溺れる事は簡単で、故に難しい。
第九話
 一人きりの部屋で、有沢の手の温度を思い出す。温かく脈打つそれは生きている証拠だ。
 有沢と別れて帰ってきてから、着替えもせずにベッドに横になり己の手を見つめていた。
 いつか感じたはずの彼女の体温はもう思い出す事もできない。忘れたいと思う反面、何一つ忘れたくないと思う。けれど、思い出は日に日に、崩れるように抜け落ちていく。
「さやか……」
 呟いた名前の行き場はない。
 拳を握り唇を噛みしめる。
 有沢の温もりは確かに心地良く、有沢の隣は居心地が良い。一度知ってしまった自分の方へ向く想いは、意識せずとも感じ取れるくらいに深く強かった。二人でいる時は楽しくて、恐らくそれを幸せと呼ぶのだろう。
 それなのに、有沢と別れてひとりきりになるとこうして罪悪感に押し潰されてしまいそうになる。
 南野の中での一番は、彼女唯一のはずだった。昔も、これからも、それだけは変わらないはずだった。今だって――変わらないはずだ。
 彼女以外の人間に心が動きそうになってしまっている、罪悪感。
 愛を素直に返す事ができない自分へ愛を注いでくれる有沢への、罪悪感。
 押し潰されてしまいそうで、怖くて竦んだ足は一歩を踏み出す事すらできない。
 不安に凍えそうで、触れ合った体温が恋しかった。
 自ら何もしなくても時間は流れていく。それは時に残酷で時に優しい。泣き濡れた夜もやがて過ぎ去り、暖かな太陽に照らされる。平日は会社で有沢の顔を見て楽しいひと時を過ごし、家に帰れば現実から逃避するかのように眠りを貪る。休日は有沢と会ってみたり、会えない時でもメールを交換してみたりする。
 この数年続いた繰り返しの毎日に訪れた変化は新鮮で、南野の心を深く揺さぶるのだ。
 有沢の持ってくる弁当は相変わらず上手く、うっかりするとそれだけで幸せだとさえ思える。胃袋を掴まれるという事がどういう事なのか、知識の上では知っていても実際にはよくわかっていなかった。けれど、今は違う。人間の欲求に基づく部分を手懐けられるという事は、無意識のうちに相手を求めてしまうという事だ。――正しくは、相手の調理したもの、かもしれなかったが、それは些細な違いであろう。
 だから、その日受信したメールにも、南野はすぐに了承の返事をした。
『お菓子を焼く練習がしたいので、よかったら今度の土曜日に家に遊びにきませんか?味見係りをお願いしたいです。うまく出来るかはわかりませんがクッキーを何種類か焼いてみる予定です。 有沢』
 週末までまだ数日時間がある。その日を待ちわびながら南野は好きでも嫌いでもない仕事をこなしていった。
 誰かの家に招かれるのは随分と久しぶりだ。数年前なら彼女の家や朝倉をはじめとした友人の家へ招かれる事もあったが、意図的に友人付き合いを遮断しようとしたため、今ではそんな誘いもこなくなった。――遮断しようとしても出来なかった朝倉というような存在もいるが、それでも以前に比べれば希薄な付き合いだ。
 招待されたのは昼時で、昼食が出ると聞いている。日中は菓子を焼き、太陽が沈む頃合いになったら宅飲みに移行しようという計画だった。――勿論、宅飲みの肴は全て有沢が用意する。対する南野は酒などの飲み物の準備を請け負った。普段昼食を用意してもらっている対価としては、有沢が現金を頑なに拒んだので、米を現物で用意する事で決着がついている。だから、その週末には飲み物の他に米も持っていく予定だ。
 迎えた土曜日、南野は普段の休日のようにだらだらと惰眠を貪る事なく平日と同じような時間に起床すると早めに自宅を出た。有沢の自宅最寄駅周辺は今まで使用した事もなく、あまり詳しくはない。南野は自身の最寄駅前にあるスーパーに立ち寄ると、そこで米十キロとビールや日本酒、チューハイやリキュールと僅かなソフトドリンクを買い込んだ。
 いくつかに分散させているとは言え、重いものばかりを詰め込まれたビニール袋は今にも破れそうだ。南野も男で、それなりの筋力は持ち合わせてはいるが、流石に総重量二十キロを超えるものを持ち歩くのは辛いものがある。それになにより、ビニール袋の持ち手が手のひらに食い込んで酷く痛んだ。
 労力を考えればタクシーを使った方が安くついたかもしれない、と若干の後悔を抱きながら電車を待っている間や、電車内では床に荷物を置いて手をやすめて有沢自宅最寄駅へと辿り着いた。
 複数の瓶が入ったビニール袋を抱え、片手には同じく瓶や缶の入った袋、もう片方には米の袋をぶらさげて待ち合わせ場所に指定されている改札前で柱を背に辺りを見渡した。すると、券売機付近からこちらへと向かってくる有沢と目があった。
「おはようございます!」
「おはよ」
 小走りに南野に駆け寄った有沢は、南野の抱える荷物を見て目を丸くする。
「随分いっぱい買い込んだんですね……。さすがに飲みきれなくないですか」
 有沢が手を差し出すので、手にぶら下げていた飲み物の入った袋を手渡した。三つ持っているうちの一つだとは言え、その一つがなくなった事で随分と身軽になった気分だ。
「有沢が何飲むかわかんなかったから。それに今日飲めなくても一人で飲んでくれてもいいしまた次くる時まで置いておいてくれてもいいし」
 こっちですよ、と有沢が指さす方へと歩き出しながら南野は言った。
 駅から有沢の家までは徒歩五分程だと聞いている。ビニール袋の食い込んだ手は痛み、既に赤い痕がついていたがそれくらいの時間なら耐えられるだろう。
「えへへ、次もあるんですね」
 見上げた有沢の頬はやけに緩んでいて、南野は首を傾げた。
「なに、次はなかったつもりだったんだ?」
 わざとらしく拗ねた口調で言うと有沢は慌てたように首を振る。
「そ、そういう事じゃなくて、そのっ……!南野さんからそんな風に言ってくれるのって、……嬉しいなって」
 頬を赤く染め、途切れ途切れに紡がれる言葉を聞いて思わず口角があがってしまう。
 駅舎を出ると澄み渡った青い空が頭上に広がった。立ち並ぶ木々からはうるさい程の蝉の声が溢れている。ビニール袋に蒸されてじんわりとしみだす汗が少しだけ不快だった。
「お前ってホントかわいいやつだよな」
 肩を竦めて笑みを浮かべると、有沢は驚いたように南野を見た。照れているのか目が合うと落ち着きなく視線を彷徨わせる。
 三つの年の差はあれど単純に恋愛経験というだけなら有沢の方がずっと上のはずだ。それなのに、時折こうして純な反応を見せるのだ。その様子を見て抱く『可愛い』という感情は恐らく幼子を見て抱くものと同等のものなのだろう。成人した男に対しておかしいとも思えるが、そんな感情を抱いてしまうのだから仕方なかった。
 有沢について並んで歩き、駅から続く大通りを真っ直ぐ歩いて三つ目の角を右折し、しばらく歩いたところで有沢は立ち止まる。
「ここです。ここの二階が俺の家です」
 そうして指さす白い外壁のマンションを南野は見上げてから、敷地内へと足を踏み入れる。
 敷地入り口から玄関ホールまでの間は小さな公園のように装飾されていて、木が植えられていたりその木陰にあたるようベンチが設置されていたりした。ベンチの向かい側には駐輪場が置かれ、住人のものと思われる自転車たちが並べられている。
 玄関ホールからマンションに入ると、夏の直射日光があたらないためか冷房がかかっているわけでもないのにひんやりとしていた。集合された郵便受けを越えるとエレベーターホールに出る。そこからエレベーターを呼び出し二階まであがる。その二階の廊下を進んだ突き当りが有沢の部屋だった。
 有沢はボトムのポケットから鍵を取り出してドアを開けて南野を入るよう促した。
「お邪魔します」
 靴を揃えて脱いで部屋にあがりこむとほのかに有沢の香りがした。
「荷物適当に置いて適当に座ってください。お米も有難う御座います」
 玄関をあがってすぐにダイニングキッチンがあり、冷蔵庫をはじめとした料理家電などが並べられている。その奥の部屋には南野の背より少し低い程の高さのベッドがあり、その下には見覚えのあるスーツがかけられ、衣装ケースなども置かれていた。その脇には二人掛けのソファとテーブル、ソファの真正面にはテレビが置かれている。ベッドが置かれている反対側の部屋には腰ほどの高さの本棚が並べられ、本棚の上には時計やオブジェなどが飾られていた。トイレや風呂はダイニングキッチンを挟んでベッドのある部屋からちょうど反対方向にあるようだ。
 南野の部屋より二倍程広いはずなのに置いている物の量が圧倒的に多いせいか少し窮屈に感じる。決して散らかっているわけではなくて、きちんと清掃されているし細部まで整頓しようという意気込みは感じられるがそれよりも物量が増しているためかごちゃついている印象は拭えない――それでも、会社で使っている南野のデスク周りとは比べ物にならないくらい綺麗だ。
 南野はキッチンで作業をする有沢の気配を気にしながらソファへと腰かけた。部屋は程よく冷房が行き届いていて外気で熱された身体を冷ましてくれる。ソファの背後にはベランダがあり、そこから窓ガラスを介して入ってくる太陽光は程よく心地良く温かい。ここで昼寝が出来ればさぞかし快適だろうと想像する事ができる。
「アイスコーヒーと麦茶どっちがいいですか?」
 キッチンの方からひょいと顔を出したら有沢はいつの間にかエプロンをつけていた。ポップな黄色の布に愛らしい熊のプリントが施されたそれは、幼稚園の保育士が着用していてもおかしくないくらいのものだ。
「じゃあ麦茶で」
「おっけーです」
 それから間もなく、有沢は長方形の配膳トレイにどんぶり程の大きな器と茶色い液体で満たされたグラスを二種類、それぞれ二つずつのせて南野の隣へとやってきた。
 目の前のテーブルの上に皿を並べ、自身もエプロンを外してソファへと座る。
 二人掛けのソファに二人で座れば身体の距離は触れてしまいそうなくらいに近い。それでも、今日は前程に緊張する事はなかった。冷房がよく効いているせいか触れ合った肌が鬱陶しいという事もない。
「お昼はそうめんです。お菓子とかの仕込みの方で時間とられちゃって…。夜はもっと気合い入れて作るので期待しててくださいね」
 器には白く艷やかな麺が盛られ、その上には細切りにしたきゅうり、ハム、卵がのせられている。涼やかなガラスのカップには麺つゆが入っていて、同じくガラスのコップには麦茶が入っているようだ。
 有沢が差し出す箸を受け取り、「いただきます」と言ってからそうめんに手を付け始める。
 細い麺の束が喉越しの良く通り抜けて胃に落ちる。
 そうめんと言えば夏の定番ではあるが、自炊をしない南野には食べるチャンスはなかった。近頃ではコンビニでもすぐ食べられるようなそうめんのセットも売っていたりするが、腹持ちなどを考慮するとあまり購入する気は起きなかった。
 だから、南野がそうめんを食べるのは数年ぶりになる。湧き上がるのは懐かしさだろうか。最後に食べたのはまだ実家で暮らしていた頃だ。安寧は永遠に続くと信じて疑わなかった頃だ。
「今日はチョコチップクッキー焼く予定です。うまく焼けるかはわかんないですけど、もしもうまく焼けたらクッキー使ってパフェとかもできる準備してますよ。この前生クリーム好きだって仰ってたんで」
「パフェ!」
 南野は瞳を輝かせて隣の恋人を見詰める。
 クッキーなどの乾いた甘いものも好きだが、それ以上に生クリームやアイスなどの湿り気を帯びた甘いものはもっと好きだ。それらを組み合わせたケーキやパフェなどは至高の食べ物と言っても過言ではない。
「うまく焼けたら、ですよ」
 有沢は眉を寄せて苦笑を零す。
「有沢ならできるって。普段料理うまいしさ」
 そうめんを啜りながら気軽な口調で南野は言う。料理を作るという労力を軽視しているつもりはない。南野自身料理の才能は皆無なのだから純粋に有沢の腕を尊敬していた。
「いつものご飯とお菓子作りはやっぱ違いますよ。今日も本当にうまく焼けるか結構不安ですし」
 そうして話をしながら食べているうちに二人の器はすっかり空っぽになってしまっていた。
「ごちそーさま。そいやのっかってた卵って有沢が焼いたの?」
 目の前で手を合わせて箸をおいた南野は満足したふうにソファの背もたれに背を預けて幸せそうなため息を吐く。
「ええ。スーパーで売ってる錦糸卵でもいいんですけど、自分で焼いた方がおいしい気がして」
 有沢のその意見には南野も同意だった。甘いものを除けば今まで食に興味はなかった――というのは、単純に旨いものを知らなかったからなのかもしれない。
 今日のそうめんの調理方法なんてただ茹でただけのはずだ。それでも食欲以外の何かを満たす充足感は、有沢のそういった細部への拘りのおかげなのだろう。
 南野は目を眇めて言う。
「俺もそう思う。美味しかったよ」
 まるで茹で上がっていく蛸のように見る見るうちに有沢の頬に赤みがさしていく。落ち着きなく視線を彷徨わせエプロンを再び装着すると立ち上がる。
「くっ、クッキー用意してきますねっ」
 頬を紅潮させたまま、有沢は慌ただしく机の上を片付けて台所へと消えていく。南野が思わず頬を緩めてしまう光景だった。
 有沢と付き合い始めてそろそろ一ヶ月程だろうか。
 始めの方こそ、有沢を可愛いと思ってしまう己の心に戸惑いばかりだったが、近頃ではそんな感情にも少し慣れた。
 付き合っている、という実感もようやくではあるが湧いてきたところだった。――とは言え、手を繋ぐ以上のことは何もしていない。時折それ以上のことを望む有沢の意志を感じてはいたが、どのタイミングで許せばいいものなのか迷っていた。
 当初、ステップはゆっくりと宣言していただけに、有沢の方から何かを無理に迫ってくることはない。
 成人した男が恋人と手を繋ぐだけで満足できるはずもない事は、南野自身よくわかっている。そろそろ次の一歩を踏み出してもいい頃合いではないのかと迷いながらも、どう踏み出していいのかわからなかった。それに、踏み出しすぎる事も不安だった。――まだ身体を重ねる覚悟はできていなかった。
「南野さん、これから成形して焼くんで適当に楽にしててくださいね。テレビ見るでもいいし本読むでもいいし、好きなようにしてもらって大丈夫ですよ。あ、スマホの充電器もあるんで適当に使ってください」
 ダイニングキッチンの方からひょいと顔を見せた有沢はどうやら平静を取り戻しているようだ。
 作業はもう開始されているようで、両手には調理用と思われる透明の手袋が嵌められている。
「おっけーなんか適当に過ごしてる」
 南野は返事をし辺りを見回した。テーブルを挟んで真正面にはテレビがあり、左の壁には本棚が、右には低めのロフトベッドがありそこから充電器のコードが足れていた。
 テレビのリモコンはどこかと立ち上がって視線を彷徨わせるとベッドの上――ちょうど枕のあたりでで見え隠れしていた。南野は手を伸ばしてそれを取るとテレビの電源をいれる。途端に、部屋には賑やかな音楽と笑い声が響いた。
 日曜の昼時、芸能界のゴシップニュースを取り扱ったバラエティ番組が流れている。何年も前からずっと放映している番組で、芸能界に興味もなく、家にテレビがない南野でも存在は知っているし、何度か見たこともあるものだ。
 南野はその番組をBGMに、再びベッドの上へと視線を向けた。低めのロフトベッドは、立ち上がった南野顔より少し下ほどの高さで、ベッドの上の全貌も把握できる。
 マットレスには皺なくシーツが敷かれていて、枕にも髪の毛一つついていない。夏用の薄手のかけ布団は足元に位置する場所へ丁寧に折りたたまれて置かれていた。休日も平日も起きた時の掛け布団を跳ね上げたままにしてしまう南野とは大違いだった。
 ベッドの枕元にはコンセントが設置されていて、そこに携帯電話の充電器が挿されている。


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