獰猛な指先 第十四話



 そうして話をしていたその時、本山の携帯電話が再び振動音を伝えた。先程までは寝ていて気付かなかった長岡だったが、今度は流石に気付いたようだ。
 携帯電話を確認する素振りもない本山の顔を覗き込み「いいのか?」と首を傾げる。
「んー、うん。いい。多分圭吾さんだから」
「圭吾って、この前の……?」
 言うか言うまいかほんの少し迷って、本山は予想している相手の名前を告げる。言う必要はないようにも思えたが、元はと言えば長岡の連れてきた人間だ。
 圭吾とは二人で会うつもりはさらさらないが、出来る事なら三人で会う事も控えたかった。――それくらい、圭吾のするセックスは自分本位なもので嫌気が差していた。セックスは好きだったが、楽しむ事のできないセックスは嫌いだった。
「昨日二人で会ってみたんだけど、思ってたのと違うっていうか、なんていうか……できればもう会いたくない」
 沸き上がっていた圭吾への恋心は一瞬で潰えて消えた。それどころか今では嫌悪感さえも感じる程だ。
「……お前本当尻軽っていうか、誰でもいいんだな……」
 長岡は呆れたように眉を寄せて溜息を吐く。その声音には多大な軽蔑の色も含まれているのが本山にだってわかった。
「別に誰でもいいってわけじゃないよ。それなりに拘って選んでるし」
 尻軽な自覚はある。状況によっては、見ず知らずの行きずりの人間と寝る事も厭わない。
 けれど、圭吾の場合はそうではない。錯覚だったとは言え、一度は『恋』をして選んだのだ。だから、長岡の発言は本山のプライドに障った。
「へぇ、で、圭吾を選んだ理由はなんだったんだ?」
 が、長岡は相変わらず挑発的な口調で挑んでくる。
――誰でもよかったわけではない。けれど、圭吾に恋をした理由はそれを肯定する材料にはならない。
 本山は口を噤んでみるが覗き込む長岡に続きを促されて、仕方なく口を割った。
「……顔、だけど」
 外見で人を選ぶ事がどれほど愚かで、なんの意味も持たないことをこれまでの経験から痛いほどわかっているはずなのに――学習する事が出来ないのは何故だろうか。
「顔、ねぇ」
 にやにやと厭らしい笑みを浮かべる長岡に恋をした時も、きっかけは外見からだったはずだ。
「顔が好みなら誰でも?」
 長岡に問われ、首を横に振る。
 誘われれば誰彼構わずついていく事もある――が、本山から誘う分には選んでいる。その微細とも思われる違いが、本山には重要だった。
「だから、誰でもいいわけじゃないって。それにアイツ下手くそだったし」
 と、全てを口に出してから後悔する。
 これでは、まるで顔とセックスだけが基準の全てかのような物言いだ。一度言ってしまった事はもう訂正する事も出来ず――本山はがくりと項垂れる。
 そうではない、と言いながら、実際のところはその通りなのだから反論の余地もない。
「下手?だったんだ?」
 自身の負けを認め、こくりと頷いた。
「三人でした時は気付かなかったんだけど、俺はあの人のするセックスは好きじゃない、かも」
 愛の介在しないセックスは、身体の欲求を満たすためにするものだ。快楽を味わい、貪るためにするものだ。だが、一人でできるものではないのだから、相手の事を思い遣らねばならない。それを出来ない相手とは――例え尻軽の自覚がある本山と言えども身体を重ねる気にはなれなかった。
 自分を見詰める長岡の視線が気になって、本山は視線を返した。
「なに」
 相変わらずにやにやと人を煽るような笑みを浮かべている。会社ではその笑みを見せない事を考えると、意図的なものなのだろうか。
「って事はさ、俺のするセックスはそれなりに好いてくれてるんだ?」
「なっ……」
 思わず大きな声が出てしまったのは――長岡の言う通りだったからだ。
 身体の相性は確かに良い。それは恐らく、お互いが認めるものだろう。しかし、改めて言われると羞恥に襲われる。
 頬は真っ赤に染まってしまっていたが、いくら二人の距離が近かろうと証明は最低限のものしか点いておらず、色を判別する事は困難だろう――と、思いたかった。
 長岡はずい、と顔を寄せ、二人の距離を更に縮める。逃げようとした本山に腕を回し、それを許さなかった。鼻先が触れそうな程の距離はやけに緊張する。
「俺も好きだよ」
 低く甘く囁かれて、心臓が飛び跳ねたような気がした。もう何度も味わって、身体に染み込んだ長岡との快楽を思い出してしまいそうな声色だ。
 長岡の目を直視する事が出来なくて、逃れるように俯いて視線を逸らす。今更何を恥じる事があるのだろうか、と自分でも思うのに、何故かそうしてしまう。
 素肌の肩に触れた長岡の手が熱くて、その熱に侵されてしまいそうだった。
「なぁ本山」
 長岡の手は滑り、肩から首、そして頬へと移動する。俯く頬を持ち上げるよう促され、長岡を見た。
 いつになく真剣な瞳は、まるで仕事中の時のようだ。長岡に惹かれたそもそものきっかけは確かに顔だったかもしれないが、それから恋心を募らせる事になったのは、その真剣な瞳に惚れたからだった。
「な、なんだよ」
 頬を撫でられて、びくりと震える。
 長岡としなければならない話はなかったはずだ。それなのに、何故逃げる事ができないのかわからなかった。
「……俺はさ、セックスは誰とでもいいってわけじゃないよ」
 迷いながら言葉を選ぶように、長岡はゆっくりと言葉を紡ぐ。
 だが、一体何を言いたいのかわからず、本山は小さく首を傾げた。
「三人でするの、誘ってきたのはお前の方なのに……?」
「それは、本山が喜ぶかなって」
 そうして気まずそうに視線を逸らす。
 圭吾自身の技術はどうあれ、三人で過ごした夜はいつもとは違う身体の昂ぶりを覚えたのは確かだ。またしたい、とは思わないけれど、経験できてよかった、とは思う。
 目を逸らしたまま長岡の指は手持無沙汰に何度も本山の頬を撫でた。その様子から察するに他に何か言いたい事があるのだろうとは思ったが、一体何を言いたいのかはさっぱりわからない。
「なに」
 焦れた本山は、その先を促した。
 逸れていた視線は、再び合わさった。探り合いをするかのように絡む視線は、少しだけ居心地が悪い。
「あのさ」
 言いかけて――長岡はその先の言葉を口にしようとはしない。真剣な瞳に混じる躊躇の理由が気になった。
 もう一度先を促すかどうか迷って、その先を待つ。長岡の瞳は落ち着きなく揺らめいていた。
 どれ程の時間を待っただろうか――時間にしてみればほんの数秒のはずだが、体感ではもっとずっと長く感じられる無言の気まずい空気は、やがて終わる。
「……その、誰とでも寝るの、とかやめて俺だけにしないか」
 それは、青天の霹靂だった。
 長岡の言っている事が理解できず――意味としては理解できるのだが、それがなぜ長岡の口から出てくるのか、一体どうしてそんな事を言うのかがわからなくて、処理に時間がかかってしまう。
「え……っと、なんで……?」
 そして、いくら考えてもわからない事はわからない。
 困惑に眉を寄せながら、目の前の長岡に尋ねた。
 長岡と本山の関係は、あくまでセックスを共にするだけの関係で、恋人でもなければ友達でもない。長岡に交友関係を制限されるような理由は思いつかなかった。
「なんでって……俺は」
 問われた長岡は言葉を選び、口籠る。何度か下唇を噛み、それでも言葉を紡ぐ。
「俺は、独占欲とか結構旺盛な方だし、……本山が俺以外の人間と寝てるのとか、あんまりいい気はしないっていうか」
 そう説明されても、本山には長岡の理屈を理解する事は出来なかった。
 先述した通り恋人なんかではない。嫉妬心だとか独占欲なんかを理解できないわけではない。例え恋人でなくとも、自分の玩具を他人に取られてしまえば悔しくなる気持ちもわかる。――わかるからこそ、腹立たしかった。
 恋人でもない相手を束縛しようとする長岡に、片眉をあげて挑発するような視線を投げた。
「いい気はしないって言われても、なんで俺がお前にそんな事言われなくちゃいけないんだよ。それに圭吾さんを連れてきたのはお前だろ」
 複数でするセックスは良くて、自分の預からぬ所で会うのはダメだ、とは自分勝手が過ぎるのではないだろうか。
「だから、それとこれとは話が違うだろっ」
 長岡は声を荒げ、がばりと半身を起こして本山を抑えつけるように体重をかける。
 抑え込まれた手首はぎりりと痛んで軋んだ。真上からじっと瞳を覗き込まれ、身体が硬直する。
 長岡とプライベートを共にするようになってから数か月経つが、こうして怒りの感情を露わにした長岡を見るのは初めてだった。
「……っ!」
 殺気のようなものを醸す長岡に、恐怖さえも感じる。背を嫌な汗が伝い流れた。
 本山がこれまで知った長岡は、独占欲や嫉妬心とそう関わりのなさそうに見えていた。細かい事には拘らず、そういう感情とは無縁に一夜限りの交わりも楽しんでいくというスタイルなのだと思っていた。
 だが、それは本山の勘違いだったのだろうか。
 今、自分にのしかかる男の瞳には見紛う事のない嫉妬の炎が映し出されていた。
「本山……」
 男の唇が、名前を描く。その声色は弱弱しく、力ない。
「な……んだよ」
 恐怖を感じていても、それをこの状況で表に出してしまう程本山も愚かではない。精一杯に虚勢を張り、長岡を睨み付ける。
 身体を抑えつけられているとは言っても、体格は似たようなもので全力で抵抗を試みれば抜け出せぬわけはないはずだった。その隙を探りながらの睨み合いは、部屋の空気をピンと張り詰めさせていく。
 どうしてこんな事になっているのだろうか、と心の奥底で思う。何が長岡をここまで怒らせる事になってしまったのか、自分では検討もつかなかった。
 その睨み合いが一体どれくらい続いた時の事だっただろうか。長岡は乾き始めた自身の唇を一度舐めて濡らし、ようやく唇を開いた。
「俺は……本山を、誰にも渡したくない」
 言葉は、棘のように突き刺さる。
 恋人ならまだしも、長岡に独占欲と嫉妬心を突きつけられる覚えはない。
 恋人になりたかった――だが、長岡に惚れて、勢い余って墓穴を掘った弱みを握られて今の関係に至った。長岡に対する恋心はその間に消え失せ潰えた。
 長岡を魅力的だと思う事は今だってあるが、それでももう恋人になってみたいとは思わない。
 それに、恋なんて幻だ。幻想は何度潰えても繰り返すが、それは人の世を甘く彩る夢のようなものにしか過ぎない。
 現実は汚く薄汚れて、どろどろと重苦しい感情が渦巻くものだ。
 散々自身を弄んだ長岡の勝手な言い分に、本山は頬を歪ませた。
「意味、わかんないんだけど」
 長岡に何かを束縛されるなんて、真っ平御免だった。
 この数か月間、散々に振り回され続けてきた。それでも本山自身も楽しめていたし、そこに多少の不満はあれど文句をつける気はない。
 だが、交友関係を制限される類の束縛は、本山が最も嫌うものだった。それが原因で潰えてきた恋は今まで数多い。
「恋人でもないのに、長岡にそんな事言われたくない」
 吐き捨てるように、言葉を放つ。
 その一瞬、長岡が怯んだように見えたのは気のせいだっただろうか。けれど、またその次の瞬間には先ほどよりもより強く手首を握りしめられていた。
「じゃあ恋人になればいいだろ」
 恋とは一体なんだっただろうか。愛とは本当に存在するものなのだろうか。
 恋人という関係に、何か意味はあるのだろうか。
 長岡の言葉と同時に様々な思考が脳内を駆け巡る。
「……くだらない」
 本山は歪んだ笑みを見せてみる。
 恋人は欲しいと思っている。互いに敬い愛を分かつ恋人が欲しいと思っている。
 色欲を満たす事も大事だったが、それ以上に心の安寧も欲しかった。今までどちらかだけを重視したり、その場の流れに任せて恋人を作ってみたりした結果、身のない恋を繰り返してきた。
 なにより、本山と長岡の間に恋愛感情は存在しないではないか。あるのは互いを求める肉欲と、独占欲だけだ。
 一昔前ならば乗っていたかもしれない『恋人』という甘言を、本山は一笑する。
「なんで俺と長岡が恋人になんかなれるんだよ」
 いつか抱いていた長岡への恋心は、愛へと変わる事もなく潰えて消えた。今更、長岡に恋人という関係なんて求めるはずもない。
 睨んで、睨みあう。何も喋らず、視線だけが飛び交う。どちらが根負けするのかの勝負だった。
 長岡がなぜ自分と恋人になりたいと思ったのか、その意味はわからなかった。
 確かに身体の相性は良い。うっかり執着してしまうくらい、ベストな間柄だという事は互いに認めているはずだ。だが、長岡から愛情のようなものを感じた事はこれまでに一度たりともないし、愛情を注いだ事も――初めの一回目以降はないはずだ。
 身体の相性が良い、ただそれだけの理由で束縛なんてされてはたまったものじゃない。
 睨むその視線の威力は弱まる事はないが、本山だって譲るわけにはいかなかった。
 未来永劫続くのかと思われたその時間も、やがて終わりを告げる。
 本山の手首を抑えつける力がふと弱くなり、長岡は目を逸らした。
「俺は、本山と付き合いたいと思ってた」
 それだけを言うと、身体に感じていた重さは消え、長岡は身体を起こす。掛布からはみでた素肌の肩に、橙色の照明の光が鈍く反射した。
 今日の長岡は、いまいち何が言いたいのかさっぱりわからない。
 同じ過ちは犯すまいと、本山も上体を起こしてベッドの上に座る。
「……俺だって、昔は思ってたさ」
 しかし、恋は潰えてその感情も今は消えた。
 不意に長岡の視線がこちらを見ている事に気付く。暗闇に揺らめく瞳が、やけに哀しげに見えた。
 互いに身体を起こした事で、二人の距離は先ほどまでよりも随分と離れている。その距離で互いに見つめ合い、腹を探り合う。
 ほとんど毎日顔を合わせ、共に快楽を貪った男が、今は他人のように思えた。
 なぜ長岡は今になって突然、恋人になりたいなどと世迷言を吐き始めたのか――。考えたところで判るはずもない。
 長岡の恋人になってみたい、そう思う心が全くないというわけではない。だが、恋人になったところで、その関係はいずれ潰えるものと決まっている。将来追う事になるであろう痛みを判りきっているのに、傷を増やすような真似はしたくなかった。
 そんな無鉄砲ができるほど、もう子供ではなかった。恋人が欲しいという夢を見ながら、恋愛という幻を見詰め続けながら、そのどちらも存在しないと理解している大人なのだ。
 長岡はベッドから降りて立ち上がり、部屋の照明をつける。身支度を整え始めたのを悟り、本山も服を着た。放ったらかしにしていた携帯電話には、やはり圭吾から幾度もの着信があった。
 そこからの二人は無言だった。服を着て部屋を出る。会計は互いに半々ずつ出し、建物を出ると別れも告げず二股に分かれて歩みだした。
 夜の街はまだまだ騒がしく、あちこちから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。そんな中、冷えた空気を肩で切って一人で歩む。寂しい、とは思ったけれど、今は一人でいたい気分だった。
 失恋をしたわけでもないのに――心にはぽっかりと穴が開いてしまったようだった。
 こうして関係が終わってしまうのだと思うと口惜しい気もしたが、それもまた仕方のない事なのだろう。そう、自分を無理矢理に納得させる。
 世の中には人が星の数ほどいて、今まで幾度となく恋を繰り返してきた。長岡ほど身体の相性が良かった相手は知らないが、きっとまたそのうちどこかで長岡の代わりになるような人間と出会えるに違いない。
 泣きたいような気分は、一時的なものにしか過ぎない。偽りの感情は明日になれば忘れている。一晩寝て、またぞろ誰か他の新しい男の腕に抱かれれば、長岡に募る想いも消えてなくなってしまう事だろう。
 そうして今まで繰り返してきたのだから、今回もきっと大丈夫だ。
 そう言い聞かせて、一人喧噪の中を孤独に歩み続けた。頬を撫でる冷たい風が沁みるように痛かった。