薫る紫煙の行方 第四話


 古渡は湊に煙草を渡したコンビニで待ち伏せをしてみる事にした。
 待ち伏せという方法があまり歓迎される方法でない事は承知だったが、湊の連絡先も知らない古渡にはその選択肢しかなかった。
 空には分厚い雲がかかり、朝だというのに薄暗い。今にも雨が降ってきそうな天気は、沈んだ古渡の気分を一層暗くする。心なしか雨の匂いが刷る、という事はそう遠くないうちに降りだしてしまうのだろう。
 昨日はここに来たからと言って、今日もここに来るという保証はどこにもない。会社のあるオフィスビルで待つ事も考えたが、あちらでは人目が多すぎた。
 いつもより何本かはやい電車に乗り込み、コンビニの入り口に設置されている灰皿の前で、湊を待つ。
 古渡の目の前を、スーツに身を包んだ者達が足早に過ぎ去っていく。
 その間、古渡は湊に言いたい事を、謝る言葉を、ずっと考え続けていた。
 何度も拳を握っては緩め、唇を噛み締める。
 謝罪の言葉はただの自己満足にしかならないのではないだろうか。自己満足のための謝罪ならば、しない方がマシなのではないだろうか。そんな考えが何度もよぎっては消えていく。
 古渡は左腕にはめた腕時計を見た。
 時間は留まる事なく流れ続け、古渡の出社時間は徐々に近付いてくる。
 目の前を通り過ぎる人の波の中に湊の姿は見えない。
 そろそろ出勤せねばならず、今日はもう無理なのだろうか、と諦めかけたその時
「あっ……!」
 遠くから、湊がやってくるのが見えた。
 古渡はもう一度時間を確認してから、小走りに湊へ駆け寄る。
 その古渡の姿に気付いたのか、湊も怪訝に眉を寄せて足を止めた。
「湊さん……!あのっ……俺、謝りたくて」
 通る人波の邪魔にならないよう道の端に寄り、二人は正面から向かい合う。
「この前もう謝ってもらったけど」
 湊はそう言って古渡を睨みつけながら腕を組んだ。
「でも、俺……知らなくて、湊さんにちゃんと謝りたくて」
 そこで一度言葉を区切り、唇を湿らせてからもう一度言葉を紡ぐ。
「あの時は本当にすみませんでした。……謝って、許して欲しいとか、そういう事は思ってないです。許されなくて当然の事を」
「それさ、謝ってもらっても困るんだけど」
 しかし、古渡の言葉を最後まで聞く事なく湊は言葉を遮って言った。語調には隠そうともしない苛立ちが含まれている。
「俺はもう謝らなくていいって言ったよね?もう、一度謝ってもらってるし、謝ってもらったところで何か変わるわけでもないし、なんで謝ってくんの?」
 湊の鋭い視線が突き刺さる。
 それは湊の言うとおりで、古渡自身悩んだ事だった。謝罪の言葉を口にしたところで、過去は覆らないし現実は何も変わらない。
「なんでって……それは……」
 それなのに、再びの謝罪にやってきた。もう八年前の出来事で、今更何も変わる事はないと理解しながら謝罪に踏み切った。
 刺さる視線が苦しくて、それから逃れるように俯いて足元を見詰める。
 自己満足のための謝罪だという事を、否定できなかった。
「まぁいいや」
 ため息をひとつ吐くと、湊は組んでいた腕を解く。ため息と共に苛立ちも抜け落ちたように、その瞬間から湊を取り巻く空気がかわった。
 湊は何かを迷っているように視線をあちこちに巡らせてから、再び古渡の方を見る。そこに先程までのような鋭さは含まれていない。
「帰り、晩飯でも食いに行く?」
「え……」
 その意外な提案に、古渡は驚きの声をあげた。
「ここじゃゆっくり話しできないだろ。俺もお前に言いたい事あるし」
 相変わらず湊の考えは読む事ができない。
 湊から言いたい事があるのだとすれば、恐らくはあの八年前の出来事に関してなのだろう。しかし、夕飯を食べながらするような話しだとは思えない。
「言いたい事……?」
「行くの?行かねぇの?」
 古渡が疑問げに首を傾げると、湊は答えを急かした。時間に追われているのは何も古渡だけではないようだ。
 古渡の答えはひとつしかなかった。
「いっ……行きます!」
 すると湊は満足したように、にっと口角をあげる。
「じゃあ仕事終わったら一階のロビーで待ってて。俺の方が遅くなるから」
 古渡たちの働く会社があるオフィスビルの一階には、ソファやテーブルが設置されていて自由に使用する事ができる。
 日中であればそこで仕事の話をしている者も少なくないが、終業時間頃ならば席は空いているだろう。
「はい……!」 
 湊に一体どんな意図があるのか、まったくもってわからない。けれど、どんな形であれ湊と同じ時間を過ごせるという事にときめいている古渡がいた。
 期待と不安に心を炙られながら、昨日と同じように小走りで会社へとむかう。
 まだ仕事もはじまっていないのに、もう終業後が楽しみで仕方がない。
 精神状態ひとつで人間の集中力や作業能率は天と地程に差がでるものだ。古渡は昨日とは比べ物にならない程のスピードで仕事を片付けていき、定刻までに自身の仕事を終わらせた。
 誰よりもはやくタイムカードを切り、一階のロビーで湊を待つ。
 しばらくすると、これから帰宅する者や残業に向けて僅かな休憩をとる者たちが目の前を何度も行き交わした。
 古渡は左腕にはめた腕時計を見る。時計の針は休む事なく時を刻み続けていた。
 一体どれ程待った頃だっただろうか。何度目かの溜息を吐き、手持無沙汰に視線を彷徨わせる。
 湊は確かに遅くなる、と言ったが、具体的に何時になるのかを聞いておくべきだった、と、今更ながらに後悔する。しかし、聞いたところで残業ならば正確な時間はわからないであろう事に気付き、古渡はもう一度溜息を吐いた。
 湊の連絡先も知らないし、知っていたところで今は仕事中だ。
 何時に来るかわからない相手を待つ、というのは予想外にストレスの溜まるものだった。
 湊に限って約束を破る事はないと信じ、待ち続ける事にした。
 思い返してみれば、古渡は湊の事を何も知らなかった。
 知っているのは学生の頃に過ごした二年程にも満たない時間だけで、その後の八年間は没交渉だ。
 同じオフィスビルにある会社に勤めている事はわかっていても、湊が一体どんな仕事をしているのかも知らないし、どこに住んでいるのかも知らない。何が好きで何が嫌いなのか、休日はどんな風に過ごしているのか――何を考えて古渡を食事に誘ったのか、何もわからなかった。
 古渡が待ち始めてからきっかり一時間経った頃、エレベーターの駆動音が駆け抜け、扉が開く。
「あ……!」
 そこには古渡が待ちに待った湊の姿があった。
「お待たせ」
 そう言って湊は古渡の前まで大股で歩いてくるとにこりと笑みを見せる。
「いえ、全然待ってなんかないですよ……!あの、湊さんは残業だったんですか?」
 すると、湊は僅かに首を傾げて首を振った。
「いや定時だけど。……うち他より出社時間が一時間遅いから、昼休みと退勤もその分遅くなる」
 言われて、古渡は合点がいった。
 今まで出勤時や昼休みにはどれだけ探しても出くわさなかった理由をようやく飲み込める。
「そうだったんですか。それならはやく言ってくれればよかったのに」
 はじめから知っていればこの一時間の間、他の場所で時間を潰す事もできたはずだ。
 恨めし気な視線を向けてみるが、湊は「知ってると思ってたし」と肩を竦めるばかりだった。
 湊に文句をつける事は諦め、ふと思い至る。
「それでいつ探してもいないのか……あれ、でも朝は俺と時間変わらなくないですか?」
 湊の勤務時間がずれているから昼休みや帰宅時に出くわさない、それは納得する事が出来たが、それでは昨日や今日、出社時にコンビニで出会えた事と矛盾してしまう。
 勤務開始時間が一時間遅いのならば、湊は早すぎる出社のはずだ。
「ああ、それは会社で朝飯食ってるから。駅前のコンビニで買って、会社で食べてる」
 湊は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、何事かを操作しながら古渡の疑問に答える。
「会社で……ですか。偉いですね」
 一体スマートフォンで何をしているのか少しばかり気になったが、そこに踏み込む程の考えなしではない。
 仕事が終わったばかりではプライベートの用事もあるのだろう。うっかり覗き込んでしまわないよう少し距離をとって話を続けた。
「どこが」
 湊は一度顔をあげ、怪訝に眉を顰める。
「朝ご飯ちゃんと食べてるあたりが。俺、朝ご飯まで気がまわらなくて、用意してあれば食べる程度で……それに食べる時間あれば睡眠時間にまわしたいです」
 古渡は純粋に、抱いた感想をそのまま言う。
 会社で食べる、という選択肢は目から鱗だった。
 そんな古渡に、湊は呆れたように息を吐いた。
「ちゃんと食わないと昼まで体力持たないだろ。あと俺、どっちかって言うと朝型だから、早起きするのは苦じゃない」
「へぇ羨ましいです!俺のおじいちゃんもそう言ってました!太陽が顔を出すと自然に目が覚めるんだって。俺、朝は目覚ましが鳴っても一回じゃ起きれなくて毎朝辛いんで、そういうの羨ましいです!」
 血圧が低いのか、それとも朝に弱い体質なのか、はたまた前日夜に夜更かしをしすぎなのか――古渡は朝にめっぽう弱い。
 平日の会社に行かなければならない日は辛うじて目を覚ます事が出来るが、休日は必ず昼過ぎまで寝ている。
 朝に強い湊に憧れたその感想は、いささか素直すぎたというべきか、言葉を選ばなさすぎたというべきか、ほんの刹那の間だが湊の表情が引き攣った。
「あっそ……」
 湊は何事かを言おうと口を開いたが、すぐにそれを誤魔化すかのように首を左右に振り、切り替える。
「店、どこ行きたい?一応二軒程見繕ってはいるけど、古渡が他に行きたい場所あるならそっちでもいい」
 そう言って、湊は古渡に今しがた操作していたスマートフォンの画面を見せつけるようにする。
 画面の中にはインターネットブラウザが開かれていて、会社の近くにある、湊も何度か前を通った事のある店が表示されていた。
「俺、特に行きたいとことか考えてなくて……この辺りあんまり詳しくないですし、湊さんにお任せしますよ」
「じゃあどっちか選んで」
 古渡が言うと、湊はスマートフォンを受け取れ、というようにずいと差し出した。
 それを受け取って店の詳細を確認する。
 一軒目は魚介類をメインに据えた居酒屋で、二件目は焼き鳥の店だった。
「湊さんはどっちがいいんですか?」
「どっちでもいい」
 どちらでも、と言われると困ってしまうのだが、わざわざ行く店を絞り込んでくれていた湊に感謝はあれど、文句はない。
 どちらでもいいのは古渡自身も同じだったが心を決め、湊にスマートフォンを返す。
「じゃあ焼き鳥にしましょうよ。俺、鶏肉好きです」
「おっけ。じゃあ行くか」
 そして二人は焼き鳥店に向けて歩き出した。
 外を出ると空は真っ暗で、街灯の明かりが辺りを照らしている。月にはうっすらと雲がかかり、星々は遠くを見詰めてやっと見つけられる程にしか輝いていない。
 微かに混じる雨の匂いは、ほんの少しだけ心を不安にする。
 アスファルトを蹴る二対の革靴の音が耳に響く。
 二人の間に会話はなかった。
 何か話をした方がいい、と思っても、何を喋っていいのか、どう切り出していいのかわからない。
 積もる話はなかった。
 湊に言えるような話もなければ、湊に訊いていい話題がなにかもわからない。
 暗闇に手探りで放り出されたかのようだ。
 一方の湊と言えば、古渡が観察する限りにおいては話題がない事を何とも思ってないようだ。
 時折辺りを見回して場所を確認しながら、黙々と足を進める。
 歩き始めて十分程の時間が経過する頃だっただろうか。
 ようやく二人の目指す焼き鳥店が見えてきた。
 軒先からぶら下がるのは赤い提灯で、漏れてくる音から建物の中は喧噪にまみれているである事が窺える。
 湊に先導されるように店に入り、店員に席へと案内される。
 店内は八割の席が埋まっていて、席に座っている誰しもが良い気分に酔っぱらっているのか、声をあげて様々な会話を楽しんでいた。
 喧噪は、煩すぎて気にもならなかった。
 通された席は店の隅の方にある二人掛けのテーブルだ。
 向かい合って座り、机の下に設置されていた荷物置き場にビジネスバッグを置く。
 忙しそうに駆け回る店員は、ご注文がお決まりになりましたらお呼びくださいね、と冷えた水の入ったグラスとおしぼりを置いて立ち去った。
 向かい合った湊と目が合い、すぐに目を逸らした。頬に熱が昇っているのを感じる。
 周囲にはたくさんの人がいる。
 しかし、その人々は誰しもが自分の事に夢中で、古渡は湊と二人でどこか別の異空間に取り残されてしまったかのような感覚を覚えた。
「古渡は何飲むの」
 机の上に置いてあったメニューを開いた湊は、古渡にも見えるように、とそれを机の上に広げる。
 ビールをはじめとして焼酎や日本酒を中心にリキュールを使用した簡単なカクテルも揃っている。
「湊さんは何を飲むんですか?」
 初めなのだからとりあえずビールを選択すべきか、とも思うが、湊の視線はメニューの上を彷徨っている事に気付いて問いかけた。
「んー……日本酒にしようかな、って思ってるけど。古渡も飲む?」
「じゃ、じゃあ、是非!」
 古渡がそう答えると、湊は何故か満足げに頬を緩めて頷いた。
「何か飲みたいのある?」
「俺、日本酒詳しくなくて……湊さんにお任せしてもいいですか?」
 湊はメニューに書かれている日本酒を指で追い「これでいい?」と訊ねる。
 けれど、古渡は言った通り日本酒に関して知識はほとんどない。だから「はい」と頷くしかなかった。
 食事のメニューは串焼きを中心に、サラダや小鉢なども交えて注文を終えた。
 飲み物だけはすぐにやってきたが、あとの食べ物はあとしばらく時間がかかる。
 互いのお猪口に日本酒を注ぎあい、手持無沙汰に待つ。
 古渡は正面にいる湊を真っ直ぐに見詰める事すらもできず、やはり会話も思いつかない。
 訊きたい事がないわけではない。
 湊の事は全て知りたいと思っている。けれどそれが湊の機嫌を損ねてしまわないか、それが不安だった。
「あの、湊さん」
「ん?」
 古渡が呼びかけると、湊は顔を上げた。
「俺に言いたい事って、なんですか」
 今日、ここに夕飯を食べに来ているのは、湊に誘われたからだ。湊が古渡に言いたい事がある、とそう言ったからだ。
「あぁ……別に言いたい、って程の事でもなかったんだけど」
 と、視線を彷徨わせながら口籠る。
 湊の話を聞きにきたはずなのに、そんな反応をされてしまえば古渡は首を傾げるしかない。
 それでも湊の言葉の続きを待っていると、湊は慎重に言葉を選ぶかのようにゆっくりと唇を開く。
「……昔の事、今はもう怒ってない」
「え……」
 怒っていない、というのはどういう事なのか、古渡にはわからない。
 少なくとも、古渡には一生許されない事をした自覚はある。そして、だからこそ湊に謝る暇もなく縁を切られてしまったのだ、とそう思っていた。
「俺、でも……湊さんには酷い事……して」
「された時は怒ってたよ。お前の顔なんかもう二度と見たくないって」
 湊はお猪口に入っていた日本酒を喉に流し込み言った。
「それじゃあ、なんで俺を許してくれたんですか」
 それは、再会してから疑問だった。
 偶然再会してしまったとは言え、二人の別れは最悪なものだったはずだ。
 無視をされれば古渡はそれ以上に湊に近付くつもりはなかった。
 それなのに、湊はこうして古渡に近付いてくる。
「怒ってないからって、許したわけじゃない」
 けれど、湊はきっぱりとそう言った。
「すっ……すみません……」
 怒ってない事と許さない事、それは似ているようで違うようにも思える。
 古渡はその違いも把握できぬまま、湊の話は続く。
「お前は昔からいいやつだったし、いいやつなのは今も変わってないみたいだし、せっかくまた会えたんだしまた昔みたいに遊べたらいいなって思ってるんだけど」
 その言葉に古渡は瞳を輝かせる。
 だが、すぐにまた俯いてテーブルの上を見詰めた。
「でも、湊さんは……その、俺のせいで……」
 ノンケではなくなったんですよね、と言いたかったが口を閉じた。
 いくら周囲は自分たちの話に夢中になっているとは言え、湊のプライベートな部分を公の場で口に出すのは憚られた。
「……お前のせいって言ったけど、多分それはきっかけだったんだよ。遅かれ早かれ、こうなってたと思う」
 古渡の言いたい事を敏感に察知したのか、湊は穏やかな表情で言う。
「あの……湊さんはゲイ、なんですか……?それとも、バイ……?」
 湊はその一瞬だけ声を潜め、周囲に漏れないよう訊ねた。
 すると、湊はにこりと笑って声を出さぬまま唇を大きく動かす。