薫る紫煙の行方 第九話


「俺は湊さんの事が好きなんです!いつまでも忘れられなくて、こんな年になってもまだずるずる引き摺って、何かある度に泣きそうになって、それくらい湊さんの事が好きなんです!」
 勢いのまま湊の方へ身を乗り出し、両腕を掴まえ正面から見据えて怒鳴りつける。鼻先がくっつく程の近さで見詰める湊の表情は何を考えているのか読めなかった。
 視界が水分で潤む。
 零れないように我慢しながら、けれど鼻の奥が酷く熱く喋り辛かった。
 それでも、古渡は言葉を吐き出したかった。
「だから、また湊さんを傷付けてしまわないうちに離れなきゃいけないんです!……それなのに湊さんはっ……!」
 零れてきたものを手の甲で拭い、顔を伏せる。
 視界に入った湊のスーツにいくつか涙の染みが零れ落ちた。
「湊さんの事傷付けて、本当に申し訳ないと思ってるんです。……だから、もう二度と傷つけたくないんです。でも、俺、湊さんの近くにいるとおかしくなっちゃいそうで」
 混じる嗚咽は、抑えようと思っても抑えられない。
「俺は湊さんの事大好きなのに、でも湊さんからは愛してもらないんだって思うと、本当に苦しくて……!だから、湊さんの迷惑にならないうちに、こんな関係終わらせたいんです」
 全てを吐き出し終えた古渡は唇を噛み、鼻を啜った。
 湊の前で泣いてしまったのだ、と自身を恥じる気持ちはあったが、涙は留まることなく溢れ続ける。
「古渡……」
 俯く古渡は、後頭部に手の温もりを感じた。
 まるで幼子をあやすかのように、湊の手が古渡の髪を撫でている。
 その行動に一体何の意味があるのだろうか――。優しくされればされる程、黒く澱んだ苛立ちが湧き上がった。
 湊の手を振り払おうとしたその時、今度は強引に頭を抱き寄せられた。
 濡れた頬に湊のワイシャツが押し付けられる。
「みなと……さん……?」
 布越しに伝わる体温は微かに暖かい。染みついた煙草の匂いがする。
「あのさぁ、お前、何か勘違いしてる」
 古渡の髪を弄びながら、湊は口を開いた。
 だが、その口調は心底呆れかえっているようにも思える、そんな口調だった。
「勘違い……?」
 湊の腕の中は心地良く、けれど居心地が悪い。腕の中で身を捩り上目遣いに己を抱く相手を窺った。
「俺は遊びで誰とでも寝る程、軽い男じゃない」
「え……?」
 それは一体どういう意味なのか、湊の言いたい事が汲み取れず眉を寄せる。
 顔をあげきってしまうと、湊の視線とぶつかった。
 澄んだ瞳は、古渡が好きなあの湊の瞳だった。
「なんでそんな風に思われてるのか知らないけど、俺は今の古渡のこと嫌いじゃないし、からかってるつもりもない」
 どこまでも真面目なその瞳は嘘をついているようには見えない。
 けれど、湊の言う事をにわかには信じる事ができなかった。
 湊が古渡と寝るのは、遊びだと思っていた。
 遊び、暇潰し、復讐――つまり、本気ではないと思っていた。そこに好意的な感情は存在せず、ただ肉欲のために寝ているのだと思っていた。
「……どういう意味ですか……?」
 いくら考えても湊の言いたい事がわからず、古渡はその瞳に真意を問うた。
 すると湊はふっと笑みを漏らし、古渡の目元にたまった涙を拭う。
「鈍感」
 そして、唇が降ってくる。
 押し付けられた唇は柔らかく、ほんの少し苦い煙草の味がした。
「ん……」
 あまりに唐突で避ける事の出来なかった唇は優しい。
 触れるだけのキスを繰り返し、やがて唇は離れた。
 湊の言いたい事がなんとなくわかったような気がして――しかし、それが正解だという自信はない。
 ただの自惚れ、思い上がり、勘違い。その可能性だって捨てきれなかった。
 不安げに見上げる古渡の内心を察したのか、湊は古渡の髪を手で梳きながらまた話をはじめる。
「昔は昔の事だし、今は本当に気にしてない。再会するまでは正直忘れてたくらい。で、再会してみたら古渡って昔と全然変わってねーし、なんか可愛いなあって」
 髪を梳いていた手は時折頬に流れ、柔らかい肉を撮むように弄ぶ。
「可愛いって……俺、可愛くなんかないですよ」
 ここは現実ではないようにも思えた。
 湊の言葉は真実なのか探りたくなってしまう。からかわれているのではないか、と勘繰ってしまう。
 けれど、その言葉に裏を感じ取る事は出来ず、頭の芯に熱がのぼるかのようだ。
 ふわふわと浮遊している。
「可愛いよ。真面目で不器用で鈍感なとことか、可愛いと思ってる」
「なっ……そんなの可愛くないじゃないですか」
 笑みを浮かべ、軽い口調で告げられるそれに頬を真っ赤にし、ぷいと顔を横へ背けた。
 今目の前にある現実を本当に信じていいものなのかどうか、古渡には判断がつかなかった。
 好きな湊の言葉なのだから信じたいとは思うものの、湊の気持ちがこちらへ向く事なんて想像もしていなかったのだから仕方がない。
 頬を撫でる指の温もりを感じ、古渡は僅かに俯いた。
「……俺は、これからも古渡と一緒にいれたらいいと思う。……遊びとかじゃなくて、本気で。古渡の事は嫌いじゃない……っていうか、その、どっちかっていうと……好き、だから」
 湊は何度も口籠りながら、それでもおずおずと言葉を紡ぐ。
 湊の言葉は突飛すぎて一度聞いただけでは理解する事ができず、古渡の脳内をぐるぐるとまわる。
 湊は今確かに好きだと言った。
 だが、古渡には自身に好きになってもらえる要素があるとは思っていない。
 不審げに首を傾げた古渡に、湊は更に言葉を重ねる。
「初めはそんなに興味なかったけど、古渡がまだ俺の事好きだって言ってくれて嬉しかったし……好意持ってもらえて悪い気はしないって言うか。だから俺も古渡に興味出てきて、そしたらお前、昔と全然変わんないからすっごく可愛くて、もし一緒にいれたら楽しいだろうなって、そう思った」
 目を見詰めて告げられるそれに不審な点はなかった。
「湊……さん……!」
 一度は収まりかけた涙が再び溢れてくる。
 一直線に、それが本心なのだとわかった。
「夢……ですかね」
「なわけないだろ」
 頬に触れた指に窘められて、胸の奥底から温かいものがこみあげる。
「……俺も、湊さんの事が好きです」
 何度も泣いてしまって、湊にはさぞひどい顔を晒してしまっているのだろうと思いながら、古渡は頬を緩めた。
 湊に窘められたばかりなのに、ここは夢の中のようだ。
 全てが夢で、幻だと言われた方がまだ現実味がある。
 湊の心を手に入れられるなんて、古渡にとっては奇跡なのだ。
 目の前にいる男は誠実な表情をしている。
 狂ってしまいそうな程愛した男の背中に腕をまわし、これが現実である事を実感する。
 湊の事が好きで好きでたまらない。そして、今この瞬間は三十年近く生きてきたこれまでのどの経験よりも幸せで、満たされていた。
 だから古渡は、与えられる唇を受け止める。
 先ほども触れたばかりの唇は、何故か新鮮でいつもよりも愛おしかった。
「んっ……」
 柔らかさを堪能し、今度は口腔内へと侵入する。
 絡めた舌先が熱く、互いを求めていた。
 部屋に響く濡れた音は二人の想いが繋がった証だった。
 どこからどこまでが自分なのかわからなくなってしまいそうな程にとろけきった頃、二人はようやく唇を離す。
「本当にこれ夢じゃないんですよね」
 いくら夢ではないと言われても、この展開を望みこそしていたものの実現するとは夢にも思っていなかった事だ。
 簡単には信じられなくて――紅潮した頬で目の前の湊に訊ねる。
「だから夢じゃないって」
 繰り返される質問に湊は肩を竦め、古渡へ腕を伸ばした。
 手のひらで頬を包み込んだかと思うと今度は指先だけで頬を撫で、頬の一番柔らかなところを親指と人差し指でつまみ捻りあげる。
「痛……!」
 その瞬間、びりりと引き攣れるような痛みが流れて反射的にうめき声を漏らす。
 指はすぐに離れたが、痛みは尾を引いて残っている。
「何するんですか、もう」
 今度は痛みに瞳を潤ませながら、目の前の犯人を睨み付けた。
 つねられたばかりの頬を自分でさすってみるが、外傷はないようだ。
 その辺りは湊はきちんと手加減をしたようだ。
「お前が夢夢うっせーからだよ」
 湊は心底面倒くさそうな表情でぶっきらぼうにそう言った。
「だからってつねる事ないじゃないですか」
 恨みがまし気に言うと、その表情に笑みが混じる。
 それは悪戯が好きな子供のような笑みだった。
「だってお前に痛い事すると怒るの可愛いし」
「っ……!可愛くなんかないですって」
 可愛い、と言われると嬉しさが三割、残りの七割は羞恥がこみあげる。
 頬を真っ赤にして文句を言ってみるが、湊は肩を揺らして
「はいはい」
 と、いなされてしまう。
 そんなやり取りをしているうちに頬の痛みはすっかり引いてしまった。
 湊の方を窺うと、もう笑みは引っ込んでいて、今度は打って変わった真面目な表情をしている。
「なあ古渡」
「はい」
 じっと見詰められて、神妙に返事をした。
 これが夢でないのならば、湊を幸せにしたいと思っている。
 大切な人を、大事にしたいと思っている。
 いつかのように想いが暴走してしまう事は――二人の想いが繋がっている限りないはずだ。
 湊はもう自身を制御できない子供ではない。
「これからも、よろしくな」
 そうして、古渡は手を差し出した。
 握手を求められているのだとわかって、慌ててその手を受け止める。
「こっ……こちらこそ!」
 手の温もりが、これはどうやら夢ではなく本当に現実なのだと教えてくれた。




薫る紫煙の行方・完結



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