溺れる事は簡単で、故に難しい。
第五話
 ベッドの上に放り投げたスマートフォンが無機質な電子音を立てて電話の着信を知らせている。南野は億劫そうに布団に潜り込んだまま腕を伸ばし、そのスマートフォンをとる。
 時計の針は午前四時少し前を指している。早朝というよりも、深夜と言う方が正しいのではないだろうか。夏だというのに辺りはまだまだ暗く、太陽の気配はない。
「もしもし……?」
 寝起きで、というよりも頭はまだ夢の中だ。そんな状態で出した声はとても掠れていた。
『おはよ。やっぱり寝てた?』
 えへへ、と調子良さげに笑う声は聞き覚えがある。それになにより、こんな非常識な時間に電話をかけてくるような人間は彼以外に知らなかった。
「寝てるに決まってンだろ……ったく、急に何の用?」
 南野はため息を一つ、まだ眠りたいと落ちそうになる瞼に抵抗するかのよう頭を振り、覚醒を促す。
 声は不機嫌そうではあったが、怒ってはいなかった。こんな時間に電話があったからと言って、今更彼に怒りを抱くような間柄ではない。
 彼――朝倉慎之介と南野は、所謂幼馴染という間柄だ。エスカレーター式の私立校に通っていたため、小学校、中学校、高校とを共に過ごした。大学からは別々の進路へと進んだが大人になった今でも、あの頃と変わらぬ関係を築いている。
『用っていう用はないんだけど、近くまで来てるからそっち寄っていい?』
 電話の向こうの朝倉は屋外にいるのか、時折空を切る風の音が混じった。
「は……!?今から……?俺今日仕事なんだけど」
『じゃあ広貴(こうき)が家出る時に合わせて帰る事にするわ。なんか飯とか買って行った方がいい?』
 南野の困惑など、朝倉には通じない。昔からどこまでも自分本位な人間だった。しかし、そんなところも含め、朝倉の隣は南野にとって居心地の良い場所だった。
「飯いる。……なんか適当な弁当とお茶買ってきて」
 はいはーい、という適当な返事を聞いて南野は電話を切る。
 窓を閉め切ったまま、冷房もついていない部屋は溢れる湿気で不快な空気が漂っている。ぐっとのびをして起き上がり、電気を点けて冷房のスイッチを入れた。もう目は完全に覚めている。僅かな機械音の後、続いて乾いた冷たいが零れ落ちた。
 朝倉と顔を合わせるのは随分久しぶりだ。中学高校時代は学校だけでなくクラスも一緒だったため、毎日朝から晩まで一緒に過ごしていた。懐かしい日々の記憶はいつまでも色鮮やかで、思い出す度に甘酸っぱい切なさが心に溢れる。
 南野は汗を吸った部屋着を脱ぎ、ジーンズとシャツというラフな服装に着替えた。元々散らかりようのない物のない部屋だったが、床に放りだしていた仕事鞄を壁際に寄せ、テーブルの上に置きっぱなしにしていた食事のゴミをコンビニ袋に纏めて来客を迎える準備をする。
 それから程なく、玄関のインターフォンが押された。念のためドアスコープを覗いて確認してから鍵を外して扉を開ける。
「よっ」
 開けたその先には馴染み深い見慣れた顔があった。真っ黒の髪を肩につきそうな程に伸ばし、今はそれを首の後ろで一つに束ねてゴムで縛っている。決して低い方ではない南野より、数センチ高い長身は有沢と同じくらいだろうか。
 南野のよりもガッチリとした体格で、黒い半そでTシャツからは筋肉質な腕が覗いている。片手には今買ってきたのであろうコンビニの袋が二つ、背中にはギターのハードケースを背負っていた。
「久しぶり」
 南野はふっと笑んで朝倉を室内に招き入れる。
 南野の交友関係は彼女がいた昔ならいざ知らず、今はそう広い方ではない。連絡先を知っている友人未満の関係の人間はそれなりにいるが、こうして部屋を訪ねてくるような友人は朝倉しかいない。
 狭い室内は先程点けたばかりの冷房がよく効いていた。
「相変わらずな部屋だよな」
 朝倉は部屋を軽く見回してからベッド脇のテーブルに二つのコンビニ袋を置き、壁を背にしてテーブルの隣へと座る。背に背負っていたギターは自身の隣へと置いて壁に立てかけた。テーブルの上には写真立てが伏せて置かれていた。
「何買ってきてくれたの?」
 朝倉の言う言葉を黙殺し、ベッドに腰掛けて置かれたコンビニ袋をがさがさと音を立てながら覗く。
「幕の内弁当と焼き肉弁当、それしか残ってなかった。好きな方とっていいよ。あとお茶とデザート」
 片方の袋はほんのりと温かく、買った際に温めてもらったのだと思われる弁当が二つ、もう片方の袋には冷えたお茶のペットボトルが二本と生クリームの詰まったシュークリームが二つ入っていた。
「じゃあ幕の内もらう。ありがと」
 袋から全ての商品を取り出し、二人は弁当をそれぞれに取り、お茶とシュークリームは一つずつ引き寄せる。温められた弁当の封を開け、箸をつけはじめた。
「朝倉は最近調子どうなんだよ」
 口におかずを放り込みながら朝倉に向き直る。口の中に広がる味は食べ慣れたコンビニの味だ。つい先日までなら何とも思わなかったその味が、今はどこか物足りないと思えた。
「俺?何もかわんねーよ。しがない駆け出しのスタジオミュージシャンさ」
 南野は、朝倉の隣に置かれたギターケースをちらりと見る。
 朝倉がずっと使っているそのケースは南野にとっても馴染み深いものだった。
「そっか」
 咀嚼して、飲み込む。
 朝倉はフリーランスのスタジオミュージシャンだ。音楽を始めたのは中学生の頃で、その頃からたゆまぬ努力を続けてきた結果だ。
 始めた頃は食にも困るような状況だったようだが、今では自立した生活を送る事ができるくらいの稼ぎはあるようだ。
 好きな事を仕事に出来る才能を、得意な事で食べていこうと思える勇気が、純粋に羨ましいと思う。南野が手を伸ばそうとして――やめたものだ。
 彼女のいない世界で楽しむ事を諦めた南野には、手を出せなかったものだ。心の奥が焦げるように痛む。
 後悔しているわけではない。今更、音楽で食べていきたいとは思わない。けれど、出来る事ならもう一度――音楽を奏でたいと思う。歌を紡いで、音の波に身体を委ねるその快感に、心を浸したいと思う。
 しかし、それをしようとする度、南野の心は大きすぎる罪悪感に押し潰されてしまい、その一歩すらも踏み出せなくなってしまう。
 蘇るのは彼女の為に日々を注いできた懐かしい記憶だ。
 彼女の為に歌い奏でた記憶だ。
 南野にとっての音楽とは、自己表現であると同時に彼女に捧ぐものでもあった。
 だから――歌えなくなってしまった。
 彼女のいない世界では、歌う意味がなくなってしまった。歌いたいと願う反面、歌おうとすれば喉は引き裂かれそうに痛み、声を出す事を拒むのだ。
「広貴は?」
 訊ねられて、曖昧に首を傾げてみる。
「何その反応」
 朝倉は南野のその反応に疑問を覚えたのか、奥底を見透かそうとするかのようにじっと瞳を見詰める。
 その辺りの目敏さは、流石幼馴染といったところだろうか。伊達で親友を気取っているわけではない。
 南野は諦めたようにへへ、と笑った。
「恋人、できた」
 その瞬間、朝倉は口に物を含んだまま咀嚼する事も忘れて動きを止めて目を見開く。
「こっ……恋人って、え……?なにそれ、さやかさん以外の――?」
「当たり前だろ」
 慌てる朝倉をよそに南野は冷静に食べ物を口に運ぶ。旨いとは思わないが、それでも腹だけは満たす事が出来る。
 口に入っていた物が気管に入ってしまったのか、朝倉は何度か大袈裟に咳き込んだ。そんな様子をぼんやりと眺めながら――自分は一歩を踏み出したのだ、と自覚する。
 その一歩は自ら踏み出した一歩ではない。流されるままに流された結果だ。
 世界は何もしなくても変わりゆく。時が経てばどんなものでも変わってしまう。変わらないものは、時を歩んでいないものだけだ。
 朝倉はいくらか落ち着きを取り戻したのか、軽い咳払いの後はいつもの朝倉に戻っていた。
「そっか……へぇ、お前に恋人とか出来る日がくるなんてな。おめでと。……で、どんな人?」
「仕事の後輩。男」
 何でもない事のように言うと、朝倉は何故か納得したように頷いた。
「へぇ、そういう趣味あったんだ」
「ああ、俺も知らなかった」
 性に対する寛容さは、朝倉も南野と同レベルといったところだろうか。共通の友人に液体にしか性的魅力を感じない男や獣しか愛する事のできない男を知っていれば、まだ相手が人間である分には例え同性愛であろうと簡単に許容できてしまうようになるのかもしれない。
「幸せになれよ」
「ありがと」
 答えながら、弁当に残った最後の一口を食べきった。空いた弁当の残骸をテーブルに置き、ペットボトルのお茶を喉に流し込む。
 窓の向こうの空は明るくなりはじめていた。
 シュークリームを取って封を開け齧りつく。生クリームの甘さが口に広がり、その甘みが心を満たす。食べ物に好き嫌いはない。普段の食事で好きなものは咄嗟には思いつかないが、甘いものとなると話は別だ。
 南野は甘い食べ物が好きだった。特に生クリームを使用したケーキやシュークリームなどの洋菓子はいくらでも際限なく食べられる。
「二つとも食っていいよ」
 朝倉も弁当を食べ終わり、ペットボトルを手に取ったところだった。
「え?いいの?じゃあもらう」
 嬉々とした笑顔で一つ目のシュークリームをあっという間にたいらげた南野は朝倉の前に置かれていたシュークリームにも遠慮なく手を伸ばす。
 甘いものを食べている間だけは、煩わしい全てを忘れる事が出来る至福の瞬間だった。
「あのさぁ」
 そんな南野を見詰めながら、朝倉はぼんやりと呟く。
「もっかい、歌わねえの?」
「歌わない」
 間髪おかずの即答だった。
 それ以上重ねる言葉はないとばかりに、シュークリームを齧る。
「……」
 朝倉も何も言わなかった。視線を感じながらシュークリームを食べるのは居心地が悪い。けれど、その居心地の悪さは今に始まった事ではない。
 彼女がいなくなって、南野が歌をやめてからずっと続いてきていたものだ。
 歌いたくても、歌えない。歌おうと思えない。いくら朝倉に望まれようとも、歌う場所を与えられようとも――もう、歌いたくなかった。
 朝倉と奏でる音楽は楽しかった。朝倉のギターに合わせて歌う快楽を、知っている。まだ己の未来なんて知らなかったあの日、いつまでも朝倉と歌っていたいと思っていた。
 音楽が楽しければ楽しい程――罪悪感は増すばかりだった。例え有沢と恋人としての一歩を踏み出せても、彼女を忘れられるわけではない。彼女に捧げた音楽を、もう一度はじめられるわけもなかった。
 いつしかシュークリームは食べ終わり、それでも二人の会話は再開しなかった。無言の重苦しい空気が続き、やがてカーテンの隙間から眩しい程の朝陽が差す。
 ベッドの上に置いておいたスマートフォンからは目覚まし代わりの定刻になったアラームが鳴り響いた。
 そのスマートフォンに手を伸ばした南野の背中に、朝倉は小さく呟く。
「……いつかまた、おまえが歌ってくれるって信じてる」
 ぎゅっと、心臓が締め付けられる。
 南野自身、歌いたいと思っている。けれど、歌うわけにはいかなかった。もう時を進めない彼女のために歌い続けてきた。時を進めない彼女にはもう聞かせる事の出来ない歌を、南野は歌うわけにはいかなかった。
 誰に言われた事でもなく、自分自身で決めた事だった。
「……」
 南野はその言葉には応えず、大音量で鳴り響くアラームを止めた。
 南野に無視をされているにも拘らず、朝倉はその背中に語りかける。
「また近々飲みにでも行こっか」
 ここ最近仕事が立てこんでいたせいで、朝倉とは随分飲みに行っていない。
「ああ」
 南野が短く返答をすると、朝倉は「じゃあ、また」と、挨拶もそこそこに立ち上がり、再びギターケースを抱えて部屋を後にする。
 遠ざかる足音が、何故かとても寂しかった。
 歌をやめる事は、現実逃避の手段だった。歌う事で、もうここにはいない彼女を思い出してしまうから。
 有沢と付き合う事は、己の寂しさを癒やす手段だった。一生彼女を想いながら一人でいると決めたのに、一人は寂しかった。
 孤独はもう、うんざりだった。
 朝倉が家を出てしばらくはそのままベッドの淵に腰掛けていた南野だが、スマートフォンがメールを受信した事を知らせる着信音を鳴らしている事に気付き、スマートフォンを手にとった。
『おはようございます!今日も元気に頑張りましょー!会社で会えるの楽しみですね。 有沢』
 画面に表示された文字を見て、無意識に笑みが溢れる。
『おはよう。 南野』
 来た文章に比べればずっと短い文章だった。打ち終わった南野は、送信ボタンを押してメールを送信する。
 有沢に仕事以外の私用のメールを送るのはこれが初めてだった。



 週末の金曜日。
 青白い光を放つディスプレイの中に並ぶ英数字の羅列を目で追い、最後の確認をする。
 このところの残業の原因となってた仕事の最後の仕上げだった。これさえ終わってしまえば、この仕事とももう別れる事が出来る。
 ほんの少しだけ名残惜しくて、それと同時に言い様のない達成感もこみ上げる。
「よし、これで終わりだな」
 大きな問題――と言えば急遽メンバーに欠員が出た事だろうか。しかし、致命的な問題ではなかった。南野と有沢に多少の修羅場は訪れたが、それだけで済んだのなら御の字だ。
「終わりましたね。お疲れ様です」
 パーティション越しに有沢の声が聞こえ、南野は腕を伸ばしてぐっと伸びをする。
「これで安心して休日が迎えられるな」
 この件が終わらなければ、南野たちに休日はなかったとも言える。過程は順調だったので端から心配はしていなかったが、万が一という不安は残っていた。
 しかし、その不安もこれでなくなる。
「休日はデートですもんね」
 ほんの少しだけ声を潜めた有沢は、パーティションに口を寄せて南野にだけ聞こえるような声で言った。
「……ああ」
 まだ、覚悟は出来ていない。
 覚悟出来ていようといまいと、時は勝手に流れ、その時はやってくる。
 どうせまた、流されるように流されてしまうのだ。
 その若さのせいなのか、それとも性格的な相性の問題なのだろうか。南野は有沢の押しに弱いところがあった。
「映画して、食事して……あとは買い物とかですかね?何か欲しいものとかあります?」
 就業時間の定時がやってくるまでまだ数時間はあると言うのに、納品物が完成した事で気が抜けてしまったのであろう有沢はまるで今がプライベートの時間かのように私語を口に浮かべる。けれど、南野はそれを咎める気にはなれなかった。
 どうせ、今日やるべき仕事はもうない。――厳密に言えばないわけではないのだが、今からしても中途半端になってしまうので、週明けの月曜日からでもいいだろう、という判断だ。
 例え就業時間内であろうと、手を抜く時は抜いてしまってもいい、というのが南野の考えだった。
「俺は特に欲しいものないかな。有沢があるなら付き合うけど」
 南野はパソコンのメールソフトを開き、業務メールを書きながらぼんやりと答える。
「欲しいものっていうのは特にないんですけど、映画館の近くに新しい雑貨屋さんがオープンしたそうなんで行ってみたいんですよね」
 嬉しそうに笑み混じりの声で言う有沢は心底可愛いと思える。けれど、その感情はあくまでずっと面倒を見てきた年下の後輩に対するものでしかない。果たしてそれが、いつの日にか恋愛感情へと変わる日がくるのか――南野には判断がつかなかった。
 ただ、ひとつ言える事と言えば、有沢から注がれる愛は心地良いという事だけだった。


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