溺れる事は簡単で、故に難しい。
第十九話
 南野はシャツとスウェットという、有沢に借りた部屋着に着替えた。汚れたために脱いだ服は有沢の服と一緒に洗濯機で回っている。
 普段有沢が着ている服を着ているという今の現状は少し落ち着かない。借りたシャツは絶えず有沢の香りがして、気恥ずかしいと同時に何故か幸せな気分にもなれる。
「南野さん、泊まっていきますよね?」
 明日の食事の仕込みをしながらキッチンからひょっこりと顔を出した有沢に問われて、南野はこくりと頷いた。服が汚れていなければ帰っていたところだが、それも今は洗濯機の中なのだから仕方がない。夜に干しても明日の朝には乾いているというのが有沢の見解らしい。
 いつもの通り、ソファで手持無沙汰にテレビを見ながら家事をする有沢を待つ。ほとんど毎日来ていてこの状態なのだから、たまには何か手伝いたいとも思うのだがそれは有沢に断られてしまう。――何か頼まれたところで、食事はコンビニ、洗濯はコインランドリー、掃除はしない南野に手伝える家事はないのかもしれない。
 有沢の話に半分、気恥ずかしさを誤魔化すためのテレビに半分使った頭で、南野はワンテンポ遅れて口を開く。
「悪いけど一晩ソファ借りるわ」
 けれど、有沢は目を丸くしたきょとんとした表情で首を傾げた。
「え、ベッドで一緒に寝ましょうよ」
 そう言って腕をあげて指をさす。指の先には有沢のベッド――南野の身長程の高さがあるロフトベッドがあった。
 南野はテレビから視線を逸らし、ロフトベットを見上げた。背の高さがある分、部屋の中で一番の圧迫感を放っている。
「……無理だろ」
 南野は怪訝な表情で有沢を睨みつける。けれど、有沢はその表情の意味を察知できなかったようだ。
「なんでですか?」
 無邪気にそう言うものだから、南野はため息を吐いて説明をする。
「狭いし落ちたら痛いし危ないだろ」
 ロフトベッドは勿論シングルサイズで、成人した男二人が寝られるようなつくりではない。以前に南野宅でシングルベッドを共に使った事もあったが、それは床上三十センチだったからだ。もしも落ちてしまったところで、多少痛い思いをするだけで身体へのダメージはほぼない。
 しかし、百八十センチ近くあるロフトベッドから落ちる事があれば身体へのダメージは避けられないだろう。
「一応柵つけてるじゃないですか」
 有沢の言う通り、寝転べばちょうど腹の辺りにくるであろう辺りに、幅五十センチ、縦十五センチ程の柵は取り付けられてある。
 だが、それだけでは心許なさすぎる。少し寝返りを打てば簡単に乗り越えてしまいそうな不安が過った。
「いや、この柵意味ないだろ。ただでさえ狭いんだから絶対落ちるって」
 それを言うと有沢も腕を組み、ロフトベッドとソファを見比べながら視線を彷徨わせて思案する。ほんの一分程の時間だった。
「んー……じゃあ、床で一緒に寝ましょうよ。フローリングの上に冬用のカーペットと毛布と敷いたらマットレスには負けますけどそれなりに寝られると思いますよ」
 名案、という風に手を打ってにこりと笑む。その尻に尾があればぶんぶんと振っている姿が簡単に浮かぶ。
「……そこまでして一緒に寝たいか……?」
 フローリングの上に二人で寝るスペースを作ろうと思えばそれなりに大仕事になるはずだ。――少なくとも、ベッドとソファに分かれて寝るよりも準備のための労力を使う。
「もちろんですよ!折角南野さんが家に泊まるんですから俺も隣で寝たいです!」
 そう笑う有沢の笑顔は可愛らしく、南野もつられて頬を緩めた。
 無邪気で純粋な笑みは見ているだけで癒される。その笑みにお願い事をされれば、なんでも許してしまいそうな南野がいた。
「俺が手伝える事ある?」
「じゃあテーブルを壁際に立てかけて、二人分の寝られるスペースを開けてもらえます?もうちょっとで仕込み終わるんで、終わったらカーペットとか出しますね」
 シンクを叩く水や、包丁とまな板のぶつかる音に耳を傾けながら南野は作業を開始する。
 いつも食事をするテーブルは重量があり、フローリングの床を傷つけないように壁際に寄せて立てかけるのにはそれなりに気を遣った。
 線の細い体型ではあるが力がないわけではない。言われた通りの位置へテーブルを持っていった後はソファも少しだけ壁の方へ寄せ、二人が足を伸ばして寝られる分だけのスペースを作る。
 テレビではゴールデンタイムと呼ばれる時間も終わり、深夜帯の番組へと移行していた。南野の家にはテレビがないため、有沢と付き合い出す前まではテレビは縁遠い存在だった。それが今では馴染みの深いものへと変わっている。有沢の家ではほとんどの時間テレビが点けっぱなしになっているからだ。
「ありがとうございます。後は俺がやりますね。南野さんはシャワー浴びます?」
 明日の仕込みが終わったのか、エプロンを外した有沢はロフトベッドの下に置いてある衣装ケースの中を漁り、毛足の長いカーペットと手触りの良さそうな毛布を取り出した。
 ソファに座ったままの南野が戸惑った様子で視線を彷徨わせていると、有沢は眉をハの字に曲げて困ったように笑う。
「今日はもう何もしませんよ。バスタオルとかは洗面所に置いてあるんで好きに使ってくださいね」
 そう言って、取り出したカーペットを床に敷きはじめた。
 南野の気にしていた事を見透かされて――羞恥に頬を染める。これではまるで何かを期待している中学生のようだ。有沢と身体を重ねる勇気は、少なくとも自ら誘う勇気はまだない。けれど、心のどこかでその時を待ちわびている自分がいる事もまた確かだった。
 そんな自分を誤魔化すかのようにさっと頭を振り、寝る準備を整える有沢に背を向けて浴室へと向かった。
 温かい水の礫が肌を打つ。反響する水の音は心地良く、一日の汚れを流して明日へと備える。家では石鹸で身体を洗っているのにこの浴室には石鹸はなく、代わりにボディーソープが用意されていた。使い慣れないボディーソープは有沢の香りがした。
 シャワーを浴びていたのはほんの十五分程だろうか。身体を清め終わった南野は洗面所に置いてあったバスタオルで身体中の水分を拭き取っていく。ドライヤーはどこかに仕舞われているのか見渡してもみつからなかったので、軽くタオルドライし、肩にバスタオルをひっかけて部屋へと戻る事にした。
 知らないうちに随分と髪が伸びていたようで前髪は目を覆い隠す程にまでなってしまっていた。そろそろ髪を切りにいかなければいけない。
 部屋へ戻ると、寝る準備はほぼ終わっていた。毛足の長いカーペットの上にふわふわの毛布が敷かれ、有沢のベッドの上にあった枕と薄い掛布が置かれいている。
「おかえりなさい」
 そう微笑む有沢に「ただいま」と答えて用意されていた寝床を跨いでソファへと座る。それと入れ違いに有沢は浴室へと向かっていった。テレビは相変わらず点けっぱなしになっていて、深夜番組独特の空気を放っていた。
 近頃はよく来る有沢の家だったが、ここまで遅くまで家に留まっていたのは初めてだ。終電も終わり、テレビにはいつも見ているゴールデンタイムのような騒がしさはない。部屋の中も、テーブルを片付けて毛布を敷いただけで随分と雰囲気が変わってしまった。見知った有沢の家ではないような気がしてドギマギしてしまう。
 放送されている内容に興味はないが手持ち無沙汰にテレビを見ながら、ソファの上で膝を抱えた。濡れた毛先から水の滴が零れ、有沢に借りたスウェットを濡らす。遠くからはシャワーを使う音も聞こえた。
 どれくらい待った頃だろうか。そろそろ眠気も感じてきた頃に有沢は部屋へと戻ってきた。南野と同様に首からバスタオルをかけ、片手にはドライヤーを持っている。
「……髪、乾かしてあげましょっか」
 南野が頷くより先に有沢は隣に座り、手近なコンセントへドライヤーを繋げた。
「下に座って、俺の脚の間に来てください」
 促されるまま場所を移動すると、頭はちょうど有沢が手の動かしやすい場所へ来る事になる。
 ぶぉん、と煩い程の音が頭上で鳴り、髪に温かい空気があたる。有沢の指は髪を梳いて地肌を撫でる。濡れそぼっていた髪は風に曝されて乾いていき、後ろに感じる男の気配は南野の心に安寧をもたらすのだった。
 誰かと触れ合う事は心地良い。感じる温もりは生きている証で、現実だという証拠だ。
 髪の水分が全て取り除かれれば次は櫛を使って乱れた髪を整えられた。黙っていれば有沢は何でもしてくれる、まるで幼子を相手にする母親のようだ。
「さ、終わりましたよ。俺もすぐ寝る準備するんでちょっと待っててくださいね」
 そう言って有沢は今度は自分の髪にドライヤーをあて始めた。
 そんな有沢を振り返り、ぼんやりと見上げていた南野はふと思い立ち、自身のスマートフォンをとる。
「有沢、充電器借りていい?」
「好きに使ってください」
 有沢の了解を得てから立ち上がり、ロフトベッドの上にある充電器に手を伸ばして充電器と接続する。
 スマートフォンを持ち出すようになって便利にはなったが、充電の持ちの悪さは気になるところだった。今朝も目一杯充電してきたが、今ではもう三十%を切っている。このまま何もせずに眠ってしまえば明日朝には電池切れを起こしている事だろう。例え連絡してくる者もおらず、スマートフォンでしなければならない事もないとしても、電池切れは避けたい事態だった。
 南野よりも髪が短い有沢はその分乾くのも速い。髪を乾かしきった有沢はドライヤーを片付け、床に敷いた毛布の上に来るよう南野を促した。
「もう他にする事ないですか?電気消しちゃっていいですか?」
 頷いた南野は促されるまま移動する。用意された寝床は、布団のサイズに置き換えてみればセミダブル程だろうか。座ってみれば毛布とカーペットは程良くフローリングの硬さを中和していて寝心地は悪くなさそうだ。
 よくよく見てみれば枕も掛布も一つずつしかない。暦の上では秋と呼ばれる季節で、掛布などなくても支障はない。
「じゃあ消しますね」
 その宣言と共に部屋は明かりを失った。南野の左隣りには有沢が座った。目はすぐに慣れて、カーテンの隙間から差し込む月明かりや、家電についているランプの光のおかげで隣の有沢の顔くらいは判別できるようになる。
 ぽんぽん、と枕を叩いた有沢は南野にむかって首を傾げる。
「俺が枕を使って南野さんが腕枕されるのと、南野さんが枕を使って俺に腕枕するのと、どっちがいいですか?」
「ん……?なにそれ、なんで腕枕前提なんだよ」
 どちらかが――この場合は部屋の主である有沢が枕を使用し、南野は枕を使用せずに眠る、という選択をしたかった。
「何のために一緒に寝ると思っているんですか。せっかくなんですからくっついて寝ましょうよ」
 が、有沢はそれを許す気配はない。
「くっついて、暑いし寝辛いだろ……」
 呆れた口調で言う南野をよそに、有沢は南野に枕を押し付けて掛布片手に身体ごとずり寄った。
「ちょっと強めに冷房かけてるんで問題はないです」
 言われてみれば少し肌寒いような気がする。
 胸を張った有沢に、またもや押し流されて――南野は頭の下に枕を敷いて寝転んだ。左腕を伸ばすと二の腕の肩の近い部分に有沢の頭が乗り、足で足を絡めとられた上から掛布がかけられた。
「いや、くっつきすぎだろ」
 シ流石にこの姿勢では寝返りひとつうつ事も出来ない。体温だけでなく、呼吸や脈拍さえも感じ取れる距離だ。シャワーを浴びたばかりの有沢は甘いシャンプーの匂いが漂っている。
「寝付くまでですよ。寝ちゃったらどうなるかわかりませんし」
 そう言われてしまえば南野に反論する気力は残らなかった。元々、有沢には流されやすいのだから仕方がない。
 有沢は顎をあげ、南野の唇に唇を寄せた。
「なに」
「おやすみのちゅう、しましょうよ」
 そう求められて、ほんの刹那迷った南野だったが結局口付けを落とし
「おやすみ」
 と呟く事にした。
 有沢に対している抱いているそれが恋愛感情なのか何なのか、まだ判断はつかない。しかし、有沢の事を可愛いと、大事で手放したくない存在だと思っている事は確かだ。
「……おやすみなさい」
 有沢もそう言って南野の胴に腕を回して口を閉じた。眠る努力をしているらしい。
 有沢に抱きつかれるような形で、南野は暗い天井を見上げた。空いた右手を有沢の肩に遣るかどうか迷って、拳を握った。
 冷える部屋の中で感じる体温は気持ち良い。その気持ち良さに浸っているうちに、いつの間にか微睡みの世界に引きずりこまれていた。  


励みになります!

よければお声も聞かせて頂けると嬉しいです!
おなまえ


ご感想やリクエストなどがあればどうぞ!

レス不要の場合はチェックを入れてください

indexに戻る