薫る紫煙の行方 第八話


 古渡の姿を認め、片手をあげて寄ってくる湊をわざとらしく無視し、その隣を通り過ぎるとエレベーターの呼び出しボタンを押す。
「おい」
 が、その動きは片腕を背後から掴まれる事で止まった。
「声、かけてるんだけど」
 背後からの声に振り向くか、それとも腕を振り払うのか迷い――ゆっくりと背後を振り返った。
「えっと……俺に、なにか……?」
 わざとらしく視線を逸らすと、湊はそれに苛ついたかのようなこれまでにない鋭い視線を投げる。
 機嫌を損ねたのだ、と一目でわかる視線だ。けれど、今日の古渡はそれに躊躇しているような余裕はない。
 これ以上湊に付き合ってはいけない。
 恋心に負けて付き合い続ける程、古渡の心は傷ついてぼろきれのようになってしまう。
「そういう態度ないんじゃない?俺、何かした?」
 問われて、俯く。
――湊には何もされていない。
 古渡が勝手に好きになって、勝手に傷ついているだけだ。
 湊の事が好きすぎて、一緒にいるだけで手に入らない焦燥は増していく。
 それならいっそ再会しなかった方がマシだった、と思える程、今のこの現状は古渡を追い詰めていた。
「湊さんと一緒にいるの、辛いです」
 そして、本音を打ち明ける。
 ここはオフィスビルの一階ロビーで、今から出社する人間たちが幾度も古渡たちを通り抜けた。
 そんな人々の視線を気にしながら、それでも言葉は止まらない。
「……俺と一緒にいても、つまんない、ってこと?」
 湊に掴まれた腕はぎりりと痛んだ。
「そういうわけじゃっ……!」
 つまらないわけではない。
 湊と共にする時間はあっという間に過ぎ去っていってしまう程に楽しい。夢だったのではないか、と思い返してしまう程――古渡にとって楽しいひと時に違いなかった。
 湊から離れるなら、楽しくないつまらないと言って離れてしまう方が良いはずだ。
 だが、それをしなかったのは、湊に誤解されたままでいられたくなかったからだ。
「そんな事ないです。俺は湊さんと一緒にいるの、楽しいです。一緒に食事したのも、家でお酒飲んだのも、楽しかったです」
 湊にだけは、正直でありたかった。
 一番に好きな人だから――ずっと想い続けた人だから、誠実でありたかった。
 湊は怪訝に眉を寄せ、語調を荒げる。
「なら、なんで」
 古渡はそっと笑みを浮かべた。今にも泣きだしてしまいそうで、ここが会社のあるビルでなければ泣いてしまっていた事だろう。
「俺、湊さんの遊び相手にはなれないです。――それくらい、まだ本気なんです」
 二人の視線は絡み合い、探り合う。
「これ以上、好きになってしまいたくないんです。手が届かないのに、好きになっても仕方ないじゃないですか」
 そうしたところで相手の心の内側がわかるわけでもないのに、だ。
 やがて古渡の腕を掴んでいた湊の手の力は緩まり、すとんと落ちた。
 見詰めあっていた時間はほんの数秒にも満たなかった。だが、二人には永遠にも思える程の長さに感じられた。
「……それじゃあ、俺仕事あるんで」
 そして、古渡は湊から視線を外しエレベーターへと向かう。
 背後の湊からは、もう古渡を呼び止める気配はなかった。
――これで、終わり。
 本当にもう終わってしまった。
 八年間望み続けた湊は、もう触れる事のできないし存在となった。
 そもそも八年前に湊を傷付けたのは古渡自身だ。
 裏切って、傷付けた。謝る事もせず――湊に会う機会がなかったので謝れなかった、というのもあるが、それはただの言い訳にすぎない。会おうと思って会えなかったわけではなかったのだから。
 それなのに今になって謝って、八年間の湊の変化に勝手に傷付いて、関係を終わりにした。
 自分勝手な人間だ、と古渡は独りごちる。
 自分勝手な人間な事は、八年前のあの日によく痛感したはずだったのに、今、またやっと自覚した。
 そんな人間が今更、湊と深い仲に――何でも分かり合える間柄になれるとは思っていなかった。
 もしも八年間のあの日、湊を襲わなければ今頃どんな関係になっていたのだろうか。
 互いに尊敬しあえる関係になっていたのだろうか。それとも、古渡が何度も繰り返したような、恋人だというのに互いに何度も傷付け合って儚く崩れ落ちるような関係だったのだろうか。
 それも想像したところで結果は変わらない。八年前に戻れるわけではないし、砕けた関係はもう元には戻れない。
 溢れだす後悔は古渡の中に黒い靄を渦巻き、満たしていく。
 だが、そんな後悔とももう八年の仲だ。自分が罪深い人間だとよく理解していたし、その感情とも慣れっこだった。
 そうして罪悪感に苛まれながら一日を消化していく。
 この数日感が楽しすぎただけで、本来の日々にまた舞い戻った。
 自分を押し殺して仕事を終え、帰路につく。
 夜道を照らす外灯と、少し湿った夜の香り。足下のアスファルトの硬さを感じながら、昼間より冷えた空気を肩で裂く。
 八年ぶりに再会して、湊にさせたのは嫌な思いだけなのではないだろうか。
 湊に会いたいと、ずっと思っていた。
 思っていたけれど、具体的に何がしたいとは考えていなかった。
――古渡に出来ることは、何もないのだから。
 車道を走る車の音と自分の足音が混じりあう。
 もうすぐ、住み慣れた家に辿り着く。
 八年前、湊を初めての抱いたあの部屋に辿り着く。
 それだけが唯一の湊との繋がりな気がして手狭ではあったがずっと引っ越せないでいた。
 けれど、もう引っ越さなければいけないのかもしれない。
 アパートの前まで到着した古渡は、ふと湊の吸う煙草の香りがしたような気がして、辺りを見回した。
 だが、周囲に煙草を吸っているような人間は見当たらない。
 そう珍しい煙草ではないので、誰が吸っていてもおかしくないものだ。
 それなのにまだ期待してしまうのだから、古渡は自分に呆れて肩を竦めた。
 諦めると決めたはずだ。
 手に入らないものに期待をしても、自分が傷付くだけなのだ。
――初めに湊を傷付けたのは古渡だというのに、それすらも棚に上げて傷付いてしまう。
 アパートに設置された金属製の外階段を歩く。古渡が歩みを進める度にカンカンカン、とリズムよく太い音が響いた。
 部屋のある階に辿り着き、階段から廊下へと足を踏み入れる。
 そして――再び紫煙の香りが鼻孔を満たす。
 恋しかったその香りが、すぐ近くにある。
 古渡ははっとして自宅の玄関を凝視した。
 暗くてわかり辛いが、そこには確かに人影があった。
 煙草を吸っているのが、少し離れたその場所からでもわかる。
 煙草を口元に持っていき、空気と共に吸い込む瞬間だけ先端は赤く染まって光る。光りが消えたかと思うと、肺を一巡して煙が吐き出された。
「……湊、さん……?」
 その場で立ち尽くした古渡は、知らず知らずのうちにその名前を呼んでいた。
 そこにいるのが湊である、という確証はなかったが、自宅の前で煙草を吸いながら待つような知り合いは他にいない。
「……おかえり」
 その人物はごそごそと胸元から何かを取り出したかと思うと煙草の火を消し、古渡に向かって片手をあげた。どうやら携帯灰皿を使用したようだ。
 聴き慣れた声が、古渡の脳髄に響く。
 声の主は古渡が予想した通り、湊だった。
「っ……!なんで、ここに……!」
 終わったはずだ。
 今朝、終わらせたはずだ。
 それなのに、今、目の前にいる。
 心臓が跳ねあがり、目の奥が熱くなる。
「なんでって、古渡と話をしにきたんだよ」
 それが当然であるかのように、湊は言った。
 だが、湊と話をしなければならない理由が古渡にはなかった。
 わざとらしく湊から視線を背ける。
「湊さんと話さなくちゃならない事は何もないですよ」
 知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。
 いくら離れようとしても、湊の方から距離を詰められては意味がない。
――折角忘れようと決めたのに、忘れられなくなってしまう。
 けれど、それも湊の仕返しなのだとかんがえれば納得がいく。
 八年前のあの日、湊を傷付けた事に対しての仕返しなのかもしれない。古渡は湊に気付かれぬよう頬を歪めて自嘲的な笑みを漏らした。
「……お前になくても、俺はあるんだよ」
 不機嫌である事を隠そうともしない眉を寄せた表情は、古渡の態度を考えれば当然だ。
「……」
 今後を考えれば――湊を忘れるという目的を果たすためには、このまま追い返すという選択肢が一番良いのだろうとは思う。
 しかし、目の前の湊を見ればそれで納得しそうにない事は容易にわかる。
 それに、湊の目的が八年前の仕返しなのだとしたら。
 古渡は握りしめてしまっていた拳に気付き、その手を緩めた。
 仕返しを、復讐をされるべきなのだろう、と思った。
「……今、鍵開けます」
 そう言って、古渡は手に提げていたビジネスバッグから自宅の鍵を取り出した。
 玄関の扉を開き、電気を点ける。その後ろでは湊が部屋に入り、扉を閉めたところだった。
 冷蔵庫を覗いてみると、幸いな事に未開封のペットボトル入りのお茶が一本入っていた。
 自分で飲むために購入したものだったが、背に腹はかえられない。
 それが例え望まぬ客人であろうとも、客人である事にはかわりないのだ。
 この前と同じように部屋に入るなりベッドに腰掛けた湊へ、そのペットボトルを差し出した。
「ありがと」
 湊はそう言ってペットボトルを受け取るとキャップを開け、喉を大きく鳴らして飲み始めた。どれくらいの時間を待ったのか、湊はとても喉が渇いていたようだ。
「……そう言えば、湊さんっていつから待ってらしたんですか……?っていうか、仕事……」
 湊の会社は、古渡が籍を置く会社よりも始業と終業が一時間ずつ遅いはずだ。
 それなのに、今日は定時で帰った湊をこの家の前で待ち構えていた。
「ん?んー……」
 だが、湊は曖昧に言葉を濁し、視線を彷徨わせる。
「?なんですか?」
 湊が何を言おうとしているのかわからず、古渡は首を傾げた。
 湊はお茶を半分と少し飲んだところでキャップを閉め、迷ったように口を開く。
「会社、休んだ。……その、……お前の事が気になって仕事にならなさそうだったから」
 告げられる言葉は、他人事のようだった。
 今朝のあの、エレベーター前での話の事が原因だろうか。だが、原因に思い当たっても湊に会社を休ませてしまうような事は何もしていないはずだ。
「仕事にならさそうだったからって……そんなの、俺のせいにしないでくださいよ」
 不本意に責任を押し付けられた気がして、古渡は眉を顰める。
「ああ、悪い」
 すると、湊は意外に素直に謝罪の言葉を口にした。
 その殊勝な態度に疑問を覚え、古渡は湊の隣へと腰かけた。男二人分の体重を受けて、安物のシングルベッドがぎしりと嫌な音を立てて軋む。
 本音を言えばもう少し距離を取りたかったのだが、元々狭く更に散らかったこの部屋では座れる場所も限られていた。
「……話って、なんですか」
 隣にいる湊の事を意識しながら、真っ直ぐ前を見詰めて問いかける。散らかった部屋は毎日見飽きているのに、隣に湊がいるだけで違った風に見えるから不思議だった。
「……お前さ、なんで俺を避けんの?」
 そして、湊も同じように真っ直ぐ前を見詰めていた。
 そこに見詰めなければならない何かがあるわけではない。ただ、そこ以外に視線を向けられなくて、逃げていた。
 隣同士でいるのに、二人の間には大きく高い壁があるかのようだった。
「……それは、今朝言いましたよ」
 湊に伝えなくてはならない事は、もう全て伝えているつもりだ。
 一日たりとも忘れられず、何度一人の夜を過ごしても思い出す。狂おしくなるような愛しさは、その顔を見るたび、声を聞くたび、温もりを感じるたびに増幅していく。
 けれど、抱き締めることもできない相手は、その愛を膨らませるごとに胸をぎりぎりと締め付けた。
 手の届かない愛情は、イコールで嫉妬と結びつく。
 湊の笑みを自分のものだけにしたかった。
 今は自制できていたとしても、いつか八年前のあの日のように傷付けてしまう時がくるかもしれない。それを考えると、湊とは距離を取るのが最善なのだろう。
「……俺は、湊さんの遊びには付き合えないです。からかわれるのとか、本当辛くて」
 そうして気軽には遊べないほど、古渡の想いは深く一直線に湊に向かって根付いていた。
 好きだから、簡単に触れることができない。傷付けてしまうことが怖くて、傷付きたくなかった。
「……俺は、からかってるつもりはないけど」
「じゃあなんで……!」
 湊の声をきいて、反射的に湊の方を向きながら大きな声が出てしまう。浮きかけた腰をおろした。
 深く息を吐き、自身を落ち着かせるように努めてから、意識的に声のトーンを抑えて再び口を開く。
「じゃあなんで、俺に構うんですか」
 湊はからかっているつもりはないと言った。だが、そんな事は到底信じられなかった。
 からかわれている――もしくは、仕返しをされている。そんな理由がないと、古渡は湊が自分に執着する意味はないと考えていた。
 八年前、まだ何も知らなかった湊を自身の欲望のために傷付け、そしてその後の人生を大きく変えてしまった。
 古渡は同性が好きな自分という存在を決して恥じているわけではない。
 誰が誰を好きになろうと、それは個人の権利で誰かに口を出されなければいけないような話ではない。
 だが――その道に踏み込まなくてもいいのならば、わざわざ踏み込む必要はないと思っている。
 決して楽な道ではなく、世間の目はいまだ厳しいものだ。
 湊はいつか目覚めるのだと言ったけれど、それを知らなければ目覚めようもないはずで、湊を目覚めさせたのは古渡だ。
「だから、からかってないんだって」
 少し苛立ったような荒い口調で、湊はぶっきらぼうに言葉を返した。
「俺は古渡と一緒にいたいから、こうして時間作ってんの。お前が何を考えてるかは知らねーけど、昔の事はもう終わった話で俺は気にしてない。昔は昔、今は今で別物だって考えてる」
 そう話す横顔を、そっと窺った。
 ぶっきらぼうだった口調も言葉を紡ぐにつれて落ち着き、穏やかなものになる。
 膝の上で作った拳に、ぎゅっと力を込めた。
 昔と今は違う。同じ人間だけれど、互いにあの頃より随分と成長した。勢いだけで突っ走ってしまうような子供ではない。
 それはわかっていても、古渡は一度は過ちを犯したのだ。
 また同じ轍を踏まないとは限らない。
「……でも、俺は、湊さんが傍にいると辛いんです。湊さんと一緒にいるのは楽しくて幸せです。けど、その分一人になると淋しいし、湊さんをもっと好きになっちゃいそうで、怖いんです」
 もっと好きになって、胸に渦巻く想いをいつか堪えられなくなってしまうのが、とてつもなく怖かった。
「べつに、好きになってもいいんじゃ?」
 けれど、湊はそれがさも当たり前だという風に言った。
 あまりにも軽々しく放たれたその言葉に、古渡の身体中の血液が頭にのぼる。今まで古渡が必死に留めてきたものが逆流する。
「好きになって、好きになりすぎて、また犯されたいんですか?」