溺れる事は簡単で、故に難しい。
第二十話
 陽射しは勢いを弱め、風は冷たさを増す。夏の終わりの湿り気を帯びた空気は哀愁を誘う。街に立ち並ぶ青々と茂る木々たちも、あとしばらくすれば秋の色を纏うはずだ。
 澄み切った早朝の青空を見上げて、南野はため息を吐いた。
 代わり映えのしない日常、繰り返しの毎日、進みたい一歩を踏み出せない日々は続いていた。
 有沢の温もりに甘えて、そこからの一歩が踏み出せなかった。
 金曜日だった昨日は会社帰りに有沢の家に寄り、そのまま泊まってしまった。肌寒さと、カーテンの隙間から溢れる朝陽に誘われて平日よりも早くに目を覚ましてしまった。有沢は規則正しい寝息をたてて、まだ夢の世界を彷徨っている。
 南野は床に敷いた寝具から抜け出し、ソファに腰掛けてその背後にある窓から外を見つめていた。
 もう一度歌おうと心に決めてから、未だ歌えていない。歌おうとすれば声に詰まり、それ以上続ける事は出来なくなる。
 昔のように自由に歌えるようになろうと思えばそういった精神的な事も克服しなければならないが、それよりも物理的なリハビリも進めなければいけない。
 声を出し、音を紡ぐ。誰しもが何気なくするそれも、人を魅了する音を奏でるには所謂ボイストレーニングなどが必須になる。
 音楽を再開する、と言ってもそれは趣味としての話で、朝倉のように仕事にしたいというわけではない。
 それでも、やるからにはベストを尽くしたかった。
 けれど、そもそも歌えなければ話にもならないのである。
 どこからともなく小鳥のさえずりが聞こえて、南野はもう一度ため息を吐いた。
 胸に渦巻くのは焦燥だろうか。本来ならば、こんな所でのんびりしている場合ではない。歌えるようになるまで無理矢理にでも声を出したいと思っていた。――思っているだけで実行しないのは、間違った対策だという自覚があるからだ。
 けれど、正しい対策もわからなかった。わからないからこそ焦燥は加速してしまう。
 ピピピ、と愛想のない電子音が部屋のどこからこら鳴り、その音に反応した有沢は目を覚ました。むずがりながら腕を伸ばすと枕元に置いていた自身のスマートフォンを探り当て、音を止めた。どうやらスマートフォンにセットしていたアラームの音らしかった。
「……あれ、おはようございます。早いですね」
 手の甲で目を擦りながら上体を起こした有沢はソファの上にいる南野を発見し、にこりと頬を緩めた。
「おはよ」
 笑顔を返して短く答えた南野は立ち上がり、キッチンへと向かった。単身用ではない大きな冷蔵庫を開き、その扉に入っている麦茶のボトルを取り出してシンクの横の水切り籠の中にあるグラスに注ぐ。
 冷えた麦茶が喉を滑り、寝ている間に水分の抜けきってしまった身体を満たしていく。
「有沢もいる?」
 麦茶の容器を片手に、もう片手にグラスを持った南野はキッチンからひょいと顔を覗かせて言った。
「ください」
 有沢がそう言うので、空になったグラスに麦茶を注いで有沢に手渡そうとしたが、有沢は首を左右に振った。
「口移しがいいです」
 時刻はまだ早朝で、室内には朝陽が溢れている。それなのに有沢は真剣な瞳でそう訴えるのだ。
 迷ったのはほんの一瞬だった。
 有沢に何かお願い事されて断れた事は今までに一度もない。何故か――受け入れてしまう。
 まだ掛布を被っている有沢の隣に跪いて麦茶を口に含み、唇を重ねた。有沢の顎を少し上に向けさせ、唇の隙間から麦茶を流し込む。有沢の喉はそれに合わせて上下した。
 零さない様気を遣ったはずなのに、唇の端から漏れた麦茶が有沢の頬を伝って掛布に染みを作る。
 口の中の麦茶がなくなった南野は、有沢が全て飲み込むのを待ってから唇を離した。
「ごちそうさまでした」
 そう言って有沢はまるでいたずらっ子のようにキラキラと瞳を輝かせ濡れた唇を拭う。そして組んだ手を伸ばし、起き上がるための準備をする。
 そんな有沢を見ながら、南野はふっと笑みを零した。
 共に過ごす朝は新鮮で、今までになかった安らぎを感じる。一緒に過ごす事が出来て、時間を共有する事ができて、心底よかったと感じる。
 有沢を、愛しいと感じる。
 南野の知っている恋心は――思い出すだけで胸が張り裂けそうになり、傍にいるだけで鼓動が高鳴り、抱き締めたい衝動に駆られる――そんな感情は彼女にしか抱いた事のないもので、有沢に同様のものを感じた事はない。
 けれど、大事だと思う心は、失いたくないと思う気持ちは、確かにそこにあった。
 自分の事よりも大切で、守りたいと思う。一度は失敗したからこそ、今度こそ失いたくないと思う。
 どうせ、いつか失ってしまう時はくる。長く一緒に居れば心が離れてしまう事も、互いに想い合っていても人は永遠には生きられない。――いずれにせよ、形を変えず生き続けるなんて無理な話だ。
 いつか失ってしまうものならば、初めから手に入れなければいい、と、ほんの少し前まではそう考えていた。だが、今は違う。
 手に入れなければ絶望や哀しみもないかもしれないが、今のような幸せも手に入らない。幸せだった過去に縋って生きていくしかない。後ろ向きで希望のない日々は酷く虚しく、生きる意味さえ見失う日々だった。
 そんな日々はもうごめんだ。
 失う事は辛く、いつか己を傷付けるのだとしても、今のこの瞬間は何事にも替え難い幸せがある。
「そういや朝飯って何?」
 立ち上がり、洗面所で歯を磨いて顔を洗い、朝食を作るためにエプロンを着けた有沢に向かって首を傾げた。
「今日はパンですよ。トーストとスープとサラダを用意しようかと思ってます」
 有沢が朝食を準備している間に南野も顔を洗って着替え、身だしなみを整えてから部屋の床に敷いている寝具たちを畳み、有沢のベッドの上へと追いやって家具の配置を元に戻す。そうしているうちにこんがりと香ばしく焼かれたトーストと、食欲をそそるオニオンスープの香りが漂ってくる。
 南野は出来上がったものから配膳を手伝い、有沢と共に席についた。
 焼き色のついたトーストにバターをのせると、じんわりと融けて広がり馴染んでいく。齧れば優しげなバターの香りと塩味が鼻孔に広がった。
 会話を交わしながらする食事は、今の南野にとって欠かせない楽しい日常の一コマだ。外から見れば些細な事でも、一度失った事のある南野にとっては確かな幸せを実感できる大切な時間だ。
 隣に座る男を、愛しいと思う。
「今日、午前中に借りてきた映画見て、午後から少し買い物に出ません?」
 有沢はトーストを齧りながら南野を窺う。
「おっけー。映画って何見んの?」
「今年の春にやってたアクション映画です。ずっと見たかったんですけど映画館行く暇なくてレンタル開始するの待ってたんですよね」
 そう言って有沢は南野にDVDを手渡した。タイトルを見てみれば南野にも聞き覚えのあるものだった。
「そっか、じゃあ楽しみだな」
 以前までは映画なんて全く見なかったのに、有沢と付き合い始めてからはこうして一緒に映画ばかり見ている。初めは役者の名前もわからなかったが、近頃では有沢のおかげで知識も増え、様々な側面から映画を楽しめるようになってきた。
 発表当初は興味もなかったその映画も、今は見てみたいという欲求の方が強い。
 DVDを返して食事を続ける。
 有沢の作るスープで身体を暖め、ほろ苦い食後のコーヒーを味わってしばらく経った頃だった。
 南野のスマートフォンが小刻みに震えながら電子音を鳴らす。聞き慣れたその音は電話を着信した音だ。
「悪い、電話出る」
 有沢へ軽く頭を下げてからスマートフォンを取る。液晶画面に表示されていた名前は、幼い頃からの付き合いになる男だった。
『なんでまたいないんだよ』
 通話が繋がってすぐに本題を切りだす男を、南野は一人しか知らない。――朝倉は、またいつものように南野の家を訪ねてきていたらしい。
「……何回も言うけど、ウチにくるなら事前に連絡しとけっつの」
 以前ならば職場に居る時以外は自宅にいた南野だ。朝倉が訪ねてきた時に留守中だった事は一度もなかった。しかし、今は事情が違う。休みの前日は大半を有沢の家に泊まり、例え平日であっても終電ぎりぎりまで家を空けて有沢と共に過ごしている。
『広貴んちに行こうって思いつくのがいつも突然なんだから仕方ないだろ』
 朝倉は拗ねたような口調でそう言って言葉を切る。
「……で、今日は何の用?」
 空いてしまった空白を埋めるかのように南野は先を急かす。隣には有沢も居るこの状況で呑気に長電話を出来る程南野は図太くはない。ちらちらと有沢の方を窺うとわざとらしく視線を逸らしてコーヒーを飲んでいる姿が見えた。
『用って言うか……』
 言葉を選んでいるのか、少し間を開けて朝倉は言葉を紡ぐ。
『楓ちゃんとこ、行ったんだって?』
 松木楓の店に行った事は近いうちに朝倉に伝わるであろう事は予測していた。その昔、松木と朝倉、南野を含めたメンバーでバンドを組んでいたし、朝倉の仕事道具であるギターやその備品は全て松木の店から購入している事もあって、二人は今でも頻繁に連絡を取っていると聞いていた。
「まぁ、これからまたお世話になるかもしれないし」
『歌う気なったんだ』
 頷きかけて、頷いても朝倉には伝わらない事に気付いて「ああ」と、短く答えた。
 南野が音楽を再開するにあたり、朝倉の存在は欠かせないものだ。昔も今も、朝倉のギターがなければ南野は歌えない。――歌おうと思って歌えない事はないが、南野を一番知っているのは朝倉で、同様に朝倉を一番知っているのは南野だ。互いを互いに生かしきれるのは自分しかいないという自負がある。
『……昔使ってた楽譜とか、音源とか持ってきたし、楓ちゃんとかと日程合わせてスタジオの予約とる打ち合わせとかもしたかったんだけど』
 朝倉に言われて南野は視線を彷徨わせた。
 歌うと決めた今、少しでもはやく動きたい。以前、一人で行ったカラオケボックスでは歌えなかったが、後ろに朝倉がいるのならば違うかもしれない。
 今度こそ、歌えるかもしれない。
 そう思えば日程を決めるだけのただの打ち合わせだとしても、一刻も早くしてしまいたい気持ちはある。まるで、遠足の日を待ちきれない幼稚園児のような心境だった。
「……」
 有沢の方を窺い、悩む。朝倉は何も聞いていないふりをして視線を逸らしてはいるが、南野の喋っている事は聞いているのだろう、見詰めているテレビは電源が入っていない。
 朝倉の事に関してはつい先日――付き合い始めて唯一の喧嘩をしたばかりだ。それでも、悩む時間は僅かだった。
「わかった。今から帰るからそこで待ってろ」
 南野がそう言うなり、有沢に視線を注がれるのがわかった。
 有沢の事は大切だと思っている。出来るなら喧嘩も避けたいとは思っている。しかし、それでも――それ以上に自分のやりたい事があった。もう一度歌を歌いたかった。朝倉と一緒に、音楽を奏でたかった。
『……わかった。待ってる』
 朝倉はそう言って、南野が返事をするのも待たず電話を切った。始まりも唐突で、終わりも唐突だった。南野と朝倉の中だからこそ許される関係だった。
 南野も通話を終了させてスマートフォンを耳から離す。横顔には有沢の視線が集中していた。
「……帰るんですか……?」
 有沢の怪訝な表情が降り注ぐ中、南野はそっとそちらを見た。
 有沢とは約束をしたばかりだ。共に映画を見て、見終われば買い物に行く。ほんの数分前までは南野もノリ気だったし、朝倉からの電話さえなければ今もそうだった
「……ちょっと急用できたから、さ……」
 語尾が震えてしまったのは、有沢に立ち込める怒りのオーラを感じ取ったからだ。普段から有沢は感情がわかりやすい。まるで犬のように哀しみも喜びもすぐに表に出てしまう。――だから、今日もその怒りがひしひしと伝わってきた。眉は怪訝に寄せられ、眉間に皺ができている。
「この前の人、ですよね。今日一緒に映画見るって言ったじゃないですか。約束したじゃないですか」
 じろりと睨まれ、背筋が震える。
 いつもよく見る『拗ねている』ではなく、『怒っている』事がよくわかる。
「……埋め合わせは、今度するからさ……」
 南野の方にしたって、有沢と映画を見てはいたかった。しかし――今はそれ以上にしたい事があった。
「埋め合わせって、俺はそんなの求めてるんじゃなくて……!」
 けれど、有沢は声を荒らげて言う。
「あんた、もうちょっと危機感とかないんですか?今から家に帰って、あの人と二人きりになるんですよね?何かされるとか、そういうの意識した事ないんですか?俺との約束を反故にしてあの人に会うために帰りたい理由があるんですか?」
 息継ぎもせずに一気に言われて、その迫力に押し負ける。射抜くようなぎらめく有沢の視線が怖くて、俯いた。
「……っ何かされるって、そんな……俺と朝倉は男同士だし、約束破るのは悪いと思うけど」
「男同士って言っても」
 そこで両手を掴まれて体重をかけられる。有沢と南野では体型も似通っていて、力の差もそこまでないはずだ。それなのに、こうして体重をかけてのしかかられてぐっと顔を近づけられると、動けなくなってしまう。
「俺と南野さんだって男同士じゃないですか。……南野さんがそんなつもりはなくても、俺は心配になります。もしも――こうやって無理矢理抑えつけられたら、どうするんですか?今は抑えつけてるだけですけど、縛られたりして、自由奪われたりしたら、どうするんですか?」
 冷や汗がだらりと背筋を伝う。
 誰かに好きと言ってもらえる事は嬉しい――。なまじ顔がいいだけに、誰かに言い寄られる事は今までの人生の中でたくさんあった。けれど、幼い子供ならいざ知らず、大人になった今では好きだと言う感情はイコールで性欲と結びついてくる。それを、意識しなかったわけではない。それは南野だって同様だったし、付き合いはじめてからは有沢の色欲の目線も度々あった。
「どうするって言っても……、あいつは、そんな事しないし」
「そんなの、どうして言い切れるんですか……?俺は……南野さんの事を信じていないわけではないんです。何かあっても――もし俺以外の誰かに言い寄られたとしても、南野さんならきっと筋は通してくれるって信じています。……でも、こうして力づくで抑えつけられたら、無理矢理にされたら、どうするんですか?」
 有沢の瞳はどこまでも真摯で、怒りに燃えていた。言わんとする事はわかる。もしも逆の立場なら、南野だって有沢と同じ事をしていたかもしれない。
 だが、南野と朝倉はそういった関係には成り得ないはずだ。幼い頃から互いを理解してきた関係で南野は朝倉を信じているし、朝倉も男に欲情する性癖は持ち合わせていないはずだ。
「有沢……?おまえ、さっきから一体何言ってんだよ」
 突き刺さる有沢の視線を誤魔化すように、南野はハハ、と乾いた声で笑った。
「俺は南野さんの事、心配してるんです……!」
 荒らげられた声が部屋に響き、残響を残してしんと静まりかえる。
 抑えつけられた腕がぎりりと痛み、不安と――怒りが沸々とわきあがる。
「だから、朝倉はそんな事しないって言ってんじゃん!お前みたいな人間はどうか知らないけど、朝倉はそんな人間じゃねーよ。人の友達を何だと思ってんの?」
 怒りにのまれてそこまで勢いよく言い切ってから、はっと気付く。
 自分を抑えつける有沢の表情は一瞬ではあるが引き攣り、そこから感情を失っていく。突き刺さるような怒りは影に潜み、ただ無感動な瞳の有沢と睨み合い、互いの腹を探る。
「……じゃあ、好きにすればいいんじゃないですか?」
 腕を解放され、ふっと身体が軽くなる。と、共に有沢は立ち上がり、玄関に向かうとそのままドアを開けた。
「どうぞ帰ってください。帰りたかったんですよね?引き止めて申し訳なかったです」
 ほとんど棒読みのように紡がれる言葉の端々には怒りが滲み出ている。
 怖い、と思う反面――何故そこまで言われなければいけないのかという気持ちもあった。
 朝倉はただの友達だ。かけがえのない親友で、苦楽を共にしてきた仲間だ。その朝倉との関係を下衆に疑われて、気分だって悪い。
 南野は立ち上がり、忘れ物がないかさっと部屋を見渡してから、開かれた玄関の向こうへと歩みを進めた。
 別れの言葉はなかった。



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