溺れる事は簡単で、故に難しい。
第三話
 窓の向こうからは小鳥の囀りが聞こえ、カーテンの隙間からは眩しい朝陽が入り込んできていた。
 南野は目を擦り、のろのろと身体を起こす。時刻を確認するためにスマートフォンへと手を伸ばすと、緑色のランプが点滅していた。メールの受信を知らせるランプだった。
 そのスマートフォンを手に取り、メールを開ける。
『おはようございます!今日も会えるの楽しみです! 有沢』
 起き抜けの寝ぼけ眼で読んだメールの文面から、画面の向こうにいる有沢の笑顔さえも見えてくるようだった。
「……ああ、そういえば恋人なったんだっけ……?」
 溜息を一つ吐き、そのままスマートフォンを元あった位置へと戻す。
 胸に渦巻くのは後悔の念だ。
――軽率だった。
 昨夜はどうかしていたに違いない。いくら有沢に感情移入してしまったからと言って、恋人を受け入れてしまうなんて――。
 有沢を傷つけたくなかった。しかし、恋人という関係を受け入れたところで、いずれ有沢を傷つけてしまう事には変わりがないはずだ。有沢に――他の誰かに恋愛感情を抱ける自信はない。南野の心は彼女に囚われたまま、まだ動く事はできなかった。傷付く時を先送りにするだけで何の解決にもなっていない。
「有沢か……」
 一歩を踏み出したいと、確かにあの時そう思ったはずだった。
 孤独には慣れている。ひとりきりにはもう慣れた。手の届かない誰かを思い続けて胸を焦がし、苦しみに耐える日々は慣れ親しんだものだ。
 そんな毎日に、もういい加減疲れてしまっているのもまた事実だ。
 南野はいまだ彼女を愛している。心の底から、誰よりも深く強く、彼女を愛している。想いはきっと永遠に変わる事がないと思える程のものだった。
 その反面、心は誰かに愛されたいと強く望むのだ。
 誰かと一緒に時を歩みたい、誰かの体温に触れ、注ぐ愛と同じ分量の愛を返して欲しいと、そう望むのだ。
 南野がいくら彼女を愛したところで、もう彼女と共に時を歩む事は出来ない。その身体に触れる事は出来ない。もう――愛は返ってこない。
 だが、有沢なら――。
 二番目でいいと言った彼なら、南野の思いを叶えてくれるかもしれない、と、ほんの少しだけ期待してしまった。
 きっと、いつか傷付ける事になってしまう、と、心のどこかでわかっていながら、有沢を受け入れてしまった。
 爽やかな朝に似つかわしくない重苦しい気分になりながら、南野は仕事へ行く準備をはじめた。
 軽くシャワーを浴びて歯を磨き、朝食を食べてからスーツを着込み、髪を整える。洗面台の前でネクタイを結ぶ瞬間が、南野は一番好きだった。
 首元が締まる事で気分も少しだけ引き締まり、仕事のモードへと切り替わっていく。
 洗面台に備えられた鏡の中には、いつまでも堂々巡りの悩みを巡らせ一歩も進めなくなってしまう家での南野ではなく、際限なく降り落ちてくる仕事を的確にこなす会社での南野がいた。
 大丈夫、大丈夫。そう自分に言い聞かせる。
 仕事へ行く準備をしていると、時刻はちょうどいい頃合いになっていた。今から出発すれば始業の十五分前には会社に到着できる。
「……行ってきます」
 ひとりきりの部屋の中で、誰に向かってでもなく呟いて玄関を出た。



「おはよーございます!南野さん、今朝メール届いてました?」
 デスクに着くと隣の席の有沢はもう到着していて、南野が座って落ち着くのも待たずパーティションからひょっこりと顔を出して覗きこんできた。
 その有沢を見て、起きて一番に確認したメールの存在を思い出した。仕事の準備をはじめてからはすっかり忘れてしまっていて、メールの返信は結局していなかった。
「あー……忘れてた」
 南野は申し訳ない、という風に眉根を寄せて困った笑みを作る。
「もうー南野さんからのメール楽しみにしてたのにー。次はちゃんと返事くださいね」
 僅かに頬を膨らませながらそう言う有沢に、「わかった」と頷いてやると、有沢はころりと笑みを見せるのだ。素直な感情表現は時折羨ましくさえ思える。
 デスクの上にたまった書類を掻き分けてパソコンを起動し、仕事の準備を始めると有沢はほんの少し首を傾げて南野の横顔を見詰めた。
「南野さんってお昼ご飯いつも買い弁ですよね?」
 パソコンはぶーんという低い音を立てて起動し、机の上のモニターには見慣れた四色のマークが現れる。
「ん?ああ、ほとんどコンビニとかかな」
 慣れた手付きでパソコンを操作しながらモニターを見詰めたまま有沢に返事をした。
 すると、有沢は口元を他から見えないよう手で壁を作り、ほんの少し声を潜めて言う。
「明日から昼の弁当は俺が作ってきていいですか?」
「弁当……?」
 囁くような声音で言われたそれの意味をすぐに理解する事が出来ず、南野は顔を上げて横を向き、こちらを覗きこむ有沢に怪訝な顔で視線を返した。
「はい。いっつも南野さん見てて思ったんですけど、いつも買ってくるものばっかりじゃないですか?なんか身体に悪そうだなーと思って」
 確かに、南野の昼食は社食かコンビニエンスストアで購入する弁当類、それにハンバーガーなどのファストフードの日も少なくない。
「ああ……飯なんて腹いっぱいになればそれでいいし」
 しかし、今のところ飯に不満はない。南野にとって食事とはあくまで腹を満たす作業にしか過ぎない。栄養バランスなどこれまで考えた事もなかったし、それで体調に影響が出た事もない。
「ダメですよ!食べたものは自分の血肉になるんですよ!毎日毎日そんな塩分脂質盛りだくさんのご飯なんかじゃいつか身体壊しちゃいますよ!」
 が、有沢の意見は違うようだった。
 声音に熱がこもり、知らず知らずのうちに有沢の声量は普段のものと変わらないものになっていた。
 南野は困ったように眉を寄せる。
「で、有沢が作ると……?」
「はい!」
 自信満々に、心なしか胸をはって答えるその姿は、「とってこい」を出来た犬のようだった。
「お前飯とか作れんの?」
 だが、南野の表情は変わらない。
 有沢はよく気は回るが肝心なところが抜けている事も多い。最近の仕事上ではケアレスミスは昔に比べれば減ったが、それでもチェックで手を抜くと痛い目に合う事も少なくない。
 そんな有沢が料理を作れると言っても、南野はあまり信用出来なかった。
「えっ……ちょっと待ってくださいよ、俺入社した時からこの南野さんの隣の席ですけど毎日弁当持ってきてるじゃないですか……!」
 南野の予想とは裏腹に――事実は違うようだった。
 有沢はこの世の終わりのような悲壮な表情を浮かべ、肩をがっくりと落とす。
「え、そうだっけ……?」
 有沢の感情表現は見ていて飽きる事がない。その大げさとも言える表現に、思わず笑い出しそうになってしまうのを堪えるのに必死だった。
「そうですよ!南野さん俺の事なんてちっとも見てくれてなかったんですね」
「はぁ……まぁ……ただの後輩だと思ってたし……」
 ただの後輩だと思っていた。それに、南野はオンとオフの区別をはっきりとつける人間だ。
 昼休みは休憩をする時間だ。身体と心を休め、午後からの仕事に備えるための時間だ。一刻の猶予を争うような時でもない限り、南野は昼休みには仕事をしないと決めている。つまり、昼休みは会社にいながら、一時的にプライベートの南野へと戻るのだ。
 そんな時に、後輩の食事内容まで観察するような余裕は残されていない。南野の心を占領するのはいつだって彼女ひとりきりだ。
「まぁ……仕方ないです。で、本題に戻しますね。明日から俺が南野さんの昼食作ってきてもいいですか?食べてくれますか?」
 有沢は諦めたように溜息を吐き、逸れてしまった話の軌道を修正する。
「作ってきてくれるんなら食べるけど、それって毎日って意味だよな?それは流石に悪いし」
 それに乗っかって南野も話を続けた。
 食事にこだわりはない。好きな食べ物はあるが、嫌いな食べ物はない。
 作ってきてもらえるならそれはそれで有難かったが、それよりも有沢の負担が気になった。
「どうせ自分の分を毎日作らないといけないんですから全然悪くないですよ!作ったら食べてくれるんですね!わかりました!明日から南野さんの分も持ってきますね!」
 しかし、有沢はそう胸を張る。
 南野自身は料理をしないので、その話の真偽は計る事の出来ないものだ。
「あー……ありがと」
 結局はそう受け入れてしまったのは、とどのつまり流されてしまったという事だろう。昨夜と同じ様に有沢の勢いに流されてしまった。
 若さの勢いというのは凄まじいものがある。ぼんやりしているとすぐに巻き込まれ、抗う暇もなく流されてしまう。
 流されてしまうのは楽だった。たったの一歩すら踏み出せない南野を、無理矢理押し進ませる。何もしなくても環境が変わる。
 いずれ、自ら一歩を踏み出せる時がくるのだろうか。
 流された自分を自覚する頃に、始業開始のチャイムが鳴り響いた。

 仕事は好きだった。自分の時間も取れない程に忙殺される瞬間が好きだった。全てを忘れて、ただ仕事だけに打ちこめる瞬間が好きだった。
 システムエンジニアという今の仕事は向いていると思っている。私情を挟み込む余地もないコードが全ての世界だ。
 正解とされる形が見えて、間違いははっきりとわかる。
 プライベートとは違って、完成があり、終わりがある。
 そんな世界が好きだった。
 いつまでもあの頃に留まり続けている自分が嫌いで、忘れようと思う度に呪縛に囚われる。
 もう届かない想いを胸に秘めたまま、終わりのない哀しみに暮れる。
 一方通行の愛は行き場をなくして南野の心を深く抉り続けるばかりだった。

 昼休みまではあっと言う間だった。
 パソコンに向かって仕事をしている間だけは何も考えず仕事をする事が出来る。
 チャイムの音で昼休みになった事に気付いた南野は頭上で腕を組み、ぐっと伸びをすると、
「南野さん」
 と、パーティションから有沢が顔を覗かせた。
「今日も弁当作ってきてるんで味見してみます?」
 そうして顔の横に紺色の巾着袋を掲げた。
「ああ……それ、そういやいつも持ってるよな。弁当だったんだ」
「これが弁当じゃなかったら一体何に見えるんですか……」
 南野が一人で納得した風に頷くと、有沢は困ったように眉を寄せて笑い、椅子に座ったままキャスターを転がしてパーティションを迂回し、南野のブースに入り込む。
 南野は基本的に他人の持ち物にはあまり興味がない。――興味を持つ余裕がないと言うべきなのか、いずれにしろ興味がない事は確かだったが、その自覚はなかった。
「ちょ、狭いって。飯食うなら広い食堂とか行こうぜ」
「人多いですからヤですよ。」
 一人で使うためのブースに二人が入り込めば当然、スペースは足りなくなってしまう。壁際にいる南野は有沢がそこに入ってきたせいで動く事もままならない。一つの机に二つの椅子を無理矢理入れ、互いの肩や膝がくっつきあう程の距離だった。
「相変わらずきったない机ですよね。これ書類の上に弁当置いていいんですか?置きますね」
「きったないってお前それが先輩に対して言う事なのかよ……っていうか狭い!うざい!人多いくらいいいだろ、狭いから離れろっ!」
 しかし、有沢は南野には構わず、机の上に溢れた書類の上にその巾着袋をどん、と置いた。
「嫌です。俺は少しでも南野さんのそばにいたいんです!」
 じっと、見覚えにある真剣な瞳が南野の視線に絡む。熱を帯びたその色は、昨夜押し流されてしまったそれだ。
「少しでも……って」
 触れ合った膝から、肩から、熱が伝わってくる気がした。二人分のスーツやシャツを挟んでいるので、直に体温が伝わってくる事はないはずだ。
 それなのに、触れ合ったそこを意識して熱を感じてしまう。
 直接肌に触れているわけではないしこれくらいの接触なら今までにもあったはずだ。それに、今は昼間でここは会社だ。他の同僚たちの目もあるし、何より勤務時間中だ。
 意識する程の事ではない、と自分に言い聞かせる。
「せっかく恋人になれましたからね」
 有沢はぐっと声を潜め、南野にだけ聞こえるような音量で言う。頬に熱がのぼるのがわかった。
「なっ……」
「さ、昼ごはんにしましょうか!もし口に合うようなら全部食べてくださって大丈夫ですよ!」
 頬を真っ赤にし、口をぱくぱくと開閉させる南野に、有沢はすっと微笑んで巾着袋を開き弁当箱を取り出した。
 弁当箱は二段式のもので、男性用と称されて売っている黒を基調としたものだ。
 巾着袋にはそれだけでなく筒型のステンレス製でフタのついた容器も入っており、有沢は弁当箱よりも先にそれを南野に手渡す。
「……なにこれ?」
 受け取ったその器を両手に持ち、首を傾げた。少し揺らすと中からはチャプチャプと音がし、液状のものが入っている事を予想できる。
「お味噌汁ですよ。それ、保温容器で、作ったお味噌汁をあたたかいまま持ち運び出来るんです」
 そう説明されて南野は得心した。
 手製の弁当とは無縁な生活を送っていた南野は近頃の弁当事情には疎かったが、そういう容器がある事は知っている。実物を見たのはこれがはじめてだった。
「へー……あれ、味噌汁も俺が飲んでいいの?有沢が自分のために作ったんなら俺が取っちゃうのは悪いんだけど」
 明日からの事はともかく、今日はただの「味見」にすぎない。おかずの一切れを少し貰うだけのつもりだった。
 先程からの有沢のくちぶりでは、まるで一食全てを南野が食べてしまってもいいかのようなそれだ。
 さすがにそれは申し訳ないと思い、困惑しながら隣の有沢の方を見る。
「……別に、食べちゃっていいですよ。南野さんが食べてくださるなら俺も幸せです」
 有沢の顔は、思いのほかすぐ近くにあった。
 肩が触れ合う程の距離なのだから、顔の場所もいつもより近いのは当然だ。
 ほんの僅かに緊張して――しかし、それを表に出してしまわないように、と己に冷静を強いる。
「そ、そしたら有沢の昼飯がなくなるだろっ……」
 手の中の保温容器を手持無沙汰に揺らして中の液体の流れを感じながら、絡んでしまった視線を外して言う。
 昨日まではただの後輩にすぎなかった。
 恋愛感情なんて欠片もなく、流されるまま――現実から目を逸らすために恋人になっただけだというのに、やけに意識してしまう。
「んーそうですね、そうなったら南野さんの奢りで買い弁にします。今期間限定のハンバーガー出てて、ちょっと食べたいと思ってたんですよね」
 それなのに、有沢はいつもと同じ調子だ。
 いつもと何も変わる事のない様子で会話を楽しんでいる。
 それが悔しかった。
 動揺してしまっている自分が恥ずかしくて仕方なかった。
「……今朝は俺に買い弁ばっかじゃ身体壊すって言った癖に」
「俺はたまになんでいいんですよ」
 有沢は南野がもてあそぶ保温容器を奪い、蓋を開ける。
「それに、そんなの建前に決まってます。大好きな南野さんに俺の作るご飯食べてもらいたいだけなんです。……こう見えて、ちょっと自信あるんですよ?」
 蓋をとり、保温容器の中身が見えるよう南野に差し出した。
「なっ……」
 あまりにストレートな物言いに、動揺はますばかりだ。
 赤く染めた頬を有沢の方へ向けると、目の前には差し出された保温容器が飛び込んだ。
 南野が揺らして遊んでいたせいで、味噌は沈殿する事なくよく混じりあっている。茶色い液体はほんのりと湯気をあげ、香ばしい香りが鼻孔の奥に届く。
 ぐぅ、と腹の虫が悲鳴をあげた。
「……どうぞ」
 その音は、きっと有沢にも聞こえていたのだろう。
 促されるままにその容器を受け取ると、続けざまに箸も渡された。
「……いただきます」
「お口に合えばいいんですけど」
 味噌汁の具材はたまねぎとじゃが芋、それに薄揚げだった。
 容器に口をつけて一口、まずは汁だけをすする。
 有沢の視線が絶えず注がれているので、少しだけ緊張してしまう。
 熱くて飲めない、という程ではない。
 冷房がよく効いていて冷えた身体に心地良い程の熱さの味噌汁が喉に流れ込む。
「……美味しい。味噌汁とか飲んだの、久しぶりだ」
 嘘偽りのない感想だった。
 じゃがいもとたまねぎの甘さが沁みだしたほんのりと優しい味噌の味が身体を包む。
 南野は自炊はしない。食事は単なる作業で、腹を満たす事さえできればそれで満足する。
 外食をする程のこだわりもなく、朝昼夜のほとんどが手軽に済むコンビニ弁当という日も珍しくはない。
 しかし、そんな生活をしていると味噌汁を飲む機会もほとんどない。
 誰かの手作りの味噌汁を飲んだのは、数年前に実家を出て以来かもしれなかった。
 久しぶりの味噌汁は優しく、腹以外の何かを満たすような味だった。
「よかったです。……自信あるって言いましたけど、南野さんに美味しいって言ってもらえるかはわかんなかったんで……!」
 有沢は嬉しそうににこやかな笑みを見せるのだ。
 その笑顔を見ると――昨夜、有沢を受け入れてよかったと思える。
 有沢を傷付けてしまわなくてよかったと思える。
「お弁当の方も、食べてみてください!」
 そうして促されるまま、南野はメインである弁当箱の方にも手をつけはじめた。
 おかずは卵焼きと鶏のからあげ、昆布巻きとほうれん草のおひたしというシンプルなものだ。
 それでも、美味しいと思える味だった。
――食事をして、美味しいと思えるのは随分久しぶりのような気がした。
 欠けていた何かが埋まっていくような、そんな気がした。
「明日も頑張って作りますね」
 美味しい、と伝えると、有沢はまたはちきれんばかりの笑みを見せる。
 有沢と一緒なら、何かが変わる気がした。


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