薫る紫煙の行方 第三話


 早朝の空気を吸い込みながら、家から駅までの道を歩く。騒がしい街も、会社や学校へ向かうのであろう足早に歩く人たちばかりのこの時間は、まだ静けさが広がっている。
 洗ったばかりのワイシャツに袖を通し、古渡はいつもの日常へと舞い戻る。
 一本も吸いきる事の出来なかった開封したばかりの真新しい煙草は、どこかで捨ててしまおうと鞄の中に突っ込んである。
 捨てて、湊への想いごと忘れてしまいたかった。
 路上にひょっこりと口を開ける地下鉄に続く階段を、靴を鳴らして降りる。改札を定期券を使って潜り抜け、電車を待つ人々の群れへ入り込んだ。やってくる電車に乗り込み、会社へと運ばれる。
 一度乗り込んで仕舞えばたくさんの人と共に、それぞれの目的地に運ばれるだけの電車、という乗り物は魔物のようだと感じていた。
 たくさんの人を運び、街の下を走り抜ける。名前も素性もわからぬ人間たちと密室の中に詰め込まれ、目的地に到着するのをただ待つ事しかできない。
 車輪が線路の上を駆け抜ける音、誰かの咳払い、どこかのイヤホンから漏れる乾いたような鬱陶しい音漏れ、時折、マナーモードにし忘れたのであろう携帯電話の着信音が鳴る。
 煩わしいそれらの雑音は、古渡の孤独感を余計に煽るだけだった。
 目的地に着くと人ごみを抜けて電車を降り、改札を目指す。プライベートはどうあれ仕事には行かなければならない。仕事をしなければ、生きていく事ができない。
 古渡は溜息をひとつ吐き、気分を切り替える。――と、言ってそんなに簡単に出来るものではないが、「気分を切り替えた気持ち」になるのが重要な事だと思っていた。
 改札を過ぎて地上へと続く階段を昇りきると、そのすぐ先にはコンビニエンスストアがあった。国内最大手と言われるチェーン店で、古渡の家のすぐ近くにあるのと同じ店だ。
 その店に入ると真っ直ぐにドリンクコーナーを目指し、缶コーヒーを一本選んで会計をする。商品を入れるビニール袋は断り、店を出てすぐの場所でプルタブを引いて黒い液体を喉に流し込んだ。
 黒い液体は舌が痺れる程に甘く、喉に流れ込んでから安っぽいコーヒーの香りと苦みが口内に広がった。
 美味いかどうか尋ねられれば首を傾げてしまうそれだったが、眠気覚ましにはちょうどいい。
 空いた缶をコンビニの前に用意されていた缶専用のゴミ箱に放り込む。缶同士がぶつかり合う派手な音が鳴り転がり落ちていった。
 古渡はふと、鞄の中に入れてきた煙草の存在を思い出す。
 結局吸う事の出来なかったそれを取り出し、今度は燃えるゴミ専用のゴミ箱の前に移動した。
 捨ててしまえばきっと湊の事も忘れられるはずだ――。どこにも根拠はなかったけれど、そう思っていた。
 しかし、いざ捨てるとなると迷ってしまう。煙草を握った手は、ゴミ箱の手前で止まった。
 このまま少し手を進め、力を抜けば煙草はゴミへと変わる。今まで積もった湊への想いも、消えてなくなる――。
 そうして手を離しかけた瞬間、
「おはよ」
 と、背後から声をかけられた。
「えっ、あっ……」
 すっかり自分の世界に入り込んでいた古渡には、背後から近付いていた気配に気付けず、突如としてかけられた声に驚き、慌てて振り返る。
 慌てすぎていて、声でその人物が誰であるかを判断する暇もなかった。
「……!」
 だから、古渡は振り返ったその瞬間、言葉を失った。
「ゴミ箱の前で突っ立ってなにやってんの?」
 そこに立つのは古渡がずっと忘れられなかった人間で、今から忘れてしまおうと思っていた人間だった。
 煙草の箱を握ったままの腕に、知らず知らずのうちに力がこもってしまう。
「あの、えっと、その……」
 何をしていたのか、と問われても、どう返せばいいのかわからない。
「み、湊さんこそこんなところで何してるんですか……!」
「俺は出社の途中。で、ゴミ箱の前で動かない古渡を見つけたから声をかけてみただけ。何してんの?結構目立ってるよ、お前」
 そう言われて、古渡ははっと辺りを見回した。
 けれど、周囲は先を急ぐものたちばかりでこちらを見ているものはひとりもいない。
 もう一度湊を見ると、その瞳がにやにやと輝いている事に気付いてぐっと睨み付ける。
「別に、何もしてないです」
 湊はこうして人をからかうのが昔から好きだった。
 苛立ちを覚えた事がなかった、と言えば嘘になるが、そこも含めて湊の事が好きだった。
 だがその直後、右手に持っている煙草へ湊の視線が集まっている事に気付いて、右手をさっと腰の後ろへ隠した。
 あからさま過ぎる動作に違和感を覚えぬものはいないだろう。湊も例外ではない。
 古渡の隠した腕を視線だけで追いかけ、今度は古渡と視線を絡めて睨みつける。
「……煙草、捨てんの?」
 行動を見透かすような湊の台詞に、右手に持った煙草の箱が微かにひしゃげた。
「えっと、これは……!」
 言い訳がどこにも見つからず、狼狽するばかりだ。
 忘れようとしただけで、湊に咎められるような事は何もしていないはずなのに、焦りだけが先行し、古渡は下唇を噛む。
「捨てるんなら、俺にちょーだい」
 だが、湊は古渡の内心を知ってか知らずか、打って変わった明るい口調で手を差し出した。
 差し出された手は、煙草を求めて広げられている。
「……」
 真新しい煙草たちは、吸われるために作られたものだ。それを吸いもしないまま捨てるのは勿体無いと思っていた。
 だからと言って他の誰かならいざ知らず、湊に渡してもいいものなのか迷ってしまう。
 湊を忘れるために捨てたいと、そう思っていた。
 古渡が湊を見ると、目が合った瞬間に微笑まれる。古渡の心を全て見透かしているかのような、そんな笑みだった。
 湊の事がずっと好きだった。何年経っても忘れられないくらい、間違って湊を力づくで抱いてしまったくらい、好きだった。そんな笑みで微笑まれて、古渡が抵抗できるわけもなかった。
 頬を赤らめ、それを誤魔化すためか膨れっ面のまま無言で煙草を手渡すと、湊は早速その箱を開ける。
 一本だけ古渡が吸った煙草の箱から、二本目の煙草を取り出して唇に咥えると、胸ポケットに入れていた黒いジッポライターで火を灯す。
 火を灯す指先が、煙草を持つその手が、咥える唇が、紫煙に燻らせられる前髪が、古渡の視線を惹きつける。
 忘れるんだ、と決めていたはずなのに、鼓動は早まり続けるばかりだ。
 湊は幾度か深呼吸を繰り返して、ゴミ箱の横にある灰皿に灰を落とす。古渡の好きな香りが漂い、古渡の肺を満たしていく。香りだけで幸せになれた。
 けれど、そろそろ出社の時刻が迫っている。煙草を吸っている湊をこのまま見ていたいとは思うものの、時間に余裕はあまりない。
 それに、古渡ばかりをじろじろと見詰めるのは気まずい。
 会社へ行こうか、と悩み始めたその時、湊は唐突に口を開いた。
「古渡ってさ、男が好きなの?」
 それは、古渡にとって当たり前すぎる質問だ。そして、当たり前すぎる質問だからこそ、自身の欠点を突かれているような気分になる。
「……随分いきなりですね」
 湊の吐く白い煙は、風に煽られて現れてはすぐに消えてしまう。あとに残るのは香りだけだ。
「答えろよ」
 他の誰かに問われたのならば、いつも答えは曖昧に誤魔化してきた。けれど、相手は湊だ。
「……男が、好きです」
 平日の朝っぱらから、人通りの多いコンビニの前でするような話ではない、と思っても、何故か湊から逃げようとは思わなかった。念のため辺りに人がいない事を確認し、声を潜めて答える。
「女は?」
 しかし、湊は構わずに質問を続ける。
「男だけですよ」
 この質問に何か意味があるのか、古渡にはわからない。ただ答えを求められているから、答えるだけだ。
「昔からずっと?」
 昔、というのは一体どれくらいの事を指すのだろうか。恋愛感情を、恋愛感情だと意識したのは一体いつの頃だっただろうか。いずれにせよ、古渡の回答は一つだ。
「多分、生まれ持った性癖ですよ」
 湊の質問はそれで終わったようで、煙草を咥えて深く吸い込み、煙を吐き出してから「へぇ」と答えた。
「……その質問、何か意味があるんですか?」
 事実の確認のようなその質問に意味があったようには思えない。性癖の確認だったのだろうか。不可解な湊に、古渡は首を傾げた。
「いや、訊いてみたかっただけ」
 煙草の灰が、灰皿に落ちるそれを見詰める湊が何を考えているのかわからない。
 古渡はおずおずと口を開く。
「……湊さんはノンケなんですよね?」
 だが、答えはすぐに返ってこず、しばらくの間を置いてから湊は口を開いた。
「……今は、どうだかな」
 そう言って、湊は煙草の火を灰皿に押し付けて消し、吸殻を捨てた。
「え……?」
 それは一体どういう事なのだろうか。
 古渡の頭の中で、言葉がぐるぐるとまわる。
「どういう……意味ですか」
 意味がわからないわけではない。
 それが、古渡の考えている事で正解なのか――わからない。
「お前のせいだから」
 湊の視線が、古渡の視線に蛇のように絡みつく。
「え……」
 湊が何を言いたいのか、古渡にはわからない。何を考えているのか、何を求めているのか、何もわからなかった。
「もう行かないと遅刻するぞ」
 湊に腕時計を指し示され、古渡は時間がなかった事を思い出した。今からコンビニを離れても少し急がなければならない時間だ。
「あっ……」
 しかし、話はまだ途中で、結局湊が何を言いたかったのかもわからない。
「じゃあな、行ってらっしゃい」
 湊が足を踏み出す事を渋っていると、古渡は湊を追い払うようにひらひらと手を振り、コンビニの中へと消えていく。
 古渡は出社しなくてもいいのだろうか、という心配は、今はひとまずおいておいて、自分の心配をする事にする。
 なにせ、まだ研修期間中だ。形式的なもので、何も問題がなければ数か月後に晴れて正社員となれる。しかし、それは何も問題がなければ、の話でしかない。
 たった一日の遅刻でも、何に響くのかわからない。
 古渡はコンビニに背を向け、小走りに会社へと駆け出した。




 湊は古渡のせいだと言った。それはつまり、八年前のあの日、湊を傷付けた事によって普通の恋愛をする事ができなくなってしまった、と、そういう事なのだろう。
 謝っても過去は変わらない。曲がってしまった湊の人生を元に戻す事はできない。
 罪悪感は、今までにも確かに存在した。
 けれど、それは精神的にも肉体的にも湊を傷付けてしまった事に対してだ。その後の後遺症までは予想していない。
 古渡のした事は、決して許されるような事ではない。まして消えない傷を植えつけたとなればなおさらだ。
 若気の至り、ではすまされない。
 チクタクと、時計の針は進んでいく。何もしなくても時は流れ、自分だけが置いていかれるようだ。
 自己嫌悪だけが降り積もって、仕事すら手につかない。
 湊の後遺症なんて、少し想像すれば予想がつきそうなものだ。それなのに、気付けなかった。考えようともしなかった自分に、嫌気がさしていた。
 終業時間を迎え、いつもより進みの遅すぎる仕事は明日にまわすことにし、帰宅の準備を始める。
 パソコンの電源を切って荷物を纏め、タイムカードを切って挨拶をして、会社を出た。
 エレベーターへ乗り込み、一階のエントランスへと向かう。
 どんなに自分に嫌気がさしていても、日常の行動だけは難なく行えるのだから、余計に嫌悪が溜まる。
 オフィスビルを出ると空はもう真っ暗で、街灯のあかりを頼りに歩みを進めた。通り過ぎる車のエンジン音が煩かった。
 この先、再び湊と顔を会わす事はあるのだろうか。
 今までの八年間で遭遇しなかった事を考えるとその確率は低いようにも思えたが、湊は古渡の働く会社と同じビルに入っている会社で働いていると言った。出勤時に遭遇したのは今日が初めてで、他の日には探しても見つけられなかった事を考えると遭遇しないような気もする。
 会いたい、と思う反面、湊に会わせる顔がなかった。
 地下鉄への階段を降り、ホームへと向かう。電車は数分おきにたくさんの人々を絶えず運んでいく。
 はやく家に帰って一人になりたかった。
 人の群れは好きでも嫌いでもなかったが、沈んだ気分の今は一人きりで孤独を味わいたかった。
 ガタゴト揺れる電車に身を預けやっとの思いで最寄り駅に辿り着くと、自宅近くのコンビニを経由して帰宅する。
 誰もいない部屋の明かりをつけると、昨日買ったばかりの百円ライターが視界に飛び込んできた。
 身体がいっきに重くなっていく感覚に襲われる。
 古渡は溜息を吐き、スーツのまま着替えもせずにベッドに倒れこんだ。
 自分がどうしようもない人間である事はとっくに自覚していた。けれど、湊の人生を捻じ曲げてしまったのだという現実を自覚できていなかった自分の愚かさに、ほとほと嫌気がさしてしまう。
 湊の事が、好きだった。
 大学生だったあの日、友人から偶然に紹介された男はよく笑い、そして優しく、憧れる存在になった。
 好きになったきっかけというのは覚えていないし、どこが好きなのかと問われても返答に困ってしまう。
 行動を共にする間に、いつの間にか好きになっていた。いつの間にか、湊の事だけしか考えられないようになっていた。
 それは古渡にとって初恋で、最後の恋だった。
 湊に縁を切られて以降、恋人という存在がいた事もあった。けれど、そこに湊に抱いたような恋心は存在しない。
 寂しさと肉欲を互いに埋めるだけの関係だ。
 だから古渡はどの恋人とも長続きしなかった。
 ベッドのマットレスに身体が深く沈み込んでいくような錯覚があった。ずぶずぶと、這い上がれない沼に沈んでいくような気分だ。
 湊に謝りたかった。
 一度は謝っているし、謝ったところで八年前のあの日の事がなくなるわけではない。それでも、謝らなければいけない気がした。
 しかし、湊に会うためにはどうすればいいのか、古渡にはわからなかった。
 同じオフィスビルで働いているはずなのに、湊に出会えないのは何故なのだろうか。
 どんな顔をして湊に会えばいいのかわからない。だが、湊に会わなければいけない、とそう思っていた。