溺れる事は簡単で、故に難しい。
第十五話
 このままではいけない。
 だから、藻掻くべきなのだ。後先考えず悪足掻きをして、どうにもならないこの現状から抜け出す努力をすべきなのだ。
 自らの怠慢に浸って周囲に――朝倉や有沢に迷惑をかけている場合ではない。
 それを、朝倉に気付かされた。気付いたからと言ってすぐに決断できたわけではない。
 今のように過去の呪縛に囚われたまま、全てを拒絶して生きていくのは楽だ。己を否定して生きていく事はとても楽で、辛い。
 足掻く事で傷口は更に深くなるかもしれない。それこそ、立ち直れない程までに大きく広がるかもしれない。
 迷って、悩んで――決断した。
 秋が近付いてきたとは言え、まだまだ暑さは残る。仕事を終えて自室に帰ってきた南野は早速冷房の電源を入れた。ネクタイを解いただけのスーツ姿でベッドに横になる。
 スマートフォンを取り出してみるが新着メールはない。今日一日、有沢とは必要最低限の話しかしていない。
 このまま関係を終わらせる事は簡単だ。有沢を傷付けるだけで終わる事は簡単だ。
 変わりたいと望んだはずなのに、結局何も変わる事なく元の場所に戻る事は簡単だ。
 ぐっと唇を噛み締め、覚悟を決める。
 いつまでも有沢に甘えているだけでは、有沢の腕に縋っているだけでは、新しい一歩は踏み出せないのだ。
『話があるから、家に来てほしい 南野』
 昼間は送れなかったメールを送信し、天井を見上げる。勢いで送ってしまったものの緊張で出た手汗によってスマートフォンが濡れてしまうほどだった。
 返信はいつくるのだろうか、それとも返信さえも来ないのだろうか――とドギマギして過ごす時間は二分にも満たなかった。メールを送って間もなく、握りしめたスマートフォンが耳障りな電子音を響かせながら震え、着信を知らせる。
「えっあっ電話……!?」
 てっきり、メールが返ってくるものだと思っていた南野は慌ててボタンを押し、その電話をとった。
『家の場所、知らないんですけど』
 通話を始めて唐突に始まる会話に戸惑いつつも、有沢が話をする気はある事に安堵した。
「駅まできてくれたら迎えに行くから」
 有沢は恐らくどこかの駅にいるであろう事は察する事ができた。声の向こうからは電車の音やアナウンスの音が鳴っていたからだ。
『……わかりました。今電車着たんで、そっちの駅まで十分くらいで着くと思います』
「待ってる」
 そうして二人は電話を切る。
 電車に乗って十分という事は、有沢はまだ会社の最寄駅にいたのだろう。
 もうすぐ有沢が来る、という現実に気付き、南野は部屋を見渡した。
 そもそも置いている物が少ないため、会社のデスクのような悲惨な状況ではない。脱いだまま放置していた服を纏めてスーパーのビニール袋に詰めて部屋の隅にやり、食べ終わったコンビニ飯のゴミたちは燃えるゴミ用の青いビニール袋に纏めて玄関に出す。しばらく碌に掃除もしていなかったため、床の隅には埃が溜まっていて、そこは濡らしたティッシュで簡単に拭った。
 いつもテーブルの上に置いている彼女の写真が目に入った。南野はそれに手を伸ばし、写真立てを伏せ――けれど、再び元に戻す事にした。位置を整え、変わらない笑顔を振りまく彼女に笑んでみる。
 そうこうしているうちに十分はあっという間で、有沢を迎えるために部屋を飛び出してすぐ、有沢から到着したと連絡が入った。
 駅まで歩いて三分、走れば一分程の距離だろうか。その距離を南野は小走りに辿り、有沢を迎えにいく。夜の駅は暗闇にぽかりと浮かぶ孤島のようで、スーツ姿の有沢はその駅の入り口でぼんやりと佇んでいた。
「ごめん、お待たせ」
 軽く肩で息をしながら、南野はやってきた有沢ににこりと笑んだ。
「いえ、そんなに待ってないんで大丈夫ですよ」
 今日、ほとんど私語は交わしていない。少し前までなら当たり前だったはずのそんな会話も今はなぜか飛び上がりたくなる程に嬉しかった。
 南野は有沢を先導して、今出たばかりの自宅へと向かった。
 駅から徒歩三分の五階建てのマンションはもう随分と見飽きたものだったが、その二階にある自宅へこうして誰かを招くなんて朝倉以外には初めてだ。
「ここ、俺の部屋」
 玄関の前で立ち止まり、扉を指さした。二〇三と書かれたその扉に表札は出ていない。鍵を開けて足を踏み入れ、有沢にも入るよう促した。一度片付けたはずなのに、こうして見なおしてみればやや雑さが目立つ。
「お邪魔します」
 有沢はそう言って、南野の自宅へとあがり、あがりこむなりワンルームのその部屋を見回した。
「……本当に何もおいてないんですね……」
 呆気にとられたように口を開けている有沢に、南野は適当に座っていいよ、と言ったところではたと気付く。
「そうだ……帰りにコンビニ寄ってお茶とか買おうと思ってたんだ……うち、飲むものも食べるものも何もなくて」
 有沢を迎えに行く事だけに夢中になってしまってすっかり忘れてしまっていた。
「あー……お構いなく。今はとりあえず何もいらないんで。もしお腹すいたり喉乾いたりしたら後で一緒に行きましょうよ」
 南野に促されたものの、座るべき場所も見当たらず、とりあえず部屋の真ん中でベッドの方を向いて腰を下ろし、あぐらをかいた有沢は困ったように眉を寄せてそう言った。
 南野はそれに従ってもいいものなのかどうか迷いながら、結局有沢の言葉に従う事にしたようだ。
 ギシリ、と音を立ててベッドに腰掛ける。ちょうど有沢の正面に位置する場所だった。
 何から切り出せばいいのか迷って――視線を彷徨わせ、唇を噛み、言葉を紡ぐ。
「……今日の昼ごはんも美味かったよ。どれもよかったけど、中でも焼き鮭が美味かった。……なんか冷めててもふっくらしてて美味しかった」
 本題を切り出せばいいのに、そうして無難なところから入ってしまうのは悪い癖なのだろうか。
「塩麹に漬けたんです。作るのは久しぶりだったんでうまくいくか不安だったんですけど、そう言ってもらえるとやっぱり嬉しいですね」
 有沢は硬さの残るぎこちない笑顔を浮かべた。
 話したい事はそんな事ではない――昼飯の礼を伝えたかったのも話したい事の内に入ると言えば入るが、一番はそれではない。
 南野は口を閉じ、ベッドの脇に置いてあるテーブルへと視線を這わす。普段、食卓としても使っているテーブルで、今は彼女の写真が入った写真立てを置いている。
 南野の視線を追ったのか、有沢もその写真立てを見ていた。
「それ……」
 有沢の言葉に、南野は静かに頷いた。
「うん、俺の好きだった人で――今でも好きな人」
 もう手の届かない存在になってしまったけれど、今でも諦めきれない。
「こういうの、見られるの恥ずかしかったから、有沢は家に呼びたくなかった。……今の恋人は有沢だけど、どっちが好きかって言われたら俺は彼女を選ぶし、まだ完全に有沢に気持ちを切り替えられてなくて、そういうの知られるのが嫌だった」
 彼女の写真を見詰めながら、南野は言った。
「この前電話かけてきた友達は幼馴染で、そういうのも全部知ってたから部屋には入れてた。けど、有沢が勘繰ってるような事はなにひとつないよ」
「それは……わかってます。……俺、勢いばっかりで嫉妬しちゃって、よく考えもせず言っちゃって……。嫉妬してるのが恥ずかしくて、どうやって謝ろうか考えてるうちに謝るタイミング逃しちゃって……本当にすみませんでした……!」
 それは恐らく本心なのだろう。慌てた様子の有沢は勢い余って言葉に詰まりながら、慌てた様子で身を乗り出した。
「そっか、ならよかった」
 南野が笑うと、有沢も頬を緩めた。二人の視線が絡みあう。毎日顔を合わせておきながら、あの日以来こうして目を合わせるのは初めてだった。
 有沢は再び写真を見詰める。変わらない笑顔を振りまく彼女と有沢が対面しているのだと思うと、少しだけ居心地が悪かった。 
「……愛してるんですね」
 南野は静かに頷いた。
「どういうところが好きだったんですか?」
 有沢に問われ、困ったように首を傾げて考え、言葉を選んだ。
「いつだって前向きだったところかな。明るくて、そこにいるだけで周囲が明るくなるような人だった」
 彼女との想い出は、それも幻のようだった。過ぎ去りし日は本当に存在したのかどうかすら危うい。想い出は日を追うごとに脆く儚くなっていく。
 そんな大切な想い出を取り出し、言葉にしていく。
「しっかり者なんだけどおっちょこちょいで、見てて飽きなくて可愛かった」
 自然と、目頭が熱くなってくる。視界が潤み、有沢の表情さえ判別できなくなってしまう。
 記憶の中の彼女はいつまでも色褪せる事がない。移ろう時の中に身をおく南野とは違い、彼女はもう二度と――時を刻まない。
「頭の回転がはやくて、喋ってると楽しかったし、知識も広くて色んな事を教えてもらった」
 最後の方の言葉は、声が震えて不明瞭だった。
 そんな南野に正面から近付いた有沢は膝立ちになり、その頭を抱き寄せた。南野が拒もうとしても腕に強く引き寄せられ、有沢のワイシャツに涙が滲む。
「……南野さんは、素敵な人を好きだったんですね。俺がもしもノンケだったら、南野さんとはライバルになってたかもしれませんね」
 声を押し殺して涙を流す南野の頭を優しく撫でながら、有沢は言葉を紡ぐ。その口調は優しく、穏やかだった。
「そんな素敵な人の次に好いてもらえるなんて、俺って幸せものですね」
 南野の頭を抱いた有沢は、まるで幼子をあやすかのようにゆったりとした口調と手付きで南野の髪を撫で続ける。そうされると、今まで堪えてきたものが全て涙に変わって溢れ出てくるかのようだった。
 有沢の腕に包まれ、有沢の胸に顔を埋める。シャツ越しに感じるのは有沢の体温と匂いだった。傷ついたその心に有沢の優しさがじんわりと浸透する。
 そうして、有沢は南野が落ち着くまでずっと抱き締め続けた。
 大好きだった彼女はもうここにはいない。
 いくら求めて泣いても、もうその手に触れる事すら叶わない。
 今は有沢の体温だけが全てだった。
 どれくらいの時間が経った頃だろうか。ようやく南野の涙がひく頃には、とうに終電の時刻など過ぎてしまっていた。
 有沢の胸から顔をあげた南野の顔を見て、有沢はくすりと笑う。
「南野さん、目が真っ赤になってますよ。冷やしとかないと明日の朝まで残っちゃいます」
 確かに有沢の言う通り瞼が腫れぼったく、鏡を見なくても自分がどんな顔をしているのかわかる。ずっと有沢の胸に顔を埋めていたせいで、部屋の電気が眩しく感じられた。
「冷やすもの……ってうちにないかも……」
 明日の朝も変わらず会社がある。流石に泣いていたとわかる顔で出社するのはできる事ならば避けたい。
「んー……冷蔵庫ないと氷もないんですよねぇ……不便じゃないんですか?」
 有沢は呆れたような声を出して言う。
「隣にコンビニあるし」
 不便だと思わない事もないが、大抵の事はコンビニさえあれば解決するのだ。
「……とりあえず、コンビニ行きましょうか。あと、終電ないんで泊めて欲しいんですけど」
 そこで南野はようやく終電がなくなっていた事に気付く。
「あー……俺、そんな長い間……。あぁ、うん、泊まるのは別にいいけど……」
「大丈夫ですよ、何もしませんって。準備とか何もしてなかったですし」
 南野の言いたい事を察知した有沢は先回りして言うと、よいせ、とベッドに手をついて立ち上がる。
「ペットボトルか缶の飲み物買って、それにタオル巻いて目を冷やしましょう。それとは別に今飲むための飲み物と、南野さんは何か食べます?」
 指折り買う物を言う有沢に続いて、南野も出掛ける用意をする。と、言っても、帰ってきてから服すら脱いでいなかったので財布を持って靴を履くだけだ。
「有沢が何か食うなら食うけど」
「この時間ってホットスナックありますかね?しばらく食べてないんでたまにはジャンクなものも食べたいんですよねー」
 玄関に鍵をかけ、マンションの隣に位置するコンビニを目指す。
 家の隣にコンビニがあると、食べ物に限らず日用品の買い物もついついそこで済ませてしまいがちだ。少し離れれば定価より安くで売る店があるというのに、だ。
 金がもったいない、と思う事もあるが、それ以外の趣味などにまわしている金はゼロなので、毎日コンビニに通っても充分に貯金ができる南野は結局コンビニで買い物を済ませてしまう。
 二十四時間夜中でも煌々と明かりを灯し続けるコンビニに入った二人はそれぞれに目的の商品を探し始めた。
「あれ、食品だけ買うんじゃなかったんだ?」
 ペットボトルと缶ジュース、それにいくつかのパンとスナック菓子を抱えた南野は、衛生用品の棚で佇む有沢の元へと歩み寄る。
「泊まりになっちゃうんで替えの下着と歯ブラシ買っておこうと思って。あ、シャワーも貸してもらえるんですよね?明日、南野さんちから会社行く事になるんでお借りしたいんですけど」
 そう言って有沢は、南野が知らぬ間に手にとっていた買い物カゴへ下着と歯ブラシを入れる。買い物カゴの中には既にジュースとパンが入っていた。
「風呂くらい好きに使えばいいよ。……なんか、急に呼んじゃって挙句終電間に合わないとか、ごめんな」
 有沢に無駄な負担をかけている自覚はある。――優しいから、ついつい甘えてしまう。
「ん?俺と南野さんの仲じゃないですか。気にしてないんで大丈夫ですよ。……明日のお弁当は厳しいんで、昼は一緒にどこか外食にしましょうか」
 有沢のその言葉をきいて、南野は有沢が持つ買い物かごをもぎとった。
「外食に付き合ってやるから、今日の会計は俺に払わせろ」
「えっいや、そんなの意味分かんないですし申し訳ないですって、自分の分は自分で払いますよ……!」
 慌てて買い物かごを取り返そうとする有沢を尻目に、南野は自身が抱えていた商品もそこへ放り込む。
「いいから、いろいろ迷惑かけてた分……こんなので詫びになるとは思ってないけど、俺にできるのはこれくらいしかないから」
 有沢と関係を終わらせるような事にならなくて、心底よかったと思う。
 有沢が自分から離れていく結果であれば、こうして笑っている事もできなかっただろうと思うと、今隣にいる有沢がとても愛しく思える。
 まだ、有沢から与えてもらっている愛をそのまま返す事はできないけれど、できる範囲で何かを返したいと思った。
「えー……じゃあ肉まんも追加していいですか?」
 納得したのかしていないのか、有沢は曖昧な表情をしていたが、思いついたように手を打った。
「えっもう肉まん売ってんの?」
 暦の上では秋ではあるが、まだまだ夏の気配は遠ざかる気配もない。驚いて目を見開くと、有沢がレジの方を指さした。
「ちょうど昨日からだったみたいですね。コンビニの肉まんも美味しいですよね」
 レジの隣にあるショーケースの中にはふわふわの白い皮が特徴的な肉まんたちが並べられている。
「だよな、俺も買おうー。それだけでいい?他に何かあんなら今のうちに入れておけよ」
 軽口を叩きながら会計を済ませ、マンションに戻った南野たちは肉まんを食べて代わる代わるシャワーを浴びた。
 有沢がシャワーを浴びている間、ものの十五分程度だったが買ってきた缶ジュースにタオルを巻いて目を冷やすだけで、腫れは随分ひいたようだ。まだ違和感は残っているが、一目ではわからない程度にはなった。
 シャワーからあがってきた有沢には、パジャマ代わりに南野のシャツとスウェットパンツを渡した。有沢が自分の服を着ているのを見ると、なんだか胸の奥がくすぐったかった。
「泊める……って言ったのはいいけど、どうやって寝るか考えてなかった」
 そして、南野は肝心な事に気付いた。何もない南野の部屋には当然ながら客人用の布団など存在するはずもない。座布団もなければクッションもなかった。
 ちなみに、朝倉が泊まる時は自身で寝袋を持ってくるので寝る場所に困ったことはない。
「どうやって、って、ベッドに二人で寝ればいいんじゃないですか?」
 南野の衣服を着た有沢はベッドにあがり、壁際に寄って、壁を背に横向きになると『おいで』という風に腕を広げる。
「シングルベッドに男二人は無理だろ……」
「抱き合って眠れば大丈夫ですよ。そっちの硬い床の上で寝るより、絶対にこっちの方が幸せになれますよ!」
 そう強く言い切られて、南野は返す言葉を失った。元はと言えば考えなしに動いてしまった自分の責任で、巻き込んでしまった有沢に非があるわけではないのだ。
「……一緒に寝るだけだからな」
「そんな疑り深い目で見なくても大丈夫ですって、本当、俺って信用されてないですよね……」
 しょんぼりと肩を落とす有沢を見て、南野は息を吐き、電気を消してその腕の中へと潜り込む。
 普段は一人で使っているベッドが、男二人分の体重を受けてぎしりと大きく軋んだ。
 有沢に背中から抱かれ、後頭部に吐息を感じる。腕と足を巻きつけられて、まるで抱きまくらにでもなったかのような気分だ。
 有沢は南野の髪をかき分け、耳にキスを落とす。
「南野さん、好きです。愛しています」
 続けざまにそう囁いて――南野は小さく頷いた。
 注がれる愛情は心地良く、温かい。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
 いつか、注がれた分以上の愛を返せるような、そんな予感がした。


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