溺れる事は簡単で、故に難しい。
第二十二話
 異性間での友情は成立するのか、しないのか。人によって意見が異なるところであるが、南野自身は成立すると思っている。互いが一途に思い続ける事が出来れば、異性であっても恋愛と友情は一緒になる事はない。――互いに特定の相手がいないとしても、恋愛対象である異性と、友情で留まる異性は異なるものだ。
 だが、それは南野の意見にしか過ぎない。世の中には周囲の異性全てが恋愛対象という人間だって存在する。
 では、同性の場合はどうなのだろうか。
 有沢は同性愛者だ。はっきりと訊いた事はなかったが、元々男しか愛せないと南野はきいていた。
 南野の方と言えば元々は異性愛者でありながら――女性を愛したのはただの一度きりだ。だからと言って男が好きなのかと問われれば疑問の残るところだ。有沢以外に男と付き合おうと思ってみた事もないし、一夜を共にしたいとは思わない。
 ただし、有沢と付き合い始めてから新しい出会いなど一つもなかったのだから、自らの性癖に気付いていない可能性はある。
 けれど、前述した通り、南野は一途な人間だ。純情に一途で真っ直ぐ、よそ見なんてする余裕も、よそ見をしなければいけない理由もない。
 幼い時から共に過ごした朝倉に恋心を抱く理由は、ない。少なくとも今は有沢と付き合っているのだ。
――彼女を想いながらスタートしてしまった有沢との関係だったが、それが特例であっただけで、自身の浮気を許容しているわけではない。
 もしも有沢の言う通り朝倉に一方的な恋心を抱かれ、例えば無理矢理にでも行為に及ぼうなんて事があれば南野も抵抗だろう。体格こそ朝倉に少し負けているが、一般的な成人男性並みの力は持ち合わせているのだから、本気で抵抗して出来ない事はないだろう。
「……南野さんを信用してないわけじゃないです。その、朝倉さんでしたっけ、彼を悪く言うつもりもないんです」
 有沢はそう言って俯き、声のトーンを落とす。
 夏は終わり、日が沈むのも随分早くなってきた。夏場は定時で仕事を終えれば空はまだ明るかったのに、今では夕暮れ空だ。もうあと数週間もすれば暗闇になっている事だろう。
 仕事を終えた二人は――珍しく南野の自宅にいた。南野は有沢の自宅に行こうとしたのだが、有沢がそれを拒んだのだ。理由を訊いてみれば『模様替え中』だそうで、新しい家具や古い家具、散らばった生活用品や整理整頓の際に出た無数のゴミで足を踏み入れる事も困難な状態だと言う。
 そんなわけでコンビニで食品を買い込んでから南野の自宅に帰ってきた二人はベッドに並んで腰かけ、この数日の気まずさの要因について淡々と話をしていた。
「実際のところ、誰かが好きだから襲おう、なんて思考に発展する人間ってそんなにいないですよね。そういう衝動に駆られる事はあっても、実際に行動しちゃったら犯罪ですし。……でも、南野さんが心配だから……俺のただの嫉妬っていうか……」
 有沢は語尾をしどろもどろに口ごもり、唇を噛んだ。
 好きな人間をとられるかもしれない、その嫉妬の心は南野にだって十分にわかる。けれど、だからこそ信用してもらいたかった。
「……うん、俺もちゃんと始めから有沢に説明してればよかったのに、出来てなかったからさ、ごめん」
 南野はそう言って隣の有沢の頭をぽんぽんと軽い手付きで撫でる。
 ベッドの脇のテーブルの上には、つい先日朝倉から受け取った楽譜が置かれている。南野はそれを手に取り――同じくテーブルの上にあるいつもと変わらない笑顔を振りまく彼女の写真が入った写真立てを伏せた。
「俺、昔朝倉とバンドやっててさ……遊びの延長線上って感じだったけど、それなりに楽しくやってて――色々あって活動は止めてたんだけど、またもう一度やりたいなって思ってさ」
 楽譜を差し出しながら、南野は言葉を紡ぐ。
「バンド、ですか……」
 有沢は楽譜を受け取ったがきょとんとした風に目を丸め、首を傾げた。楽譜はボーカルの主旋律と歌詞、コードのみが記された簡易的なものだったが、その様子から察するに有沢は楽譜が読めないのかもしれない。
「バンドっていうと楽器とかされるんですか?」
 楽譜をぱらぱらとめくった有沢は何かを考え込むようにしきりに首を傾げる。その頭からでる疑問符が目に見えるようだった。
「ボーカル、だった」
 そんな有沢がなんだかおかしくて、南野は頬が緩まってしまうのを抑え込みながら答える。
 驚いたように南野の方を見た有沢は、しばらくの間を置いてから口を開いた。
「……南野さんって、歌は嫌いなんだと思ってました」
 いつだったか、付き合って間もない頃に有沢と二人でカラオケへ行った事を思い出す。――あの当時は、まだ歌う決意はついていなかった。彼女を絶ち切る覚悟がなかった。
「歌は好きだけど、……なんていうかその、思い出したくない事もあったから歌いたくなかった……けど、また歌いたくなったから」
 歌いたくなかったから、歌わなかった。けれど今は、歌いたい。大地に二つの足を踏ん張り、身体の奥底から湧き上がるもの全てを吐き出して、歌いたかった。
 彼女の呪縛はまだ解けていない。歌おうと思っても、まだ歌えない。
 それでも、こうして足掻く事で、進める気がした。彼女の呪縛を切り捨てて進むために、足掻かなければならなかった。そうして有沢の気持ちに応えたかった。
「そう、なんですか……。朝倉さんはバンドでは何をされてたんですか?」
 有沢はちらりと、伏せられた写真立てに目を遣った。歌いたくなかった理由を説明しなかった南野だったが、流石に察せられたらしい。
「朝倉はギターやってた。他にベースとドラムがいたかな。……大人になった今でも、そのメンバーで始めるつもり」
 説明が圧倒的に足りていないのはわかっている。高校時代から始めたバンドで、そうして一言で語れるような単純な物ではない。――そうして一言に収められるようになるまで紆余曲折があったわけだし、しかし、その一言で有沢に内情が伝わるわけではない。
「長い、付き合いなんですね……」
 そこで有沢は一旦言葉を区切り、言葉を選ぶように口をぱくぱくとさせてから、再び口を開いた。
 長年――彼女の傍にいられなくなってから、人付き合いは最低限に抑えてきた南野だ。有沢が何を考えているかはわかっても、どう言葉をかけていいのかはわからなかった。うまく取り繕う方法がわからなくて、自分を曝け出してしまう。
「……南野さんにも、過去があるっていうのはわかるんです。……俺だって、その、それなりに過去があって今に至ってるわけですし、南野さんだって同じだっていうの、わかってるんです。…………でも、俺の知らない南野さんを、他の誰かが知ってるんだと思うと何か、嫌だなって、……そんなの、当たり前の話で、南野さんが悪いとか……そのお友達が悪いってわけじゃないのもわかってるんですけど、……嫉妬しちゃうって言うか」
 ぐっと唇を噛んだ有沢はそのまま俯いて押し黙った。
――嫉妬の心は、南野だってよく知っている感情だった。
 いつか、まだ彼女と時を共にする事が出来ていた頃――南野だって抱いた感情だ。誰かを案じるあまり、誰かを傷つけてしまう。一方的な理不尽と、その行く宛のない行き先を知っている。
「今度――そうだな、あいつと、お前の時間が合う時にまた紹介するよ」
 けれど、それも相手を知っていれば多少は解消される事だと信じていた。有沢だって疑ってばかりの人間ではないはずで、それに、朝倉はいい奴だ。もしかすれば仲良くなれるかもしれない。
「え、いや、でもそれは――ほら、俺は男ですし」
 有沢の言いたい事がわからず、その瞳をきょとんと見詰めて首を傾げる。
「……なんて紹介するんですか?恋人が男とか、言えなくないですか?だからって会社の後輩とか、そんなの紹介された方も困りますし」
 そこまで言われてようやく合点がいった。有沢にはころりと言うのを忘れていたが、朝倉には既に新しい恋人が同性である事は説明してある。
 マイノリティ側で生きてきた有沢にとって、普通の――異性愛者は同性愛者に必ず壁を作るものだと思って節があるらしい。そして、それはこの国の大多数の人間に当てはまる事なのだろう。
 今でこそ世に深く浸透してきているが、浸透しているからこその奇異の目線もまたあるはずだ。
 しかし、南野と、その周囲はそうではない。南野と朝倉が共に過ごした学生時代、周囲には同性愛に限らず少し変わった性癖を持つものがちらほらといたため、対象が人間であるならば十分許容し、理解できる範囲内だ。
「あいつも俺と同じで、多少性対象が変わってたところでどうこう言うような人間じゃないよ。っていうか、俺の相手が男だって言うのも言ってあるし」
 南野はにこりと頬を緩め、そう答えた。
「そっ……そう、なんですか……?」
 有沢の表情は固まったかと思えば引き攣った笑みを見せ、怪訝に眉を顰める。
 恋人なのだから、己の性癖を公開するのも一蓮托生、とは言え、有沢のトップシークレットに値するのであろう性癖をそう易々と口にするべきではなかったかもしれない、と後悔した。南野の認識がどうあれ、この社会では未だ通常とは言えない性癖に対しての風は強く、社会的信頼を損なう事だってある。
「……うん、理解ある奴だし、多分有沢も仲良くなれると思う」
 そうして南野は、有沢から窓へと視線を移す。閉じられた窓ガラスは部屋の天井に灯る蛍光灯を映していた。そのガラスの向こうはどこまでも黒い暗闇で、夜の空気がしんしんと入り込んでくるようだった。
 有沢は両腕を伸ばし、南野を見る。
「抱き締めて、いいですか?」
 南野は何も答えず、代わりに身体をそちらへと預ける。たった数日程度離れていただけなのに、己を包む体温が懐かしい。
 有沢の手は南野の柔らかな髪を梳くように何度も撫でる。知らず知らずのうちに安堵のため息が漏れた。
 一時はあのまま――有沢と別れる事すら脳裏を過ぎったのに、そうならなくてよかったと心底思うのはなぜだろうか。
「……変な嫉妬とか、子供っぽい事して、すみませんでした」
 撫でる手と同じ様に優しい声は淡々と告げる。
 しなだれかかった有沢の腕の中でぐるりと身動ぎをして顔を埋める。そうすると有沢の匂いが鼻腔いっぱいを埋め尽くした。
「有沢は、悪くないよ」
 自らは謝る気はないと決めていたのにそう答えてしまうのだから不思議だった。
 再び頭を撫でられてそっと息を吐く。その腕は頭から肩へとまわり、強く南野の身体を抱き締めた。
「俺、南野さんが好きです。好きすぎて、誰にもとられたくないから心配で……」
 耳元で囁く声はどこまでも真摯だ。
「紹介してもらえるの、楽しみにしてます。南野さんが大切にするお友達なんですから、きっと凄く良い人なんですね」
 凄く良い人かどうかと問われれば疑問の残るところで、南野は有沢の腕の中で困ったように眉を八の字に寄せる。――悪い人間でない事は確かだが、一口に良い人だとは断言ができない。良い人だと言うのならば有沢の方がずっと該当している気がした。
 しかし、有沢は南野のそんな様子には気付かず抱き締めていた手は肩から背を這い回り、やがて南野の顎を持ち上げる。
 吐息が触れる程に顔を寄せたのは随分久しぶりだった。
 どちらからともなく顔を寄せ、唇を重ねる。ふんわりと柔らかい弾力のあるそれを何度も味わい、貪っていく。
「ん……」
 漏れる声は、これから先を期待しているからだ。
 有沢の舌は唇を割り、歯列をなぞる。敏感な上顎を擦られて知らずに肩が揺れた。瞼を閉じ、口内を蹂躙するそれに身を任せる。
 ねっとりと、執拗に舌を絡め取られて背筋に絶え間なく電流が流れる。快感と言うにはやや物足りないそれは、癖になってしまいそうな刺激だった。
 否が応でも体内の熱は煽られていく。そして、それはどうやら有沢も同じようだ。ふと薄目を開ければ欲望に濡れた有沢の瞳とぶつかる。羞恥に再び瞼を閉じ、絡め取られるその刺激を余すところなく享受する。ふわふわとした奇妙な浮遊感とそのまま浮いていってしまわないように己の身体を繋ぎとめる有沢の体温だけが全てだった。
 乱れる呼吸が苦しくて、南野は顔を逸らして有沢の肩を押し返し、唇を無理矢理に離す。
 そのまま有沢の胸元に縋るように顔を埋めて手を遣りワイシャツを掴む。ぐしゃりと皺になっていたが、今はそれに気を遣っている暇はなかった。
「有、沢……」
 荒れた吐息で恋人の名を呼ぶ。
 濡れた唇に空気が触れてひんやりと冷える。唇を濡らすその液体はどちらの唾液なのかさえも判らなかった。
「……?」
 有沢は南野の言葉の続きを待っているのか、僅かに首を傾げ、背を丸めて腕の中にいる南野の顔を覗き込もうとした。
 けれど、そうして有沢と目を合わせる事が怖くて、南野はむずがるように有沢の胸に頭を擦りつけ、顔を見られないようにしてしまう。
「今日は、さ……」
 それを告げるかどうか――少しだけ迷って、言葉を詰まらせる。自分から告げるだなんて恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだったが、そろそろ一歩を踏み出すにはいい頃合いだと思っていた。
 付き合い始めの頃は、まだ迷っていた。彼女を絶ち切る勇気なんてどこにもなくて、思い出の中だけで生きていければいいとさえ思っていた。――けれど、今は違う。
 唇を噛み――覚悟を決める。
「最後まで、シたいなって……」
「えっ……」
 頬に熱がのぼるのを感じた。食い入る様な視線が刺さっている事すらも意識できる。
 経験がないからステップはゆっくり、と、付き合いはじめの頃に南野から言いだした事だ。確かにそれは嘘ではない。男同士で何をするか知識として知っていても、心の準備はまだ出来ていなかった。しかし、そんな事は後付にしかすぎない。
 彼女以外の誰かと身体を重ねる勇気がなかった。そうする事で彼女と築いてきた思い出が全て上書きされてしまうような気がして――どこにも踏み出せなかった。大切な思い出の欠片は日々指の隙間から零れ落ちる。忘れたくないと願っても、もう思い出せなくなってしまう事だってあった。
 記憶は遠く色褪せ、郷愁を誘う。
 彼女の事は大切で、それは今でも変わらない。彼女と過ごした日々がなければ、今の南野はあり得ないのだから。
 そして、それと同様に有沢の事も大切だと思っていた。
 恋愛感情が沸き立つよりも先に恋人と呼ばれる関係になり、その愛を溢れる程に貰い受けた。彼女以外の誰かを愛すつもりはなかった南野でも、思わず頬が綻んでしまうような真っ直ぐな感情をぶつけられた。
 愛される事が嬉しいから、愛したいと思った。嬉しかったから、同じだけの愛を返したいと思った。
 幸せだと思える居場所は、もうどこにもないと思っていたけれど――それは違った。
「……本当に、いいんですか……?」
 この腕の中なら、幸せになれる気がした。
 形あるものは全て等しくいつか崩れてしまう。いくら愛していようと、いくら永遠を望もうと、自然の摂理には何人たりとも敵わない。
 どうせ失うのだから、はじめから何もいらないと思っていた。希望を失って絶望を知るくらいなら、希望も知らず、絶望とも関わらない無味乾燥な毎日を望んでいたはずだった。
 しかし、有沢と出会った事でその考えは変わった。いつか失ってしまう。それはわかっていても、こうして温もりを感じていられる時間は何よりも尊く、幸せだった。いつか失ってしまうからこそ、ずっと一緒にいたいと思った。
 有沢の声は微かに上擦っていて、南野は笑みを噛み殺して小さく頷く。
 ほんの刹那の間を置いて、有沢は力強く南野を抱きしめた。ふとすれば痛みを感じる程の抱擁は、いつか訪れる終わりの事なんて忘れてしまいそうになるくらい、幸せだった。


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