薫る紫煙の行方 第六話


「じゃ、今度こそ本当に帰るわ」
 にひひ、と笑う湊に、あっけにとられたままぽかんとした表情で手を振る。
 開け放たれた扉が派手な音を立てて閉まり、扉の向こうにある階段をカツカツと音を立てて歩く足音は、やがてどこか遠くへと去って行った。
 古渡は濡れた唇を拭い、閉じられた扉を見詰める。
 部屋に残るのは、情事の名残りと煙草の香りだった。
 乱れたシーツに湊の温もりは残っていない。
「はぁ……」
 深いため息が狭い部屋に広がった。
 湊が何を考えているのかわからない今、これ以上深入りをしたくない。
 何のために自分に近付こうとしてるのか――湊の言った通り、ただ偶然に再会できたのだからまた昔みたいに遊べたらいい、などという理由は信用していなかった。
 学生の頃ならともかく、大人になった今では利害関係抜きの友人関係を築くのは難しい。
 一度壊れたものを再構築する、となるとなおさらだ。
 まして、その関係は古渡がぶち壊したものだ。
 湊との間にあった信頼関係を全て裏切って、傷付けた。
 それをわざわざ再構築しようとする湊は、一体何を考えているのだろうか。
 古渡が予想したのは、人恋しさを紛らわすために利用されているのではないか、という事だった。
 古渡自身それを他の誰かに強いた事もあったのだから文句を言う筋合いはない。
 ただ、今の古渡の精神はそれに耐えきれるものではなかった。
 湊の事が好きで、誰にも渡したくない。
 身体だけでなく心だって独り占めにしたい。
 手の届かないところにいれば、それは叶わない願いだと諦める事が出来ていた。
 湊は幻の存在なのだと、思い込む事が出来た。
 けれど、すぐそばにいればどうしても手を伸ばしたくなってしまう。
 抱き締めて、もう離したくなくなってしまう。
 だが、それは古渡には許されていない事だった。
 湊のことを想う度、心がずきりと痛む。
 乱れたシーツを軽く整えて窓を開ける。
 新鮮な空気と入れ替わりに、煙草の香りが抜けていく。
 けれど、哀しい気分はいつまでも心の奥底に溜まったままだった。
 夜空を見上げ、見えない星を眺める。
 今頃はもう湊は電車に乗っただろうか。何事もなく家に辿り着けているだろうか――湊の事を考えまいとするのに、湊のことばかりを考えてしまう。
 湊の名残りを求めながら、古渡は眠りについた。
 寝ている間だけは余計な事を考えずに済む。現実から目を逸らす事ができる。それは、古渡にとって唯一とも言える救いだった。
 地球は巡り、月は姿を消して空は青く輝く。
 繰り返しの毎日はつまらないけれど、自分は世界には関係のない存在なのだとおもう事ができて、ほっと息を吐いた。
 シャワーをあびて汗を流し、スーツに身を包んで会社へと向かう。
 タイムカードを切り、同僚と挨拶を交わし着席する。
 今は湊の事を考えている余裕はない。自分の生活を維持するだけで精一杯のはずだった。
 指示される仕事はまだ雑務ばかりだったが、正社員登用に向けてすぐに実務を行えるよう下準備もはじまっている。
 恋愛事にうつつを抜かすよりも先に、やらねばならない事があった。
 しかし、八年間忘れる事の出来なかった相手をそう簡単に忘れられるわけもない。
 湊の事が頭に浮かぶ度に無理矢理掻き消して他の事をかんがえる。
 心は痛み、時に空虚や目の奥が熱くなるほどの切なさに見舞われ、それでもなお気付かないふりをして無視をする。
 どう足掻いても恋心は消えないのだ、と、もう何度も諦めたその事実に改めて肩を落とした。
 交わした口づけの苦さは、いつまでも消えない。
 会社の最寄り駅にあるコンビニを意図的に避けてみれば、同じ建物内で働いているはずの湊とは驚く程に顔を合わさなかった。
 たったの一時間の差は、どうやらとても大きいようだ。
 けれど、その一時間がとても有難かった。
 湊に会わなければ忘れる事が出来るような気がした。
 実際に忘れられるかどうかは別として――湊の事を考える時間は減っている。
 ふとした瞬間に湊の面影を追ってしまう事はあったが、それはこの八年間も一緒だった。
 せめて湊の姿がなければ、決して手の届かない存在であれば、想い続けていても思い悩む事はない。
 そうして、湊と顔を合わさないまま数日が過ぎた。
 湊と再会する前の生活に戻っただけなのに、その生活は穏やか過ぎて怖いくらいだ。
 もちろん仕事は忙しく、嵐の海が多少の荒波に変わったくらいの感覚だったが、嵐を経験した古渡には多少の荒波は穏やかに思えるものだ。
 穏やかで充実した毎日は、しかしほんの少し物足りないと感じるものもある。
 だが、それが普通の生活なのだ、と思い込む事で古渡は自身を保っていた。
 同じ建物の中に湊がいる。その事実から目を逸らし、目の前にある現実だけを見詰める。が、古渡の努力だけで避けきれるようなものではない。
 二人の間を阻むのはたった一時間のずれだ。
 そのずれを湊が埋めようと行動すれば簡単に埋まってしまう。
 その日、古渡はいつも通り出社をした。
 駅最寄りのコンビニを迂回し、会社の入っているオフィスビルの一階ロビーへと到着する。
 行き交う人の群れは忙しなく足を動かし、これからはじまる一日に立ち向かっていた。
 古渡もその一員で、繰り返しの毎日を消化しようとしていた。が、その足は会社のあるフロアへと向かうエレベーターの前でぴたりと止まる。
「湊……さん」
「おはよ」
 エレベーターホールの壁に体重を預けて腕を組んでいた湊は、古渡の姿に気付くと背を起こした。
 片手をあげ、「やあ」と手のひらをこちらに向けて振る。
「おはようございます……って、何してらっしゃるんですか」
 古渡の方もつられて手を振りかえしたが、はっと気付いてその手をおろした。
 湊の事を避けていたのだから、ここで親しく接するのはよくない、と気付いた結果だ。
 周囲にはこれから出社する人間たちが大勢いる。
 立ち止まる二人を迷惑そうに避けながら、それでも流れが止まる事はない。
 古渡たちはほんの数歩分廊下の端に移動し、会話を継続する事にした。
「何って、古渡を待ってたんだよ」
 湊は、その場で立ち尽くしたまま動かない古渡の前までてくてくと歩いて距離を詰めてにこりと微笑む。
「待って……ですか」
 相変わらず湊が何を考えているのか、古渡にはさっぱりわからなかった。
 湊の出社は古渡よりも一時間遅いはずで、この時間から会社で待たれている理由も思いつかない。
 湊は僅かに身を屈め、古渡の顔を覗き込むようにした。
「今晩、どう?」
 その誘いは直球でいやおうなく古渡に切り込んでくる。
 焦った古渡は周囲をきょろきょろと見回すが、古渡たちの会話に注目している人間はいなかった。
 湊の方へ向き直ると、口角をあげ楽しそうな表情をしていた。
 会話の真意は二人の間柄を知っている者にしか読み取れないのだとようやく気付き、強張った肩から力を抜く。
「また突然ですね……」
 頭の中で今晩の予定は空いていたはずだ、と記憶の糸を辿って確認し、口を開きかけてやめる。
 うっかり応じそうになってしまったが、湊との関係を続けていくわけにはいかない。
 このままでは、またいつかのように湊を傷付けてしまう結果になるだけなのだから。
「あれ、先約あった?」
 何も言わない古渡に、湊は首を傾げてみせた。
「先約……っていうか、なんていうか」
 しかし、残念な事に古渡は咄嗟の嘘がつけるような器用な人間ではない。
 どちらかと言えば絶望的に不器用な人間に属する。
 口籠った古渡に、湊は更に言葉を重ねた。
「ん?えっと、予定あるなら無理にとは言わないんだけど……っていうか、それとも俺がイヤ?」
「いえ、イヤだなんてとんでもない!イヤなわけではないです!むしろ」
 嬉しいです、と言おうとして飲み込む。
 そこまで言ってしまえば断る事が難しくなってしまうし、周囲の人間が気になったからだ。
 いくらこちらの会話に興味を持っていないとは言え、耳には入っているはずだ。
 これからここで仕事を続けていくというのに、プライベートの事で注目を集めたくはない。
「えっと、その、あの……」
 怪訝に眉を顰める湊に、途切れ途切れ言葉を紡ごうとするが、普段から嘘を吐く習慣のない古渡には適当な文言が思いつかない。
 そのうち言葉は詰まり、下唇をかみしめてから諦める。
「……予定、ないです。何時にどこで待ち合わせしますか?」
 結局流されてしまった自分に、泣きたいような気分だった。
「あっそ……?なら、別にいいんだけど。……お前んちか、それか家でするのイヤならどっか他の場所でもいいし、それ次第かな」
 湊は不審げな表情を引っ込ませると、無意識なのか指先を口元にあてて言う。
 逃げ切る事の出来なかった無念を押し潰し、湊を受け止める。
「……じゃあ、俺の家で。俺先帰ってたらいいんですか?それとも湊さんをここで待ってた方がいいですか?」
「先帰ってていいよ。俺も仕事終わらせたらすぐ向かうわ」
 身体を重ねるだけの予定に、夢や理想は含まれない。
 古渡たちはそれだけを取り決めると、「じゃあまた夜に」と別れそれぞれの日常に戻る。
 古渡は一人きりで乗り込んだエレベーターの中で人知れず溜息を吐いた。
 湊が好きだった。一緒にいる事が出来ればいいと願っていた。
 しかし、こんな関係を望んでいたわけではない。
 身体だけの関係ではなく、心も通じ合う関係を望んでいた。
 肩を竦め、硝子張りのエレベーターの中から地上に広がる街並みを見下ろす。
 心が通じ合う関係を望んでいたのに、身体を差し出す事を強要したのは古渡自身だ。
 湊に出会い、それを謝罪し、湊は許すと言った。
 けれど、罰はまだ終わっていない。
 古渡は、湊と縁が切れてしまった事を罰だと思っていた。縁が切れてしまったのに、それでもなお湊の事を想い続けてしまう事を罰だと思っていた。
 だが、今までの縁が切れていた八年間よりも、湊と再会してからの数日間の方が古渡には辛かった。
 すぐそばに愛しい人がいる。
 そして、その相手から身体を求めてくる。
 しかし、心が繋がりあう事はない。
 肉欲だけしか介在しない、身体で繋がった関係だ。
 もどかしくて辛い現状に泣きたくなる。
 エレベーターの扉が開き、古渡の勤めるオフィスのあるフロアに到着する。
 日常へ没頭するため、湊の事は頭の片隅へと追いやった。



 つい先日湊を招いたばかりで、あの時は突然だったため家の片付けも碌にしていない、素の状態だった。
 仕事を終えて家に辿り着いた古渡は、今更かとも思ったがせめてもの抵抗とばかりに整理整頓をはじめる。
 掃除をしていないわけではないが、生活感のある部屋というのだろうか。室内のあちらこちらに生きている痕跡が残っていた。
 それらを片付けようとするのだが、学生時代から住んでいる部屋は狭く、満足な収納設備もない。十年余りの歳月で物は溜まりに溜まっていて一時間やそこらで片付くような状況ではない。
 結局古渡はそれを途中で諦め、ベッドのシーツだけを新しいものに取り換えた。
 枕や掛け布団の配置を整え、湊を招き入れられる状態が出来上がった頃、玄関扉の外からコンクリートでできた廊下を叩く足音が聞こえ、間もなくインターフォンが鳴る。
「はーい」
 古渡の部屋のインターフォンにはカメラなどはついておらず、インターフォンはただチャイム音を鳴らすためだけのものだ。
 古渡は声を張って玄関の外にまで届くような大きな声で返事をし、玄関へと急ぐ。
 鍵を外してガチャリ、とドアノブを回して扉を開けると、そこには今朝約束した通り、湊の姿があった。
「おつかれ」
「……お待ちしてました」
 湊を部屋にいれると、古渡は鍵とチェーンをしめる。
「酒買ってきたけど飲む?」
 湊をよく見てみればビジネスバッグの他にコンビニの白いビニール袋もぶら下げていた。重量があるのか袋はやや伸びている。
「いいですね。少し貰います」
 そうして今夜の宴が開始された。
 二人してベッドに腰掛け、乾杯をする。
 酒はビールとチューハイ、肴には湊が一緒に買ってきたビーフジャーキーだけ、という簡素なものだったが、大人になってしまった今では自宅で誰かと酒を飲む、という事が少なくなっているのでそれも楽しいひと時となる。
 喉を冷たい炭酸が駆け抜ける刺激は爽快で、身体にアルコールが染み入っていくのがわかった。
 湊も同じようなものらしく、酒を流したその瞬間から表情がいくらか和らいでいた。
「ビーフジャーキー、俺好きだから買ってきたけど古渡は好き?」
「美味しいですよね。俺もビーフジャーキー好きです」
 答えると、湊はビーフジャーキーの端を咥え、古渡の方へ向く。
 何かを求めるように首を突き出し、舌と唇でビーフジャーキーをぶんぶんと上下に振った。
「……えっと」
 何を求めているのか、わからない古渡ではない。
 応えるか否かほんの少しだけ迷って、唇を近付ける。
 ビーフジャーキーのもう片方の端を噛み、舌を使って口の中へ引き込む。
 湊も同じように食べすすめ、そして二人の唇がぶつかった。
 ビーフジャーキーを辿って湊の口内へと舌を侵入させ、その粘膜を味わう。
 この前は煙草の苦みだけだったのに、今はビールの香りと塩味の効いた肉の味もした。
 湊の上顎をなぞり、舌を絡める。
「ん……」
 絡む舌に、どちらからともなく甘い吐息が漏れた。
 ビーフジャーキーのせいかいつもより唾液が多く溢れ、舌を動かす度にぐちゃぐちゃと濡れた音が響く。
 じん、と燃え上がるような熱が体内に灯った。
 湊の歯列を辿って唇を舐める。
 二人の間を阻むビーフ―ジャーキーが邪魔で歯を立ててみるが塩味の効いた肉は硬く、簡単には噛み切れない。
「んっ……」
 そして、その事に湊も気付いたようだ。
 湊の身体を抱き寄せて固定すると、湊の唇すぐの辺りまでビーフジャーキーを咥えこみ、そこで歯を立てて頭を引く。湊もビーフジャーキーを離さないよう強く噛み、そのままたっぷり十数秒かけてビーフジャーキーはようやく千切れた。
 身体を離し、笑いをこらえて咀嚼しながら湊を見ると、その肩も上下に震えている。
「ふふっ……やっぱビーフジャーキーは無理があったよな」
 濡れた唇を拭った湊は口の中のものを飲み込むと笑いが堪え切れなくなったのか腹を抱えて声をあげた。
 そうされると古渡の方も笑いが抑えられなくなってしまう。
「湊さんのせいですよっ!ほら、もう涎でべとべとになっちゃったじゃないですか!」
 古渡も口元を拭い、酒を流し込んだ。
「えー、のってきたのはお前だろ。そこまで考えてなかったんだって」
 互いを責めながらも、どちらも本気ではない。
 自然と湧いてくる心からの笑顔を見せ、まるで学生の頃に戻ったかのようだった。