溺れる事は簡単で、故に難しい。
第十話
 そのベッドの上でいつも有沢が寝ているのだと思うとどこか感慨深いものがある。
 南野は今度は部屋の左端まで移動し本棚に並べられた本を見る。大半は漫画で、南野もタイトルに聞き覚えのある有名な少年向けのものだ。長らく連載しているためファンは大人から子供まで幅広いときく。一巻から最新刊まで順に並べられ、その他にも数種類の漫画たちや、コンピュータープログラムに関する本、料理のレシピ本なども並べられていた。
 当たり前と言えば当たり前だが、部屋には有沢の私物が溢れている。会社では知ることのできなかったプライベートで溢れている。
 数年間共に仕事をしているが、付き合い始めてここ一ヶ月で南野の知らなかった有沢が次から次へと零れ落ちてくる。――隠していた、というわけではないのだろう。多少の二面性は誰でも持ちあわせているものだし、会社に私事を持ち込まないのも当然の事だ。
 有沢の知らない南野がいるのと同様に南野の知らない有沢もいる。
 他の社員が知らない有沢のプライベートの姿に近付く事が出来て少しだけ嬉しかった。
 隣のダイニングキッチンからは絶えずがさごそと物音が続いている。南野は再びソファに深く腰掛けて背もたれに身体を預けた。
 有沢の事を、恋愛感情を伴った目で見られるようになるのかは、いまだ判断がついていなかった。――純粋に可愛いと思う感情は、道端にいる子犬を見て思うそれと同種のものだ。
 それでも、好きになれそうな予感がした。
 今まで散々、数多の人間たちに愛ん紡ごうと誘われながらも、南野はそのどれもを頑なに拒んできた。有沢を受け入れてしまったのは、単なる偶然、断るのにも忍びない話の流れの上での都合だったに過ぎない。
 それなのに、ぬるま湯のように快適のだから戸惑ってしまう。有沢の献身的なまでに注がれる愛は心地よく、いつまでも浸っていたいと思ってしまう。
 愛する事には慣れている。だから、人を愛する者の気持ちはわかるつもりだ。――人に愛される事は慣れていない。一時限りで愛を向けてくる人間はいても、皆南野が拒否した。その昔、最愛の彼女を失くしてからはこうも一途に愛を手向けてくれる人間はいなかった。
 愛される事は心地よい。
 見返りも求めない愛に満たされるのは、ほんの少し優越感にも満ちる。
 ふと旧友の事を思い出す。朝倉と同じく学生時代からの友人で、液体にしか性的欲求を抱けないという奇特な男がいる。彼は愛されるという事を知っているのだろうか。
――しかし、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。
 今はまだよくても、いつか見返りを求められる日が来るのだろう。人間の心はあやふやなもので、気なんて簡単に変わってしまう。――彼女を想い続けると誓った南野の気持ちさえ変わりかけている。
 それでも、足に絡む呪縛はまだ解けない。
 後悔は罪となり、いつまでも南野の心に巣食う。
 興味のない番組を垂れ流すテレビ番組をぼんやりと見詰めながら時間を潰す。本来であれば有沢を手伝おうかなどと声をかけるのが正しいのかもしれないが、残念ながら南野の不器用さ――料理においての不器用さは、自他共認めるものである。
 一人暮らしをしてもう何年も経つのに、フライパンの一つも家に用意していない理由がそれだ。料理において一番重要なのはつまるところセンスという話になるのだろうか。センスと一口に言っても、味付けのセンス、調理方法選択のセンス、盛り付けのセンス、と様々にある。が、南野はそのどれもが下方向に秀でている。決して、手先が不器用なわけではないはずだ。学校の科目で言うなら、同じ家庭科に分類される裁縫もそれなりに出来ていた。
 それなのに、料理だけは壊滅的だった。まだ自分の才能のなさを理解していない頃に何度か料理に手を出したが、そのどれもが失敗に終わっている。塩と砂糖を間違えるなんてものは序の口で、米を炊こうとすれば芯が残り、炒めものをしようとすれば炭を作る。改善を試みた時期もあったがうまくいかず、揚げ物を作ろうとして小火を起こして以来南野はこの先の人生で何があろうと料理にだけは手を出さないと誓ったのだった。
 そんなわけで、南野は慌ただしくダイニングキッチンを行き交う有沢の様子を気にしつつ、テレビを流し見していた。
 テレビを見始めてから一時間程経った頃だっただろうか。こんがりと甘く香ばしい匂いが部屋に漂うようになった。その匂いに気付いた南野は立ち上がり、ダイニングキッチンを覗きこむ。
 ダイニングキッチンには、一人暮らしの部屋にはあまり似つかわしくない大型の冷蔵庫や、同じく家族向けの容量の大きなオーブンレンジなどが置かれている。そのオーブンレンジの中を扉越しに覗いていた有沢は南野を振り返った。
「いいタイミングですね。もう少しで焼き上がりますよ」
 オーブンレンジの中は橙色の光に照らされていて、中心部が僅かに膨らんだ丸型のクッキーが出来上がろうとしている。
「へー!流石有沢!大成功?」
 南野も有沢の隣に並び、その中を覗きこむ。けれど、有沢は困ったように笑うのだ。
「まだですよ。……まぁ、きちんと膨らみましたし、見た目はいい感じだとは思うんですけど、肝心なのは味の方ですからね」
 そうしているうちに設定していた焼き時間が終わったのかオーブンレンジは電子音を立て、動作を終了させた。南野が作業の邪魔にならないよう一歩引くと、有沢は鍋つかみミトンを手に嵌めてオーブンレンジの扉を開けてクッキーを並べた台を半分程取り出す。ミトンを置くとトングと皿を両手に持ち、焼き上げたばかりのクッキーを皿に取っていく。
「味見してみます?」
「うん」
 有沢に訊かれ、間髪入れずに頷いた。
 クッキーはチョコチップクッキーのようで、カフェオレ色の生地にこげ茶色の粒が見え隠れしている。南野は差し出された皿に手を伸ばし、そのクッキーを手にとった。
「あっつ……」
 が、南野の予想外にそのクッキーは熱を持っていて、取ったはずのクッキーはまた皿に落ちてしまった。
「そりゃまあ焼き立てなんで……」
 と、有沢は呆れた様に唇を歪ませる。
「つってもこんな熱いなんて予想外だろ…」
 よくよく考えれば焼き立ての、オーブンから取り出したばかりのクッキーが熱いなんて当然の道理だ。自分の過ちに覚えた羞恥を、悪態をつく事で誤魔化しながら再びクッキーに手を伸ばす。
 今度はクッキーのフチを親指と人差し指の先の方で掴み、熱さを感じる部分は最小限におさえた上で持ちあげる。
「……柔らかい」
 持ちあげると、クッキーはふにゃりとしなった。
「焼き立ては柔らかいみたいですね。冷めると市販のクッキーみたいに硬くなるらしいですよ」
 そう言いながら、有沢は南野と同様にクッキーをとる。
「へぇ、そうなんだ。……じゃあいただきます」
「いただきます」
 バニラの香り漂うクッキーを一口噛る。
 まだまだ熱く、きちんと硬度を身につけていないクッキーは口の中で蕩けるかのようだった。程良い甘みと、時折混じるチョコチップが舌に絡む。
 クッキーを齧りながら不安げな面持ちで様子を窺う有沢に、南野はにこりと笑ってみせた。
「美味しい」
 そして、手に残っていたクッキーを全て口に放り込む。口内に広がる甘さは心地よく、この世の極楽だとさえ思えた。
 安心したのか、有沢も頬を緩める。
「よかったです。お菓子作りって初めてだったんで……。クッキー以外にも色々作ってみますね」
「楽しみにしてる」
 そう言って二枚目のクッキーに手を伸ばしかけたところで、
「ダメですよ。残りはコーヒーとか用意して、あっちの部屋できちんと座って食べます」
 と、手の甲をぱしんと弾かれた。痛いと言う程でもないがじんわりとした痺れが後に残る。
「悪い」
 謝りながらもその表情に反省の色はない。まるで悪戯を仕掛けた子供のように輝いている。――南野がそんな表情をするのは珍しいが、甘い物を目の前にした南野はいつもこんなものだった。
「南野さん、コーヒーと紅茶どっちがいいです?」
 有沢はクッキーを盛った皿を作業台の上に置き、電気式の湯沸かし器に水を汲みながら南野に問う。
「あー……じゃあ紅茶で」
 基本的に甘い物以外には好き嫌いはない。どちらでも構わないがどちらがいいかと問われると迷ってしまう。
「おっけーです。すぐ用意するのであちらで座っててください」
 そう言われて、南野は再びソファへと戻った。それから十分程だろうか。有沢は余っていたクッキー生地をオーブンに入れて二皿目を焼きながら、二人分の温かい紅茶とクッキーを用意してソファへとやってきた。ご丁寧な事にミルクとレモンも添えられている。
「ありがと」
 己の前に置かれた紅茶に砂糖とレモンを入れた。
「有沢は使わねーの?」
「俺はストレートが好きなんです。紅茶だけでのむなら砂糖を入れる事はありますが、今日はクッキーも一緒なんで砂糖はなしで」
 納得したのかしていないのか、南野はふぅん、と曖昧な返事をする。
 テレビに映る番組は変わっていて、今は旅番組が放送されている。今日は日本のとある地方を題材にし、そこの名物である温泉やグルメをまわるといった主旨のものらしい。
「いただきまーす」
 テレビを気にしながらクッキーに手を伸ばす。
 先程よりは随分と冷めていて、有沢の言う通りもう柔らかくはない。噛むとサクサクと咀嚼音がした。先程の柔らかいものも旨かったが、やはりこちらの硬い物の方がクッキーらしく、南野は好きだった。
 のんびりとクッキーを食べながら旅番組を見る休日なんて一体いつ以来だろうか。有沢と付き合い出す前の一人の頃は、休日と言えば寝て過ごすものだと決まっていた。
 無意味に過ぎていくのではない、有意義な時間は、心を確実に満たしていく。
 クッキーを齧って紅茶を啜る。喉を通り抜ける熱い液体はどこか懐かしい。
「旅行かぁ……。いいですね、いつか二人で行きましょうよ」
 テレビを眺めていたのはどうやら南野だけではなかったらしい。
 片手にクッキーを持った有沢の方を見ると、視線が絡んだ。
「りょ、旅行……いいとは思うけど休みとれねーし」
 有給を取ろうと思って取れない事はないだろうが、有沢と南野が二人揃って休めばさすがに業務に支障をきたしてしまう事が予測される。
「暇な時狙って……休みとらずに連休利用して近場とかでもいいですし」
 二人掛けのソファは狭く、一緒に座れば身体も密着する。感じる体温には随分と慣れたが、こうして横を向いて話すと、その視線の近さには落ち着かない。
 距離が近いと――意識してしまう。
 有沢の手が、南野の肩を抱いた。
 どきり、と心臓が跳ね上がる。
 今まで手を繋ぐ事は何度でもあったが、意識的に手以外の場所へ触れられたのは初めてだった。
「……ね?」
 身体の距離が更に近付く。甘えた目線で強請られて、南野は紅茶のカップを両手で抱えたまま、ただ頷く事しか出来なかった。
「そんな緊張しなくてもいいのに」
 肩を抱いていた有沢の腕が滑るように動いて髪を撫で、南野の頬にまわる。
 緊張しなくてもいいと言いながら、それでも身体を離そうとしない有沢に戸惑ってしまう。
 指先は緊張に硬直した南野の頬から唇を往復する。
「あり、さわ……」
 言葉を紡ぎかけた唇に、その人差し指を縦にあてられ、続きを静止される。
 真剣な瞳の有沢の視線が痛いほど突き刺さり、思わず涙目になってしまいそうだった。
 南野だって子供ではない。恋愛経験もそう多くないとは言え、愚鈍なわけでもない。そこまでされれば有沢が何を求めているのかくらいわかる。
 拒む事は簡単だ。手も足も自由で、南野が一言嫌だと言えば有沢はそれ以上無理矢理事を進めはしないだろう。
 南野の頬に手を添えた有沢の唇が近付く。
 このまま受け入れてしまってもいいものなのか――迷いが内を駆け巡る。
 逃げるのならば、今のうちだ。迷っている間にも逃げ場はなくなっていく。
「ん……」
 柔らかく温かい唇が触れる。何度も啄むようにキスを重ねられ、南野はそれらを全て受け入れる。
 有沢は瞳で笑い、南野が手に持ったままの紅茶のカップを奪い、テーブルの上に戻した。それから改めて背に腕を回して抱きかかえられ、再び唇を貪られる。
 今度はより一層情熱的に、舌さえも絡む。
 歯列をなぞり、口腔を侵される。粘膜を這う舌に翻弄されて唾液が混じる。
「ありっ……」
 舌を吸われ、じん、と痺れが走った。
 部屋には絡む舌の奏でる濡れた音が響く。
 南野もいつしか有沢の身体を抱き返していた。腕の中に感じる男の体温をいつまでも感じていたかった。
 自分を抱く腕はどこまでも優しく、思わず縋ってしまいそうになる。心の内なんて全て秘めたまま、有沢の腕に捕らわれてみたかった。それがどれだけ卑怯な事であるかは自覚している。
 しかし、そう願ってしまうくらい、男の腕の中は至福だった。
 誰かとこうして唾液を交換するなんて、彼女以来初めての事だ。束の間の幸せと、彼女への罪悪感が募る。彼女を愛し続けると決めたはずなのに、決めたはずの心は揺らいで動く。
 生きている限り、それは仕方のない事なのだと思う。既に時間を止めてしまった彼女と、流れる時の中を生き続ける南野とでは愛を育む事はできない。南野自身、それはよくわかっている。
 それでも、それなのに。
 罪悪感は募ってしまうのだ。
 心にはまだ彼女がいて、ふと目を閉じれば彼女はまだ現実にいるのではないかとさえ思える。今までの全ては夢で、目を覚ませば隣には彼女がいるのではないかと思える。
 そんな事はあるはずがないとわかっていながら、思ってしまう。
 そして、思う度に己を責める。
 彼女を想いながら有沢を受け入れる己に吐き気さえ覚える。
 触れ合った唇が離れていく。
「……ごちそうさまでした」
 有沢は濡れた唇で笑い、最後にもう一度触れるだけのキスを交わした。
「……お粗末さまでした」
 唇を拭った南野はぷいと顔を背ける。受け入れたのは自分で、有沢に文句を言うつもりはない。ただ、無性に恥ずかしかった。
 視線さえ合わせる事が出来ない程に羞恥が溢れでてきていた。
――まるで、中学生のようだ。
 有沢のリードの賜物であるにしろ、こうして一歩ずつ進んでいける日が再びくるなんて思ってもいなかった。実際のところ、南野が彼女の事を吹っ切れたわけでもないし、実際に進めているのかと問われれば疑問の残るところだが、今まで内に篭もるしかできなかった事を考えれば大きな進歩に違いない。
「パフェ、用意してきますね」
 有沢はそう言い残して立ち上がり、再びダイニングキッチンへと消えた。
 残された南野は少し冷めた紅茶を啜りながらテレビに集中する。
 いつか、彼女以上に有沢を想える日は来るのだろうか。有沢の隣はいつか過ごした幸せだった頃のようだった。


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