溺れる事は簡単で、故に難しい。
第二十四話
 明けない夜はない。地球は回り、時は進む。形あるものは等しく皆崩れていくが、崩れるばかりではない。崩れた物はまた姿を変え、新たな物を形造る。
 内に塞ぎ込んでいるだけでは辛いばかりの現実も、少し背伸びをして視点を変えてみればまた違う顔を見せる。
 有沢と出会えた事によって、南野はその事に気付く事が出来た。
「スタジオって、今晩行くんでしたっけ」
 そう問われて、有沢の家で昼食を食べながら南野は頷いた。
 あれから、歌う練習はしていない。けれど、朝倉は先にメンバーたちに話をつけ、スタジオの予約までとってしまっていた。
 例え南野が歌えたところで、これまでおよそ五年ものブランクがある。うまく歌える自信はこれっぽっちもないし、実際うまく歌う事は出来ないだろう。
 長年歌を歌わなかった喉は、歌の歌い方も忘れてしまう。
 練習をするなら自宅やカラオケ、せいぜい朝倉のギターに合わせてもらうくらいで充分なはずだ。――それなのに、朝倉は場所を用意し、南野もそれに抵抗を示さなかった。
 仲間内だけとは言え、そうして場所を作られると逃げ場はなくなってしまう。
――もう逃げたくはなかった。
 逃げる事も必要だとは思う。辛い現実から目を逸らし、自身を守るために逃げる事は必要だ。しかし、それを癖にしてしまってはいけない。逃げ続けてはいけない。立ち向かって、乗り越えなければ次の一歩は進めない。
 歌えない、なんて甘えた事を言うつもりは、もうなかった。本当に歌えるかは不安で不安で堪らなかったが、進まなければならないのだから多少強引でも仕方がない。今まで停滞していた時間を、進めなければならなかった。
 南野は隣にいる恋人の顔を見る。
 有沢の部屋の模様替えは終わり、以前とは随分様変わりをしていた。南野の身長程もあったロフトベッドは処分され、その替わりに高さ二十センチにも満たないようなベッドが設置された。ロフトベッドが処分された事でその下に収納されていた服たちは行き場を失ったが、こちらも新たにワードローブが用意された。その他の家具は同じものを使っているが配置がすっかり入れ替わってしまっているので新鮮だった。
 どうして突然模様替えなんてしたのかと南野が訊ねると、有沢は「二人で一緒にベッドで寝たいからですよ」と、笑った。
「みんなに紹介するから、有沢も一緒においでよ」
 今日の夜――恐らく、南野は一歩を踏み出す事になる。過去に縋るのはやめて、前を向いて生きていけるようになるはずだ。そして、その場所には有沢と一緒にいたかった。
 こうして前を向けるようになったのは、有沢のおかげの他にならない。
 犬のように素直な感情表現をする恋人。笑うと子供のようで純粋無垢だ。少し嫉妬深くて、けれど、それは愛ゆえなのだから仕方がない。有沢と出会えて、心底よかったと思う。
「南野さんの歌も、楽しみにしてますね」
 昼食のパスタを口に運び、有沢は笑う。何気ない休日の昼下がりは幸せで、かけがえのない時間だった。いつか失ってしまう事はわかっている。わかっているからこそ――今を生きなければならなかった。
 これから、様々な事が変わっていくのだろう。今日、歌う事が出来て――音楽活動を再開させるとなればまずボイストレーニングから再開させねばらない。鈍った勘を取り戻すには生半可な努力では通用しない。ゆっくり恋人と過ごせる休日も減ってしまう事だろう。
 有沢とこれから何度も揉める事だってあるかもしれない。仕事だって順調なばかりではないだろう。
 様々な困難が待ち受けているはずで、けれど、そのどれからももう逃げたくはない。立ち向かって、乗り越えていきたいと思っている。
「ああ、楽しみにしとけよ」
 南野はふっと笑みを漏らし、肩をすくめた。
 彼女と過ごした日々は、今でも忘れられない大切な思い出だ。彼女を愛した日々はどこまでも懐かしく、切ない思い出だ。
 今まではその彼女に縋りつくだけの日々だった。縋りついて、進みたくないと駄々をこねていた。彼女を忘れる事で、彼女が消えてなくなってしまうように感じていた。しかし、実際はそうではない。
 進むために必要な事は、彼女を忘れる事ではない。彼女がいない現実を認め、彼女を思い出にする事だった。時は今を生きる誰にも等しく進み続ける。それを否定し、過去に縋るだけでは己も、そして周囲も幸せになる事が出来ない。
 辛い別れだった。もしもその別れがなければ――こうして有沢といる事もなかったのだろう。人並みに結婚をし、子供の一人くらいはいたのかもしれない。自分と、愛する人との子が出来ていたのかもしれないと思うと、ほんの少し切ない気持ちにもなる。が、それをいくら考えたところでどうにもならないのだ。
 それに、有沢との間に子が欲しかったと言っているわけではない。有沢と愛を育む事は、南野がこれまで気にも留めた事がないような壁を感じる事もあるのかもしれない。決して一般的に普通な恋愛ではないのだから、仕方がない。今更何かを言うつもりもないし、有沢と別れる気もなかった。
 過去がどうあれ――今愛しているのは有沢の他にはいない。
 有沢を守りたいと思う。有沢が大切で、自分よりも大切な存在だ。
 有沢がいるからこそ、今の南野がいる。
 食事を終えた南野は唇を突出して有沢にキスを強請る。有沢は呆れたように笑って、口付けを交わした。
 温かい唇は、生きている証だった。
 そしてその夜、以前に比べるとか細く、頼りない歌声で南野は産声をあげた。




溺れる事は簡単で、故に難しい。
完結


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