溺れる事は簡単で、故に難しい。
第十四話
 言い逃れしようもなく、南野に非があるのもわかっている。こうして黙り込んでいるだけでは何も解決しない事もわかっている。
 けれど、打開策が思いつかない事には何も喋れなかった。
 有沢はため息を吐き、何も言わない南野から視線を逸らした。
「……俺が告白した時、南野さんは好きな人がいるって言ってましたよね」
 先程までと同様に不機嫌ではあったが、何かを諦めたような、覇気のないそんな声音だった。
 やはり、有沢らしくない。『有沢らしい』なんてあくまで南野の中のイメージでしかないが、それでも今まで数年間、職場の後輩として見てきた有沢とも、ここ数ヵ月恋人として接してきた有沢とも違う反応だ。
「あ……ああ」
 有沢と付き合いはじめて、およそ数ヵ月経とうとしていた。夏の始まりだった季節は、今ではもう秋の手前まできている。
 その数ヵ月まえの記憶を手繰り寄せ、南野は頷いた。
「あの時、その好きな人は亡くなった彼女さんだって言ってましたけど、本当はその『友達』だったりとかしないんですか」
――瞬間、思考が停止する。
 どこか皮肉めいた口調は、南野の怒りを煽ろうとする意図を感じられるものだ。
 朝倉はあくまで友達でしかない。幼い頃から成長を共にし、どちらかと言えば兄弟にも近いような関係だ。有沢の勘ぐる様な感情は間違っても持ち合わせるはずもない。
「な……そんなわけ、ないだろ」
 有沢とキスする事が出来ても、朝倉とは想像すら出来ない。まさかそんな事を疑われるなんて予想外すぎて、否定する声は困惑していた。
「じゃあどうして、俺は家に呼んでくれないんですか?どうしてここには泊まってくれないんですか?」
 迷うことない率直な声が南野に突き刺さる。
「それは……アイツとは友達で、その……何もないけど、有沢とは友達じゃなくて恋人だし……泊まったりとかはやっぱりまずいかなって……」
「……俺、南野さんが嫌がるような事って何もしてないつもりですよ?なんでそんなに怖がるんですか?嫌だって言ったらそれ以上はしませんし、今までも無理に何かをした事はないつもりです」
 しどろもどろに反論していた言葉も続きを失った。
 それは確かに有沢の言う通りだ。有沢はいつだって優しく、南野を優先してくれていた。
「怖が……ってるわけじゃないけど」
「けど、なんですか?」
 刺さるその口調は詰問するかのような厳しいものだ。
 けど、有沢に全てを曝け出すのが怖いから、家には呼びたくなかった。何もされないとしても、罪悪感に打ちのめされてしまいそうで、有沢の家には泊まりたくなかった。
 しかし、それは言葉に出す事が出来なかった。
「……」
 無言のまま有沢の視線を受け止める。目を見る事が出来ない南野の視線は落ち着きなく床面近くの空中を彷徨った。
 有沢は再び大袈裟な溜息を吐き、ぷいと顔を逸らす。
「……なんか俺一人で舞い上がって、からぶって、なんかバカみたいですよね。あんたにとってはただの友達かもしれないですけど、ゲイである俺からしたら例え同性であっても何かあるんじゃないかって勘ぐっちゃうし、どんな理由があるにせよその人はよくて俺はダメとか言われると嫉妬とかもしちゃいますし」
 その視線はどこか遠くを見ていて、すぐそばにいるはずの有沢が遠かった。
 南野は膝の上でぎゅっと拳を握る。
 南野なりの理由があったとしても、ここまで有沢を傷付けてしまう結果になってしまうだなんて想像もしていなかった。よくよく考えれば朝倉は許容できて有沢は許容できないのはおかしな話なのだ。南野自身がその区分けに明確な理由を持っていようとも、それを説明できなければ理解はできない。
 内に秘めた彼女への想いを吐露する気がなければ、理解は得られない。
 自分の事しか考えられていなかったのだと、改めて痛感する。
「……ごめん」
 南野は静かに呟く。
「なんで、謝るんですか。……すみません。今日はなんか、変な事ばっかり言っちゃってますね、俺。南野さんの事を疑ってたりしてないです。南野さんの事は信じています。……ちょっと嫉妬しちゃっただけなんです」
 有沢はそこで一旦言葉を切り、再び口を開いた。
「すみません。今日は一人になりたい気分です。少し頭冷やしたいです」
 遠回しに帰れ、と言われ、南野は抗う術もなく頷いた。
 そこまで有沢に下手を強いる必要はない。今この場で有沢にきちんと謝らなければいけないのは南野の方だ。それは南野自身、自覚している。
 それでも南野が帰り支度を始めたのは、あわよくばこのまま関係を終わらせられればいいと思ったからだ。
 流されて始まった関係だ。一歩踏み出したいとは思って始めた関係だったが、いつだって有沢に手を引かれるままに進んできていただけだ。自分自身では何一つ歩めていない。
 愛が欲しいと始めた関係で、望み通り愛を注がれているのに、その愛を返す事は出来ていない。
 いつか有沢を傷つけてしまう関係だという事は目に見えてわかっていた。そして、その時が今来ているのだ。
 それならば、いっそこのまま関係を終わらせてしまうのもひとつの選択肢である。
 有沢の隣は心地良く、その手はいつまでも甘えたくなってしまう程に心地良い。けれど、だからこそ。
 関係を終わらせてしまいたかった。
 それと同時に終わらせたくないとも思っていたが、どちらにせよこの場は大人しく去るのが筋であろう、という判断だ。
 流されるままに流された挙句傷つけた南野に決定権はない。
 南野は手早く衣服を整えて荷物を持つと、そのまま真っ直ぐ玄関へと向かった。
「あの、南野さん……!」
 それまでソファに座ったまま、なんの反応も示さなかった有沢は、南野が靴を履きはじめてようやく慌てた様子で玄関までやってきた。
「あの……今すぐに、っていうわけじゃなくて、いつかでいいんですけど」
 靴を履き、有沢の方を向き直る。
「いつか、俺も南野さんちに呼んでくれますか?」
 その表情は、まるで親を失った子犬のようなそれだった。
 放ってはおけない、そんな本能を揺さぶる。
 彼女の事は今でも愛している。いくら忘れたいと願っても、毎夜想いを重ねずにはいられない。
 けれど、付き合い始めてから日を追う毎に有沢も大切な存在へと変化していた。
 守ってくれるから守りたい、愛してくれるから愛したい、与えられるものは、与えかえしたくなる。
 ほんの少しだけ迷って、南野は頬を緩めた。
「ああ」
 結局、有沢の優しさに甘えてしまうのかと自己嫌悪しながら――頷いた。
 彼女の事を忘れる事は出来ないけれど、有沢の傍にはいたかった。
 有沢は先程までとは打って変わっていつものように、とまではいかないが、いくらか笑顔を取り戻したようだ。
「今日は本当にすみませんでした」
 そう言う有沢に見送られ、南野は帰路についた。
 喧嘩、というには少し違うかもしれないが、付き合いはじめてから有沢を怒らせたのはこれがはじめてだった。
 有沢があんな怒り方をするのは少し意外で、けれど、それも有沢らしいと思える。
 電車に揺られ自宅を目指すこの道も、もう慣れたものだ。毎週のように有沢の家に通っている。
 有沢に抱いている情がなにに由来するものなのか、南野ははかりかねていた。恋というには物足りないが、有沢を大切だという想いに変わりはない。
 いつか、有沢を家に招かなければいけない。彼女だけを想い続けてがらんどうの部屋へ、有沢を入れなければいけない。
 有沢を招き入れるだけならば簡単な話だったが――それで有沢に嫌われてしまわないかが心配だった。
 有沢と別れる事も選択肢のひとつだと覚悟していた。別れて、また前と同じように一人きりで孤独に生きていけば、少なくとも有沢を傷つける事はないのだ、と。
 しかし、実際にその時が訪れて――耐えられる自信はない。
 今の南野に、有沢は欠かせない存在だ。
 その有沢を彼女だけで満ちている部屋に招き入れ、その偏執的とも言える想いに引かれてしまわないかが心配だった。
 告白された時、有沢はどんな南野でも受け入れるといった。そして、その言葉にきっと偽りはないのだろうであろう心意気も窺える。けれど、心意気だけでは解決しない現実もまた存在するのだ。
 彼女という支えから離脱しつつある南野にとって、有沢はなくてはならない存在へと変化しつつあった。
 家についた南野は真っ直ぐにベッドへと向かう。
 ベッドの隣のテーブルの上にはいつまでも変わることのない彼女の写真があった。


「おはようございます」
「おはよ」
 次の日、会社で顔を合わせた有沢は昨日あった事など匂わせない普段通りの様子だった。しかし、いつもの――恋人になってからはずっとあった、犬のように纏わりつくような笑顔はなかった。
 公私混同はしない、それは南野の仕事に対する姿勢で、入社してからずっと南野の姿勢を見て育ってきた有沢も、またそうなのであろう。
 始業開始のチャイムで仕事を始める。プライベートで何があろうと、有沢とは共に仕事をしなければいけない。雇われの身であるからにはどうしようもできない事だった。
「南野さん、来週からの案件についてメールで資料送ってますね」
「ああ」
 会話は最低限で、当たり前と言えば当たり前だ。
 それでも、やけに物悲しかった。
 見慣れた英数字を映し出す画面に集中する。何があろうと、仕事をしている間だけは全てを忘れて集中する事ができる。仕事は南野にとって逃げ道とも言える存在だった。
 キーボードを打ついくつもの乾いた音がフロアに響き、それが耳に心地良い。
 時計の針が奏でる一定のリズムが集中力をより増してくれる。
 しかし、時計の針が進むに連れて時間も進んでいく。
 南野の体感では今さっき始業したところだったというのに、気が付けば昼休みになってしまっていた。
「南野さん、今日のお弁当です」
 パーティションから顔を出した有沢はそう言って、南野に一人分の弁当箱を手渡し、また顔を引っ込めた。
「ありがと……」
 今日も弁当を作ってもらえるとは思ってなかったので、戸惑いながら受け取ったが、そこまでだった。
 いつもなら一つのブースに二人で身体を寄せ弁当を食べるのに、いくら待っても有沢が来る事も、誘われる事もなかった。
 南野がそっと隣を窺うと、有沢は既に弁当を食べ始めていて、どころかもうすぐ食べ終わるところだった。
 南野は溜息をひとつ吐くとその弁当を書類で溢れた机の上におき、食事を始める事にした。有沢に昼食を作ってもらうようになってから、初めてひとりで食べる食事だった。
 弁当の中身自体はいつもと変わりのないものだ。白飯に唐揚げ、サラダと昆布巻き、ミニサイズの焼き魚に煮物、そのどれもが南野の知っている味なのに、今日だけは何かが物足りなかった。
「……」
 南野はスマートフォンを取り出し、メールの作成画面を開く。
 宛先を有沢に設定し、本文を作成する。が、その指はいっこうに動く事はない。画面を見詰めたままかたまっている。
 有沢に何かを言うべきだと思った。有沢を自宅に呼べない理由を説明する事ができれば――あるいは、有沢を自宅に誘う事ができれば、また昨日までのような関係に戻れるのではないだろうか、と考えたのだ。
 しかし、その勇気はいまだ湧かない。南野は作りかけたメールを削除した。



 好きな人がいる。忘れられない人がいる。その人は誰よりも、自分よりも大切なかけがえのない存在だった。
 その人を失くし、行き場のなくなった想いは昇華される事なく南野の心に渦巻いたまま、彷徨うだけだ。
 歌う事すらも忘れ、過去の想い出に縋り、繰り返す事のない日々に心を痛める。生きる意味さえも見いだせず、ただ惰性だけで生きていく。
 それが、ここ数年間の南野の生き方だった。
 このままではいけない、と自分自身わかっていても、そんな簡単に切り替えられるわけもない。
 有沢との間に気まずい空気が流れ始めてから数日後、南野はその日も突然訪ねてきた朝倉と自宅で酒を飲み交わしていた。いつもの通り、朝倉がコンビニで酒と肴を買ってきたからだ。南野の自宅には座布団などと言う高尚なものは存在しないので、板張りの床の上に直に腰をおろし、二人でテーブルを囲んでいる。いつもテーブルの上に置いている写真は、ベッドの寄せてある壁の窓際へと移動させた。
 有沢に申し訳ないと想いながら、朝倉を拒む事はしない。有沢は相変わらず毎日弁当を作ってきてくれているが、それ以上交わす会話はなかった。
 いつもなら考えている事がその表情や態度に駄々漏れなせいで、手に取るようにわかる有沢なのに、今回だけは何を考えているのかさっぱりだ。
 寂しい、と思う反面、これでよかったのだと思う。
 結局、南野はいつまでも踏み出せないままなのだ。過去の呪縛に囚われた人間は――過去と共に生きていかねばならない。それに有沢を巻き込む事自体間違っていたのだ。
「なんかさ、俺、別れるかも」
 冷蔵庫がないせいで、南野があけた二本目の缶チューハイは既にぬるくなっていた。口に含んだ液体の化学的な甘さが喉にしみる。
「別れるって……男だっけ?なんで?」
 朝倉は缶ビールを飲みながら、コンビニの唐揚げをつまんでいた。その脇には今二人であけたコンビニ惣菜のゴミを詰めたビニール袋が転がっている。
「んー……簡単に言うと、やっぱ俺には無理だったって事かな」
 ぐっと伸びをし、酒を流し込む。
「無理って何が?男が?」
 朝倉も南野の真似をして酒を呷った。
「んー?男っていうか、さやか以外の人間はダメっぽい」
 有沢を可愛いと思ったり、大切だと思ったりはするけれど、恋愛感情なのかと訊ねられれば首を傾げてしまう。
 今回のこのすれ違いがなくとも、きっといつかは終わる運命だったはずだ。――遅かれ早かれ終わるのならば、さっさと決断を下してしまった方がいい。
 そう思っているのに有沢の料理が食べられなくなるのは残念だと思う事もまだ事実なのだから、自分を嘲笑いたくなってしまう。
「ああ……勃たないもんは仕方ないか」
「へぁっ!?」
 予想外の朝倉の返答に、南野はチューハイを嚥下するのに失敗し、変な声を漏らしたかと思えば激しくむせ始めた。
 本来であれば食道に流れるはずだった液体が気管へと流れ、肺に落ちる前に引っかかった箇所がむず痒く、げほげほと何度も咳き込む。
「広貴(こうき)、大丈夫か……?」
「おまえが変なこと言うからっ……!」
 時間にして数分だろうか、ようやくつっかえていた物を吐き出しきれた南野は涙目で朝倉を睨む。
「変なことって言うか……っつか、そういう事じゃなかったの?」
 きょとんと目を丸める朝倉の視線に、南野は頬を赤らめた。
 有沢に対して情欲を抱くという事を、今まで意識した事はなかった。有沢の家に遊びに行って触れる事もあったけれど、その有沢の性別まで意識した事はない。南野にとって性別は些細な違いでしかなかった。
「そういう事じゃねーよ……」
 まさか朝倉にそういう即物的な発想で突っ込まれるとは思っていなかった南野はがっくりと肩を落として項垂れた。
「勃つ……のはまあともかくとして、やっぱり俺にはさやか以外は愛せないかもしれない」
 好きになれるかもしれない、と思った。有沢は優しく、その隣は心地良い。その腕の中なら、新しい一歩を踏み出せるかと思った。
「女々しい男だねぇ全く」
 真剣な表情の南野に、朝倉は茶化すようにそう言った。
「女々しい自覚はあるさ」
 そして、南野も自嘲するように笑った。
 朝倉はその笑いにのってくるかと思ったがそうはせず、どこか遠くを見詰めて言う。
「……もっかい、お前が歌ってくれるかと思って期待してたんだけど」
 その表情は切なげで、どこまでも哀しげだった。
 南野の心がずきりと痛む。一度ついた切り傷は深く、治る事も知らず膿み続け、今も血を流している。その傷がじくじくと痛み、苦痛を広げる。
 朝倉にそんな表情をさせているのは南野自身にほかならない。
 かつて、一緒に音楽をしていた。今だって一緒に音楽を奏でたいと思っているのは――互いに同じだった。
 それなのに、ずっと拒み続けている。
 歌えない。歌いたくない。歌うと、彼女を思い出すから。歌は彼女のためだけのものだから。
 自分のために拒絶していた。
「……俺だって、歌えるもんなら歌いたいさ」
 小さく呟いたそれは、紛れも無く本心だった。
 歌いたいと願うのに、歌う勇気は湧いてこない。
 歌は、自己表現の手段だ。
 その心に抱いた喜びを、哀しみを、憤りを、全てぶつけて表現するものだ。
 けれど、今の南野に表現したいものは何もない。
 心に渦巻くものは彼女への未練、守れなかった事への後悔、自己嫌悪――そんなものたちが複雑に絡まり集まり苛むのだ。
「なら、何でもいいから歌ってみればいいのに」
 そんな南野の心を知ってから知らずか、朝倉は軽く言う。
「何でもいいからって、そんないい加減な……」
「何でもいいからとりあえず歌ってみれば、何か変わるかもしれないだろ?」
 反論を試みた南野の言葉を遮った朝倉はきっぱりと言い切った。
「いつまでも出来ない出来ないってうだうだ言いながら何もせずにいるよりは、何か行動を起こしてみた方がいいんじゃないか?」
 南野の目を真っ直ぐと見据え、その奥底まで言い聞かせるかのように、言う。
「そっ……それは」
 そうだけど、と言う声は聞き取れない程に小さかった。
 朝倉の言う事が正しいと言うのは、南野もわかっている。理屈で言えばそうに違いない。
 けれど、理屈ではなく感情がそれを許さないのだ。
「さっきの恋人?も、同じだったりとかしないの?愛せないばっか言って、愛してみる努力はしたわけ?」
 朝倉の言葉に、南野は愕然とした。
 言われてみれば、確かに努力はしていなかったように思える。有沢に施される事ばかりに甘えて、自分から何も行動を起こそうとしなかった。
 進みたいと願いながら、自分の足では進もうとしなかった。
「俺……でも、さやか以外には……」
 南野は落ち着きなく視線を彷徨わせる。
「お前さ、本当にそのままでいいのか?」
「シン……」
 朝倉に言われて、南野は顔をあげた。そして下唇を噛んだ。このままでは駄目な事を、自分が一番よく知っている。
 飲んでいたはずの酒は、いっこうにまわる気配がなかった。


励みになります!

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