愛情マッド
※この作品には嘔吐・吐瀉物食などの表現が含まれます。
まだ幼い子供ならいざ知らず、成人式も疾うに終えた年齢ならば、高熱を出す事も滅多になくなる。
社会人になって早数年、牧貴史(まきたかし)は学生時代以来の高熱にうなされていた。深夜に目が覚めて直ぐに身体に違和感を感じ、そのままベッドから這い出す事もできていない。実際にきちんと熱を測ったわけではないが、自分の身体が健康ではない事はよくわかる。
頭は割れるように痛み、熱くなった身体は絶えず汗を出し続け震えが止まらない。まだ意識はあるはずなのに視界が定まらず、関節がみしみしと軋んでいるかのようで立ち上がる事さえ困難だ。
このまま意識を飛ばしてしまえば死んでしまうのではないかという恐怖さえ感じる。
冷蔵庫に入っているはずの冷たいミネラルウォーターを飲んで水分を補給し、置き薬で何か使えるものがないか探したい。朝になったら会社に電話をして病欠の連絡をし、病院に行かなければいけない。――頭の中ではこれからしなければいけない事が浮かぶのに、身体は何ひとついう事をきかない。
貴史は震える手を枕元のスマートフォンに伸ばし、とある電話番号を呼び出した。
実家を出て一人暮らしをする貴史が頼れる人間は、たった一人しかいない。まだ夜明け前のこの時間、電話をかける事で相手に迷惑をかける事になる。――そうはわかっていても、頼らずにはいられなかった。
遠くで物音がする。蛇口から流れるような水音と、陶器で出来た食器や金属製の鍋がぶつかっているかのような音だ。聞き覚えのあるその音はどこか懐かしい。
夢の中にあった意識は、その音に誘われるように覚醒していく。
瞼を開くと、この数年間慣れ親しんだ天井があった。カーテンの隙間から差し込む太陽の光は、もう朝陽とは呼べない程に高い場所から照らすものだ。
「……っ!」
はっと身を起こそうとした貴史だったが、電流のように響いた頭痛に負け、低く呻いてベッドに身を沈めた。衝撃で、額の上に置かれていた濡れたタオルがずれ落ち、貴史は自分の額にタオルが乗っていた事に初めて気付いた。
遠くから聞こえていた水音が止まり、パタパタとフローリングの床をはたく音がしたかと思うと、貴史の眠るベッドのある寝室へ、音の主がひょっこりと顔を覗かせる。
「起きた?身体の具合はどう?」
昨夜何があったのか――貴史の記憶は徐々に蘇り始める。
今にも飛びそうな意識の中、幼馴染で近くに住む白岩京(しろいわけい)に電話をかけた。寝ているところを叩き起こされたにも拘らず、京はほんの十五分もせずに貴史の元へと駆けつけた。見慣れた親友の顔を見た途端、安心してしまったのか貴史はそのまま意識を飛ばしてしまったのだ。
額の上にあったタオルは京が世話をしてくれた、という事なのだろう。
強がって見せようかと迷ったものの、眩暈の伴う頭痛で起き上がれなかった事は確かだ。
「……あんまり、よくない」
貴史が正直に言うと、京は「だよね」と眉をハの字に曲げた。起き上がれない貴史のベッドの脇まで近づくと屈みこんで顔を覗き込む。
「勝手に薬箱漁っちゃってごめんね。風邪薬と熱さましはあったけど飲む?それとも病院行く?って言っても今日は休日受付になるけど」
首を傾げた京はにこりと笑んで言う。昔から変わらない笑みは柔らかく、それでいて人懐こい。大型犬を連想させるかのような笑みだった。
そこまで言われて、今日がゴールデンウィーク初日である事に思い至った。折角の大型連休に体調を崩してしまう自分の不甲斐無さを悔やむ余裕も、今はない。
貴史は昨夜目が覚めた時の体調を思い返し、今の体調と比べる。
確かに頭痛はあるし、身体を覆う高い熱と発汗は感じる。しかし、昨夜のような揺らめくような意識の揺れはない。
寝ていれば治る、と素人考えで結論するのは早計だろうかと悩みながらも、休日に救急外来の門を叩く程の症状でもない事は確かだ。
「薬飲む」
これ以上体調が悪化すれば病院へ行くこともやむなしだとは思っているが、この状態なら自宅で静養し様子を見る方がいいと考えたのだ。
「ん、わかった。薬飲む前に何か腹にいれないと。お粥の用意はしてるけど食べられる?」
貴史が頷くと、京は額からずり落ちたタオルを拾い上げ再びキッチンへと向かった。
貴史の住むこの部屋は、テレビを置いたリビングを中心に、寝室であるこの部屋とダイニングキッチンがL字型に構えられた所謂1LDKと呼ばれる間取りだ。寝室の入り口に対して平行に設置されたベッドの上からでは、リビングの様子を窺う事はできても、キッチンの様子は音でしか判断できない。
京に迷惑をかけてしまっている事に申し訳なさを感じながらも、いてくれてよかった、と心から思う。
京と貴史が出会ったのは生まれて間もなくの事だった。実家が同じマンションの隣室同士で、同い年ともなれば否が応でも共にする時間は増える。幼稚園に入る前から家を行き来して遊び、同じ幼稚園から地域の小学校、中学校と過ごし、高校も同じところを選んだ。――無論、京と同じだから、という理由で選んだのではなく、学力を鑑みてそれぞれに選んだ結果が同じだった、という話だ。
一緒に悪戯をして怒られた事もある。くだらない事で笑い合って、些細な事で喧嘩をした事もある。親友、と呼ぶにはくすぐったく、ただの友達ではそっけない程の青春時代を共に築き、今でもかけがえのない思い出だった。
流石に大学は別で、京は実家から遠く離れた学校を選び、貴史は実家から通える学校を選んだ。京が帰省すれば顔を合わせる事もあったが、普段から連絡を密にするわけでもなく、程よい距離を保っていた。
就職に伴って実家を出た貴史の新居が、京の一人暮らしする家と近かったのは偶然に過ぎない。
社会人になれば学生時代の友人とは疎遠になりがちで、新たな友人を築く事も難しくなる。二人の交友はそれまでより、より深まり、貴史は親友というよりも家族であるかのような存在だと思っている。
ほどなくして寝室に戻ってきた京は、お椀とスプーン、それに水の入ったコップをトレイの上に載せて運んできた。
「起きれる?」
普段会社に行く時よりも寝坊をしてゆっくり眠ったはずなのに、ぼんやりとした眠気と怠さが抜けないのは熱のせいなのだろうか。
「大丈夫」
勢いよく身を起こすと頭痛が増す事を学び、今度はゆっくりと身体を起こす。寝間着代わりに使用しているTシャツが汗で肌に張り付き不快だった。
京は座った貴史の脇にトレイを置いて床に跪くと、お椀をとスプーンをそれぞれの手に持った。
「ありがと」
お椀の中身は白粥のようで、貴史は受け取ろうと手を伸ばす。
「俺が食べさせてあげるよ」
けれど、京はその手をひょいと避けてしまった。
「食べさせて……って、いいよそんなの。それくらい自分でできる」
「ダメだって。病人なんだから安静にしとかないと。ほら、遠慮しなくていいから」
そう言ってスプーンで掬った粥を貴史の口元へと近付ける。
病人だから安静にしなければいけない事と、粥を食べさせてもらう事に、貴史はいまいち関連性を見出せない。
しかし、京をそっと窺うもその瞳は真剣で、揺らぎそうにもなかった。一度言い出したら意地でも意見を変えないのは、貴史が一番よく知っている。
いつだったかまだ幼い頃、京が金魚を飼いたい、と言った時も、猛反対する両親に三日三晩泣きながら「自分が絶対世話をするから」と説得した事をよく覚えていた。普段我儘を言う事のない京だったが、やりたい事となると何が何でも実行せねば気が済まないようだ。
「はい、あーん」
その京の性格を一番間近で知っているのは貴史自身で、貴史は諦めのため息をついてそれを受け入れる。
「わかったよ」
薄く唇を開けると、京はスプーンの上の粥に息を吹きかけてから、流し込む。舌の上に落ちる白粥は幼い頃から食べ慣れた素朴な味だ。その素朴さが疲れた身体に優しく染み入るようだった。
貴史が飲み込むと、京は再びスプーンにとって冷まし、貴史の口へと運ぶ。
体調不良は主に熱と頭痛で、喉の腫れや咳といった症状は見られない事も幸いして京の用意してくれた食事を満足に味わう事ができた。
なぜ京がそうまでして粥を食べさせたいのかはさっぱりわからない。が、受け入れる事で京の気が済むなら安いものだ。
「食欲はあるんだ?はやく楽になるといいんだけど」
空っぽになったお椀をトレイの上に戻し、一緒に持ってきていた市販の風邪薬と解熱剤、それにコップを手渡される。こちらは貴史が自分で飲んでもいいようで、内心ほっとしながら薬を流し込んだ。
「ありがとな」
コップを返し、礼を言う。
折角の休みにこうして時間を割いてくれている事が、たまらなく嬉しい。
唯一無二の親友はかけがえのない存在で、これからもずっとこの関係が続いていくのだと、信じて疑わなかった。
「……どういたしまして」
京ははにかんで笑み、開いた食器たちを片付けるために立ち上がって背を向けた。
京が去った事でひとりきりになった寝室を見回す。
社会人になって数年、この家に呼んだ事があるのは京だけだ。二人で酒を飲むのに互いの家を利用する事が多かったからだ。
仕事が忙しい時でも月に一度は必ずどちらかの家で酒を飲み交わす。京が貴史の家で戸惑わずに調理できるのは、この家の事を普段からよく知っているからだった。
「貴史、身体拭いて着替える?」
再度顔を出した京は、そう問いながらも既に準備を済ませていたようで、手には熱い蒸しタオルと着替えを持っている。
察しが良い京は、貴史が戸惑ってしまう程によく気が回る。口に出していない思いを汲み取られるのは有り難いと思う反面、もしや京はエスパーなのではないかとあり得ない想像まで拡げてしまう時だってあった。
「あ、……ありがと」
タオルと着替えを受け取ると、続けざまに京が腕を差し出す。一体何を求められているのかわからず見上げて首を傾げた。
「着替え、もらうよ」
淡々と、それがさも当然であるかのように京は答える。
しかし、洗濯も終えていた着替えを用意してもらうだけならともかく、汗をたくさん吸った服を手渡すのは流石に気が引けた。
「いや、でも」
「遠慮しなくていいよ」
京は貴史の言葉を遮って言う。先程と同様一切引く事のない時の声色だ。
そこまで世話になるわけにはいかない貴史は、ちらちらと差し出された腕と京の瞳を見比べてみるがやがて――諦めた。
「……わかったよ」
押しの強い京とずっと一緒にいるせいか、貴史には受け入れられる事は何でも受け入れてしまう癖がついていた。その癖が生まれついての性格だったのか、それとも後天的に身に着けたものなのかは今となっては判断のつけようもないが、京と相性が悪くないのは確かだ。
汗に濡れたシャツを脱ぎ、京に手渡す。他人の汗にまみれているそれを、京は臆す事なく受け取った。だが、それでもまだ腕は引かない。
「下もの着替えも持ってきてるから」
そう促されるであろう事は、京が持ってきてくれた新しい着替えを見てなんとなく察していた。シャツだけではなくジャージ生地のパンツと下着まで用意されていたからだ。
「……」
貴史は無意識に頬を赤らめる。
幼い頃からずっと一緒にいて、裸を見せあった事は一度や二度ではない。海やプールで遊ぶために同じ部屋で着替えた事もあったし、まして同性同士で勿体ぶるようなものでもない。
だが、一緒に着替えるのではなく自分一人だけがこうして京に見られながら肌を晒すとなるとやけに羞恥を感じるのだ。
「貴史?」
京に顔を覗き込まれて覚悟を決める。
再び頭痛に襲われない様、それと熱の怠さも手伝って緩慢な動作で下肢を覆っていた掛け布団を取り去り、下着ごとジャージを下ろして京に押し付けた。
脱いでから気付いたが、シャツと同様に下着も随分と汗を吸っていたようだ。全身が余すことなくべた付いた汗に覆われている。
何故か肌に視線が突き刺さるのを感じながら、局部をなるべく晒さないように隠しながら蒸しタオルで身体を拭いていく。
京が求めていたはずの服は全て渡したのにまだ何か用があるのか、立ち去る事なく貴史を見詰めていた。幼馴染で時には家族のように過ごした同性に身体を見せる事で羞恥を感じている、という他人行儀さを悟られたくなくて、その視線を敢えて無視する事に決める。
首周りから肩、腕、胸元、腹と徐々に移動したところで
「背中拭こうか?」
と、京から声がかかった。
――断る理由は見当たらず、静かに頷いた。
タオルを渡すと、京はぎしり、とベッドを軋ませて膝をつく。片手で貴史の肩を押さえ、力強く背中を拭っていく。
汗を拭ってもらった事で清々しさを増した背中が気持ち良い。
手の届かない範囲は粗方拭き終ったかと思った頃、京の動きはピタリと止まった。それでいて力を抜いて貴史を解放するわけでもなく、ただ時間が止まってしまったかのように動きを止めた。
「な、なに……?」
一体何があったのかと背後の京を窺うと、京はタオルではなく素手で貴史の背中を撫でる。
ぞくり、と危ういくすぐったさが走り、反射的に身体を跳ねさせた。
「京っ!?」
「いや、……大人になったなぁって思って」
京はそう言ってタオルを貴史に返し、ベッドから降りる。
「……それは京も同じだろ」
子供のような悪戯だったのか、それとも偶然手が触れてしまっただけなのだろうか。
互いに大人になり、二十代半ばを越えた。日々の仕事に忙殺されてどちらにも浮いた話はない。年齢だけは重ねるが、自分が大人だという実感はいまいちわかなかった。
「まぁそうなんだけどさ」
京は曖昧に笑って汚れ物を手に部屋を後にした。
ようやくなくなった視線にほっと息をつき、下肢の汗も拭って新しい服へと着替える。清潔な服に身を包まれて、気分も新しくなったような錯覚があった。
着替えが終わる頃に京も戻ってきていて、洗濯機の動き出す音がしていた。
そこまで世話になってしまうのは申し訳ないと思いつつも、身体を動かす事も億劫な今では有り難さの方が勝る。
寝室の入り口を背にした京は、にこりと笑んでみせた。
「俺、どうせこのゴールデンウィークの予定なかったし、体調良くなるまで付き合っていい?」
その言い回しは京の優しさだ。頑固で優しい自慢の親友は、今も昔も変わらない。
「……じゃあ、お願いしようかな」
懐かしさを孕んだむず痒い感覚に身を委ね、素直に甘える事にした。家族と離れて暮らす今、家族と同じような存在である京の温かみが嬉しかった。
ベッドに寝転んでマットレスの硬さを味わう。
キッチンで食事の後片付けをする音を遠くに聞きながら、貴史の意識は再び眠りの世界へと入り込もうとしていた。普段はそんなに眠りを必要としない方だったが、やはり体調不良が祟っているのだろう。
眠りに落ちるその瞬間、よく絞られた冷たいタオルが額に載せられたのを感じた。
橙色の夕陽が部屋を照らす。休日の夕方の穏やかさは心地良く、日々の喧騒がまるで夢のようだ。
貴史はゆっくりと瞼を上げ、覚醒する。昼間とは違う形の家具の影がどこか不気味に見えたような気がした。
そして、すぐ隣には京がいた。床に膝をついて上体の体重をベッドに預けている京と目が合うと、京はにんまりと笑みを作る。
二人の間の距離はほんの五十センチもない。少し手を伸ばすだけで頬に触れられる距離だ。近付く事はあっても、ここまでの至近距離で見つめ合う事なんてあり得ない。
驚きと戸惑いでびくりと肩を揺らすと、微かな違和感を感じた。
「……?」
何に由来するものなのか視線を巡らせ、発見する。しかし、違和感の原因を発見したところで意味がわからなかった。
「なに、これ」
怪訝に眉を顰め己の腕を持ち上げる。カチャリ、と冷たさを帯びたな金属音が響き、肌にぶつかるそれはやはり冷たく重かった。
濃灰の金属は貴史の両手首に纏い、左右は短い鎖で繋がっている。これでは左右の腕をそれぞれに動かす事は出来ない。
「見ての通り、手錠だよ」
目の前の京は、それがさも当然で当たり前といった風に答えを寄越す。けれど、貴史が求めている答えはそれではない。
それが手錠である事は、実物の手錠を初めて見た貴史にだってわかる。何故自分が今手錠を嵌められているのか――その理由を知りたかった。幼い頃ならともかく、もう子供ではない。いい年をした大人でふざけ合う時ももう過ぎた。それになにより貴史の体調はまだ回復していない。くだらない冗談に付き合うような体力はない。
「そうじゃなくてっ……」
続きの言葉が出なかったのは、唇を塞がれたからだ。ぶつかった唇に、抵抗する間もなく舌が侵入してくる。
寝転んでいる貴史と、身体を起こしている京とでは、京の方が自由に動ける事は明らかだ。それに今の貴史の手首には手錠がはまっている。
覆い被さる肩を押し返そうとしても、貴史の抵抗など京の腕一本で押さえつけられてしまうのだ。
「んっ……」
口腔内を自由気ままに侵略する舌から逃れようと首を振ってみるが、いつの間にかベッドによじ登っていた京によって更に強く押さえつけられた。下肢をバタバタと動かしてみるが馬乗りになった京に効果はない。
キスは初めてではない。学生時代や社会人になってからも、年相応にそれなりの経験をこなしてきた。
それでも、こんなにも強引で一方的なキスは初めてだった。
蹂躙する舌は嫌がる舌に絡み、上顎を擦る。流し込まれた唾液を吐き出す暇さえ与えられず、幾何か己の意思と関係なく喉の奥に流れ込む。混ざった唾液が泡立ち唇の端から零れた。
混乱で息をする事もままならず、不自由に拘束された腕をあてもなく動かす。
「暴れないでよ」
唇を離した京は、貴史を押さえ込んだまま悲しげに笑んで見せる。唾液で濡れた唇は、酷く卑猥だった。
「暴れるなっつっても……」
言葉を返そうとした貴史は、喉元に冷たい感触を覚えた。鋭い冷たさに嫌な予感がしてそちらに視線を移せば、そこには予想通り、銀色に鈍く光るナイフが突きつけられている。
動いた拍子に皮膚が切れてしまう事だってあり得るのだから、否が応でも動きは封じられてしまう。
悪ふざけにしてはやりすぎだ。
「けっ……京……?」
背中を、熱のせいではない嫌な汗が流れた。
これが夢なのか現実なのか、貴史には判断がつかない。こんなにも悪趣味な夢があるのだとしたら泣きたい程で、現実だとはとても信じる事ができないものだ。
だが、いくらそうではないと否定しても、これが現実であるという事実は動かしようのないものだった。
「一生我慢しようかと思ってたんだけど、やっぱ無理かも」
京の言葉は、まるで知らない言語かのように理解する事が出来ない。
突き付けられたナイフはゆっくりと肌の上を滑る。切れる程押し付けられてはいない――それに、京が自分を切るはずはない。恐怖の中、そう信じる貴史がいた。
喉から鎖骨をなぞったナイフはシャツの上にきて動きを止める。ごくり、と唾を飲み込む動きで貴史の喉仏は大きく上下した。
京はシャツを裾から捲り上げ、貴史の肌を露出させる。
「ひっ――――」
昼前に拭いたばかりだというのに、一度眠ったせいか熱のせいか――それとも京のせいなのか、肌は汗に濡れて光っていた。
そしておもむろにその胸元へと顔を近づける。抵抗しようにもナイフは相変わらず肌に突き付けられたままだ。
京の舌が、貴史の肌を這う。ぞくり、と嫌悪感にも近い何かが身体を走り抜け、恐怖は更にましていく。
「貴史……おいし……」
肌を舐める舌は嫌らしく水音を立てて貴史を味わう。
軟体動物のような舌は汗を掬いとるかのように動き周り、時折強く肌を吸っては痕を焼き付ける。
ただ舐められているだけだと言うのに、今にも泣き出してしまいそうな気分だ。
「京っ……お願、いだから、やめろよ……」
認めたくない事実は、受け入れたくない現実は、どう足掻いても覆る事はない。貴史は震えた声で訴える。
「ヤだ」
しかし、その訴えは軽々しくも棄却されてしまう。京は唇を離して顔をあげ、貴史を見下ろした。京の尻が下腹に体重をかけ、僅かな苦しさを覚えた。
その嫌悪感と混乱で、胃の内容物がぐるぐると駆け巡る。嘔吐の前兆である独特の唾液が口腔内に溢れ。それでも抑え込もうと努力しているのに、嘔吐感はなくなろうとしない。
「けっ……離して、ちょっと、俺、気分悪い――――っつ……!」
そう言い切る直前に、内容物は逆流する。
堪えようとし努力をしてみようとしたが、それよりも前に食道を何か熱いものが駆け上る。
「おうぁっ……」
潰れた蛙のような声をだし、自らの顎から胸元にかけてを吐しゃ物で汚す。とは言え食べたものと言えば一眠りする前の粥くらいで、吐しゃ物は消化途中だった白く濁った粥と水、それに少量の家城だった。
「……っ……!」
「あーあぁ……吐いちゃったね。大丈夫?」
京は動揺する事もなくにこやかな笑みを浮かべると身を屈め、汚れた顎に舌を伸ばす。
「ひっ――」
「貴史の味がする……」
引き攣った短い悲鳴をあげる貴史と相反するように、京はうっとりとした恍惚の声を漏らした。
肌の上を下が這うたび言い知れぬ羞恥がこみ上げてくる。
吐しゃ物を誰かに舐めとられるという事態が自分の人生の中で発生するなんて、信じたくもなかった。
「やめろ……もうやだ……」
抵抗する声は弱弱しく力ない。
京は顔を起こし、舐めとれきれなかった分は、貴史の額の上に置いていた、今は冷たさを失ったタオルで拭い取る。
溜息を吐いて、眉をハの字に寄せて笑む。
「俺だって、我慢する努力はしたんだよ……?」
泣き笑いのような、そんな悲しい笑みは貴史が初めて見る類の表情だ。
「我慢……って、何をだよ」
そんな表情の京は見たくなくて、貴史は問うた。ずっと一緒にいる幼馴染で、家族にも近い親友はかけがえのないものだ。
――だから、何かに苦しんでいるのだとしたら助けたかった。救いたかった。
今自分が置かれている現状も忘れて、京の事が心配になる。大切だから、大事だから、いつもとは違う京の身に何があったのか――気になった。
「貴史とセックスしたいって思うのを、もう我慢できない」
また貴史の言葉が理解できなくなる。単語としての意味は全てわかるのに、言葉全体が指し示す意味を理解する事が出来ない。
「貴史とセックスして、たくさん流し込んで、孕ませて」
ナイフはシャツを乗り越え、柔らかな腹の上を滑り落ちる。ナイフは京が体重をかけている臍下で一旦動きを止めるが、京は腰をずらしてすぐに動きを再開させる。
ジャージをずりおろし、下着もおろしてしまう。心の底から嫌だと思っているのに、恐怖で動く事すらままならない。身体は熱のせいかやけに熱かった。
「どこにも行かせないように閉じ込めて、全部俺のモノにしてしまいたい」
無防備に晒された萎えたペニスにナイフを押し当てられ、喉が引き攣った。
「だから、俺のモノになってよ」
視線の絡む瞳は、貴史がよく知っている京のものだ。普段は我儘なんて言わないのに、一度言い出したら何が何でも自分の意見を押し通し、それでいて優しさの溢れる男の、瞳だった。
孕ませたい、なんて言ったところで貴史は男で、そんな事ができる身体のつくりにはなっていない。
いつからそんな目で見られていたのか、検討もつかなかった。
「京……の、モノ」
それが一体どういう事なのか――貴史にはよくわからない。よくわからない中でも、碌でもない意味だという事だけはわかった。いくら押しの弱い貴史でも、決して受け入れてはいけない類のものだと、わかった。
ふと視線を移してみれば、京の下腹では服の上からでも見てわかるほどに膨らんでいた。
貴史は決死の思いで首をがくがくと左右に振る。
親友を一番理解できるのは自分だという自信があった。知らない事はないくらいの時を共に過ごし、楽しい事も嬉しい事も辛い事も哀しい事も共有してきた間柄だ。
だから、自分の事のようによく知っていたはずだった。
「うっ――……」
ペニスに押し当てられたナイフに力が込められる。このまま切られてしまうのかと唇を噛み締めたその瞬間、ナイフは外され、しかしその刃先は京自身へと向いた。
己の首元に押し当て、引く。
「言う事きいてくれないなら、このままここで死ぬ。貴史の上で首切って、たくさん血をかけて死んであげる。貴史の一生忘れられない存在になってあげる」
見つめ合ったままの瞳は、いつもと何も変わらない。瞳に狂気なんてどこにも感じられない。穏やかな喋り口調で――けれどそれが、恐怖だった。
ナイフは肌を切り裂き、じんわりと血が滲む。
「京っ……」
一度言い出したら、決して意見を変える事はない。実行するまで譲る事はない。妥協を知らず、一途に行動する――。
「わかった、言う事きくからっ……」
どうして突然京がそんな事を言い始めたのかはさっぱり理解できないし、理解をする気もない。
だが、このままでは宣言の通り京は自ら死んでしまうのだろう。それを恐れた貴史は、京を受け入れる事にした。
途端に京は晴れやかな笑みを見せる。今までのものが全て演技だと言われれば信じてしまいそうな、それくらいの切り替えの良さだ。
「京なら、きっとそう言ってくれるって思ってた」
しかし、どうやら演技というわけではなさそうだ。
京は自身の喉を切ろうとしていたナイフを、再び貴史に向けて、今度は皮膚ではなく布を切り裂いた。腹の真ん中を首元に向かって縦に、そして左右の袖を切る。着ていたシャツがびりびりと音を立てて形を崩していく。
恐怖は毒のように身体にまわり、声を出す事すらもままならない。
ジャージと下着はそのまま足先から抜き取られ、生まれたままの姿で転がされる。
ふと横を見れば、寝入る直前に額に感じた冷たいタオルが、今はもうその冷たさも失ってシーツの上でしなだれていた。
ベッドの下に置いていた京が持ってきた鞄の中を漁ると、小さな小瓶を持ってきた。中に入っている液体は透明で粘ついている。
「貴史、手をついて四つん這いになって」
子供ではないのだから、求められている事の意味はよくわかる。男同士のセックスに興味はなくとも、どのようにするのかくらいの知識はある。
だが、自分がそんな事を求められる日が来るとは想像もしていなかった。
そして、自分が受け入れたのだから従わないという選択肢はない。
貴史は気怠い身体を引き起こし、京に尻を向けて四つん這いになる。
「もっと頭下げて、尻あげて」
言いながらに肩甲骨あたりをぐいと押さえこまれ、強制的にその恰好にされてしまう。
「っつ……」
屈辱的なポーズを取らされこれから起こる事を覚悟して、零れそうになる涙を必死で飲み込んだ。
京は小瓶の蓋を取り、中身の液体を手に取る。その際に液体はぽたりと流れて貴史のマットレスに染みを作ったが、今は文句の一つも思いつかない。
尻たぶを割り開かれて、今まで意識もした事のないような場所が空気に晒される。
粘る液体を纏った指が、後孔に押し当てられて貴史は息を呑んだ。物心ついてからは座薬さえも飲み込んだ事のない排泄器官に指が侵入する。
不思議な事に痛みはなかったが、抗い難い圧迫感があった。
拘束された腕に額を押し付けるようにし、指先は無意識にシーツを握り締める。熱くて仕方のない身体が辛かった。
「息吐いて、力抜いて」
京に促されて必死で力を抜こうとする。しかし、呼吸をする度に感じる指の感触が気持ち悪くて己の意思ではどうにもならない。
京は小さく嘆息すると、キャップをとった小瓶の口を指と後孔の隙間にあてがう。
「っ――!」
体内に入り込む冷たさはすぐに体温に馴染んでしまう。
孔から漏れた液体が内腿に垂れて不快だった。
いつまで経っても弛む事のない孔に焦れたのか、指はやや強引に奥を目指す事にしたようだ。
「んっ……」
骨張った男の指は液体の滑りを借りて貴史の後孔を侵す。太い第二関節が硬い入り口を通過すると、あとはもう貴史に抵抗する術はなくなってしまった。
強引に突っ込まれてしまえば流石に引き攣れるような痛みを感じた。
根本まで差し込まれた指が内壁をぐるりと掻き回し、その異様な感覚に反らせた背を震わせる。
濡れた指が粘膜とぶつかる事で、卑猥さを伴う水音が響く。
「けいっ……」
信じていた男の名を呼んで、ぐっと唇を噛み締めた。
いっそどんな痛みを感じてもいいから、どんな怪我をしてもいいから、一思いに犯されたかった。この辛い時間を少しでも早く終わらせたかった。
二本目の指を感じて、貴史の瞳からは堪えきれなくなった涙が溢れる。
今までずっと我慢していた涙は、一度溢れてしまえばもう止める事はできない。せめて声をあげないように、と静かに頬を濡らす。
指が捩じ込まれ、どうしようもない現実を受け止める。
「貴史のナカ、あったかいよね」
興奮のせいかいつもより上擦った京の声が身体に沁みる。
体表よりも体温が高くて当たり前のはずのそこだが、そもそも今日は熱を出して寝込んでいたのだ。今もまだ熱は下がってはいないし、頭痛だって身体の怠さもある。
何故こんな目に合わなければいけないのかと悔しさで更に涙が溢れた。
二本の指は柔らかな粘膜を容赦なく掻き回す。体内を拡げるように好き勝手に蹂躙し、貴史の知らなかった場所を撹拌する。
そうされているうちに痛みは徐々に引いていき、言い様のない圧迫感と気味の悪さにも慣れてくる。
京は空いたもう片方の手を、股の間にぶら下がる萎え縮こまったペニスへと回す。そこを自分以外の男に触られるのは初めての経験だ。
爪の先で裏筋を撫でられて、背にはぞくりと電流が走る。
すすり泣きながら、ペニスに与えられる刺激に必死で耐えた。快感を感じるには恐怖が勝りすぎていて勃起もしない。
京はぐい、と二本の指を目一杯広げて貴史の後孔を拡げる。
自分でも見た事のない場所に、京の視線が突き刺さった。
「赤くうねって、すごくエロい」
そんな感想を聞きたくもないのに、耳を塞げる程の自由も与えられていない。
指は貴史の内壁を掻き回したかと思うと、ある一点を抑えて動きを止めた。
「ここ、どんな感じがする?」
どんな感じ、と問われても、初めて拓かれた体内はその衝撃に熱と圧迫感しか感じない。
「ねぇ答えてよ」
けれど、京は口を噤む事を許そうとはしなかった。
貴史は抑えこまれるその場所に意識を集中させる。指先の感覚を、関節の太さを覚えこもうとするかのように体内を締め付ける。
すると、今までの圧迫感や違和感とは違う下腹の重さに気付いた。
それが何を指し示すのかは、今の貴史にはわからない。
じんわりと下腹に響くような重さがそこから拡がっていく。
「……っ、なんか……重くて、変……」
絞り出すような声で答えると、背後の京は喉の奥でくすくすと笑った。
「そっか、なら良かった」
何が良かったのかと問う余裕はない。
ぐりぐりと抉り込むように抑えられ、今までに感じた事のない不思議な重さが沁み込んでいく。
背後にいる京は、貴史がよく知る京のはずなのに――声も姿形もその瞳も、大切な幼馴染のはずなのに、中身だけが知らない男へと入れ替わってしまったかのようだ。
ペニスを弄る手はどうにか快感を与えようと手のひらで輪を作って扱いた。
「……っ!」
快感になりきれなかったくすぐったさが、体内から溢れる重さと合わさり、下肢を痺れさせていく。
快楽というには程遠く、けれど不快なだけではない奇妙な感覚に支配され、身体の芯が蕩けてしまいそうだった。
自分の身体の変化に戸惑い指を締め付け、その形を感じて慌てて力を抜く。漏れそうになってしまう声を飲み込んで尻を掲げ続けた。
「そろそろいいかな」
京の指は内壁を強く擦りあげるように引き抜かれ、入れ替わりに熱く硬いものが押し付けられる。
それが何なのか、振り向かずとも理解する事ができた。
いきり勃った自分以外の男性器を見るのは、これが初めてだ。
液体で淫らに濡れた孔の入り口を、先端が擦りまわす。その動きはまるで自分の匂いをつけようとしているかのようだ。
ゴクリと息を呑み、衝撃を待ち構える。貴史の指先がかき集めたシーツは乱れて皺になっていた。
「挿れるよ」
囁かれると同時に、割り開かれる。
指とは比べ物にならない熱さと体積を誇るそれが、京の体内へと侵入する。
焼き切れてしまいそうな痛みを感じ――頭がクラクラとした。
狭い内壁をこじ開き、男根はじりじりと奥を目指し進んでいく。
誰かを組み伏せて犯したいという欲求は貴史だって抱いた事がある。それは生きていくうえの本能に基づいたもので、男であるのだから当然だ。だが、まさか自分がこうして男に組み伏せられてしまう日が来るなど想像もしていなかった。
「うあっ……」
張り出たカサの部分が硬い入り口を通過し、柔らかな内壁を擦り上げる。
脈打つその体温と圧迫感が、貴史の神経を支配していく。
先程、指で抑えこまれていたその場所を強く擦られ、重力がなくなってしまったかのような浮遊感を覚え、小さく悲鳴をあげる。地面がなくなってしまったかのような、上下がなくなってどこか別の場所に突き落とされ、身体が浮き上がる。
「貴史、好き……」
貴史を獣のように穿ちながらそんな夢心地な声を出す。
貴史の白い尻は、掴む京の指の形がついてしまいそうだった。
男を知らない身体は一度に飲み込みきれず、京は一度腰を引き、そして再び挿し入れる。
その際にも狙ったかのように前立腺を抉り、京の身体に変化を送り込む。
「けいっ……やだ……ぁ」
頭にカッと熱がのぼる。頭の芯が蕩けてなくなってしまいそうな熱だった。
唇の端から涎が零れ顎を汚す。
「ひぃぃ――」
不思議に重いその刺激が快感へと変わる。
熱く硬い男根でその部分を強く抑え込まれ、理性なんてどこかへ行ってしまいそうな快楽に呑まれてしまう。
貴史自身ですら知らなかった愉悦を呼び起こす神経の塊を嬲られ、萎えていたはずのペニスもいつしか勃起し、先端から透明な蜜を溢れさせていた。
「好きだよ」
呟く京の声は貴史には届かない。
引き抜かれる瞬間のどうしようもない排泄感と、感じる場所を抉られる至上の快楽に犯され、今はシーツに縋りその相反する二つの感覚に耐える事だけで精一杯だった。
貴史の柔肉は侵入してくる京の男根を締め付けうねる。
狭い肉壁を割り開き、京は奥を目指す。――そしてやがて、尻に京の下腹がぴたりと重なった。
根本まで埋め込まれ、腹の中が熱い。脈打つ男根の全てが感じ取れる程に敏感だ。
「ねぇ貴史、全部入っちゃったね」
声の主はうっとりと囁き、貴史の下腹に手を回す。埋め込んだ部分を腹の外から確認するかのような、そんな動きだった。
奥の奥までみっちりと飲み込まされ、苦しくて仕方のないはずなのに、太い男根が前立腺を圧迫しそこからじんじんと快楽が溢れ出す。
「もっ……やっ……」
自分の身体がどうなってしまうのかもわからず、不安で仕方がなかった。
これ以上続けてしまえば、もう後戻りもできなくなってしまいそうで――不安だった。
「嫌じゃないよね?……ほら、貴史も感じて」
下腹を撫でさする指先は下生えを辿り、主張するペニスへと辿り着く。
繊細な指先は根本から先端へとなぞり、溢れる蜜を敏感な亀頭へと塗りこんだ。
「んっ……」
広がる甘い愉悦を、唇を噛み締めて耐える。拘束された二つの手は強くシーツを握り締め、指先は白くなってしまっていた。
「もっと、気持ち良くしてあげる」
そう言って京は繋がったまま貴史の左腕と左足に手をかけ、強引に身体を反転させる。
「ひっ――!」
よく濡れているとは言え、今までとは違う動きに引き攣れるような痛みを覚え悲鳴をあげた。
しかし、その痛みもすぐに終わる。身体を仰向けにし、ベッドに体重の全てを預けられるようになって、今までよりはいくらか楽な姿勢になる事ができた。
「京……」
そして、その姿勢――所謂正常位の体位は、己を抱く男の顔がよく見えた。
「貴史、好き」
体内に脈打つ男根を感じながら、唇を塞がれる。
「んっ……」
よく見知ったはずの幼馴染は、貴史の知らない男の顔をしていた。
合わさった唇は啄むようにキスを繰り返し、その度に男根を締め付けてしまい熱が昇る。勃ちあがったペニスが京の腹に擦れ、その倒錯的な愉悦に思考は痺れていく。
京は貴史の肩を抱き込むようにすると、いよいよ腰を打ち付けはじめた。
「あっ……んぁっ……」
肉が濡れたその場所を抉ると、卑猥な水音が部屋に響く。
内壁を擦られるという強制的に与えられる快感から逃れる術はなく、ただ喘ぎながら享受するしかない。仰向けになった事で縋る場所を失った指先は互いに組んで己の拳に爪を立てる。
見上げれば感じる男の顔は間近で、こうして抱かれるのは嫌で嫌で仕方がないはずなのに――不思議と嫌悪感はなかった。
「だ、めっ――京、それっ……やだぁ……」
「だーめ。ここ、気持ちいいよね?」
すすり泣きながら首を振り制止を求めるも聞き入れられる事はない。
京は狙いを定めて貴史の感じる場所だけを捏ね回していた。ごりごりと音がしそうな程に敏感なその場所を抉られ、宙に浮いた足が跳ねて愉悦に踊る。
「やっ……」
体内を抉られるその瞬間、湧き上がる快楽は頭の芯から足先まで、身体の隅々を駆け巡った。
男を咥えているという認めたくない現実がスパイスとなり、逃れられない快感に捕縛される。
指先がじんじんと痺れて感覚がない。
まるで自分が孔だけの人間になってしまったかのように、そこで得る快楽だけが全てだった。
「貴史可愛い」
うっとりとした風にそう言うと、京は再び組み伏せた男に唇を重ねた。男根は根本まで挿入し、今度は舌を絡めて唾液を流し込む。
身体の中を暴れる愉悦を吐き出す口は塞がれてしまい、その息苦しさに身を捩る。流し込まれる唾液を吐き出す事すら叶わず、飲み込んでしまっていた。
埋め込まれた長大な男根で満たされた腹が苦しくて――締め付ける。何度も抉られた事で敏感になった内壁は、脈打つ男のカサの張り具合も、浮き出た血管も、反り返った裏筋も、全てを感じとれてしまう。
上は舌が、下は男根が、それぞれに男を受け入れて、感じている――。その現実は酷く倒錯的で、絶頂への階段を駆け上らせる。
身体の熱は体調不良による発熱なのか、それとも今こうして犯されて感じている事によるものなのか、貴史自身も判断がついていない。
ただ、今は与えられるままに貪るしかなかった。
「――っ!」
愉悦が身体を駆け巡る。
男根をより一層締め付け、脈打つその動きさえ天からの恵みのように感じた。
嫌で嫌で仕方がなかったはずなのに――自分から求めてしまう。快感に呑まれた頭ではもうまともに判断する事は出来なかった。
自ら舌を絡め、拘束された手で京の胸に縋る。
手を伸ばせば届く絶頂を掴みとるために、貴史は不器用にぎこちなく腰を揺さぶった。
感度の良い前立腺はそんな頼りない動きでも十分に愉悦を湧き上がらせる。
「んっ……」
溜まっていた熱いものが精道を割り開き、出口を目指す。
京の下腹に擦られたペニスはびくびくと震えて甘い液体を吐き出した。
これまでに感じた事のない愉悦に内腿が震え、体内の男を何度も断続的に締め付けては深く長い絶頂の余韻に浸る。
「イっちゃったんだ?」
唇を解放され、貴史は浅く荒い呼吸を繰り返した。
京は貴史の腹の上に飛び散った白濁の液体を指先に絡め、貴史の唇に紅を引くように塗りつける。
そして、その唇に貪りついた。貴史が抵抗する暇も、青臭い独特の臭いに眉を顰める隙もなかった。
「じゃあ次は」
貴史の足を肩に抱え直した京は姿勢を整える。上体を起こし、貴史の腰を捕まえる。
そうする事によって埋め込まれた男根が絶頂を迎えたばかりで敏感な内壁を擦りあげ貴史に甘い吐息を吐かせた。
「俺の番、ね」
「ひっ――」
宣言をして、腰を動かす。
先程までの動きは貴史に快楽を与えるためのもので、今度は己の快楽を追うためだけのものだ。
貴史の肉孔を、己の快楽のために掘削する。
遠慮もなく、強く奥まで叩き込む。
それでも快楽を感じてしまうのだから、貴史は泣きたいような気分だった。
いくら身を捩ろうとも腰を掴まれていては大した抵抗にはならない。
絶頂を迎えたというのに続けざまに与えられる快感は、どうしようもないくらいに気持ちが良い。
頭がおかしくなってしまいそうで怖いのに、その先を知りたいと思う貴史がいた。
「ひあああああっ……」
前立腺を抉られ、悲鳴をあげる。涙が零れて髪を濡らした。
「貴史のナカ、すっごく気持ち良い」
熱に浮かされたような男の声が腹に響く。
自分でコントロールする事の出来ない、地獄のような快感を与え続けられる。
はぁはぁと肉食獣のような激しい呼吸の京は、今にも貴史を喰わんとしているかのようだ。
「京っ……そこっ……やぁっ……」
内壁を擦られる愉悦は、いつまでも味わっていたいと――理性を忘れてそう願ってしまう程の、愉悦だった。
己の紡いでいる言葉が一体何なのか貴史自身も理解していない。
「くっ……」
体内を容赦なく蹂躙する男は低く呻き、ギリギリまで引き抜いてから最奥を目指すように勢いよく打ち込んだ。
微かな痛みと、甘く蕩けるような快感がこみ上げる。
「ひっ――」
貴史の腰を持ち上げて、真上から垂直にペニスを差し込む。今まで届かなかった場所までみっちり埋められているのがわかる。
二人にほんの一ミリの隙間もないように密着し、貴史は微笑んだ。
「孕んで」
それが合図だった。
京はぶるりと腰を震わせたかと思うと、貴史の何も孕まない腹の奥で己を解放する。
流し込まれるその熱に刺激され、貴史も二度目の絶頂を迎えた。放出した白濁は貴史の顔を淫猥に汚す。
身体が熱くて仕方ない。思考はぼんやりとし、何も考えられない。関節は痛み、指一本を動かす気力さえ残っていない。
全て夢だったのだろうか。
大人になって久しぶりに出した高熱が、あり得ない夢を見させたのだろうか。
――そう信じたいのに、じんじんと熱を持った尻がそうではない事を教えてくれる。
遠くから足音を感じて、貴史は気怠い身体で掛け布団を引っ張り頭まで潜り込み、壁の方に向いてドアの方へ背を向ける。それと同時に寝室の扉が開かれた。
「さっきは無理しちゃってごめんね」
そう言って、京は貴史のベッドのすぐ脇にまでやってくるとそこで足を止めた。
「その……貴史を傷つけるつもりはなかったんだけど、……つい、理性がきかなくなっちゃって」
潜りこんでいるせいで京の表情は見えなかったが、声色はいつもと変わらない。少なくとも反省を感じ取れる類のものではなかった。
京のした事は許される事ではない。日本の法律に則ればそれは犯罪行為でしかなく、どんな言い訳だって通じるわけがない。
「……っ今すぐ、出ていけ……!」
喘ぎすぎて掠れた声で低く怒鳴る。
京の話はもう聞きたくなかった。
たったひとりの幼馴染で、誰よりも大切な親友だった。家族のような存在で、一番の理解者だと思っていた。
それなのに――そうではなかった。
あろう事か身体が弱っているという時に貴史の抵抗を封じ、己の欲望のためだけに身勝手な行為を働いた。
もう元のような関係には戻れないだろう。
「いやだ」
しかし、京はそれが当たり前だという風に拒絶する。
「とりあえず、貴史の体調が治るまでは面倒見るよ」
「そんなのいいから」
「俺を呼び出したのは貴史だろ」
苛立つ貴史の声を遮って、京は淡々と言葉を紡いだ。
なぜあの時――京なんかを頼ってしまったのか、まだ手錠をされたままの腕を微かに震わせて後悔する。
京に頼らずともひとりで対処できていたのではないだろうか――いや、確実に出来ていたはずだ。
それなのに――その時は心細くて、誰かに頼りたくて、京を選んだ。
ぎしり、とベッドが軋んだかと思うと、京がそこに腰を下ろしていた。
背中に感じる京の気配は知っているもののはずなのに、怖かった。
「ごめん。……反省してる。俺は貴史が好きなんだ。好きで好きでどうしようもないくらいに貴史が好きなんだ。ずっと一緒にいて、俺たち男同士だし、このままじゃだめだって思ったから大学も遠くのところ選んで離れようとしたんだけど……就職したらなんか近くに住んでるしさ。……一生、我慢しようとは思ってたんだよ。思ってたけど……けど、我慢できなくてさ。……本当ごめん」
背後から、まるで幼子を宥めるかのような優しい声音で、京は言う。
その言葉は真実なのか、信用にあたるものなのか――貴史にはもう何もわからない。
体勢を変える事も声を出す事もなく、ただじっと京の言葉を聞いていた。
京は貴史の身を包む掛け布団を恐る恐るといった具合にそっとめくりあげる。抵抗はしなかった。
外部の空気に触れた頬に、京の視線が突き刺さる。それがわかっていても目の前の壁を睨みつけたまま動く事はしない。
「貴史、ごめん。俺だって本当は貴史を傷つけるつもりじゃなかった」
今にも泣いてしまいそうな京の声が耳に痛い。京のそんな声は幼い時以来ではないだろうか。
幼い頃の京は泣き虫だった。例えば幼稚園で出た給食に苦手なものが入っていて食べられない時や、小学校に入ってから授業に必要なものを忘れてしまった時など――京はその度に瞳を潤ませ、貴史は慰めてきた。嫌いな食べ物は食べてあげたし、忘れ物も貸せるものなら貸した。
そうすると、泣いていたはずの京は驚く程の可愛らしい笑みをくれるからだ。
その笑顔が欲しくて、その笑顔を守りたくて――――けれど、今はどうだろうか。
「貴史……ごめん」
いくら泣いて謝られても、あんな非道な事をした京を許す気には到底なれない。
純粋だったあの頃から随分と成長した。そして、二人の唯一無二だった関係は壊れてしまった。
貴史は口を開く。
「……って」
しかし、貴史の発した声は小さく、京はうまく聞き取れなかったようで首を傾げる。
声を出す事も億劫な程に、体調不良による熱と身勝手な行為に貴史は疲れ切っていた。
「もう一回、言ってよ。聞こえなかった」
身体中が怠くて仕方ない。できる事ならこのまま眠りについてしまいたい程だ。
貴史は小さな溜息を吐き、言葉を発した。
いくら疲れていたとしても、伝えなければいけなかった。
「帰れって。もう謝らなくていいから、今すぐ帰れ。……それで、もう二度と俺に関わるな」
それだけを言うと再び掛け布団を引っ張って頭まで覆った。
しかし、貴史を見詰める視線は動く事はない。しばらく貴史を睨み付けていた視線は大袈裟な溜息を吐くと口を開いた。
「……わかった」
貴史から視線を外して、この部屋に置いていた自身の鞄の中を漁る。目的のものはすぐに見つかったようで、右手に構えると再び貴史を見た。
「ねぇ貴史、これで最後だから。最後にこっち向いて?」
猫なで声とでもいうのだろうか。柔らかく懇願する京の声が聞こえた。
京のいう事をきく必要はない。
このまま無視を続けて、はやくこの部屋から出て行ってもらわなければいけない。
だが、相変わらず手錠で繋がれたままだし、出て行く前にこれだけは鍵を外してもらう必要があった。
貴史は仕方なく、熱で重い上体を引き起こし、京の方へと視線を向ける。そして、後悔した。
「そんなに俺の事が嫌なら、今ここで死んであげる。俺は貴史のために生きてた。貴史と一緒にいたくて、生きてた。もうそれが出来ないって言うんなら、死んだ方がいいよね」
京が取り出したのは先ほども使用していたナイフで、それを再び自身の首元へと押し当てている。
「じょ、冗談……やめろって……!」
慌てた貴史の声は上擦っている。
制止を求めると京はにやりと厭らしく笑った。
「冗談だと思うんだ?俺は本気なのに、貴史は冗談だと思うんだ?俺が今までどんな思いで過ごしてたかも知らない癖に?」
ナイフの刃先が京の肌を滑る。いつ抉ってしまうのか――冷や汗は貴史の背筋を流れ落ちた。
「思い……?」
「俺は、ずっと昔から貴史の事が好きだった。いつも傍にいてくれたし、困った時には助けてくれた。貴史の事を友達としてじゃなくて、恋愛対象として好きなんだって気付いてからは、いつも必死で我慢してた。貴史が他の人間と話する度にイラついてたし、――けど、俺は男だから。貴史に好きだって言っても気持ち悪がられるだけなんだろうなとか思って、せめて仲の良い友達でいられたら、と思って必死で我慢してた。それなのに貴史は彼女作ったりしちゃうし……」
京は唇を噛み締め、そして再び口を開く。その瞳は潤んでいた。
「だから、もう貴史の事は諦めようと思って、離れ離れになるようにしたのに、なんか知らないけど貴史が近くで就職してまた近所になっちゃうしさ……。離れてる間は、少しくらい忘れる事もできてたんだよ。でも、近くにいたらやっぱり貴史が一番気になる。昔から――今もずっと貴史が好きで、好きすぎて、苦しい。生きてるのも辛いくらい、苦しい」
声は揺れ、頬には涙が伝う。
貴史は京から視線を外す事も出来なかった。
それ程までに真っ直ぐな思いを、叶わないとわかっていながら持ち続けるのは一体どれ程の辛さがあったのだろうか。
経験はなくとも、想像する事くらいはできる。
「俺、もうこの先一生貴史以外の人間を好きになれないと思うし、貴史の事を嫌いにもなれない。ずっとずっと好きで居続けるんだと思う」
ぼろりと溢れる涙はとめどなく綺麗な京の顔を汚す。
「でも、それも貴史には伝わらないし……それに今日はやっと貴史を抱く事もできたし、このまま死んじゃってもいいかなって」
京は泣きながら笑ってみせる。そして、いつの間にか貴史の瞳からも涙が溢れだしていた。
大切だと思っていた大事な親友の事を、一番理解しているつもりで何一つ理解してやれていなかった。その後悔が涙となって押し寄せる。
「……京」
か細い声で、親友だった男の名を呼ぶ。
「俺は、京に死んで欲しくない」
幼い頃から苦楽を共にした、兄弟のようなものだ。
いなくなってしまうなんて考えられない。――今は顔も見たくないくらいの気分だったけれど、過去を思えば決してそうではない。
貴史が成長する過程で、京という存在は切り離せないものだった。
いつでも隣には京がいて、楽しい時も不安な時も、辛い時も苦しい時も共に歩んできた。
それなのに、今の京は理解する事が出来ない。
「じゃあ、俺の事好きになってよ。俺のモノになって、一生ずっと、ずーっと一緒にいてよ」
京は涙を拭い赤く腫れた瞳で貴史を見詰めた。
後悔と同時に、苛立ちもこみあげる。
どう動く事もできないこの状況への、この状況を招いた京への、どうしようもない苛立ちだった。
死んでほしくない事と、好きになる事はまた別の問題だ。
恋愛感情というものがどういうものなのか、貴史だってそれなりに理解している。
例えばもし――京のこの告白が強引なものでなかったら、無理矢理身体を繋ぐなんて事をせず、もっと自然な形で距離を詰められていたなら――。
親友の延長線上から恋人という関係もあり得ていたかもしれない。
勿論貴史の恋愛対象は女性のみで、そこに京が入り込める結果になっていたかもわからない。だが、可能性としてならあったのだ。
しかし、それももう全て壊れてしまった。
強引に身体を繋げた事について素直に謝るだけではなく、こうして命を盾に我儘を通そうとする姿は、酷く滑稽だ。
いくら今まで貴史が京の我儘を許容してきていたとは言え、こんなにも自分勝手な我儘は飲み込む事ができない。
もう親友として――友達としてすら顔を合わすつもりはない。
「…………」
京の言っている事が心底理解できず、貴史は口を紡ぐ。
きっと、何を言っても無駄なのだと思ったからだ。
「ねぇ貴史、俺は貴史の事が大好きだよ。だから、貴史を傍においておきたい」
自分の事なのに、他人事のように言葉が頭を素通りしていく。
京にかけるべき言葉はどこにも見当たらない。
どう頑張ったところで貴史は京の気持ちに応える事ができない。
京の我儘を退けるのはこれが初めてだ。
――だから、その我儘を退ける方法を知らなかった。
「何か喋ってよ」
無言を貫く貴史に焦れた京はそう唇を尖らせる。
だが、いくら頭を回転させても、体調不良も手伝ってか言葉は浮かばない。
じっと射抜くような瞳に見詰め続けられ、身体の怠さを意識する。
それどころではなくうっかり忘れかけていたが、そもそも貴史は高熱を出していたのだ。
休日のため病院も開いておらず寝て休む事くらいしかできないのに、目の前の京はそんな事にはお構いなしだ。
「ね、貴史」
呼びかけられて、睨み返す。
苦しい思いをさせたかもしれないし、理解もできていなかった。けれど、そこに貴史の責任はないだろう。
「俺は」
「ああ、わかった!」
ようやく紡ごうとした言葉を遮って京はパン、と手を打った。
その表情は先程と打って変わってにこやかで――楽しげだ。いつも見慣れた笑みのはずなのに、何故かどこかが違うと頭の中で警鐘が鳴り響く。
逃げなければ――それは恐らく、本能的ななものだ。
しかし、熱で怠く、こうして身体を起こしているだけで精いっぱいで、おまけに手錠まで嵌められてしまっている貴史には逃げる術がない。
京はナイフを置いて鞄を漁る。
ほっと出来たのは一瞬だけだった。
「無言なのはいいよ、っていう意味だよね。貴史は昔から照れ屋さんだったからね」
ぞくり、と総毛立つ。
「け、……京……?」
違う、そうじゃない、と拒みたいのに、恐怖で震えた喉は引き攣って声を出そうとしない。
「大丈夫。ちゃんと全部面倒見てあげるから」
じゃらり、と冷たい金属の音をさせ、京は鞄の中から何かを取り出した。
「京……!」
光る瞳が、もう正気ではないのだと、あの頃の――懐かしい過去にはもう戻れないのだと、教えてくれる。
「貴史はずっと俺の側にいればいいよ」
取り出したものは首輪で、動けない貴史の首にガチャリと嵌める。首輪からは金属製の長い鎖が伸びていて、先程の金属音はその鎖が擦れた音だった。
「京……こんなのっ……」
「何も心配しなくてもいいよ。もうどこにも行かせないし、絶対に手放さない」
京は鎖を腕に巻いてその端を握りしめたまま、貴史の身体に腕を回して抱き締める。
熱い身体に感じる京の体温は酷く冷たいような気がした。
「会社もやめちゃおうね。俺が養ってあげる。俺もそんなにいい給料もらってるわけじゃないけど、他の誰かに盗られちゃうよりマシだもんね」
「い……やだっ……」
京は、京でなくなってしまったのだろうか。
過去は思い出に成り下がり、思い出から続くはずの未来は一体どこへ行ってしまったのだろうか。
貴史の知る京は決してこんな人間ではなかったはずだ。ここまで自分勝手で、危うい思考回路をした人間ではなかったはずだ。
「だーめ」
貴史の耳元で京は茶化すように言う。
「もう絶対、なにがあっても離さない」
ぎゅっと抱きしめる腕に力がこもり、痛みを感じる程だ。
「貴史、愛してる」
それが冗談でない事は――京を理解できていなかった貴史にもよくわかった。
これからどうなるのか予想すらできないが、これまでと大きく違ってしまう事だけはわかる。
全ては崩れ壊され、新たに形造られる。
そして、それは貴史の望むものではないであろう事もわかる。
わかってはいるのに、逃れる方法がなかった。
暴れて力づくで逃げようと思えばどうにかなるのかもしれなかったが、それも今のコンディションの貴史では無理な話だ。
それに、京の狂気に逆らう事が怖かった。
逆らえば今以上の目に合されてしまうのではないかと、怖かった。
――全てが変わりゆく音がした。
終わりへの道しるべだった。