薫る紫煙の行方 第二話


 それが夢の中の記憶なのか、はたまた現実の記憶なのか、古渡には判断がつかなかった。
 けれど、楽しい一瞬だった、という事だけはわかる。
 記憶にはうっすらと靄がかかり、大まかには思い出せても、何故そうしたのかは思い出せない。古い映画のワンシーンだけを切り取って貼り付けたかのようだ。
 記憶を手繰りながら、聞こえてくる小鳥の囀りに誘導されて意識は徐々に現実へと浮上する。
 古渡の指先がびくりと跳ね、ゆっくりと瞼が開く。上下の睫毛が何度か合わさり、覚醒した。
 辺りを見回して、場所を確認する。
 古渡がいるのは大学生の頃からずっと住んでいるアパートの一室だった。十畳のワンルームで、形ばかりのミニキッチンがある。
 一見では片付いているように見える部屋で、家具の扉や引き出しの中には溢れんばかりの物が詰まっている部屋だ。たまには整理整頓をしようと思ってもみるがどこから手をつけていいのかわからず、そのままになってしまう。
 この部屋は古渡の性格をそのまま映した鏡だと言えるかもしれない。
 古渡は微かに首を傾げる。
 古渡の最後の記憶はあの居酒屋だったはずだ。
 窓から差し込む朝陽が眩しくて、ぎゅっと目を瞑った。
「……あれ……」
 喉がやけにひりついていて、出した声は酷く掠れている。
 身体は重く、全身がべたついていた。自身をよく見てみればスーツ姿のままネクタイを緩めただけの姿でベッドに潜りこんでいたようで、もう乾いた汗が身体に纏わりついて鬱陶しかった。
 昨夜は一体何があったのか――。
 思い出すまでもなく、大失敗したのだ、という事だけは悟った。酒による失敗は何もこれが初めてではない。
 今まで幾度も繰り返し、反省し、繰り返してきた。自らの学習能力のなさにうんざりすると共に、諦めにも似た溜息を吐く。
 昨日は湊が隣にいる事を意識しすぎて、途中から同僚たちとの話もそこそこについつい飲み過ぎてしまった。
 いつもよりよく喋り、笑い、――そして寝たはずだ。ある時刻から記憶がすっぱりと途切れてしまっていたし、断片すら思い出す事が出来ない。
 そういう時の古渡は大抵の場合寝てしまっていた。
 古渡は飲み過ぎるとすぐに寝てしまうタイプだった。酒での失敗、という括りでは、ただ「寝る」だけというのは大人しい部類に入る。泣いたり怒ったり意味不明な言葉を羅列するような酔い方に比べれば目立たない。
 目立たない、というだけで誰かに迷惑をかけてしまう事には変わりない。それに古渡の場合、一度寝てしまうと朝まで目を覚ます事はないのだから厄介だった。
 昨夜もきっと誰かが世話を焼いてくれて家に連れて帰ってきてくれたのだろう、と思うと一緒に働きはじめたばかりの同僚たちに申し訳ない気分になる――と、思ったところで、部屋の中に誰かがいる事に気付いた。
「……起きたか」
 声が、頭の中に反響する。
 およそ八年、何度も思い出した声を忘れる事も出来ず縋りついてきた。
 本音を言えばもう忘れたくて仕方がなかったのに、どうしても忘れる事は出来なかった。
 傷付けてしまった罪悪感と、傷付けてしまわねばならなかったくらいの相手への執着、絡まったそれらは糸となり、古渡の心を縛り付ける。
 がばり、と勢いよく身体を起こした古渡は声のした方を見た。
「湊……さん……」
 この部屋に、湊がいる。
 そんな現実があり得るはずもなくて、古渡は頭を振った。しかし、現実は現実以外の何物でもなくそこに存在し続ける。
「えっ、えっと、なんで……」
 慌てているあまり思考が分散し、言葉が出てこない。湊がこの部屋にいる、という現実は古渡が混乱するには十分な理由だった。
 八年前、湊をこの部屋で傷付けた。
 煙草の匂いだけを残して出て行った湊の思い出だけに縋って、この部屋を離れられなかった。
「なんでって、お前を連れて帰ってきたんだよ。住所わかんなかったから鞄漁って免許証と家の鍵借りたぞ」
 そして古渡は現状をようやく把握した。居酒屋で眠ってしまったきり目覚めようとしない古渡を、湊は同僚たちから譲り受けここまで連れ帰ってきた、という事なのだろう。
「……すみません」
 他の誰でもない湊の迷惑をかけてしまったというその事実に、どうしようもない自責の念を感じた。
 しょげる古渡を無視して、湊は部屋を見渡した。十畳のワンルームは、学生が暮らすには充分な広さでも、もうすぐ三十路を迎える古渡には手狭だ。
「大学の頃から引っ越してないのな」
 この部屋に思い出があるのは、何も古渡だけではない。湊自身も、忘れられない部屋なのではないだろうか。
「……引っ越したい、とは思ってるんですけどね。この部屋から離れられなくて」
 古渡は、湊が一体何を考えているのかわからなかった。
 昔、自分を傷付けた男の家にのこのこやってくるだなんて、どういうつもりなのだろうか。――勿論、古渡には湊に何かしようという気はない。
 あの頃とは違い、分別を身につけたつもりだ。してもいい事、いけない事、何かをして誰かを傷付ける事の罪の深さを学んでいるつもりだった。
「……煙草、吸っていい?」
 湊はそう言うと、ワイシャツの胸ポケットに突っ込んでいた煙草の箱をちらつかせた。片手にはどこかで買ってきたのであろうコーヒーの缶を持っている。既に空になっているようで、手の中で弄んでいた。
「好きに吸って頂いて構いませんよ。昔はこの部屋で好きに吸ってたじゃないですか」
 流れるような動作で煙草を一本取り出し、薄い唇に咥える。黒い無骨なジッポライターで火をつけ、大きく深呼吸をするようにして息を吐き出す。
 紫煙の香りが、部屋中に拡がった。
 懐かしい、古渡の好きな湊の香りだった。
 煙草を支える、細いけれど男らしく筋張った指はセクシーで、鼓動が高鳴る。
「でも、古渡は煙草吸ってないから、勝手に部屋の中で煙草吸うわけにはいかないだろ」
 あの頃から何年経ってるんだよ、と、湊はどこか遠くを見詰める。
 何故湊と今こうして話をしているのか、古渡にはわからない。
 例えばこれが昔なら、八年前のあの日を経験していない頃ならば十分に在り得た話だ。
 酔って身動きの出来ない古渡を湊が介抱し、ついでに雑談をしていく、なんて事は日常のひとコマだった。
 けれど、今は違う。
 湊には古渡を介抱する理由も、雑談をしたくなる理由もないはずだ。――それを拒む理由はあっても、引き受ける理由なんてどこにもない。
 唇が乾いているような気がして、古渡は噛み締めるようにして唇を湿らした。
「湊さんは、俺の事覚えていてくれたんですね」
 古渡は、湊が自分の事を覚えていないとは思っていない。
 そんな訊ね方しか出来なかったのは、昔の事をどう切り出していいのかわからなかったからだ。
「……忘れられるわけ、ないだろ」
 今までとは違った鋭い視線が突き刺さる。
「俺の中で、お前は最低の思い出だよ」
 古渡はその場で姿勢を正し、真っ直ぐに湊の方を見詰めるとそのまま頭を下げた。
「本当にすみませんでした。あの時、俺……どうかしてて、湊さんに申し訳ない事したってずっと後悔してて……!」
 八年前のあの日、湊を押し倒してから顔を合わせたのは今日が二度目だ。この前のエレベーターでの件が一度目だった。
 だから、こうしてあの日の事を湊に謝罪するのは今日が初めてだ。
 ずっと謝罪したいと思っていた。謝って許してもらおうなんて気はなく、ただ謝罪の意志がある事を示したかった。
 マットレスに額を押し付けたその格好は土下座そのもので、湊の表情を窺う事は出来ない。
 湊は何も言わず、時折煙草を吸う音と空き缶に灰を落とす音が聞こえ、やがて静かにため息を吐いた。
「顔、あげろよ」
 促されて、古渡はゆっくりと顔をあげる。
 目の前に相対する湊が、消えない罪を犯した過去の自分が、怖くて怖くて仕方なかった。
「別に、今更謝って欲しいとか思ってないから」
 その声は冷静に落ち着いている。
「でも、俺」
「いいから」
 言いかけた言葉を遮られて、古渡は唇を噤む。
 謝罪を受け入れられるとはもとより思っていなかった。それなのに悔しさだけが溢れ続ける。
 湊は空き缶の縁に煙草を押し付けて火を消し、吸い殻をその中へ放り込んだ。
 二人きりのこの空間が気不味くて仕方ない。
「あの」
「なに、まだなにかあんの?」
 苛立ちを隠そうともしない湊の声音に一瞬怯みそうになったが、どうしても訊いておきたい事があった。
 これが最後になるなら、なおさら訊いておきたい事があった。
「煙草って、なに吸ってるんですか」
「……随分唐突だな」
 湊の吸っている煙草が気になったのは、今にはじまった事ではない。
 昔からずっと気になってはいたが、煙草を吸わない古渡では匂いや遠目から見ただけのパッケージでは特定できなかった。
「匂いが」
 部屋に充満する煙草の匂いを吸い込むようにして、古渡は口を開く。
「湊さんの吸ってる煙草の匂いが好きなのに、どの煙草かわかんなくて」
 湊は首を傾げながら、胸ポケットからパッケージを取り出す。残りの本数が少ないのかその箱は少しひしゃげていた。
 取り出すと湊はそれを古渡に投げる。
「わっ……」
 すんでのところで取りこぼしそうになったがなんとか受け止め、箱をまじまじと見詰めた。
「そういうよくわかんない唐突さって、昔と変わってないのな。……これ、普通によくあるやつだと思うけど」
 湊はそう言って笑みに近い何かを浮かべた。
 白い箱に黒のインクでデザインされたパッケージは、煙草に疎い古渡でも見た事があるものだ。箱の上部には黒い七つの星が輝いている。
「煙草の匂いが好きだなんて、変なやつだな」
 その自覚は自分でもあった。けれど、好きな理由は明確だ。
「湊さんが吸ってるから、好きなんですかね」
 湊が吸っている煙草でなければ好きにならなかったという自信がある。
 古渡が腕を伸ばして煙草を差し出すと、湊はそれを受け取って再び胸ポケットへと仕舞いこむ。
「なに、まだ夢の中にいんの?」
 その口調は先ほどまでの刺々しいものではない。
 言おうとした事を言うべきかどうか迷って、言う事にする。
 言ったところでどうにもならない、何の実にもならないし、それどころか湊をまた不快な気分にさせてしまうかもしれない。
 けれど、これが最後になるならどうしても伝えたかった。
 湊を見詰め、ずっと何年も温め続けた想いを、口にする。
「……俺はあのころから今も、ずっと好きですよ一日も忘れたいなんて思った事はなくて毎日湊さんのこと思い出してました。湊さんの事が、本気で好きでした。……それは今も変わりません」
 口に出してみれば言葉はやけに軽く、空気に吸い込まれてしまうかのようだった。
 その言葉をどう思ったのか、湊はつまらなさそうに頷いて、
「……淋しい男だな」
 そう笑ってみせる。
 伝えた想いはまだ古渡の中で燻っていて、どうしようもならない切なさを渦巻いている。
 それでも、もう終わりにしなければいけないのだ、と実感した。
 湊への執着はもう終わりにして、新たな一歩を踏み出さなければいけない。しかし、終わりに出来るのならばもっとはやくできていたはずだ。
 終わりにできないから、今まで引き摺ってきていたのだ。
「あの、湊さんは俺が怖くないんですか?」
 古渡は俯き、心に渦巻く疑問を口にした。
「怖いって、なんで」
 けれど、湊はわからない、といった風に首をこてんと傾げる。
 一度唇を噛んでから、古渡は言葉を続ける。
「ここ……八年前と同じ部屋で、俺と二人きりになるのは怖くないんですか」
 八年前、この部屋で湊を無理矢理に抱いた。
 手に残った温もりと、抵抗する力強さは今でもよく覚えている。
「なに、古渡はまた俺をああいう風に抱きたいの?」
「ちがっ……!違います……!そんな事、もう二度としません」
 シーツを握る古渡の手に力がこめられ、シーツはくしゃりと歪んで皺をつくる。
「湊さんを傷つけるような事は、もう二度としません」
 一度は過ちを犯してしまった。
 だから、その言葉を信じてもらえるとは思ってはいない。
 だが、言葉は真実に偽りのないものだ。
 大事な湊をもう二度と傷つけたくなかった。
「……お前は昔から真面目なやつだったよな」
 そんな古渡の葛藤を断ち切るかのように、湊とは笑ってみせた。
 湊がなぜ笑みを見せられるのか、古渡にはわからない。
 それでも笑みを見せてくれた事にほっと息を吐いた。
 それから大した雑談もせず、結局、湊がなぜこの家にきたのか、なぜ古渡の介抱役を引き受けたのかわからぬまま、部屋を出て行く湊の背中を見送った。
 ばたり、と締められて一人きりになった部屋の中には、あの日のように湊の残り香が残る。
「……湊さん……」
 全部忘れて、次の恋に進めたらどれだけマシなのだろうか。
 それとも、これは湊を傷付けてしまった罰なのだろうか。
 ベッドに寝転び、天井を見詰める。
 知らず知らずのうちに涙がこみ上げてきて、古渡は瞼を閉じた。
 涙を零したのなんて何年ぶりだろうか。目の奥が酷く熱く、目尻から零れた雫は髪を濡らしてシーツに染みこむ。
 好きだった男を忘れたくて、次から次へと涙が込みあげる。
 その昔、この部屋で湊を無理矢理に抱いた。
 あの日の煙草の匂いに混じるのは、血と、青臭い白い体液の匂いだった。



 家から徒歩五分の所にあるコンビニは、古渡の生活には欠かせない重要なライフラインとも呼べる存在だ。日々の食事からATMの使用、宅配便の受け取りなど、全てを頼っている。
 そに行けば、湊の吸っていた煙草は意外なほどにすぐに手に入った。
 夕飯の弁当と一緒に無造作に放り込まれたそれはどこか物哀しい。
 そのまま店を出掛けて、また店内へ戻る。
 レジに並び直して購入したのは百円のライターだった。
 煙草を吸う習慣のない古渡の家にはライターを置いていない。湊の使っていたジッポライターと比べれば随分と貧相だったが、火をつける、というだけの用途では困る事はないだろう。
 夜の空は紺色で、遠くには煌めく月が見える。明るすぎる都会では、星はあまり見えない。
 煩いエンジン音を響かせながら走る車の隣を歩き、自宅アパートの外階段をのぼる。
 一歩踏み出すごとにカン、カン、と金属音が鳴った。
 家に帰ってさっそく夕飯を食べる。
 毎日がコンビニ弁当で、もうすっかり飽きてしまっていたが、残念ながら古渡にはあまり選択肢がない。
 少し遠出をして外食にしてもいいのだが、それもコストを考えれば毎日は無理がある。
 自炊をするのにも、古渡の家にあるミニキッチンでは限界があるし、そもそも調理器具と言えばフライパンくらいしかない。
 あまり自炊をしないものだから炊飯器もなく、米を炊く必要がある時は電子レンジで炊いていた。
 自炊に全く興味がないわけではないが、調理器具を買い揃えてまでする必要はないと思っている。
 事務的に腹を満たし終えると、今度は買ったばかりの煙草へと視線を移した。
 匂いが好きなだけで、煙草を吸いたかったわけではない。
 何をしているのか、自分自身でもよくわからなかった。
 それでも買ったのだから、と煙草のパッケージを手に取り、ビニールの封を切る。箱を開けてみれば煙草の上に銀色の紙が載っていて、それを除くと見慣れた煙草が顔を出した。
 どちらから咥えるのか少しだけ悩み、答えを見つけて咥える。百円で買ったライターは近年規制が入ったためにスイッチは古渡が覚えているよりも硬かった。
 朱色の炎が灯り、息を吸うと煙草の先端が赤く染まる。
 それと同時に、匂いの塊が肺へと侵入した。
「……っ!」
 新鮮な空気を求めるためにむせ、何度か繰り返してまた煙草を吸う。するとまた同じようにむせてしまった。
 匂いを味わう、なんて事もできず、古渡は半分も吸わないうちに煙草の火を消す。
「……なんだよ、これ……こんなの湊さんよく吸ってるな……」
 口の中が苦く、喉の奥が痛んだ。
 古渡の求めていた湊の匂いは得られなかった。