ秘密のままでいられた箱を開けたのは、歩自身だ。
「歩くんと付き合いだす前に、付き合ってた人だよ。三年前かな……ここで一緒に暮らしてたんだよ」
 佐原は歩の肩を抱いたまま、淡々と告げる。抱く手は力強く、それまでと変わりがない。
 あの写真は恋人同士のように見えた。佐原はいい大人で、これまでに恋愛を繰り返してきたとしても何もおかしくはない。
 けれど、出来る事なら自分のものだけでいて欲しかった。
 だから、写真の男は恋人ではなく兄弟か何かだと言われる事を心のどこかで期待していた。
 それが自分勝手な願いだと理解しながら、そう望んでしまっていた。
 だが、その願いが叶うはずもない。
 歩は顔をあげ、佐原の横顔を見た。しかし、佐原は真っ暗なテレビから目を逸らす事なく正面を見詰めたままだった。
「……どうして、別れたんですか」
 出会いがあれば別れもある。
 歩の恋愛経験は佐原が初めてで――まだ別れを経験した事はないが、恋愛がそういうものだとは知識のうえで知っている。
 いつか別れてしまう事が怖くて、終わってしまう事が怖くて、恋愛に踏み出せずにいた事もあった。
 佐原が過去に恋愛を終わらせたように、今のこの関係も終わってしまうのではないかと怖かった。
「結婚、しなくちゃいけなかったんだって」
 佐原はそう言って、力なく笑う。
「いい家の長男で、後継ぎがいなきゃいけなかったんだって」
 いくら時代が変わろうと、いくら男同士での恋愛が容認されるようになったとしても、命を紡ぐ事は男女間でしかできない。
「跡継ぎ……」
 女性に全く興味のない歩からしてみれば子を作る事は逆立ちをしても無理な話だったが、佐原の過去の相手は違ったのだろう。
「守らなきゃいけない家柄とか、そういうのがあったんだって」
 目を逸らさない佐原はテレビのその奥の遠くに過去の男を浮かべているのだろうか。
「……好きあっていたのに、別れたんですか?」
「そうだね」
「その人は今、どうしてるんですか」
「お嫁さんとの間に息子が生まれた、っていうのは一昨年きいて、それから連絡とってない」
「思い出す事はないんですか?」
 見上げた佐原の横顔はいつになく切なくて、そんな顔をさせるきっかけを作ってしまったのが自分だという事実が苦しかった。
「……もう三年も前の話だよ」
 三年前は一体何をしていただろうか。
 自分の性癖を自覚し、両親がいて弟がいる恵まれた『普通』な家庭から逃れたいと足掻いていた頃だっただろうか。
 誰にでも平等に過去はあるものだ。生きてきた時間の分、歴史は積み重なる。
「今は、歩くんが一番好きだよ」
 いつも朗らかで明るく優しい佐原にも辛い過去があった事くらい容易に想像はついたはずだ。
 それなのに、踏み込んでしまった。
「……ごめんなさい」
 歩は再び佐原の胸に顔を埋めた。肩を抱いていた手が頭にまわり、髪を優しく撫でる。
「僕の事、気にしてくれてるんだ?」
 佐原の視線を頭上に感じた。ここにはいない誰かを見詰めていた視線がようやく自分に戻ってきた事に安堵する。
 歩は小さく頷き、口を開く。
「あの、佐原さん、もう一つ訊いていいですか」
「なに?」
 佐原のシャツの胸元を掴んで再び顔を上げた。歩を見ていた佐原と視線が絡む。
「きちんと付き合っていなかった人はどれくらいいるんですか?」
 いつも穏やかな佐原の表情が、その瞬間ひくりと引き攣るのがわかった。
「えっと、えっ……」
「きちんと付き合った人は片手で足りるくらいでも、きちんと付き合ってなかった人は片手で足りないくらいにいるんですよね?」
 その佐原の反応から察するに恐らく図星なのだろう。
「……そ、そんな受け取り方するのは、よくない……かな」
 気持ちを引きずる程の過去の恋愛には嫉妬してしまうが、過ぎ去った過去の一部は純粋に興味があった。それに、佐原の反応がおもしろくてつい言葉を重ねてしまう。返答に困って口籠る佐原な出会ってから初めて見たかもしれない。
「きちんと付き合っていない、っていうのは遊びで付き合ったとか好きじゃないのに付き合った、とかそもそも付き合ってないけど身体だけの関係とかもあったんですか」
 佐原の視線はすっと逸らされたが、歩はそれを追って佐原の目を見詰め続ける。
「そこは、ほら……はっきりさせない方がいいかなって……」
「あったんですね」
「……」
 畳みかける歩に、佐原は口を噤んだ。
 今までに知っていた佐原の、別の一面を見れたようで、歩は肩を揺らして笑みを零す。
「今日の佐原さん、なんだか可愛いです」
 それは歩の素直な感想だった。
 愛おしい佐原の事を知れて嬉しかった。だからもっと、佐原の事を知りたかった。
「今日の歩くんは意地悪だよね」
 そう言って佐原は唇を尖らせる。
 首を伸ばしてその横顔に口づけをした。
 これが佐原にとっても、自分自身にとっても最後の恋になればいいのに、と願いをこめた口づけだった。


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おなまえ


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