薫る紫煙の行方 第一話


 頭上に広がった青天は、古渡のこれからを祝福しているようだった。春の風には花の香りが混じり、呼吸をする度に清々しい気分になれる。
 二十代最後の年、古渡吏(こわたり・つかさ)は転職をした。
 転職をした理由は様々な要因が絡み合った複合的なものだが、一番大きな理由は人間関係だった。
 スラリとした長身とそれなりに整った容姿、豊かな表情と、ほんの少しそそっかしい性格は人間の庇護欲をそそるようで、古渡は女性に、中でも年上の女性に好意を抱かれる事が多い。
 好意と言っても種類は様々で、弟や幼子を「可愛い」と思うのと同義なものから、恋愛感情まで様々だ。
 そして、古渡が以前勤めていた会社には年上の女性の同僚が多かった。
 端的に言えば異性関係のもつれ、だったが、その一言で済ませられるのは心外だと思っている。
 いくら好かれたところで古渡は彼女たちに恋愛感情を抱く事はない。プライベートに踏み込む事はないし、男女の関係になる事も決してないだろう。
 古渡は生まれてこの方、恋愛感情は男性にしか抱いた事がない。
 それなのに古渡の周囲は、古渡を巡って勝手に争いをはじめてしまう。今回は争いの種となった古渡も巻き込まれてしまい、転職を余儀なくされた。
 逃げた、と言えば聞こえは悪いが、自分の身を守るための転職だった。幸いな事に今まで築いた実績が認められ、転職によって給料は僅かに上昇した。
 同じ過ちだけは繰り返すまい、と心に決め、期待と緊張に胸をいっぱいにして初めての出社をすると、早速デスクに案内された。
 転職して初めの三か月は試用期間になる。と、言っても形式的なもので、通常は何事もなく三か月経過し正社員となる。
 だが、形式だけのものでも試用期間中は重要な仕事を任される事はない。
 他の社員たちから雑務を請け負い、それをこなすだけの毎日だ。楽しい、と言えば嘘になるが、以前勤めていた会社での、仕事もままならない程にどろどろに濁りきった環境と比べれば、天と地ほども差がある。
 古渡はその日も、会議のための資料をコピーする、という大役を任されていた。
 資料は一部につき五十頁近くあり、頁の順番を間違えないよう揃えてから紐を通して纏め、それを会議に出席する十人分作成する。
「よし……これで最後……!」
 この会社は、オフィスビルの一室にあった。ワンフロアにつき一社が占有するビルで、トイレや売店、コピー室はは他社と共用していた。
 ビルの二階に位置するコピー室で資料を作り終えた古渡は、束になったそれらを両手で抱え自身の会社があるフロアへと戻る事にした。
 普段、エレベーターを使うのは通勤時と、せいぜい昼休みくらいだ。自販機やトイレなら各フロアにあるし、コピー室を使うような作業もそう多くはない。
 呼び出すとすぐにやってきたエレベーターに乗り込む。エレベーターは入り口と反対側が硝子張りになっており、高層階に進むにつれて景色は壮大になっていく。
 エレベーターが動き出したその瞬間、頭から足先にかけて真っ直ぐに独特の重力を感じた。
 夕方のこの時間、青から橙に変わる空のグラデーションと、階下に広がる街並み、まるで玩具のようにも見える行き交う車たち、それらは映画で見たワンシーンのようだった。
 ぐんぐん離れていく地上に見惚れ、空に吸い込まれてしまうかのような錯覚を覚える。
 チン、と合成音が響き、古渡は意識を現実に戻した。
 仕事中に関係のない事へ意識を飛ばしてしまった微かな罪悪感を振り払うかのように頭を振り、エレベーターの扉が開くと共に一歩を踏み出した。
「うあっ……」
 けれど、踏み出せたのはたったの一歩だ。
 背後に広がる景色に気を取られていた古渡が障害物に気付いたのは、障害物――男にぶつかってからだ。
 書類を抱えていた腕に、どん、という鈍い衝撃と、そのせいで束の書類が腕の中から滑り落ちて足元に降る。紐で纏めていたおかげでばら撒いてしまう事はなかったが、紙には皺が寄ってしまっていた。
「ちょ……大丈夫ですか……?」
 古渡とほぼ同身長の男は落ちた書類を屈んで拾い、古渡に差し出す。
「すっ、すみません、大丈夫です……!」
 前方不注意であった事は古渡だけの過失で、申し訳なさと羞恥で顔から火が出る思いだ。
 それを誤魔化すためか、男の手から書類をひったくるように受け取る。男に顔を寄せたその瞬間、どこか懐かしい匂いがしたような気がした。
「あ」
 しかし、男が声を出したその瞬間、書類を束にしていた紐が指に引っ掛かり、呆気なく解けて紙は雪崩を起こす。背後ではエレベーターの扉が閉まり、機械音がしたかと思うとこのフロアを離れていった。
「ああっ……」
 紐の結び方が甘かったのだろうか、それとも勢いに任せてひったくるように取ったのがいけなかったのか、恐らくそのどちらもだろう。
 古渡が悲痛な叫びにも似た声をあげると、男は床に膝をつき、散らばった書類をさっと集めて古渡に手渡した。
「お前……相変わらずだな。顔だけはいいのに鈍臭いっていうか」
 今度は失敗しないように丁寧に書類を受け取り、男の顔をまじまじと見つめる。
「え……」
 その口ぶりでは知り合いなのだろうか、と、古渡が記憶を手繰り始めたところで、すぐに合点がいく。
「……!」
 もう二度と会える事はないと思っていた男がそこにいた。
 会う事は許されないと思っていた男がそこにいた。
 けれど、今目の前にいる人間が本当にその人間なのか信じられなくて古渡は目を真ん丸にする。
 何度見ても、見詰めても、男は古渡の記憶にある通りだ。顔も、声も、身長も、匂いも――。
 懐かしさで目の奥がじんと熱くなる。
「湊さん……!?」
 それは、忘れようとしても、決して忘れられなかった名前だった。いくら慌てていたとしても、すぐに気付けなかった自分を恥じてもいいくらいに、夜毎想い続けた人間だった。
「久しぶり」
 湊はそう笑うと、古渡の背後にあるエレベーターの呼び出しボタンを押した。
 幻にも見える湊は確かに現実の人間のようで、足もあるし影もある。
 古渡と同じようにスーツに身を包み、首から青いストラップのついたどこかの社員証をぶら下げている。
「えっ……あれ、湊さん……?なんで、ここに……え……ここどこ……」
 そして、古渡ははたと辺りを見回した。
 エレベーターの行き先には、確かに自社のあるフロアを指定したはずなのに、古渡の降りたそこは見覚えのない場所だ。
 きょろきょろと辺りを見回す古渡に、湊は呆れたように溜息を吐く。
「ここは俺の会社で、俺がエレベーター呼んでたからな。お前も確認してから降りろよな」
 そう言われて、古渡はようやく自分が降りるフロアを間違えている事に気付いた。エレベーター内から見える景色に夢中になっていて、エレベーターが指定するフロアよりも手前で止まった事に気付かなかったのだ。
「じゃあな」
 エレベーターに乗り込む湊の背中は、あの頃と何も変わっていない、古渡の思い出そのままだった。
 扉は間もなく閉まり、一人知らないフロアに取り残される。腕の中には角が折れてしまった書類があった。
「湊さんと……また会えた……」
 上階に昇っていくエレベーターパネルの表示を見詰めながら、古渡は一人つぶやく。
 もう二度と会う事はないと思っていた。
 例え会う事が出来たとしても――言葉を交わす事は決してないと思っていた。
 まして、あんな風に笑みを向けられる事があるなんて、思ってもいなかった。
「なんで……」
 湊には恨まれる理由がある。
 恨まれている自覚がある。
 恨まれなければならない過去があった。
 今まで必死に押し隠してきた湊への思い出が、気持ちが、防波堤を失った波のように溢れ出す。
 湊がエレベーターに乗った時に一緒に乗っていれば、もっとはやく自社のフロアに帰れていたんだ、と気付いたのは退勤してからの事だった。



 古渡が湊に出会ったのは、大学生の頃だった。
 湊は古渡の一つ上の先輩で、当時の友人が湊と仲が良かった事から紹介され、時折行動を共にするようになった。
 湊はいつだって朗らかで、誰にでも優しかった。
 そんな湊に、古渡は惚れたのだった。
 就職を間近に控えた湊は、いつも煙草を吸っていた。――実際には「いつも」ではなかったのであろうが、古渡の思い出の中では煙草の印象が強かった。
 紫煙を燻らせる指先に色香を憶え、夜毎その指を思い出していた事を憶えている。
 湊の隣にいると、湊の吸う煙草の匂いが髪についた。煙草の匂いは、イコールで湊と結びつく。湊と別れてひとりになった後、湊を思い出しては切ない気持ちに泣きそうになる。
 古渡が自身の性癖に折り合いをつけたのはその頃だった。
 同性である男にどうしようもない興味を抱いてしまう。抑え込めない気持ちを抱いてしまう。それを認め、受け入れた頃だった。
 だから、湊を好きだ、という気持ちを抑えようという気はなかった。
 今まで認められなかったありのままの自分を受け入れるために、湊を好きでいつづけた。
 そうしていると不思議なもので愛情は限界を知らない風船のように膨らんでいく。
 膨らんで、膨らんで、古渡の胸をいっぱいにして、破裂した。
 その当時の事は今もずっと後悔している。
 もしもそんな行動をとっていなければ、今とは違う生活があったはずだ。――湊に縁を切られるような事はなかったはずだ。湊を傷つけてしまう事はなかったはずだ。
 子供だった、のそんな一言では済まされない。コトを起こしたその時、古渡は学生だったとは言え成人していたのだから。
 湊が卒業を控えたある日、古渡は湊を押し倒した。
 湊は古渡と身長こそ変わらないが、体格はほっそりとしていて筋肉もそうついていない。対する古渡は中学、高校と運動部に所属していた事もあって、がっちりとした体形だった。抵抗する湊を抑え込んで脱がす事は、そう大変ではなかった。
 手足を縛ってうつ伏せの姿勢から腰だけを持ち上げ、獣のようにさかった。終わった後、古渡の吐き出した体液と己の血に汚れながら静かに涙を流す湊を見て、身体中の血液が抜けていってしまうかのような錯覚を覚えた。
 後始末もそこそこに、湊が身体を引きずるようにして出て行った部屋には、湊の煙草の匂いだけが残された。
 湊を無理矢理に犯す、それが一体どういう事なのか、コトを起こす前も、そして現在も十分に理解している。それなのにコトに及んでいる最中は、自らの欲求を果たすためだけに夢中になってしまっていた。
 湊を裏切り、辱める暴力的な行為で肉体だけでなく、精神にも深い傷をつけた。
 どんな言い訳もできないし、それが犯罪だという自覚もある。だから、湊が望むのならどんな罰だって甘んじて受け入れるつもりだった。
 けれど、実際のところ男が男に襲われた、と警察に駆け込むのは相当に勇気がいる行為で、何かあったとしても泣き寝入りする人間がほとんどだ。湊もその例に漏れなかったようで、古渡が受けた罰は「湊との絶縁」のただ一点だった。
 軽すぎる罰に、古渡の罪悪感は更に深くなっていく。
 一時の征服欲だけで消える事のない過ちを犯してしまった。その自分の軽薄さと、愛してやまないはずの湊を深く傷つけてしまった事への恐怖、自己嫌悪、苛立ち――。
 だが、いくら後悔しても傷が癒えるわけもない。
 古渡はただ、湊の目につかない場所で湊のこれからの幸せを願い続けるしかなかった。
 街中で煙草の匂いを見つけるとつい振り返ってしまうのは、もう二度と会う事もないであろう湊の面影を探してしまうからだ。
 もう二度と会わない、そう思っていた。
 それなのに。
「湊……さん……」
 あの日から忘れた事は一日もない、愛しい男の名前を呼ぶ。
 恋愛対象はもっぱら男だったが、恋人がいた期間もあった。それなりに恋愛も経験している。けれど、誰と付き合っていても、何人と寝ても、湊の事だけは忘れられなかった。
 もう一度会いたい、そう願っては、それは許されない事なのだ、と思い直す。湊と会えない事は、湊を傷つけた罰だ。許されない事をしてしまった罰だ。
 湊と一緒にいた期間はそう長くはない。一年と少しというくらいだろうか。
 それでも、頭の芯にこびりついた湊の匂いが、忘れられなかった。
 ふと、今日の湊もあの頃と変わらない煙草の匂いがした事を思い出す。
「煙草……まだ吸ってるんだ……」
 懐かしい匂いは、初めての恋の切なさと、罪の苦しさを刻んでいく。
 あの頃からおよそ八年――経年による変化はともかく、顔も体形もほとんど変わっておらずあの頃のままだった。
 心の奥底に押し隠していた湊への火は、再び激しく燃えだし始める。



 湊はどうやら同じオフィスビルに入っている別の会社で働いているらしい、というのはわかっても、他社の人間と顔を合わせる機会はそう多くない。
 特に古渡の場合、業務の都合上自社フロアの外に出るのは、この前のようにコピー室くらいだったのだからなおさらだ。
 通勤時や昼休みにエレベーターや売店を使用する時には意識して他社の人間を観察してみるが、湊の姿は見えなかった。
 あの偶然の出会いはもしや夢か幻の話だったのだろうか、と古渡が思い始めた頃、社内で有志を募り、古渡の歓迎会が行われる事になった。
 以前から開催の話はあったのだが、ちょうど大きな仕事を終えた慰労会も兼ねて、古渡が入社してから一か月というタイミングでの開催が決まった。
 仕事をするにあたって、一番重要なのは円滑な人間関係だと痛い程に実感した古渡は、同僚たちと仲を深められるこの絶好の機会が楽しみだった。
 今回の古渡の目的は同僚たちと仲良くなる事だが、仲を深めすぎても碌な事にはならない。その絶妙の間合いを測る事を心に決め、飲み会へと望んだ。
 会場は古渡たちの働くオフィスビルからほど近い居酒屋だった。安価で新鮮な海鮮を提供すると評判が良い。
 店に到着した古渡たちは店員に予約していた事を告げると、大きなテーブルのある座敷へと案内された。
 座敷にはいくつかのテーブルがあり、古渡たちの他にも座敷を使う予約客がいるようだ。
 店内は隣の人間の声を聞き取る事もままならない程に騒がしく、それが古渡たちの気分を余計に高揚させる。
 冷えたグラスを手に乾杯を交わし、飲み会は始まった。
 古渡は新しい人間関係を構築する事が好きだった。自分の知らない人間と出会い、その人間を知る事で新しい世界を広げられるからだ。
 人間関係が広がる故の煩わしさもあるが、それを差し引いても誰かを知る事は素晴らしい事だと思っている。
 騒がしい居酒屋の中で酒も交えて和やかなムードで談笑は進み、皆が三杯目の酒を注文した頃だった。
 空いていた座敷の隣のテーブルに、予約していた客がやってきたのだ。
 そのテーブルは古渡たちの右隣りに位置し、席を隔てる壁は何もない。
 気になったのはほんの一瞬で、その一瞬さえ終われば再び自身のテーブルに集中するつもりだった。けれど、それが出来なかったのは聞き覚えのある声をみつけたからだ。
 様々な会話の入り混じる喧騒の中で、その声だけははっきりと聞き取る事ができた。
「みな……と、さん……」
 思わず声に出てしまったのは、湊の姿も見つけてしまったからだった。
「……偶然だな」
 声と視線で湊も古渡の存在を認めたのか、それだけ答えると自身のグループの会話へと戻る。
 皆スーツ姿で、年代が多少ばらけているところから察するに、古渡と同じように会社内での集まりなのだろう。意識して耳をすませてみればそれらしい会話も聞こえてくる。
 湊たちのいるテーブルの事ばかりが気になって、しかし、今すべき事は、自身のために人間関係を築きあげることだ。
 何事もはじめが肝心で、ここで躓いては先へ進めなくなってしまう――経験でそれはわかっているのに、湊たちから意識を逸らす事ができない。
 湊に近付く事は出来ない。
 どんなに好きでも、恋焦がれていようと、古渡は湊を傷付け、湊は古渡を拒絶した。
 許されぬ罪から解放される事はない。
 理解しているのに理解していないかのように湊を意識してしまう自分から逃れるために、古渡は酒を呷った。