溺れる事は簡単で、故に難しい。
第一話
 もう二度と築くことが出来ない思い出。時が経つにつれて、指の隙間から零れ落ちてしまうように色褪せていく記憶。ひとかけらでさえ失いたくないと願うのに、時間の経過は残酷にもそれを奪っていく。
 愛してる
 いくらそう言葉に出してみたところで、もう伝わる事は決してない。その声を聞いてその頬に触れ、抱き締めて髪を撫でてみたいと願っても――彼女はもうこの世に存在しない。
 彼女を想う彼は生きているのに、彼女の時は永遠に止まったままだ。
 彼女を置いて、時は進む。彼女がいない世界はまるで空虚だった。
 だから、せめて。
 せめて、彼女の事を思い続けるのだと、彼はそう誓った。彼が想い続ける限り、彼女は彼の心の中で生きるはずだ。
 これから先の人生を、もういない彼女の為に費やしたいと、そう願ったのだった。



 風が吹く。望まなくとも季節は巡り時間は過ぎていく。南野広貴(こうき)にとって五度目の一人きりの夏がやってきた。
 淋しい――とは、思わない。
 たった一人きりでも、彼女のために生きる日々は淋しくはなかった。――淋しいと思う余裕さえ残っていないだけなのかもしれない。彼に残された感情は唯一つ、空虚だった。
 過去を振り返り、何かを思い出す度に胸の傷痕はじくじくと痛み、そこから膿を溢れさせる。痛む傷を庇って目を閉じて耳を塞ぐ。そうして現実から、己から目を逸らし続ける事が、彼の生きる術だった。
「今は仕事に集中したいので、恋人とか考えられなくて……。申し訳ないですけどお付き合いする事は出来ないです」
 南野は目の前にいる会社の同僚である女子社員にそう告げた。
 社内で何度か見かけた事があり、飲み会でも一緒になった事があるような気がする――が、所詮その程度で、名前も知らない相手だった。
 彼女の容姿は決して悪い方ではないし、世間的に言えば美人だと評される部類に入るのだろう。大抵の男なら、例え恋愛感情がなかったとしても、告白されたとすれば少しは心が動かされ、少しは考えたりするのかもしれない。
 だが、恋人を作る気もない南野には、彼女の気持ちに応えられるはずもなかった。
 涙で瞳を潤ませる彼女は南野に「お時間取って頂いてありがとうございました」と、一礼すると踵を返し、小走りに廊下を走り去っていった。
 遠ざかる足音を確認してからほっと一息を吐き、今いる給湯室にある冷蔵庫の扉を開ける。罪悪感で胸をほんの僅かに痛ませながら、冷蔵庫に入った『南野』と黒いマジックで名前の書かれたアイスコーヒーのペットボトルを取り出した。
 左腕に嵌めた腕時計を横目でちらりと確認しながらキャップを開け、口につける。冷たい液体が喉を滑り落ち、後から僅かなほろ苦さと舌が痺れるような甘さを感じた。
 こうして喉を潤わせに来ただけだったはずなのに、彼女にでくわした事で思いのほか時間を取ってしまった。まさか告白されるなんて想定外過ぎた。
 キャップを閉めたペットボトルを指に引っかけるようにし、そのまま給湯室を出て、自身のデスクがあるフロアを目指す。
 廊下を真っ直ぐ歩いて一つ目の角を曲がると大きな廊下があり、その廊下を真っ直ぐ行った先にはエレベーターフロアがある。
 このフロアは給湯室の他には会議室や倉庫といった、普段日常的に使うものではない部屋ばかりが集まっているため――それに、既に定時の時刻はとっくに過ぎ去っていたため、すれ違う人はいなかった。
 エレベーターに乗り込み、二つ下の八階で降りる。廊下を真っ直ぐ歩いて角を曲がり、一番奥の部屋を目指した。
 部屋のドアは開け放たれており、カチャカチャとキーボードを叩く音、ファックスのピーという電子音が響く。部屋に足を踏み入れた瞬間、廊下よりも体感で一、二度低いのではないかという程に冷房のよく効いた空気に包まれる。
 南野はその部屋の窓際の一番端にある自身の席を目指す。
 席は全て横並びに並べられており、各々の席は気が散らない様それぞれにパーテションで区切られている。机にはパソコンと、必要に応じて書類整理のためのラックが設置されていた。
 南野の机は、有体に言えば汚かった。かろうじて食品などの腐ってしまうゴミは残さないようにしていたが、机の上に置かれた書類ケースでは収まらなかった書類たちが机の上に散らばり、キーボードの半分程は埋まってしまっている。
 必要なキーを埋めている場合はそれを掻き分けてキーボードを打ち、書類に阻まれて自在に動けなくなったマウスで仕事をする。
 提出しなければいけないものはパーティションにテープで貼り付け、資料となるものたちは机に積み上げていく。底の方にある書類たちは恐らくもう必要ないものだとは思われるのだが、どの書類が必要で、どの書類が不必要なのか南野自身理解していないため、もしも必要だった場合を考えると何も捨てる事が出来なかった。
 それでいて仕事のスピードは速く、課内の誰よりも正確なのだからタチが悪い。
 あまりの乱雑さに何度か整理整頓をするよう上司に言われた事もあったが、たとえ整理整頓をしても数日でまた元通りになってしまうし、整理整頓をする事によって必要な書類が行方不明になり仕事に支障をきたした事もあった。
 そんな経緯もあり、全ての席がパーテションで区切られているため、覗き込もうと思わなければ視界に入る事もない、あくまで自分のスペースの管理は自己責任だ、という建前の元、南野の席の汚さは見逃されている。
 南野は他人からは”汚い”と評され――そして、自身でも散らかっている自覚のある席へと着くと、書類を掻き分けてコーヒーの入ったペットボトルを置いた。
「おかえりなさい。それ取りに行くだけなのに随分遅かったんですね。……もしかしてまた、ですか?」
 南野が着席すると同時に、左隣の机に座る有沢がパーテションから顔を出して南野の方へと顔を見せる。南野の席は一番端で、右側は壁になっている。
 もしかしてまた、とは、恐らく告白の事を言っているのだろう。南野が社内の誰かに想いを告げられる事はそう珍しい事ではない。
 社内で南野と一緒にいる機会の多い有沢は、南野に関して相談を受ける事も多いらしく、その辺りの情報はほとんど筒抜けだった。
「ん?ああ、まあそんな感じ。何か急ぎの用事でもあった?」
 スリープモードにしていたパソコンを起動させて仕事を再開させる準備をしながら曖昧に答えた。
「見てもらいたいデータあったんですけど、いつ帰ってこられるかわからなかったんで、とりあえずメールで送ってるんで確認お願いしまーす」
 そう言って有沢はパーテーションの向こうへと顔を引っ込め、それを合図に南野も本格的に仕事へと戻る事にした。がさがさと書類に埋もれたマウスを操作し、メールソフトを立ち上げる。
 この三つ年下の後輩は、昨年入社してから南野がずっと面倒をみてきていた。短く切りそろえられた、ほんの僅かに焦げ茶の入った髪に、同じ色のくりくりとした丸い瞳。笑顔はまるで幼子のように無邪気で、何事に対しても実直な姿勢はよく躾けられた飼い犬を彷彿とさせる。
 数人でチームを組んで仕事をする事が多く、有沢が入社して以来、新人と呼ばれる期間を越えた今でもほとんどの仕事を一緒にしていた。
 南野の背後は窓で、窓の向こうは既にとっぷりと陽が暮れていて、道を照らすものは街灯の明かりだけだった。キーボードやマウスを操作しているうちに時間は過ぎ去り、フロアからは徐々に人が減っていく。
 帰路につく仲間の背中を見送っては短くため息を吐き、終わらない仕事に向かい合う。
 人が減るにつれて、フロアに設置された壁掛け時計の、カチカチ、という秒針の音が響くようになっていた。
 南野の仕事は所謂システムエンジニアだった。企業向けのシステム構築が主な仕事内容で、間近に迫った納期のために残業を強いられていた。
 残業をしなければ納期に間に合わせられない――それは事実ではあるが、南野や有沢が無能だという事では決してない。今回は相手側の予算の都合で、普段の仕事よりもずっと少数精鋭での業務となっていた。有沢と南野を含め、たったの三人での作業だ。企業向けでのチームという事を考えれば少数すぎるのだが、どうやら南野の上司にあたる人物が個人的に関わりのある会社らしく、格安で仕事を引き受けたとの事だった。
 たまたま手が空いていた時に割り振られた仕事で、完全なるとばっちりを受けてしまった形だった。
 チーム作業である限り、三人のうちの誰か一人でも欠ければ他の人員にも影響が出てしまう――今回はその三人目のチームメイトが、納期を目の前にして食中毒の為戦線を離脱してしまっていた。
 それが例え正規の価格を逸脱した金額で成立している取引であろうと、それが仕事ならば必ずやりきらなければいけない。南野が雇われの身である以上、割り振られた仕事を選ぶ権利はない。
 他の仕事も全て終わっていた事が功を奏し、南野と有沢が多少の残業をする事で納期には間に合う計算だった。
 南野はふと、隣で仕事をする有沢のブースを覗き込む。
「……なんですか」
 それまではそれなりに集中していたのだろうが、南野が覗き込んだ事で集中が途切れたらしい有沢は手を止め、背もたれに背を預けてぐっと伸びをする。
「いや、もう結構遅いし、そろそろ帰った方がいいんじゃねーのと思って」
 と、南野は時計を指さした。あと数分で二十二時になろうかという時刻だった。
「南野さんが帰るなら俺も帰りますけど」
 有沢は足で床を蹴り、今座っているキャスターつきの椅子を後ろの窓際へと移動させる。南野も椅子を回転させて身体ごと有沢の方へと向けた。そうする事でパーテションを覗き込まずとも二人は顔を真正面から見合わせる事が出来る。
「俺はキリ悪いから落ち着くところまで仕事やるけど、有沢は帰れよ。明日も仕事あるんだし休む時はしっかり休んどかねーと」
 けれど有沢は不服そうに唇を尖らせるだけだった。
「それは南野さんだって一緒ですよね?南野さんだって休まないと身体壊しちゃいますよ」
 感情表現が素直すぎて、幼ささえ垣間見える。もう立派な大人である男がしても可愛くは見えないはずの『唇を尖らせる』という動作も、普通よりも容姿が整っているものだからやけに決まって見えるのだ。
 しかし、容姿が整っているのは有沢だけではない。
 南野だって男女問わず好かれる容姿を持っている――本人は普通である、と言い張っているが、明らかに美形と呼ばれるそれだ。吹き出物一つない血色の良い滑らかな肌と、癖のない柔らかな髪。平均以上の長身とすらりと伸びた手足は、いつだって羨望の的だった。
「俺は別にいいんだよ。ほら……特に心配してくれる人とかもいないし」
 反論する言葉を失って、南野は言葉を濁す。有沢の背後にある夜の窓は、南野の背後にある青々とした光を放つディスプレイの光を反射した。
「心配してくれる人って、俺だってそんなのいないですよ。次男だし、恋人とかもいないですし、今は仕事が一番大事なんです。……南野さんだって彼女とかいらっしゃらないんですか?毎回、誰に告白されても断り続けてますけど」
 ほんの僅かに、有沢の言葉が心の奥の何かを掠める。
 動揺を、ごくりと唾を飲み込んでかき消した。
 今更、こんな事くらいでは動揺なんてしない。広がった傷口はまるで焼け野が原のように痛みを燻らせ続けているけれど、この五年でそれを誰にも見せない様覆い隠すくらいの術は身に着けていた。
 誰にも悟られず、全てを背負い込む。
「彼女ねぇ……今はあんまり、興味ないかな。今は仕事だけでいいや」
 はは、と無理に笑って自分を誤魔化す。普通を、装う。
「モテる男は余裕があって羨ましいですよ。俺は恋人欲しくて欲しくて堪らないんですけどね……」
 南野のその足掻きが成功したのか、有沢はため息混じりにそう呟いた。
 話の方向が自分から逸れた事に安堵した南野はそちらを掘り下げる作戦へと変更する事にする。
「恋人?欲しいんだ。好きな人とかは?」
 数時間前にとってきた冷たさを失ったペットボトルのコーヒーを手に取り、一口喉に流す。残り僅かになってしまったそのボトルを手で遊びながら首を傾げた。
「好きな、人……いるには、いるんですけど……」
 口ごもる有沢は頬を赤く染め、やや俯いた。視線は中空を彷徨い、南野が遊ぶベットボトルに向けられている。
「いるんなら告白すればいいのに。っていうか、有沢なら好きになったらすぐ告白するタイプかと思ってた」
 犬みたいに一直線だから、とはさすがにつけなかった。
 南野にとっての有沢は、何事にも素直で一途、真面目で一所懸命という印象しかない人間だった。その有沢がこうして告白も出来ずに停滞しているなんて意外すぎた。
「出来たら俺だってしてますよ。……でも、ほら、勝算ないというか、俺がどう頑張ってもどうにもならないっていうか」
 そこまで言われて、ようやく合点がいった。
「ああ……なに、相手が人妻とか?」
 声にからかう調子を含んだのは、やや重くなってしまった空気を払拭するためだ。
「人妻っていうわけではないんですけどっ……!」
 そこまで言って有沢は黙り込んでしまう。
「人妻じゃなかったらなんだろ……?」
 南野が曖昧に問うても有沢からの返答はなく、俯いたままだった。
 続きを待つべきか少しだけ悩む。誰にだって触れられたくない場所はあるはずで、有沢にとってのそれがそこなのかもしれないのならば、続きを促すべきではないのだろうと判断した南野は椅子を引いて仕事に戻ろうかと机に向かいかけた。
「あの」
「言いたくないなら、無理に言わなくてもいいよ」
 有沢の言葉を遮って、ディスプレイに目を向ける。中途半端なところまで書いた見慣れた英文字の羅列があった。キーボードに手を伸ばしかけて
「えっと、引きませんか……?」
 引き留められる。
 その声が少しだけ震えているような気がして、南野は再び背後を振り返る。
「別に、お前がどんな性癖でも引きはしないよ」
 振り返ると有沢は顔をあげていて、やけに熱いような視線が絡んだ。
「本当ですか……?」
「幼女が好きでも男が好きでも獣や液体にしか勃たないとしても、俺は別に気にしないけど」
 笑い飛ばそうとしたのに、その有沢の瞳はいつになく真面目そのもので、笑い飛ばせる余裕なんてなかった。
「本当ですね……!?言った後、急に態度変えるとかやめてくださいよ……?」
「わかってるって、そんな事俺がするわけないじゃん」
 有沢はぐっと唇を噛み締め、南野の方をじっと見詰め、そして覚悟を決めたのかゆっくりと唇を開いた。
「俺、男が好きなんです」
「はぁ、そうなんだ」
 一世一代、清水の舞台から飛び降りるような空気を纏った有沢に対して、南野はそのやや間の抜けた返答しか思い付かなかった。
「え……えっと、驚いたりとかもないんですか……?」
「まあ、無機物にしか勃起しない性癖とかと比べればまだ一般的だし」
 それは確かに世間的に見れば奇異な性癖で、公言するには勇気がいる事だという事は南野にだってよくわかる。しかし、先程有沢に告げた通りどのような性癖であっても――それが例え有沢でなくとも、南野は他人がどのような性癖を持っていようと気にしない。異質な性癖に対して過剰に嫌悪感を示す人間も多い中、南野はおおらかに全てを受け止める性格だった。というよりも、周囲に異質な性癖を持つ人間が多すぎて慣れたと言うべきなのだろうか。例えば液体しか愛せない人間は南野の身近にいる。
「え、え、ほら、隣にゲイがいて気持ち悪いとか、もしかしたら自分が狙われるかもみたいなのとか……!」
「別に気持ち悪いとも思わないし、好いてくれるなら有り難いとは思うけど」
 好いてくれるなら有り難い――その相手が男であろうと女であろうと、好意を向けられる事は純粋に喜ばしい事だ。しかし、その言葉をどう理解したのか、有沢の不安げに染まっていた瞳はみるみるうちにキラキラと輝いていく。
「じゃっ……じゃあ、俺も……期待していいんですかね……!」
 期待に染まった瞳にじっと見詰められて――その熱すぎる眼差しの意味に気付かない程、南野も鈍感ではないが――ここまで有沢の期待を膨らませてしまったのは、南野が油断していたからだろう。
 今まで周囲の人間がどんな性癖であっても気にしなかったのは、その熱を自分に向けられた事がないからなのではないだろうか。
 もし数分前に戻れるのならば、ここまで有沢の瞳が輝いてしまう前に、一つだけ付け足しておきたい言葉があった。
「俺、南野さんの事が好きなんです」
――どんな性癖であっても気にする事はないが、それに応えられるかどうかはまた別の話だ、という事を、南野は伝えるのを失念していた。


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