溺れる事は簡単で、故に難しい。
第十八話
 有沢の言う通り、マンションを出てしばらく歩いたところにスーパーがあった。二階建ての大型店舗で、一階部分には生鮮食品を取り扱ったスーパー、二階部分には服飾用品を取り扱った店舗という構成で、敷地内には駐車場もあった。
 スーパーについた南野は有沢の姿を探して店内を歩き回る。
 入り口を入ってすぐは野菜や果物、しばらく進むと魚のコーナーへと出る。そして、そこにはスーパーのカゴを抱えた見慣れた男の姿もあった。
 後ろからそっと覗き込むと、鮭の切り身が入ったパックを片手に持ち、他のものと睨むように見比べているところだった。
「有沢、お待たせ」
 南野が声をかけると有沢は振り返り、その姿を確認して頬を弛めた。
「南野さん、わざわざ有り難う御座います」
 そう言って手に持っていたパックをカゴに入れる。カゴの中には既にキャベツやトマトなどの野菜や、牛乳や豆腐なども入っていた。
「鮭かぁ……普段お弁当とかに入ってる塩焼きも美味しいけどさ、この前遊びに来た時に作ってくれたバター焼き?みたいなのも美味しかったよなぁ」
 南野はまるで独り事のように言い、その味を思い出して口内には唾液が溢れた。
「気に入ってもらえました?好きなのとか言ってもらえればまたいつでも作りますよ」
 有沢はおかしそうに肩を揺らして笑い、次のコーナーへと歩む。南野もその有沢と肩を並べて陳列された品々を一緒に眺めた。
 自炊をしない南野にはスーパーは縁遠い存在だ。時折有沢のために米や酒を買いに来る事はあるが、こうして食材を選ぶなんて事は就職してひとりで暮らすようになってから初めてかもしれない。
 着々と必要なものをカゴに放り込んでいく有沢の隣で、南野は、南野には使用用途もわからない調味料、見たこともないインスタント食品など、見ているだけでも楽しいそれを手に取り、どうやって使うものなのかパッケージをまじまじと眺めて読み解いていく。
「なぁなぁ有沢、茶碗蒸しとかって作れる?」
 と、南野が声を出したのは、醤油が陳列されたコーナーでの事だった。醤油だけではなく麺つゆやポン酢なども置かれている。
「茶碗蒸しですか?作れますよ、美味しいですよね。南野さんも好きですか?」
「うん、鶏肉の入ったやつが好き」
 南野の視線の先には白だしがあり、そのパッケージには茶碗蒸しの写真が載っていた。どうやらそれを見て思いついたようだ。
「わかりました。今晩食べます?」
 有沢は南野が見詰める商品を取ると裏に書かれている成分表欄の隣に書いてある茶碗蒸しのレシピを見始めた。
「うーん、食べたい気分なのは気分なんだけど……今欲しいって言ってすぐ作れるもんなの?」
 南野は料理経験が乏しく、茶碗蒸しだけではなく料理全般、作るのにどれくらいの時間がかかるか把握していなかった。
「大丈夫ですよ。茶碗蒸しくらいならいつでも作りますよ」
 そう言って有沢は白だしを棚に戻しながら軽快に笑った。
「じゃあお願いしようかな」
「わかりました。家帰ったらすぐにとりかかりますね」
 近頃、有沢のうまい飯をずっと食べているせいか、以前はただの作業にしか過ぎなかった食事が楽しみで仕方なかった。
 有沢の作る飯を食べる事は決して作業なんかではない。バリエーションも豊富で、今まで南野の口に合わない食事は出た事がなかった。
 今の南野にとって有沢は欠かせない存在である。その隣にいるだけで心が癒され、新たな一歩を踏み出す勇気が湧いてくる。――それだけではなく、有沢と共に食べる飯は、腹だけでなく心も満たしてくれるのだった。
 二人は数人が列を作るレジに並ぶ。一通り必要な食材たちを確保した有沢のカゴは、商品がはみ出す程に満載になっていた。
 レジを担当している店員は手際よく会計を済ませ、あっという間に有沢たちの順番になった。
「有沢、会計は俺がするから」
 商品のバーコードが読み取られる度に会計の合計金額はあがっていく。その数字をぼんやりと眺めながら、南野は財布を取り出した。
「えっ、ダメですよ。俺の家の食材ですし」
「俺だってその食材食ってんだから俺が払う」
 慌てる有沢に対して、南野は有無を言わせない口調で言い切る。
 昼食の弁当を作ってもらうだけでなく、近頃は休みの日や平日だって夕飯を共にする事もある。単純に考えれば材料費は二倍にはなっているはずだ。
「でも、申し訳ないですって」
 それでも有沢は引く事なく南野の支払いを拒むのだ。
 ピ、ピ、とリズムよく電子音をさせて会計を進める店員はカゴに入っていた最後の一つまでバーコードを読み取りきる。液晶画面に表示された金額は、諭吉を一人と少しだった。
 南野は迷わず二枚の諭吉を手渡したが、二人の様子を見て、それを受け取っていいものなのか躊躇している店員に、「それで」と半ば強引に会計を済ませてしまう。
「ちょっ……そんな、本当にいいですって」
「いいから、普段色々してもらってるし、俺にだって何かさせてよ」
 店員からビニール袋と釣り銭をもらった南野は有沢にそう笑ってみせた。
「でも……」
 有沢に甘えるだけでは申し訳ない。南野にはこうして材料費を支払う事くらいしかできる事がなかった。
「俺が払いたいんだから気持よく払わせろよ。有沢の飯、毎日楽しみにしてるんだからこれくらいさせろよな」
 くちごもる有沢にそう言って、南野は商品の詰まったカゴをサッカー台に移動させる。有沢は慌てたようにその後を追い、怖ず怖ずと口を開く。
「……有難うございます!そう言ってもらえると、なんだか凄く嬉しいですね」
 頬をやや紅潮させた有沢は笑みを押し殺したにまにまとした表情でビニール袋をとり、購入した商品をそこに手際良く詰めていく。
 有沢と南野は両手に一つずつ商品がぎっしりと詰まったビニール袋を持ち、帰路についた。行きは一人だった道も、二人で帰ればなぜだか見える景色が違っている気がした。
 有沢の部屋に帰ってきた二人は買ってきたものを片付け、有沢は早速料理へと取り掛かる。着けているエプロンはいつも通り、可愛らしいクマが印刷されたものだった。
 南野は邪魔にならないようソファに座り、ぼんやりとキッチンの方を眺めた。
 もしもあの時――有沢に告白をされたあの日、有沢を受け入れなければ、一体自分はどうなっていたのだろうか。今でもまだあの頃のように自分で塞ぎ込んだ孤独に苛まれ、踏み出す勇気も持てないまま、時を止めた彼女に縋って生きていたのだろうか。
 そんな事をつらつらと考えながら、料理をする男の背中を見つめ続けた。
 ここにいる南野だって、まだ完全に彼女の事を振り切れたわけじゃない。ただ、彼女はもういないという現実を、少しずつではあるが受け入れつつあった。
 受け入れて、踏みだそうとしていた。
「南野さん、お酒は何か飲みます?おかずは茶碗蒸しと秋刀魚の塩焼きがありますけど」
 振り返った有沢に話しかけられ、南野ははっと我に返る。
「有沢も飲むんならそれと同じで、飲まないなら俺も酒はいいや」
「んーと、じゃあ日本酒にしましょうか」
 そう言って再び背を向けた。
 作業台の上を見ればどうやら既に出来上がっているらしく、料理の盛られた皿が見えた。南野は立ち上がり、配膳を手伝う事にする。
 秋刀魚ののった皿や常備菜が盛られた皿、箸やお猪口などをソファの前にあるテーブルまで運んでいく。数少ない南野にも手伝える作業だった。
 有沢はエプロンを外し、用意を整え終えてソファに座った南野の隣に腰を下ろし、一升瓶から互いの猪口に酒を注ぎ合う。
「今日もお疲れ様でした」
 カンと音をたてて猪口をぶつけあい、日本酒を口に含んだ。すっきりとした甘みのある酒の香りが鼻孔に広がる。
「茶碗蒸し楽しみにしてたんだよな」
 嬉しそうに笑みを零す南野は茶碗蒸しの器とスプーンを手に取ると早速口に運び始めた。
 スプーンで掬うとプルプルと小刻みに震える滑らかなそれは口内で蕩けるようだ。ほのかに香る出汁は舌に染み入るように旨味を持っていた。
 待ち望んだ茶碗蒸しは南野の理想通りのもので、口に運ぶ度に思わず笑顔が零れてしまう。
「やっぱ有沢ってすごいよな、茶碗蒸しもすっげーうまい!」
 しっとりと甘みのある鶏肉を飲み込み、酒で喉を潤わす。そんな南野の様子を見て、有沢はそっと微笑んだ。そして、ぽんぽんと南野の髪を撫でた。
「南野さんがそうやって喜んでくれると作り甲斐もあります」
 なぜだかそれがくすぐったくて、南野ははにかんで肩をすくめる。
 有沢と過ごすひと時は、南野にとってかけがえのないものになりつつある。少し前までの南野には彼女の事しか頭になかった。
 想い出は大切で、一欠けらも失いたくないと願っていた。それなのに、彼女の事を想えば想うほど、今ここにはいないという現実を突きつけられる。いっそ忘れてしまえばどれ程楽なのだろうかと、相反する想いを抱えては孤独に闇を見詰めるばかりだった。
 朝起きれば今までの事は全て悪い夢で、隣には彼女がいるのではないかと思った事さえある。現実が全て夢なら、と望む事は、即ち自己の否定である。昼間、普通を装って生きている己を、夜毎否定しては行き場のない想いに枕を濡らした。
 想い人にもう手は届かない。
 いくら望もうと、祈ろうと、どれだけ泣き喚いても失った命はもう二度と戻る事はない。
 彼女を失ってから数年間、南野はそうして生きてきたのだ。
 それが――この一ヶ月程で随分と変わった。
 南野の心に潜んでいた暗闇は、有沢が照らした事で大部分が姿を消した。
 過去に囚われたままだった心を、有沢が今目の前にある現実へと目を向けさせた。
 有沢の腕に縋りながらでも、自分の足で歩きたいと思った。
 彼女と過ごした過去は何事にも代えがたいもので、もしもまだ彼女が生きていたとするならば、南野は間違いなく有沢ではなく彼女を選ぶだろう。その想いは今も変わる事はない。
 けれど、彼女はもうここには存在しない。もう進まない時の中で、未来永劫眠っている。
 そして、南野はもう彼女と時間を共に過ごす事はできない。自らの足で歩き、進みゆく時の中を歩まねばならない。生きとし生けるものは皆等しくいつか時を止める。その日まで歩み続けなければならない。
 そうして歩むのは、有沢の隣でありたいと思っていた。
 食事を終えた有沢はテーブルを片付け、南野と二人でテレビを眺めながらソファに座っていた。
 身体を寄せ合い、互いの匂いや体温を感じながらまったりと過ごすこの時間を南野は気に入っている。感じる体温は生きている証だ。ここが現実である証で、孤独ではない証だった。
 南野は有沢の肩に頭をのせ、繋いだ手の指を絡める。
「テレビ、つまんないですか?」
 有沢は首を傾げて南野の方を見た。南野は緩やかに首を振り、むずがる子供のようにその肩に頭をぐりぐりと押し付ける。
「南野さん……?」
 戸惑いながらも肩に手をまわして抱き寄せる。それに南野が逆らう事もなく、身体を有沢に預けた。
 まだ困惑に眉を寄せている有沢の唇を奪い、口内に舌を侵入させる。抵抗があったのはほんの一瞬の事だった。
「ん……」
 有沢は僅かに吐息をもらし、南野の舌を受け入れた。
 ぬめる舌を絡み合わせ、思うままに有沢を貪る。有沢の粘膜を擦り、そして己も擦られる。たったそれだけの刺激で興奮は加速していく。
 有沢の膝の上に乗っかるように体勢を変え、なおも深く口腔を侵略していく。絡む舌は有沢の高ぶりを教えてくれる。時折抑え込みきれなかった甘い声が漏れた。
 有沢の舌に上顎を撫でられると、電流のような何かが背筋をぞくぞくと這っていった。体内で熱が燻り始めるのを感じる。そして、それは有沢も同じようだ。
 背にまわった有沢の腕はシャツの上から何度も南野の背や脇腹を撫で、そのくすぐったさが余計に色欲を煽るのだ。
「ありさ、わ……」
 荒れ始めた吐息で恋人の名を呼ぶ。離れた唇からは唾液がつうっと糸を引き、やがて自重に耐え切れず切れ落ちた。
「南野さんの、大きくなってますね。南野さんからサカってくれるなんて嬉しい……」
 有沢は視線を下に遣り、濡れた唇で笑う。有沢の言う通り南野のジーンズの股間は張りつめはじめていた。
「そういう事、恥ずかしいから言うなよな」
 僅かに頬を膨らませて目の前の恋人を睨む。後ろからはテレビの中で顔だけはよく知っている有名人たちの笑い声が聞こえている。
 有沢は喉の奥で笑い、南野の腰の後ろで手を組んで抱き寄せる。
「可愛くて素敵ですよ」
 優しげな口調で目を見詰めながら言われて、鼓動が飛び跳ねた。頬がやたら熱くて、羞恥でそっと目を逸らす事しかできなかった。
 目を逸らした先、有沢の下腹では南野と同じように昂ぶっているモノがある。南野はおずおずとそこに手を伸ばす。緊張して動きの鈍い指先でベルトを外してジッパーを下ろす。下着の隙間から熱い塊を引き出すと、それは己を主張するように天を突いていた。
「触り合いっこしましょうか」
 にやにやと厭らしく頬を緩めた有沢は南野の返事も待たずに己がされたのと同じようにしてペニスを取り出す。
 手のひらに感じる有沢の温度を感じて、自身の男根が脈打った。
 手に握った男の証は熱く、張り出したカリはまるで凶器のように主張している。人差し指と親指で輪を作り、その男根の根元から先端に向けて扱きあげる。その動きと連動するかのように自身のペニスも責め立てられる。
「んっ……」
 押し殺した吐息が漏れた。
 ただ手で扱かれているだけのはずなのに、自慰で得られるものとは全く別の快感が身体を駆け巡る。ペニスを擦られる度にぞくぞくと腰が痺れるような感覚が押し寄せてくる。それは手先や足先、脳髄にまでまわって思考を侵食し、やがて快感の事だけしか考えられなくなってしまう。
 快感を得るために――快感を与える。自分が触る事になるなんてほんの少し前までは考えられなかった自分以外の男性器を擦りたてた。
 有沢のペニスの先端からは先走りの液体が滲みはじめ、それは南野も同様だった。溢れてくる液体を亀頭に塗り込めるようにすると、有沢の腰がびくびくと揺れる。
「はぁっ……」
 熱い吐息をもらし、ふと有沢の顔を見た。興奮によって頬を赤く染めて瞳は僅かに潤み、先程よりも呼吸は荒く絶頂が近いのだとわかる。
 眉を寄せ、切なげに瞼を伏せて快楽に浸るその表情は酷く妖艶で――色欲をそそる。まさか、自分が男の感じる顔を見て興奮する日はくるとは思ってもいなかった。
「有沢っ……イきそっ……!」
 限界はすぐそこにある。手を伸ばせば届く絶頂を引き寄せ、そして与える。
 最後のとどめとばかりに手をより一層激しく動かしながら、放出の瞬間を迎えた。腰の奥で渦巻くマグマが身体を巡ってそこから噴き出す。精道を流れる液体は身体が蕩けてしまいそうな程の快感を残していく。快楽の波に攫われ、溺れる。
 じんじんと痺れるような余韻が身を包み、自身の服が汚れる事も厭わない。
 そしてそれから少し遅れて有沢も白濁の液体を吐き出した。
 二人分の快楽の証は互いの手と服を汚し、独特の香りを放った。
 そのままの姿勢で互いに余韻に浸り、乱れた呼吸も落ち着いた頃、有沢と南野は目を見合わせた。
「……服、洗濯しましょっか」
 


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