薫る紫煙の行方 第五話


「 バ イ 」
 と、声に出さぬまま唇で形を作ったその直後、料理を持った店員がテーブルにやってきた。
 二人掛けの小さなテーブルの上に所狭しと料理が並べられ、いよいよ食事を食べる準備が出来る。
「ここ、来た事ある?」
 古渡はテーブルの隅にあった割り箸の入った容器から割り箸を二つとり、一つを湊に手渡した。
「いえ初めてです」
「そっか。鶏が新鮮で美味しいから俺はおすすめ。古渡の口にも合うといいんだけど」
 そうして、食事が開始される。
 こうして湊と一緒に食事をするのも、学生だったあの頃以来なのだと思うと感慨深いものがある。
 日本酒と焼き鳥という組み合わせは、実のところ古渡は初めてだった。
 酒に弱い自覚があったこともあり、日本酒に手を出す機会はなかった。
 けれど、今飲んでいる日本酒は舌に染み入るような甘味があるのに、すっきりとしていて後味には残らない。
 適度に塩コショウの効いた鳥を口に含むと、蕩けるように舌の上で転がる。
「あーそうだ」
 古渡が日本酒の旨さに心を昂らせていると、湊は思い出したように口を開いた。
「ここの料金さ、古渡が払ってよ。それで昔の事はチャラにしよう。古渡の事、許す」
「えっ……」
 それでは、あまりに安すぎるのではないか。
 あの時、間違いなく湊を傷付けた。
 抵抗する湊を抑えつけて、自身の情欲のためにだけ動いた。
 湊を愛していると言いながら、湊をモノのように扱った。
 それを、焼き鳥屋の飲食代を払うだけで許す、だなんて、いくらなんでも安すぎる。
「でも、それは……!」
「いいんだよ。今は別に、俺は怒ってないし、古渡とのアレがあってよかったと思ってる。……アレがなかったら今の俺はなかったわけだし」
 湊は、古渡との一件がなくとも遅かれ早かれ自分はゲイになっていたのではないか、とそう言った。
 それはつまり、元より興味があったという事なのだろうか。
 だから、例えそれが犯罪行為であったとしても、踏み出すきっかけとなったのだから、加害者である古渡を許す、とそういう事なのだろうか。
「……わかりました。じゃあ、俺はここの料金持ちますね。たくさん食べて飲んでください」
 許す、と言われてもいまいち実感が湧かない。
 許されない罪を犯した古渡に、許される、という想定が出来ていなかったのだ。
 古渡がそう言った途端、湊はメニューを取り出して何事かを確認すると店員を呼び、酒を追加注文する。
「また日本酒ですか?さっきのとは違うお酒ですか?」
 古渡は首を傾げ、メニューを見る。
 先ほどから飲んでいるとっくりの中にはまだ僅かに酒が残っていて、湊はそれを二人のお猪口に振り分けて注いだ。
「そ。せっかく奢りなんだし、ちょっと高いやつ注文した」
「うっ……」
 メニューの中でようやく見つけたその酒は、周囲の他のものに比べて倍近く値段の張るものだった。
 頭の中で財布の中身を数えなおし、湊にバレないよう小さな溜息を吐く。
 湊に許してもらえるなら、こんな事は安すぎる。それで許してもらえるというのならば天にも昇る思いだ。
 だが、現実的な問題として、古渡は転職をしたばかりで今はまだ研修期間中だ。金銭的に安定した状態であるとは言えない。
 過去に湊にした事を考えれば、この好条件を拒んだり文句をつけられるはずもなく、古渡は口を噤んだ。
 やってきた酒は、今まで飲んでいたものよりも濃厚な香りと、深みのある味わいがした。
 アルコール特有の鼻につくような香りはなく、抜けるようなさわやかさが突き抜ける。
 そんな酒に舌鼓を打つ中、湊は唐突に口を開いた。
「そういえばさ、古渡って今も一人暮らしだよな?」
「ええ、そうですけど」
 それに反応し、古渡は顔を上げた。
 湊の顔を見てみると、アルコールのせいか頬がいつになく赤く染まっている。
 額にかかる黒い前髪が揺れていた。
「特定の相手っていんの?」
 そう問う湊の瞳の奥が、気になった。
 何故をそれを訊ねるのかわからない。湊の意図が、わからない。
 いや、それはわかっている。
「……今は、特にはいないです」
 古渡は正直に答え、湊の視線を受け止めた。
 わかってはいても、何故湊が自分を選ぶのか、それがわからなかった。
「じゃあ今日そっち行ってもいい?」
 お猪口を持った古渡の手に、ぎゅっと力が込められる。
「……なんで、ですか……?」
 抵抗を試みる。
 もう二度と、過ちを犯してしまわぬように。
「俺んちよりお前んちの方が近いし」
 湊はへらり、と顔を緩めて笑う。
 まるで、仲の良かったあの頃へ戻ったかのようだった。
「湊さんは俺の事怖くないんですか……?」
 しかし、古渡は硬い表情で湊を見詰める。
 一度は訊いた質問だった。をれを憶えていながら、繰り返す。
「この前、もう二度としないって言ったのはお前だろ」
 そして、その時、確かにもう二度としない、とそう誓った。
 湊の事を、もう二度と傷付けたくない、とそう願った。
「それは……そうですけど……」
 自信がないわけではない。
 嫌がる湊を抑えつけて無理矢理抑え込むような真似は、決してしないと誓う事ができる。
 だが、しかし――。
「古渡」
「はい」
 名前を呼ばれて、湊と視線が絡む。
 その視線はまるでいたずらっ子のようににやにやといやらしい笑みを形どっている。
「相変わらず鈍感だよな」
 鈍感なわけではない。
 ただ、気付かないでおこうと、目を逸らしていただけだった。
 抵抗して嫌がる湊への情欲を抑える事は出来ても、自ら誘ってくる湊への情欲は、抑えきる事ができない。
 自身の鼓動の音がやけに大きく聞こえる。
「え……えっと、それは……つまり……誘ってます……?」
 だから、わからないふりをした。
「言わないとわかんねーのかよ」
 けれど、逃げ道はない。



 熱い吐息が絡む。
 口付けを交わし、温かい舌を掴まえる。
 湊の舌は、苦い煙草の味がした。
 汗ばんだ肌に鼻を押し付け、湊の香りを胸いっぱいに吸い込む。
 古渡が湊の両手の指に己の指を絡めると、湊はそれに応えるように指を絡め返した。
 熱を孕んだ切ない声は狭い部屋へ弾けて消える。
 成人男性二人分の体重を受けた安物のシングルベッドはぎしぎしと派手な音を立てている。
 腕の中の湊は腰を揺らし、自ら快楽を求めていた。
 細く引き締まった腰が揺らめく度、古渡の体内の血液が温度をあげる。
 湊の身体を掴まえて欲望を打ちつけた。
 いつかのように一方的ではなく、互いに秘めた色欲を曝け出して、肌を重ねる。
「こわたりっ……!」
 掠れた声で名前を呼ばれて、湊の背中に腕をまわしてその身体を引き寄せた。
「ひっ……」
 挿入の角度が変わった事で結合部は引き攣れたが、慣れた身体はその刺激にさえも愉悦を覚えているようだ。
 互いの身体に挟まれた湊のペニスは、先端から粘ついた蜜を零している。
 湊の身体をもう一度抱ける日がくるなんて、夢のような出来事だった。
 絡む指の熱さは、これが現実なのだと実感する事が出来る。
 あの日以前から、何度も想像していた。
 力尽くで無理矢理抱くのではなく、互いに指を絡め肌を重ねる事が出来ればいい、とずっと願い続けていた。
 それが叶う事のない幻想だとわかっていながら、願い続けていた。
「湊さん……」
 身体を覆う快楽で夢中になっている湊の耳元で、古渡は囁く。
「好きです……!俺、湊さんがずっと好きでした。ずっと……ずっと」
 今まで届けられなかった想いを、独り言のように囁いていた。



 部屋に充満した煙草の香りは、夢への誘いのようだった。
 それが当たり前のように隣で煙草を吸う男の横顔を見詰め、古渡は潤んだ瞳を見られぬように、とそっと零れるものを手で拭う。
 湊の事がどうしようもないくらいに好きだった。
 自分の理性を抑えきれなくなってしまうくらい、どうせ叶わぬ願いならば酷く傷付けて、自分のものにしてしまいたいくらい好きだった。
 そして、それは今も変わらない。
 顔を合わせなかった八年間のうち、例え他の誰かを抱いている時でも湊の事を忘れた時はない。
 抱いている相手に失礼だ、とわかっていながら、湊の姿を被せてしまっていた。
 その湊が、今は隣にいる。
 肌を重ねて指を絡めた。何度も口付けを交わしその体温を感じた。
 夢の中のような出来事は間違いなく現実だった。
「……ん?」
 古渡の視線に気付いたのか、湊は紫煙を吐いてから古渡の方を見る。
 行為が終わった直後のせいか、その瞳には疲労の色が混じっていた。
 古渡は軽く頭を振り、わざとおどけて見せる。
「慣れてるんですね」
 一体、どれ程の男の腕に抱かれたのだろうか。
 古渡自身、この八年間の間にいくつもの出会いと別れを経験してきていた。
 湊は古渡のものではないのだから、湊の事を責めてもいい道理はどこにもない。
 それなのに口に出してしまったのは、嫉妬からだろう。
 八年前、痛みに歯を食い縛り震えていた湊はもういない。
「古渡の方こそ」
 湊はにっと歯を見せて笑い、灰皿に煙草を押し付けて火を消した。
 男らしく筋張った腕につく筋肉に見惚れ、古渡はごくりと息を飲む。
 一度は吐き出したはずの情欲が、一度は忘れてしまおうと思っていたはずの恋心が、再び心を熱くしていく。
 けれど、それは耐え難い程の痛みも伴っていた。
「湊さんは俺の事があってから、男に興味を持つようになったんですか?」
 ずきり、と心臓の辺りが痛む。
 湊を自分のものだけにしていたかった。
 そんな事は到底無理だとわかっていながら、どこの誰かもわからない人間に嫉妬を抱く。
「まあ」
 そして、その種は自分が蒔いてしまったという事実が重くのしかかる。
 あの時、押し倒さなければ湊は男を知る事はなかったかもしれないのだ。
「男とは恋人とかにもなったんですか?……それとも、身体だけ……とか」
 湊の横顔を見詰め、恐る恐る訊ねる。
 先ほどは散々に指を絡め、手を伸ばせば触れられる距離にいる湊が、今は何故か遠く感じた。
「……どっちも機会があれば、な感じ」
 重力が何倍にも膨れ上がってしまったような気分だった。
 腹の中に重く大きな石を飲み込んでしまったかのようだ。
 独り占めをしようとして、出来なかった。大事なものを失い、手放す羽目になってしまった。
 与えられた罰が古渡の両肩に圧し掛かる。
 湊は詰まらなさそうに軽く腕を組んで伸びをした。
 古渡は視線を巡らせ、次の言葉を紡ぎ出す。
「今は……今は恋人はいらっしゃるんですか……?」
「居たら古渡と寝てない」
 間髪いれずにそう言うと、湊は火を消したばかりのはずなのにまた新たに煙草を取り出した。
 何故湊が誘ってきたのか、古渡には判断がつかなかった。
 仮にも過去に嫌な思いをさせられた男に身を任せる心境とは、一体どのようなものなのだろうか。
「じゃあ、こういう遊びはよくするんですか……?」
「いや、あんまり」
 人恋しかった、性欲処理のためだった、そう言われれば古渡だってすんなりと納得できたはずだ。
 けれど、煙を吐き出した湊は古渡の望む答えを返してこない。知らず知らずのうちに下唇を噛み締めた。
 湊の事が好きだった。
 好きで、愛しているから誰にも渡したくなかった。
 自分だけのものにしたい。
 手を伸ばしていつかのように押し倒す事が出来ればすっきりするのだろうか。
 だが、それが誤った判断である事は古渡自身よくわかっている。
 過去のその判断が、今のどうしようもない現実を招いているのだから。
 湊は胸を大きく膨らませて呼吸をして紫煙を吐き出すと、ほんの僅かに古渡の方へと身を寄せた。
「古渡はさ、俺の事どれくらい好き?」
「えっ……?」
 その質問はあまりに唐突で言葉に詰まってしまうのも仕方がないだろう。
 戸惑う古渡に、湊は更に言葉を重ねる。
「さっきずっと好きって言ってたけど、実際のところはどうだった?……俺を思い出して抜いたり、した?」
 手のひらを丸め棒状の何かを握りこむようにした湊の手の動きが指し示す場所は、古渡でなくともわかるものだ。
 その動きは下品なはずなのに、湊がしているというだけであらぬ想像を掻き立てられる。
 直視できず、頬を染めて俯いた。
「それはっ……」
 訊ねられている事に正直に答えるべきか否か迷っていると、肩に温かい湊の指先が触れる。
「今更恥ずかしがるような事でもないだろ」
 触れられたその部分から熱が電流のように広がっていくようだ。
 湊の声には、煙草の匂いには、触れる体温には、吐き出される言葉には、逆らう事ができない。
「……シテ、ました」
 顔から火が出そうな思いだった。
 本当に熱を出してしまったのかと思う程に熱く、目の前がくらくらとする。
 その古渡を見て、湊はにんまりと口角をあげた。
「お前、本当可愛いやつだよな」
 その笑みはまるでいたずらを憶えたばかりの小学生のような無邪気な笑みで、あの日よりも前に戻ったかのような錯覚さえ覚える。
 湊のその笑みに惚れた。
 大人っぽい端正な顔は、笑みを浮かべると少し幼く見える。
 煙草の灰を落とす指先が愛おしく、湊の隣に居られればいい、とそう望んでいたはずだ。
「どっ……どこがですか」
 古渡は真っ赤な顔を湊に向ける。
 湊と、年齢は一つしか変わらない。三十を目前にした年齢で可愛いと言われても反応に困ってしまう。
「そうやってすぐ赤くなるとことか」
 けれど、湊は何がおかしいのか楽しげな笑みを浮かべ湊に頬を寄せる。
「それは、だって湊さんが」
 湊さんが好きだから仕方ないじゃないですか、と言おうとして口を噤んだ。
 湊の事は、この先ずっと忘れる事は出来ないのだろう。
 きっと何があっても、いつまでも好きでいつづける事になる。
 その予感があった。
 そして、覚悟も出来ていた。
 想いが届く事はなくとも、湊を好きでいつづける覚悟が出来ていた。
 湊は煙草を持ってない方の指を唐突に古渡へと伸ばす。
「な……んですか……」
 なにごとか、と背筋を跳ねさせたが、その指は古渡の唇を撫でるだけだ。
 古渡の下唇を左右に数度撫でると、指はすぐに離れていった。
 湊の視線が突き刺さり、絡み合う。
「ん?……いや、なんでもないけど」
 なんでもない、と言われてもその行動に意味がなかった、と捉えるには無理があるのではないだろうか。
 しかし、湊の真剣なまなざしに踏み込んでいく勇気はない。
 これ以上湊を好きになってしまう事が怖かった。
 今だって湊の事を想うだけで悶えてしまう程に苦しく切ない恋を抱えている。
 それなのに、今以上に好きになってしまえばまたいつかのように自分を抑えられなくなってしまいそうだったから、これ以上好きになりたくなかった。
 湊は煙草の火を消し、ベッドから立ち上がる。
 何も穿いていないその姿は行為の間に見て触ったはずなのに、何もしていない今は思わず目を逸らしてしまう。
「じゃ、俺帰るわ」
 そう言って湊はベッドの下に放り投げていた衣服を身に着け始めた。
「え、泊まっていかないんですか……?」
 てっきり泊まっていくものだと思っていた。
 そう約束したわけではないが、焼き鳥屋での湊の口ぶりからして古渡がそう思っていたのも仕方のない事だろう。
 湊は自身のスマートフォンを取り出し時間を確認する。
「うん、だってまだ終電あるし。ここベッド狭いし」
 そう言われて、古渡は確かにそうだ、と思い直した。
 この狭い部屋にはシングルベッドしかない。
 無理をすれば男二人寝られない事もないが、翌朝になっても疲れはとれていないだろう。
――それに、今このタイミングで湊と別れられるのは好都合だった。
 これ以上、好きにならずに済むのだから。
「じゃあ俺、駅まで送っていきます」
「いや、そういうのいらないから」
 間髪いれずに断られ、古渡が肩を落としている間にも時は進んでいく。
 手早く身支度を終えた最後に忘れ物がないよう確認するとビジネスバッグを持った。
 玄関へ向かう湊の歩みを追って、別れの時を迎える。
 湊を好きになりたくない、そんな事を思いながらも別れを惜しんでいるのだから不思議なものだった。
 コンクリート仕上げの土間に革靴のつま先を打ち付けて靴を履いた湊の後姿に声をかける。
「夜道には気をつけてくださいね」
「ああ、うん、お前みたいな男ばっかじゃないから大丈夫だろ」
「うっ……」
 痛いところを突かれ思わず口籠ると、湊の背中が微かに震えた。
 喉から零れるような笑い声に、自身がからかわれていた事に気付いて古渡はキッと目を吊り上げる。
 振り返った湊は笑みを隠そうともせず肩を揺らして「ひひひ」と笑った。だが、湊に出来るのはそれを睨みつける事だけだ。
 言い返すには過去の出来事が重すぎた。
「冗談だって。気をつけるよ、ありがとな」
 笑いすぎたためか湊は目尻に涙まで浮かべている。
「……湊さん、意地悪です」
 ふくれっ面で肩を竦めてみせると、湊は顔の横でひらひらと手を振った。
「わるいわるい、古渡は反応いいからついいじめたくなるよな」
「別にいいですけど」
 手を振りかえすと、湊は玄関のドアノブに手をかけて扉を押し開いた。
「あ、忘れてた」
 しかし、またすぐに扉から手を離し、古渡の方へ数歩距離を詰める。
「忘れも」
 のですか?、という言葉が出なかったのは、湊によってその唇を塞がれてしまったからだ。
 唇の間を舌が割って入り、苦い煙草の香りが口内へと広がる。
 直前まで喋っていたせいか湊の口内は行為中よりも冷たい。
 その温度と、絡まる唾液が非現実的だった。