溺れる事は簡単で、故に難しい。
第二十一話
 有沢はどうやら嫉妬深い人間のようだ、と言うのが、付き合い始めて二度目のすれ違いを経験した南野の感想だった。
 朝倉と有沢では、過ごした時の長さが違う。どちらの事も大切に思っているし――そして、大切にしたい理由はそれぞれに違い、それぞれに特別だ。どちらもかけがえのない存在で、南野にとってなくてはならない存在だ。朝倉に対する『好き』と、有沢に対する『好き』は恐らく別種のもので、それを理解しようとしない有沢に腹立たしさを覚える。
――あんな、無表情の有沢ははじめて見た。どれだけの怒りを秘めていればそんな反応になるのか想像もしたくない。――が、そもそも有沢の怒りを買うような事は何もしていないはずだ。朝倉とは有沢に疑われるような関係ではない。
 よしんば朝倉の方に有沢が指摘するような感情があったとするなら――二人の関係はとっくに壊れてしまっていただろう。
 南野にとって朝倉は、全てを許せる存在だ。血の繋がった親よりも自分を理解し、そして、朝倉を理解している自信がある。そこに恋愛感情の介在する余地はないし、きっと未来永劫続いていく関係だと思っている。
 二人の関係をよく知らない有沢が、頻繁に会う二人の仲を疑ってしまうのも仕方がないとも思えたが――いくら南野が違うと言っても信じない有沢には幻滅だった。
 いつだったか、有沢は南野の全てを受け入れると言った。それなのに――受け入れてもらえない。信じて、もらえない。
 まだ太陽は昇りきっておらず、少し湿気た朝の空気の中、南野は自宅を目指す。先ほどの事を思い返すだけで腸が煮えくり返りそうな苛々が募った。
 自宅の玄関の前には壁を背もたれにしてスマートフォンを操る朝倉の姿があった。廊下に響く南野の足音を聞きつけた朝倉は顔を上げ、スマートフォンをポケットにしまう。
「お泊りデート中だった?」
 眉を上げた朝倉に厭らしくそう訊かれて、南野は「まぁな」と答えて鍵を取り出し、玄関を開ける。
 相変わらず家の中は物が少なく、そう広くない部屋のはずなのに物がないせいでだだっ広く感じられる。近頃は家で食事をする回数は減る一方で、以前より家の中にあるゴミは減っていた。
 ベッドの脇にあるテーブルには彼女が変わらぬ笑顔を振りまいている。前は守りたい笑顔だったその笑顔も、最近ではようやく想い出に変わってきた頃だった。有沢の手に縋る事で、想い出にする事が出来そうだった。
 部屋に入った朝倉は背負っていたギターのハードケースを床に置き、ロックを外して広げる。蓋側についている内ポケットから折り目ひとつついていない紙と、自宅で焼いたのであろう事が窺えるディスクを取り出した。
「これ、昔やってた楽譜とか。……まあ、歌うのはこれじゃなくてもいんだけど、他に歌いたい曲あるんなら早めに教えて」
 手渡されたそれは、五年以上も前、朝倉と共に同じバンドに所属していた頃に歌っていた曲の楽譜と、CDディスクの方には恐らく音源が入っているのだろう。楽譜の方は当時朝倉が使っていたもののコピーで、南野自身にも見覚えのあるものだった。無数に書き込みされた走り書きも写っている。その筆跡を辿るように、南野は紙を撫でる。
 これまで思い出す事もなかった記憶が――まるで花を咲かすかのように蘇る。今まで、過去を思い出すと言えば彼女の事ばかりだった。南野の側にはいつだって彼女がいたし、彼女だけが全てだった。けれど、過去を築いていたものは何も彼女だけではない。
 歌う事は彼女のためだった。彼女への想いを形にする手段だった。それでも――そもそも、音楽を始めたのは音楽が好きだったからだ。鼓動のように刻むリズムが、伸びやかに表現される音が、好きだったからだ。毎日歌を練習し、時には先生と呼ばれる人間の下についた事もある。教えて貰ったことは全て吸収し、自己の研鑽に励んだ。ある程度自由に音楽を表現出来るようになってからは、毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかった。
 朝倉の弾くギターに合わせて歌を歌う事、そして、その歌が誰かの心を動かし、自己満足だけではない世界へと変わっていく。
 今現在、プロとして活動している朝倉は勿論の事だが、南野にも才能があった。音楽を表現する才能、表現するための努力を欠かさない才能、誰かを惹きつける才能、魅力的な音楽を発信する才能――もしもずっと音楽を続けていれば、今とは違う結果になっていたかもしれない。
「楓ちゃんはあんな感じで時間の都合はいつでもつけられるらしくて、明良はあの頃と一緒で会社員やってて土日と祝日が休みだってさ」
 明良とは、その当時ドラムを担当していた。南野よりも四つ年上で、一緒に音楽をしていた頃は既に就職し、サラリーマンとして働いていた。南野自身は連絡こそとっていないが、朝倉の方ではずっと連絡をとっていたらしい。
「…そっか、みんな変わんないのな……」
 月日が流れ、南野も朝倉も学生から社会人へと変わった。肩書きだけでなく、生き方や考え方も多少なりと成長しているはずだ。形ある物は時を経るにつれ変わりゆく。あの頃と変わらなく見えるものも、全く同じではないはずだった。湧き上がるのは郷愁にも似た何かだった。
 遠い日の記憶は僅かに色褪せ、夢の中の出来事だったかのように今では手も届かない。
「お前は、変わったけどな」
 朝倉はそう言って、南野を真正面から見据えた。
「お前がまた歌う気になってくれて、本当にうれしい」
 その真剣な眼差しがくすぐったく、俯いてそれから逃れる。
 歌いたい気持ちは確かで、嘘偽りのないものだ。歌いたいと、そう思っている。けれど、その気持ちはずっと抱いていたものだ。
 彼女を失ってすぐ、歌う事をやめた直後から――ずっと歌いたいと思っていた。
「歌えたら、いいんだけどな」
 歌いたくても、歌う事が出来ない。声を出そうとすると喉の奥でつっかえて、音を刻む事が出来なくなる。どうしてそうなってしまうのか、自分でもわからない。
「歌えるさ」
 ぎゅっと唇を結んだ南野に、朝倉は何でもない事のように言う。実に気軽に、南野の苦しみなど知らないかのように。
「歌……えない、かもしれない」
 俯いて出した声は、微かに震えていた。
 一抹の不安が胸をよぎる。このまま一生歌う事が出来ないかもしれない。いくら歌いたくても声が出ないのだから仕方がない。対策の方法もわからない。――南野を不安にさせるには充分だった。
「歌えるって」
 朝倉の声は右から左へと脳内を通り過ぎる。
 言われた言葉は空虚のようで、他人事のように感じた。
「でも、俺は……歌えなかった。ずっと歌ってなかったし、歌はさやかのためのもので――」
 その彼女も、もういない。と、口に出す事は出来なかった。けれど、朝倉は口に出さずとも続きを察したようだった。
 ぎゅっと唇を噛み締め、もう一度唇を開く。
「歌える。お前は、歌えるよ」
 目の奥が熱くなって、南野は更に俯いた。熱くなったそこから水滴が零れてしまいそうで、それを堪える事に必死だった。
 歌を歌えるようになれば、どれ程いいのだろうか。
 そうして音を奏で自己を表現する事はどれ程気持ちよかったのだろうか。
 思い出すだけで身震いするような快感だった。
 変わりたい、と思っていたはずだ。停滞していた時間から抜け出し、進みたいと思っていたはずだ。
 だから――歌える。
 不安が全て抜けきったわけではない。それどころか不安は増すばかりだ。歌うための準備をして――やっぱり歌えない、なんて事になれば南野だって、それに目の前の朝倉だって落胆してしまう。そうなれば――今までのような関係も、崩れてしまう事だって考えられる。
 けれど、歌えなければ進めないと確信していた。無理矢理にでも声を張り上げて歌わなければ、一生彼女の呪縛に囚われたままになってしまう。
 南野は黙りこくったまま、静かに頷いた。



 有沢の家から帰ってきてから連絡をとっていない。有沢と付き合い始めてから忙しなく仕事をしていたスマートフォンも沈黙を守り、昼間会社で顔を合わせても最低限の会話しかなかった。それでも、いつかのように昼食の弁当だけは欠かさずに作ってくれている。――ただし、食べるのは一人きりだ。
 南野は荒れた自身のデスクの書類を掻き分けて弁当を置き、一人きりの食事をしていた。有沢が炊くご飯の硬さも、出汁の効いたたまご焼きの味も、いつもと変わらないはずなのに、何故か味気ない。――その理由はわかっている。
 以前はただの作業だった食事が、楽しい時間にかわったのは有沢と付き合い始めてからだった。
 有沢がいなければ、物足りない。
 どうすれば以前のような関係に戻れるのか――考えた所で、打開策は思い浮かばなかった。今回の事に関しては、有沢の勝手な思い込みで南野に非はないはずだ。勝手に勘違いをし、勝手に怒っているだけで、南野から言えるような言葉はない。――敢えて言うなら、怒りに任せて有沢を煽ってしまった事に関してだろうか。
 だが、それも有沢に難癖をつけられた事がきっかけなのであって、南野だけに非があるわけではない。
 柚子の風味が香る鶏のから揚げを口に放り込み、南野は食事を終えた。どちらにせよ南野から行動する気はない。
 午後の仕事もつつがなく終えた南野は、自宅の隣にあるコンビニで夕飯と明日の朝食を手に入れ、家へと帰った。近頃は毎日有沢の自宅へ通い、自宅へ帰ってくるのは終電や朝になってからがほとんどだった。就寝時間までまだまだ余裕のある時間に自宅にいるなんて随分久しぶりだった。
 帰ってくるなり荷物を床に放り出し、着替えもせずベッドへ仰向けに転がる。今日一日、何度も確認したスマートフォンを見る。しかし、いくら見返しても有沢からの連絡はなかった。
 小さなため息を吐いてスマートフォンをベッドの上に投げるようにして置くと、マットレスはそれを静かに受け止めた。
 ごろりと寝返りを打ち、何もない壁を見つめる。天井から煌々と降り注ぐ蛍光灯の明かりがやけに眩しく感じられた。
「……なんなんだよ、あいつ」
 恋人の身を、好きな人の身を案じる事は誰にだってあるだろう。同性愛者である有沢が、南野の同性の友達との仲を疑う事も、ある程度は仕方のない事なのかもしれない。
 だが、疑われる方はたまったものではない。
 ただの友達、ただの親友、朝倉との関係はそこから恋愛に変化する事など有り得ない――。いくら説明してもそれを信じなかっただけでなく、幼い頃から共に過ごした家族のような存在である唯一無二の親友との絆を汚されたようで不快だった。
 ネクタイの結び目に指を突っ込み、僅かに緩めると締め付けられていた喉元にすっと空気が入り込む。
 一人で過ごす時間はいつもより長く感じられた。
 また有沢とこの前までのような関係に戻りたい。そうは思っても、有沢からの連絡がなければ自ら動くつもりはなかった。南野にだってプライドがある。
 それに、もしもこのまま終わってしまうというのならそれも仕方のない事だろう。
 数カ月前にできた恋人よりも、ずっと共に過ごしてきた親友を優先したかった。諦める覚悟はついている――そうは思っているはずなのに、胸に渦巻く黒い靄は消え去らなかった。
 南野はぐっと伸びをし、立ち上がる。もうエアコンもいらない季節になってしまった。
 服を脱いで浴室にむかい、暖かなシャワーをその肌に浴びる。一日の汚れと共に心の内に潜む靄も全て流れ落ちてしまえばいいのに、と考えても都合よくは流れてくれなかった。
 浴室を出た南野は洗いざらしの部屋着に身を包み、濡れた髪を乾かすのもそこそこに再びベッドに横になる。今度は部屋の電気も消した。いつもの就寝時間にはまだまだ早かったが、起きていたところで何もする事はなかった。
 眠る事は好きだった。眠っている間だけは、どんなに辛い現実からも逃れられるからだ。
 しかし、睡魔はなかなか訪れず、栓のない考えばかりが浮かんでは消え、南野がようやく眠りにつけたのはあと僅かで日の出が訪れるという頃だった。
 失ってからでは遅い事は痛い程にわかっているはずなのに、自ら動くために藻掻く事を拒んでしまう。
 有沢に押し流されて始まった関係で、近頃はその呪縛も薄まってきたとは言え、未だ『彼女』は南野の心の大切な場所を占める存在だ。
 変わりたいと願ったのは自分だった。有沢のそばにいる事で変われるかもしれないと思った。
 けれど、もしも変われないのならば、それはそれで構わなかった。
 もう時を刻む事の出来ない彼女の残像と共に、これからを生きていくだけだ。これまでもそうして生きてきたのだから、この先もそうできるはずだった。
 歌う、とそう決めたばかりだったけれど、こうして後戻り出来る気でいるのが自分でも可笑しかった。
 カーテンの隙間から入り込む朝陽と、けたたましく響くスマートフォンのアラームの音で目を覚ました。
 南野の知らないうちに夜は明け、いつも通りの繰り返しの毎日が今日も始まる。
 充分な睡眠をとれていない頭は重く、芯の方がじんと痺れるように痛んだ。顔を洗い、会社へ行く身支度を整え終わった頃には痛みもひいたが、身体に拡がる気怠さはとれなかった。
 まだ少し鋭い日差しに、そよぐ風はほんのりと冷たく心地良い。
 気分は陰鬱に沈んでいるというのに頭上を覆う空はどこまでも突き抜けるような青だった。
 会社へ着いた南野は自身のデスクに座る。パーティションを挟んで左隣には有沢の気配がある。ほんの少し前まではその体温さえ感じられる距離だったのに、今は手を触れる事すら叶わない。――手を伸ばして、触れられないわけではない。また元のような関係に戻ろうと思えばいつでも戻れるはずだった。打開策はきっとどこかにある。――あるけれど、怒っているのは何も有沢だけでない。南野の方だって親友との関係を不必要に疑われ、気分を害している。それなのに有沢はこちらと話をしようともしないのだ。
 それが余計に南野を意固地にさせる。
 有沢の態度が軟化しない限り、これ以上の付き合いはないと考えていた。
 隣のデスクから響くキーボードの音に胸を痛ませながら仕事をする。
 画面に映る見慣れた英字の羅列を追い、作っていく。
 仕事に集中しはじめると、耳障りだった自分以外のキーボードを叩く音もやがて聞こえなくなった。
 有沢と離れたいと思っているわけではない。だが、素直に有沢に縋る事は出来なかった。
 集中している間にいつの間にか昼休みがやってきていたようだ。南野がはっと気付いた時には、昼休み開始の合図であるチャイムが鳴り終わろうとする頃だった。
 作業の途中だったデータを保存し、椅子の背もたれに体重を預けて伸びをする。数時間休む事なく集中していたせいで身体はすっかり凝り固まってしまっていた。
 ふと視線を感じて振り返ると、南野の真後ろには弁当の入った巾着袋を片手に持った有沢が突っ立っていた。
「……」
 有沢は無言で、ずいと巾着袋を差し出す。
 視線は落ち着きなく彷徨い、けれど南野の瞳と絡む事はない。
 座った姿勢で後ろを振り返り、見上げた有沢の表情は窓から差し込む日差しのせいで逆光になり、読む事はできなかった。
「……ありがと」
 差し出された巾着袋に手を伸ばし受け取る。僅かに指先同士が触れ合い、少し低い覚えのある体温を思い出す。
 南野が有沢の瞳を見詰めると、有沢はわざとらしく視線を逸らした。しかし、そこから去ろうとはしない。
「なに」
 そう問うと、有沢は何か言いたげに唇をぐっと噛んでから口を開いた。
「あの、お昼……一緒に、食べませんか……?」
 声は弱々しく、それも言葉を進めるにつれて力をなくしていった。
 たったその一言を言うだけなのに、有沢は言い終った後も落ち着きなくそわそわと辺りを見回す。
 その光景がなんだか可笑しくて南野が答えずにいると慌てたように再び口を開く。
「あっあ、でも南野さんがお忙しいようなら無理に一緒にってわけじゃなくて、そのっ……」
「いいよ、一緒に飯食おう」
 有沢の言葉を遮って、言う。
 有沢からの誘いを断らなければならない理由は、南野にはなかった。――まだ腹に燻るものはあるけれど、また元のような関係に戻れるのならそれでよかった。
――まだ有沢に言っていなかった、また音楽活動を再開させたい事、そうすると朝倉との付き合いは前以上に頻繁になる事、けれど、友達以上の関係はあり得ない事、それを説明しなければならない。
 説明しても理解を得られない可能性だってある。が、理解を得られるまで引きたくはなかった。
 いつかのように一つのブースに無理矢理椅子を詰め込み並べて置いた弁当を囲む。
 毎日食べ慣れた味は今日も健在だ。――それに、昨日までのように一人ではない。
 まだ二人の間に流れる空気はぎこちなく、互いを探り合うかのように無言が続いている。けれど、元の形に戻りつつあるのがわかった。


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