溺れる事は簡単で、故に難しい。
第七話
 辿り着いたハンバーグ店も立ち並ぶ他の店と同様に数人の行列が出来ていた。有沢は行列の先頭、店の入り口に置いてある用紙に名前を書き、南野を連れて店の前の椅子に座る。
「三十分くらいで順番まわってくるそうですよ」
 隣の椅子に座るよう促されて、南野も足を組んで座った。
 有沢を、利用している。その罪悪感はふとした瞬間に湧き上がり南野の心に黒い雲をまきあげていく。
 それなのに、もっと傷が深くなってしまう前にこの関係を終わらせようと思えないのはなぜだろうか。
「有沢はさ、俺の何が良かったの?」
 混み合った複合施設の中だ。こうしてぼーっと椅子に座っている間にも目の前を何人もの人々が通過していった。そんな場所で訊くような事ではないと思いながらも、訊かずにはいられなかった。
「え……」
 有沢は驚いたように目を見開き、それからすぐに頬を赤く染めた。視線を彷徨わせながら腕を組み、言葉を紡ぐ。
「真面目なところとか、好きですね。誰よりも仕事が出来るっていうのもすごく格好良くて好きです。仕事とプライベートはきっちり分けて公私混同は決してせず、仕事に対してひたむきな姿勢とか憧れます。……気になりだしたきっかけはその辺りですかね」
 有沢はそこで言葉を区切り、南野の方を向いた。そして少し声を潜める。
「ほら、俺は元々ゲイなんで」
 小声で、南野にしか聞こえないような声量だった。
「そうやって気になりだして、南野さんと毎日顔合わせて、いろんなこと話していくうちにいつの間にか好きになってました」
――誰かに一方的な好意を押し付けられる事は慣れている。彼女がまだこの世に存在していた頃から、南野に言い寄る人間は後を絶えなかった。
 けれど、そうして真っ直ぐ一途に想いを寄せてくれた人間は一体どれ程いたのだろうか。
「……俺は、有沢に好いて貰えるような人間じゃないよ」
 自分の価値は自分が一番よく知っている。南野は有沢の輝く瞳に、曖昧に笑んで見せた。
 ひた隠しにしている己の内面を知れば、きっと有沢は離れていってしまう。自分でも嫌になってしまうくらいなのに、有沢に嫌われない理由も見つからなかった。
「そんな事、ないと思いますよ。……なんていうか、俺が知ってる南野さんは仕事中の姿ばっかりでプライベートの南野さんの事はわからないですけど、誰にでもそういう二面性ってありますし、俺だってそうですよ」
「でも俺は」
 遮ろうとした南野の言葉を、有沢は更に遮って無理矢理に言葉を続ける。
「俺はどんな南野さんでも受け入れられる自信があります。……仕事中の姿が格好良いなって思ったのはあくまできっかけです。それから南野さんとたくさん話しているうちに、南野さんの事をもっと知りたくなりました。公私に区別つけるようにしていたとしても、やっぱりある程度は出ちゃうと思うんです。南野さんのふとした仕草や雰囲気だとか――それに、たまにとても哀しい顔をしてるのとか、凄く気になったんです」
 真っ直ぐな瞳に見詰められて、ずきり、と心の奥が痛む。
 会社で哀しい顔をした覚えはなかったが、していないとは言い切れない。彼女はいつだって南野の心を捉えて離さないのだから。
「例え南野さんの過去に何があったとしても、例え南野さんがこの先ホームレスになったとしても、俺は南野さんを嫌いにはならないです。――だから、もっと安心してください。どんな南野さんでも、俺は受け入れます」
 差しのべられた手は温かい。暗闇に差し込む一筋の光を本当に信用していいものなのか――迷ってしまう。
 いくら有沢がそう言っていても、実際はどうなるかなんてわからない。人の心は変わるものだ。変わらない想いなんてどこにもない。いつまでも愛すると彼女に誓ったはずの南野が、有沢に心を動かしかけている今のように。
 世の中に絶対はあり得ない。全てのものはいずれ形を変える運命だ。
 唇を噛み、俯いた。
 本心ではその手を取りたい。照らす光に縋りたい。けれど、彼女の事を考えれば簡単には縋れなかった。
 身体の横でひっそりと拳を握りしめる。手のひらには己の爪が食い込んだ。
 と、その時、ようやくハンバーグ店の順番がまわってきたのか、有沢の名前が呼ばれる。きょろきょろと辺りを見回す店員に、有沢は腰をあげて自分だという事を示す。
「お腹すきましたね」
「……ああ」
 南野は心を覆っていた雲を振り切るかのように頭を振りながら立ち上がり、有沢の後に続いて店内へと足を踏み入れる。板張りの床、壁も同様に板張り調に施されている。椅子やテーブルも全て木製のもので統一されていた。
 土曜日の昼時、店内は喧騒に包まれ、幼子を連れた家族連れやカップルなど様々な人たちで溢れている。その店の最奥、厨房に近い壁際にある二人掛けの席に南野たちは案内された。
 向かい合って座ると、有沢にメニューを差し出される。
「何食べます?俺、この店久しぶりなんで迷ってるんですよね」
 差し出されたメニューを受け取り、それを開く。一番初めのページには期間限定のメニューが載ったページだ。有沢も己でメニューを取りページをめくっている。
 この店はハンバーグ専門店だ。スタンダードなデミグラスソースで仕上げたものや醤油ベースの和風ソースで仕上げたものから、少し趣向を変えてクリームシチューに入れてみたものや、オムライスのように仕上げたものまで幅広い。夏というこの季節の期間限定メニューは、大根おろしと青紫蘇で仕上げたさっぱりタイプのハンバーグだった。
「俺もハンバーグ食べたかっただけでそれ以上は何も考えてなかったな……どれもうまそうだから迷う」
 パラパラとめくりながら言うと、腹がぐうっと音を立ててなる。
 先程までポップコーンを食べていたというのに腹はどうやら空腹のようだ。メニューに並ぶ写真と、周囲の立ち上る香ばし香りに刺激されて口内に唾液が溢れた。
「んー……よし、俺は決めましたよ」
 と、有沢はパタンとメニューを閉じる。
「えーお前さっき迷ってるって言ったじゃん。俺まだ決まってないって」
 軽口を叩きながらもメニューから目を逸らす事はない。
 数あるハンバーグメニューの中から候補を二つまで絞り込み、しばしの逡巡を経て一つに決める。
「決まりました?店員さん呼びますね」
 南野がメニューを閉じるタイミングを見計らい声をかけてきた有沢に、南野は「よろしく」と頷いた。
――相変わらず、よく気がまわるやつだ――。楽と言えば楽だが、有沢に甘えすぎているような気がして少しだけ焦燥感が湧きあがる。
 店員を呼び、それぞれに――有沢は期間限定の大根おろしと青紫蘇、南野はガーリック醤油のハンバーグを注文した。
「南野さんってハンバーグお好きなんですか?」
 店内は満員で店員は忙しなく動いている。注文を伝えた店員の背中を見送りながら、有沢はぽつりと口を開く。
「ん?うん。それなりに好きかも」
「なんですかそれ煮え切らないですね。お弁当のメニューの参考にしたいんでもっと好きなもの教えてくださいよ」
 南野の返事に納得がいかなかったらしい有沢は軽く頬を膨らませ、テーブルの上に肘を置き、身を乗り出すようにした。
「そんな事言われても……基本的に食べる事が好きだから嫌いなものなくて、食べ物なら大体のものは好きだし美味しいし」
 テーブルの上に置かれたコップの水を飲み、首を傾げて思考を巡らせてみるが、特に飛びぬけて好きだと思う食べ物も嫌いだと思う食べ物も思い当らなかった。
「んー……嫌いなものがないっていうのは有り難いんですけど……メニュー決めるのに困りますよね……。とりあえずハンバーグは入れてみますね。会社の電子レンジ使って温めたらお弁当でもそれなりに美味しく食べられると思いますし」
 有沢も南野を真似てコップの水を一口飲んで言う。
 会社の電子レンジは南野たちの部署に置かれているものだ。コンビニなどで飯を調達する社員たちには重宝されている代物である。弁当派である有沢も温めた方が美味しく食べられるメニューの場合は活用していた。
「有沢、料理うまいもんな。期待してるよ」
 南野はにこりと頬を緩める。その言葉に嘘偽りはない。ここ数日、毎日有沢の弁当を食べてその腕を崇めたてる程には信頼していた。
 南野自身、料理は苦手だ。実家にいる頃も、一人暮らしをはじめてからも、自身で料理をする事は一切ない。レシピを見ればそれなりのものは作れるが、そこまでの腕しか備わっていない。自分の好きな味はわかっているがそれを再現する方法が思いつかなかった。それに、一人では買い出しをして調理し、その後片付けまでの労力とつり合いが取れないというのもある。それならばどこか店に食べに行った方が効率は良い。
「そう言ってもらえると嬉しいです……俺、料理くらいしか取り柄ないんで」
 頬を赤らめながら言う有沢は、そう言いながらもどこか嬉しそうだ。有沢が喜ぶと、南野も楽しい気分になれた。
 有沢と話をしている間だけは彼女の事を忘れる事が出来る。時折脳裏を掠め、一人きりになった時には堪えようのない罪悪感にも襲われるけれど、こうして誰かと過ごす事を楽しいと思えるのは随分と久しぶりで、かけがえのない瞬間だった。
 そんな話をしている間に料理は出来上がったようで、店員が南野たちの元へ料理を運んできた。
「お待たせしました」
 茶色の長い髪を一纏めにして後頭部でお団子にした店員はじゅうじゅうと音を立てて肉汁を飛ばす鉄板をそれぞれの前に置き、セットのご飯とサラダも添えた。
「ごゆっくりどうぞ」
 一礼した店員が去るのを見届けてから、二人はフォークとナイフを手に取る。
 芳しい香りは食欲をそそる。二人は「いただきます」と、挨拶もそこそこにハンバーグに手を伸ばし始めた。
 ハンバーグにナイフを入れると程よい弾力を手に感じる。更に押し込んで肉を切ると熱された鉄板に肉汁が広がった。一口サイズに切った肉をフォークでとり、それを口に運ぶ。
 南野の食べているのはガーリック醤油のソースがかかったものだ。にんにくの香りは口内から鼻孔に広がり唾液を誘う。微かに甘みのあるソースは肉によく絡んでいて噛み締める度肉汁が溢れだした。
 チェーン店でありながら、この店のハンバーグはほかの店に比べてやや高めの値段設定となっている。しかし、それも確かな品質のものを提供するには仕方のない事なのだろう。やや高価な分客層は悪くなく、落ち着いて食べる事もできる。――とは言え、今は混み合ったランチ時なのだからそこまで求める事は野暮だろう。
 南野は食べる事は好きだが、味にまで拘る事はそうない。面倒な時は全てコンビニで済ませてしまうし、よほど気分がのらない限り食べ物のために遠出をして外食をする事はない。だから、普段からコンビニや外食が多い南野でも、この店の料理は随分と久しぶりだった。
 ハンバーグとライスを交互に口に運びながら、向かいを見ると、有沢も同じくハンバーグにがっついていた。
 長年仕事をしていて、飲み会や食事会などで一緒に食事をする事や、それに近頃は昼間も一緒に食指をしていたが、こうしてプライベートを共にするのは初めてだ。
 見慣れない私服に身を包み、いつものように――いつもより屈託のない笑顔を振りまく有沢は純粋に可愛いと思える。しかし、それはあくまで年下の後輩に抱くものであって、弟を見るかのような感情だ。恋愛感情では決してないはずだった。
 南野の視線に気付いたのか顔を上げた有沢と視線が絡む。きょとん、とした瞳はそのすぐ後にはにっと柔らかな笑みを湛えた。
「俺の顔に何かついてます?」
 口の中のものを全て飲み込んだ有沢はそう口を開く。何もついていない事などわかっているのだろう。余裕を持った口ぶりがやけに腹立たしい。
「……なんもない」
 誤魔化すようにハンバーグを口に運んで場を濁す。
 そんな南野の様子を有沢は困ったように眉を寄せ、小さく息を吐いた。フォークを手の中で弄び、口を開く。
「そう言えば、この後どうします?」
 言われて、南野も顔を上げた。今日は映画に行こうと思っていただけで、その他の予定は特に考えてきていない。南野には今の所買わなければならないものもないし、見たい場所や行きたい場所もない。一人であればこのまま家に帰るという選択肢を選んでいただろう。
 だが、時刻はまだ昼を少しまわったところだ。これが例えばただの職場の同僚で、たまたま映画を見に来た、というシチュエーションならばこのまま別れてしまうのもありなのだろう。
 しかし、二人はそうではない。
 付き合い初めてまだ間もなく、そんな実感はないと言えど二人は紛れもない恋人同士だ。まだ恋愛感情が持てるかどうかもわからない段階ではあるが恋人同士である事に変わりはない。
 ステップはゆっくり、と有沢に言ったのはつい先日の事だ。恋人同士であれば、このまま行けばいつか身体を重ねるそんな日も来るのだろう。だが、その日はきっと今日ではない。
 有沢は空気の読める男だ。抵抗はなくとも、覚悟のまだ出来ていない南野に無理矢理迫る事もないだろう。――勿論、それは仕事を通して見てきた事に過ぎない。南野が公私を分けているように、有沢も多少なりと公私を分けているはずだ。それを解っていても南野は有沢を信じていた。
 抵抗は、ない。覚悟こそまだ出来てはいなかったが、男同士で肌を合わせる事に拒否感や嫌悪はない。
「どっか行きたいところあるならついて行くけど?」
 南野が言うと有沢は手を組んで唸り始める。
「うーん……」
 今朝はエスコートすると言っていた癖に、気が利くのに相変わらず詰めの甘い有沢だった。
 ひとしきり首を傾げ悩んだ後、有沢はおずおずと言葉を紡ぐ。
「南野さんって、カラオケ嫌いですよね?……俺、そんなデートとかした事なくて、友達と遊びに行くって言っても学生時代の友達ばっかりなんで大体映画と食事とカラオケしか行かないんですよね」
 困ったように眉を寄せ救いを求める子犬のような視線を南野に投げかける。
「嫌いっつか……」
 カラオケが嫌いだと言った事は一度もないはずだ。が、思い当たる事はある。
 時折ある職場の飲み会後に開催される有志を募った二次会という名目の、強制参加カラオケだ。基本的に拒否権はないそれに、南野は嫌々ながらも毎回参加していた。
 しかし、そこで歌った事は一度もない。誰かに勧められようと、例えそれが普段は逆らえない上司であろうとも頑なにマイク権利を固辞し続けるのだ。近頃は皆諦めたのか、部屋の隅でひっそりと手持無沙汰に酒を飲みながら雑談を交わしていても歌を勧められる事はなくなった。
「別に歌うのが嫌なだけだから、有沢が歌いたいんならカラオケでいいよ」
 己の歌を捧げるのは――例えカラオケであろうと彼女だけと決まっている。有沢が恋人であろうと、それだけは譲れない。
――それに、とてもではないが歌なんて歌えない。歌えばきっと、思い出す。あの頃の事を、彼女の事を。
 涙を堪える事は、平静を装う事は、きっと出来ないだろう。
「……少し歌いたい気分です。歌、好きなんで。……じゃあ一時間だけつきあってもらっていいですか?」
 歌が好きだと笑う有沢は眩しかった。
 南野は静かに頷いて途中だった食事を再開させる。
 歌が好きだと素直に言えていた頃が南野にもあった。思い出すのも億劫になる程彼女だけを信じていた世界で、いつかの南野もそうして笑っていたはずだ。
 好きなものを好きだ、と言えていたはずだ。
 それなのに――今は違う。
 歌なんて大嫌いで、もう二度と歌う事はないと、そう言える。
 歌おうとすればする程、脳裏を過ぎるのは彼女の笑顔だ。もう見る事の出来ない笑顔を、触れる事の出来ない体温を、聞く事の出来ない声を、思い出す。


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