溺れる事は簡単で、故に難しい。
第十七話
 熱々のホットケーキにバニラアイスをのせると、バニラアイスはこんがりときつね色の焼き色がついたそれに染み入るように溶ける。それが見えなくなる程に上からホットケーキをトッピングし、格子状にチョコシロップをかけてトッピングは出来上がりだ。
 ふと隣を見ると有沢の笑顔が引き攣っていた。
「……なに」
 生クリームのついたフォークをぺろりと舐め、そちらを睨む。行儀が悪いとはわかっているが、有沢しか見ていないのだから気にはならなかった。生クリームの甘さが舌から広がり、脳髄をじんと痺れさせる。
「いや……さすがにかけすぎっていうか、それじゃホットケーキの生クリームトッピングじゃなくて生クリームのホットケーキ添えみたいな感じじゃないですか」
 言われて、改めて自分の皿を見てみる。有沢の皿の方はホットケーキの生地にちょこんとのったスプーン一杯ほどの生クリームとバニラアイスが可愛らしい。それなのに南野の皿の方は、ホットケーキどころか皿も見えなくなるほどに生クリームが山盛りになっている。これがもしも、どちらの方が美味そうに見えるか、という勝負なら南野は戦場にもあがれず敗退していたところだ。
「んー……そうか、……な?でも、ホットケーキも好きだけど生クリームも好きだし」
 口篭ったのは、有沢からの指摘を否定できなかったからだ。盛り付けのセンスが自分に備わっていない事など昔から知っている。自分で食べるだけならば気にはしない――とは言えど、隣に品の良いものを並べられては気になってしまう。
「南野さんって今は大丈夫でもそのうち糖尿とかなりそうで心配です」
 至極真面目な、深刻な表情で言われては南野も開き直るしかないだろう。
 そろそろ三十路も手に届く程に近付いていて、有沢の言葉も現実味のあるものだ。
「俺は太く短く生きるからいーんだよ」
 そう強く言いきって南野は皿に向き合ってナイフをとり、ホットケーキを切り分け始める。
 隣からは小さなため息に続いて、手が伸びてきた。南野が怯む間もなくその手は頭をぽんぽん、と撫でる。
「たまには贅沢するのもいいですけど、普段の食生活は俺が面倒見て長生きさせてあげますからね」
 そう言って、有沢も自身の皿に盛られたホットケーキを食べ始める。
 有沢はブラックコーヒーと、南野にはカフェオレが用意されていた。
――この先も、有沢がいる。
 約束された未来なんてない事を南野は知っている。人は酷く脆く、命なんて風が吹けば飛んでしまう程度のものでしかない。
 有沢と一緒にいる時間は楽しかった。けれど、想像してしまう。
 いつか、彼女のように突然いなくなってしまうのではないか、と。
 その時、自分は今度こそ立ち直れないのではないだろうか、と心配になってしまう。
 いつか失ってしまうのならば、はじめから持たない方がいくらかマシだった。
 潰える希望などいらない。希望を知らなければ、絶望を知る事もないはずだった。



 一週間ぶりにやってた休日を、南野は久しぶりに一人で過ごしていた。ここ最近は有沢と時間を共に過ごす事も多く、自宅ならばともかく、こうして外出しているのに一人は久しぶりだった。
 爽やかな青空が広がる秋晴れの日、南野は空の見えないカラオケルームにいた。
 つい先週までに比べれば気温は下がり、暖かい太陽と少し冷たい風が心地良い季節になった。
 カラオケルームに設置されたスピーカーからは絶えず音楽が鳴り響いている。液晶画面のついたリモコンを操作し、何年も前に流行した曲をいれた。もう何度も、飽きる程に歌った曲だった。
 歌って、みようと思った。いつか忘れた歌声を取り戻してみたいと思った。
 イントロが流れ曲が始まる。大きなディスプレイの中には歌詞が映し出されていた。
 深呼吸をして、その歌詞に合わせて声を出す。
 けれど、声はでなかった。
 久しぶりで声帯が硬くなっていた事もあるが、それよりも緊張と――抵抗感に阻まれてしまう。
 ここで進まなければいけない、踏み出せなかった一歩を踏み出さなければいけない。そうわかっていたから、無理矢理に声を出し、言葉を紡ぐ。――酷い有様だった。音程もリズムも滅茶苦茶で、それはとても歌と言えるようなものではない。
 いつか、出来る事ならもう一度朝倉と音楽をしてみたかった。音楽で食べていく事はできなくても、歌い続けていたかった。
 けれど、今の状態ではとてもではないが実現できそうにない。
 南野はため息を一つ吐き、ぼんやりと画面を見詰めた。画面の中では売出し中のアーティストたちの曲が次から次へと流れている。あんなに心地良かったはずの音楽が、今では煩く感じられるのは何故だろうか。
 歌いたいと願えば願う程、歌えなくなってしまいそうな気分だった。
 時間制の料金を払っているのに、南野はその時間の経過を待つ事なく部屋を出た。実質の滞在時間は三十分にも満ちていない。
 外に出ると涼やかな風が身体を包んだ。その風にはどこからかやってくるほんのりと甘酸っぱい秋の香りが混じっていた。
 秋の訪れた街は、夏と景色を変える。色付いた葉が辺りに散り、やがてくる冬に備えて衣を変えた人々が溢れる。幾人もの知らない人たちを追い越し、すれ違い、南野は一人で歩く。
 目的の場所は、その昔は何度も通った懐かしい場所だった。
 街の真ん中に通る一番大きな通りから一本外れた裏路地に入る。高い建物に囲まれたその路地は昼間だと言うのに薄暗く、執拗な湿気でむせ返るようだ。
 込み上げる郷愁と緊張に胸を高鳴らせながら路地に立ち並ぶ店を眺める。そのほとんどはシャッターが落ちているものばかりだ。
 南野の目的の店は路地の一番奥まった突き当りにある店だった。そこに辿り着いた南野は足を止め、店の扉を眺める。
 シャッターこそ落ちてはいないものの、店内の明かりはついていないし、人気もない。看板も風雨に曝されて色あせている。一見すれば潰れているのかとすら思えるその店だったが――五年前の南野の記憶にある姿と寸分の狂いないその姿は、店が営業中である事を示している。
 南野はぎゅっと拳を握ると足を踏み出し、店の扉をあけた。店内は六畳程の広さだろうか。レジの向こう側は暖簾で仕切られていて見えないが、店員の待機室になっている事は容易に想像ができる。
 カラン、と扉につけられた鈴が鳴り、しばしの間があってからばたばたと足音をさせて奥の方から人が出てくる。
 店内はところせましと様々なギターが並べられ、壁際に設置された棚には弦をはじめとした様々なパーツが乱雑に置かれていた。
「いらっしゃ……あ!」
 奥から出てきた店員は南野もよく見知った顔で――五年ぶりだと言うのに、その店員も一目で南野の事を判別できたようだ。
「……久しぶり」
 南野は肩を竦め、軽く会釈をした。
 懐かしい顔は、何一つ変わらない。癖のない髪を少し長めに伸ばした髪型も変わっていない。線の細い身体に柔和な顔つきはよく女性的だと評されていた。けれど、その性格は決して女性的とは言えない。
「広貴(こうき)……!来るなら連絡してくれればいいのに」
 男は笑って南野に駆け寄る。身長は南野より少し低い。
「急に思いついて立ち寄ったから……。開いててよかったよ」
「思いついて……なんて、珍しい。今日はもうそろそろ閉めようかと思ってたところだよ」
 そう言って男は店内を見渡す。床には砂埃が溢れていて乱雑な印象は否めないが、店内に置かれているギターたちにだけは塵一つ積もっていない。
「相変わらず、真面目に営業してないのな」
 懐かしさは何も変わらない。南野は声を出して笑う。
 この店の営業時間は目の前の男――松木楓の気分次第だ。
「まあね。最近は新規のお客さんも随分減ったから、誰かくる時にだけ連絡もらって開けとく、みたいな事の方が多いんだよ」
 楽器店ではあるが取り扱っているものはギターだけ、時折気まぐれにリコーダーなども入荷してみるがこの立地のこの店にリコーダーを求めてくる客などおらず、当然売れる事もなく、松木の玩具と化している。
 元々、趣味でやっている店なのだ。主な収入源は店の奥でやっている在宅ワークで、店の方の収入はあてにしていないどころか毎月赤字を叩きだしている。
 ギターを買うだけならばわざわざここに来る必要はない。街の中心部にはもっと清潔で、ギター以外にも様々な楽器を取りそろえた大型の楽器店がある。それでも南野や――朝倉もギターを買う時には必ずここに来ていた。
「広貴はなに、ギター買いにきたの?」
 松木に問われ、南野は頷いた。
「音楽、もっかい始めようかな、って思って」
「……そっか」
 緊張した面持ちで言うと、松木も神妙な顔つきで頷いた。
 南野が音楽をやめた経緯は松木も知っている。だからこそ――突っ込んだコメントはしないのであろう。その昔、朝倉と共に一緒に音を奏で、南野の気質をよく知る仲間だからこその対応だ。
 ちなみに、ギター専門店を経営している松木が担当している楽器はベースだった。女性的なルックスと、それに相反するようなアグレッシヴな演奏は数多くの人を魅了し、南野も魅了された人間のうちの一人だ。確固たる意志を持って響く重低音は、松木の意志そのもののようだった。
「お前と一緒にステージに立てる日を楽しみにしてる」
 こうして朝倉以外の旧友と話をするのは随分と久しぶりだ。
 五年という月日を経過して変わったものもたくさんある中、こうして変わらず受け入れてもらえるのは心底嬉しい。いつか志を共にした者だからこそ――逃げた南野を受け入れられない者もいるはずだ。自ら手放した居場所を再び求める事に嫌悪感を感じる人間だっているはずだ。
 それでも、朝倉や松木がいれば――もう一度歌う事が出来ると思った。彼女のためではなく、自分のために歌える日を迎えたかった。
 松木と南野は会えなかった時を埋めるかのように雑談を交わす。数時間は話し込んでいて、南野が店を出る頃にはすっかり日が暮れていたというのに、来客は一人としてこなかった。
 松木は「趣味だからお客さんはいらないんだよ」とは言うが、それでは経営の方だって心配になる。
 本業の在宅ワークはデザイン稼業らしく、南野と近しい分野の仕事だ。その収入で店の赤字を埋められると言うのだから羨ましい話だった。
――音楽を再開する。
 そう宣言したけれど、いまだ歌うことは出来ていない。
 退路を失くし、無理矢理にでも進んで行きたかった。
 店を後にした南野は自宅には帰らず、有沢の家へと向かった。
 近頃、南野にとって過ごしやすい場所は自宅ではなく有沢の家になりつつあった。自宅にいるとどうしても足が動かなくなる。変わりたいと願っているに、過去へ縋りたい自分がいるのもまた事実だった。
 これから進む事に、彼女を置いて一人で変わっていく事に、少なからずの抵抗感と、罪悪感がある。自宅にいるとその罪悪感に負けてしまいそうになるのだ。有沢への感情よりも、彼女への感情の方が勝ってしまう。
 失くしたものはもう戻る事はない。一度崩れたものは、もう二度と同じ形を築く事はない。それを理解していても――懐かしかったあの場所へ帰りたくなってしまう。
 けれど、今更有沢から離れる事もできない。戸惑いと焦燥は、南野に絶え間のない変化を求める。今のどっちつかずな立ち位置では有沢に対しても彼女に対しても不誠実になってしまう。だから、一刻もはやくその足で踏みだしたいと、そう願っていた。
 有沢の家についた南野は、いつものようにドアノブに手をかけてみるが、珍しく鍵がかかっていたようでびくともしない。それならば、と、ドアの横にあるインターフォンを押してみたが、いくら待っても反応はない。
 南野は首を傾げてスマートフォンを開き、有沢に電話をかける。
 呼び出し音は数度響き、通話が開始される。
『はい』
 と、出た有沢はどこかに外出しているのだろうか。後ろには騒がしい喧騒と何かの音楽が渦巻いていた。
『有沢?お前今どこにいんの?家の前で待ってるんだけど』
 南野が言うと、有沢の方から何かごそごそと音が聞こえた。
『えっ……!すみません、俺時間見間違えてました……!南野さんが来るのは一時間後だと思って、今スーパーにきてます……』
 今の音は、どうやら有沢が通話中のスマートフォンを操作しメールを確認した音だったらしい。そして、何かの音楽と喧騒はスーパーのアナウンスだったようだ。先程からずっとうるさく鳴り響いているそれをよく聞けば、本日の特売告知だった。
『スーパー?ってどこの?迎えにいこっか?』
『迎えって、大丈夫ですよ!すぐ帰りますんで!』
 南野が言うと、有沢は慌てた風に返事をした。その様子に南野は一人肩を揺らす。
『いいよ、買うものがあるからスーパー行ったんだろ?いいよ、ゆっくり買い物してくれて。俺も荷物持ちするしたくさん買い物すればいいじゃん』
 そもそも、突然押しかけたのは南野なのだ。休みの日は欠かさず有沢の家に通い、有沢の時間を奪ってしまっている自覚はある。何か手伝える事があれば手伝いたいと思っていた。
『えー……それはすごく有り難いんですけど……』
『で、どこのスーパー?』
 口ごもる有沢に、南野は畳み込むように言う。基本的に、有沢は押しに弱いところがある。南野が強気に出ればそれ以上逆らう事はない。
『……家のマンションを出て、家の前の道を西に十分歩いたとこです』
 南野の思惑通り有沢はスーパーの場所を言った。
『わかった。すぐ行くから待ってろ』
 南野は電話を切り、有沢がいるはずのスーパーへと向かう事にする。


励みになります!

よければお声も聞かせて頂けると嬉しいです!
おなまえ


ご感想やリクエストなどがあればどうぞ!

レス不要の場合はチェックを入れてください

indexに戻る