溺れる事は簡単で、故に難しい。
第六話
 南野たちの会社は、基本的にカレンダー通りの完全週休二日制だ。無事納期を終えた土曜日、南野は有沢に指示された待ち合わせ場所に来ていた。
 待ち合わせ場所は、会社へ行くのとは正反対の電車に乗った五駅先の駅だ。
 ジーンズに半袖のパーカーを合わせ、ポケットに財布とスマートフォンを突っ込み、駅前にある噴水の前で待つ。
 時刻は午前十一時少し前を指していた。
「あ!南野さんが私服だ……!」
 背後から聞こえたその声に南野は勢いよく振り向くと、そこには頬を赤く染めた有沢が突っ立っていた。
 今日は休日で、会社に行く時のようにスーツを着る必要はどこにもない。だから、当然の如く南野も、勿論有沢だって私服だ。
 有沢はTシャツにジーンズという、いつものカッチリしたスーツ姿とは程遠いラフさだ。
「休日なんだから当たり前だろ。……それに、お前だって私服じゃん」
「それはそうなんですけど……!」
 休日なのだから、私服を着るのは当たり前だ。けれど、普段見ている姿とはどうしても印象が違う。数年間毎日のように顔を合わせていて、今更新しい一面を発見するとは思わなかった。ただ服が違うだけで、その雰囲気はがらりと変わってしまう。そして、そのギャップに驚いているのは何も有沢だけではないのだ。
 頬を染めた有沢は落ち着きなく視線を彷徨わせていたが、やがて思い出したように財布を取り出し、何やら紙切れを取り出して南野に差し出した。
「なにこれ」
 南野はその紙切れを受け取り、まじまじと眺める。
「今日の映画のチケットです。混んで座れないとか嫌なんで先予約とっておきましたよ」
 言われてみればそれは手で切り離せるミシン目のついた映画のチケットだった。
 近頃巷で話題の超大作映画のタイトルが書かれたそれには、席番号と思わしきアルファベットと数字の組み合わせも書かれている。
「へー、有沢って準備いいのな」
 南野が言うと、有沢は胸を張った。
「デートですからね!南野さんをエスコートしなきゃですから」
 胸を張る事で、有沢の視線の位置は少しだけ高くなる。その有沢の目を、ほんの数センチだが下から見上げた。
「じゃあ期待してるよ」
「え、いや……」
 けれど、有沢は焦ったように言葉を詰まらせる。
「期待される程のもんでもないっていうか、期待されると失敗しちゃうっていうか……その、俺、鈍臭いんで……」
 手を顔の前で振る有沢に、先程までの自身満々な様子は最早ない。
「なにそれ。せっかく期待してやってんのにさ」
 南野は茶化すように冗談めかした口調で言い、再びチケットを確認してから己の財布に仕舞いこんだ。
「さ、あんまりダラダラしてても映画始まっちゃうし、そろそろ行こっか」
「あっはい」
 南野の声に慌てた様子の有沢と二人で映画館へと向けて歩き出す。
 土曜日の駅前は、学生服の若者から南野たちと同じ年代くらいの男女を中心に様々な人たちで賑わっている。
 アスファルトを焦がすような太陽の光は誰をも解放的にさせるのか、街には手を繋いだり腕を組む男女のカップルたちで溢れていた。皆、自分たちの会話だけに夢中で周りを見ている者はいない。
 そんな中、有沢と南野はほんの少しの距離を保って横に並び、一歩進む度に靴裏が溶けそうな程のアスファルトを踏みしめて映画館を目指す。
 夏の湿った熱気が身体を包む。
 夏は嫌いだった。彼女のいなくなった季節は夏だったからだ。
 しかし、暑いのが嫌いというわけではない。暑さでかいてしまう汗は不快だったが、身体の血が沸き立つような太陽の光は好きだった。
 その肌に突き刺さる太陽の光を感じながら歩みを進める。ここ数日、昼食は有沢の手作り弁当ばかりだったため、昼休みに社外へ買い出しに行く事もなかった。だから、この真夏の昼間、一番強い太陽光を浴びるのは数日ぶりだった。
 その場に立っているだけで汗が噴き出す程に暑い場所を歩き進め、映画館の入っている大きなショッピングモールへと辿り着く。
 自動ドアをくぐり、建物の中へと入る。建物の中は涼しすぎるのではないかというくらいの冷房が効かされている。汗をかいた肌には少し寒いくらいだ。
「映画見る時って何か買います?飲み物とか、ポップコーンとか」
 映画館は、九階建てのこの建物の最上階にある。一階から八階までの各フロアは洋服店や雑貨店、書店から飲食店まで様々な店が集まっている複合施設だ。
「ん?この後飯行くんだよな?ポップコーンは食べたいけど、あんまり食べ過ぎると食事できなくなるしなぁ……」
 南野は口元に手をあて、自らの腹と相談するかのように胃のあたりをさすってみる。
「じゃあ飲み物と、一番小さなポップコーンを半分ことかにします?それなら大丈夫な気がするんですけど」
 有沢の提案に、南野はこれまでに見せた事がない程に瞳を輝かせる。
「有沢良い事言った!そうする!半分こにする!」
「南野さんって、なんだかんだ言いつつ結構食いしん坊さんですよね」
 有沢はほのかに笑みを浮かべながら、隣の南野を見る。
 ポップコーンを目前に、南野の足取りは軽い。今にもスキップを始めるのではないかという足取りでエレベーターに乗り込み上階を目指した。
 エレベーターに乗ってしまえば最上階まであっという間だ。
 最上階に到着したエレベーターは南野たちを含めた乗客を吐き出し、それと入れ替わりに最上階から去る人々を飲み込んで再び下へと向かう。
「ちょうどいい時間ですね」
 有沢は開場案内をしている電光掲示板と、その隣に掲示されている時計を見比べながらそう言った。
 南野たちが席をとっている映画の開場は既にはじまっていて、あと十五分程で放映が開始されるというところだ。
「じゃあポップコーンとか買って席行こうか」
 南野たちはそう言って二人でレジに並び、飲み物を二つと一番小さなサイズのポップコーン一つを注文した。
 南野はふと思い出したように財布から千円札四枚を取り出し、有沢に差し出す。
「なんですか、これ?」
 しかし、有沢は困惑した風に眉を寄せ、その札と南野の顔を見比べるだけだ。
「映画のチケット代。俺が奢るって約束だったし」
「え、でも、一人千八百円ですよ。四千円なんて大きすぎます」
 首を振り、受け取れないと拒む有沢に、南野はその札を更に近づける。
「ポップコーン代とかも入ってるから」
「えっと、でも、ジュースとポップコーン半分ならやっぱり多いですよ」
 それでも拒む手に札を押し付けると、有沢は渋々ながらそれを受け取った。その表情は不満気で、納得していない様子だ。
「今細かいのないから、後でまた何か奢ってよ」
「わかりましたよ……その時は絶対受け取ってくださいね」
 ふくれっ面の有沢が受け取った札を財布にしまった頃、注文していた商品が用意され、それと交換に金を払ってから、映画を見るための席へと移動する。
 スクリーンの中にはまだ何も映っておらず、照明もまだ明るいままだ。
 流石は話題作というだけあって、館内はほぼ満席だ。有沢のとった席はスクリーン中央、真ん中より少し前よりという席だった。
 座席に書かれた番号とチケットの番号を見比べながら自身の席につく。
「楽しみですね」
「ああ」
 向かって左が有沢、右に南野が座る。フタ付きの紙コップに入ったジュースはそれぞれの座席についているカップ立てに差し込み、ポップコーンのカップは有沢が右手で持つ事にした。
「いただきます」
 南野はそう言って、有沢の持つポップコーンを口に放り込む。
 ポップコーンは塩味で、温めて溶かしたバターがまぶせられている。
 ほんのりと香ばしい香りと、染み溶けるような塩味が口内に広がった。
 そうこうしているうちに照明は徐々に暗くなり、やがてスクリーンにはこれから放映される映画の予告たちが流れ始めた。
「いよいよだな」
「ええ、わくわくします」
 南野は映画の予告もきっちりと見る方だが、どうやらそれは有沢も同じらしい。
 ポップコーンを口に放り込みながらその横顔を窺うと、視線に気付いたのであろう有沢と目が合った。
 有沢は南野の耳元に唇を寄せて囁く。
「手、握ってもいいですか?」
 いくら館内が暗いとは言え、両隣や後ろ、前にも人はたくさんいる。――けれど、誰もが目の前のスクリーンに夢中だ。例え隣であろうと、有沢と南野が手を握り合っていたところで首を伸ばして覗きこまなければ見える事はない。
 南野はしばしの逡巡の結果、小さく頷いた。
 再び正面を向いてスクリーンを眺めはじめた有沢の手が、肘掛けにおいた南野の左手に重なった。
 効きすぎた冷房の中では、有沢の体温が程よく心地良い。
 心臓が一足飛ばしに高鳴る。
 指を絡め取られ、重ねていただけの手は南野の手を捉えて握った。
 身体中を巡る血液がいつもより速く流れている気がする。
 スクリーンで流れる映画の予告が、目には入っているはずなのに頭には全く入ってこない。今はただ、繋がる体温の主だけの事しか考えられなかった。
 やがて、配給会社のロゴが現れ、一旦画面は暗転する。本編が始まるのだ、と経験上理解した。
 そっと隣を窺うと、視線が重なった。有沢はそっと頬を緩め、握る手に力をこめた。
 南野は再び、前を向く。
 本編がはじまるから、という理由もあったが、それ以上にただ照れ臭かった。
 その代わりと言っては何だが、握る手を握り返す。横顔に有沢の視線が刺さるが、わざとらしく無視して画面に集中しているフリをする。
 集中するフリをしていても、画面の中に流れる情報は驚く程頭に入ってこない。
 握った手は脈打っていて、確かな体温だけが全てだ。目の前に広がる異世界の風景、ダイナミックな演出、それらの全てがどうでもよくなってしまうくらい意識は隣の有沢へと集中してしまっていた。
 心臓がせり上がってきてしまうのではないかというくらいの緊張が身体を包み、自分の鼓動の音さえ聞こえそうだった。
 それでも、上映からしばらく経つ頃にはその緊張も心地良くなってきていた。
 ふと隣を窺えば、有沢は座っている椅子の肘掛と自らの太ももの間に挟むようにしてポップコーンのカップを維持し、繋いでいない手の方で黙々とそれを食していた。
 それがなぜだか無性に悔しくて、南野はそっと手を解き、その手を差し出した。
「……」
 その手に気付いた有沢は、スクリーンから南野に視線を移す。そして、南野の無言の訴えをすぐに察したようで、ポップコーンのカップを再び手に取り、中身を南野の取りやすいよう少し傾けて持つ。
 南野は満足げに頷くと、ポップコーンに手を伸ばした。解いた手にもしばらく有沢の体温が残っていたが、それもすぐに消える。
 差し出されたポップコーンを口に含みながら、繋いだ手の余韻に浸りつつも南野はようやく映画の世界へ入りこむ事が出来た。
 有沢の体温を感じられない事がほんの少しだけ名残惜しくて、口に広がる香ばしいバターの香りに思いを馳せた。
 スクリーンの中では現実とは違う世界が、まるで現実のように進んでいく。自分など存在しない世界で、自分の全てを忘れて作られた世界に入り込む事ができる。
 眠っている間の夢の出来事のように、それが現実に置き換わる事などは絶対にない。それでも、それがわかっていても、その世界に入り込んでみたいと思ってしまうのは何故だろうか。
 逃げ出したくなる現実を抱え、目を逸らしたくなる過去を背負い、それでもなお人は生きていかなければならない。
 もがけばもがく程、絡まる糸に囚われる。後輩である有沢の甘言に縋りたくなる程に、目の前には闇しか広がっていなかった。
 映画は終幕を迎え、会場の照明が点けられる。その頃にはポップコーンもジュースもすっかり空っぽになっていた。
「面白かったですね」
 ずっと隣にいたはずなのに、有沢の声を聞くのは二時間と少しぶりだ。仕事をしている時でもそこまで会話がない事はあまりない。
「ああ、前評判通りだった」
 エンドロールが流れ終るのを待った観客たちは一斉に立ち上がり出口へと向かう。その人の波が過ぎるのを待って二人はようやく立ち上がった。
 暗い赤色をした絨毯の敷き詰められた廊下を歩き、外を目指す。ジュースとポップコーンのゴミは途中のゴミ箱に捨てた。
 映画館のフロアを出てエスカレーターで階を移動し飲食店の立ち並ぶフロアへと辿り着く。
「昼ご飯って何か食べたいものあります?」
 隣を歩く有沢はきょろきょろと辺りの飲食店を見回しながらそう言った。
 昼時を少し回ってはいるが、流石土曜日と言ったところだろうか。どの店も数人程列をなしているくらいには混んでいる。
「んー……特に考えてなかったけど、ハンバーグとかオムライスとかどうだろ」
 南野は館内の壁に掲示されてあるフロア案内を見つけるとその前で足を止めた。有沢もそれに倣い、二人でフロア案内を見る。
「ハンバーグとかオムライス……」
 フロア案内にはこのフロアにある飲食店の大まかなジャンルや代表メニュー、営業時間などが記されている。有沢はそれを指で辿りながら店を探し、その一か所を指さした。
「なら、この店とかどうでしょう?」
 と、指さす場所はチェーンのハンバーグ店だ。南野も何度か別店舗に足を運んだ事がある。
「じゃあそこで。……って、俺に合わせてもらっちゃってよかったの?」
 南野が言うと、有沢はいつものようににこやかな笑みを浮かべるのだ。
「俺、南野さんが食べたいものを食べたいんです」
――それがどんな感情に基づいているものなのか、南野は知っている。
 かつての自分が彼女に対してそうだったように、有沢もきっとそうなのだ。
 相手の事が好きだから、相手の幸せを願う。相手が楽しそうにしているだけで、自分は幸せになれる。一途な愛の形を、南野は知っている。
 そうまでして隣にいようとしてくれる有沢を、自分の過去を忘れるために利用している罪悪感に苛まれる。
 有沢の隣は心地良く、程よく過ごしやすい。
 だから、甘えてしまう。
 いつか傷付けてしまうのだと思うと、無性に心が痛んだ。
「……変なの」
 そうして悪態をつく事が、南野の今の精一杯だった。
「変でいいですよ」
 有沢はなぜか笑みながら先へ進もうと、廊下を指さし南野を促す。ハンバーグ店は廊下の角を曲がったその先だ。
 どう言い返せばいいのかもわからず、促されるまま有沢の隣を歩き出す。
 縋りたい手はすぐそこにある。縋りつく勇気はなくとも、そこにあるという事実だけでやけに安心できるものだ。
 失ったものはもう二度と取り返す事ができない。南野の想いはもう二度と伝わる事がない。
 行き場のない想いは心を彷徨い、絶望で満たす。
 絶望で濡れた心を拭うのは、有沢だと予感していた。
 愛される事には慣れている。なまじ顔が良かっただけに、一方的な期待を押し付けられる事は日常茶飯事だった。
 そんな中で有沢を選んだ理由は特にない。
 伝わらない愛を維持し続ける事に疲れきった時に押し流されてしまっただけだ。
 それなのになぜか――有沢に期待してしまう。
 終わりのない空虚を終わらせてくれるのは有沢なのではないか、と勝手に期待してしまう。
 


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