獰猛な指先 第十二話



 暗い部屋の中、二人の男が全裸で絡んでいた。纏わりつくような汗も、今は気にならない。
 いつものように、互いを貪る。そこに特別な感情は何もなく、肉欲を満たすためだけのものだ。
 絡む呼吸と指先、感じる体温は馴染み良い。二人分の呼吸で、部屋が満たされていく。借り物の、セックスをするためだけにあつらわれた部屋で、全てを発散する。
「ん……」
 唇を奪われ、呼吸が詰まる。溺れそうになるような愉悦が身体に染み込み、堕ちていく。混じった唾液はもうどちらのものかもわからない。身体を動かす度に軋むベッドがうるさかった。
「ひっ……」
 唐突に身体をひっくり返され、後ろから深くまで穿たれる。尻だけを高く抱え上げられ、本山はシーツに顔を埋める。白いシーツはくしゃりと乱れて情事の激しさを演出する。
 自分では届かない場所を犯されて、甘い声が漏れた。我慢する事も出来ず悲鳴をあげながら絶頂への階段をかけのぼる。
 背後から聞こえる長岡の吐息に余裕はなく、長岡を感じさせる事ができているのだと思うと、やけに嬉しくなれた。内壁をごりごりと擦られ、ぶら下がって揺れるペニスから白濁が溢れてシーツに叩きつけられた。
 刹那の快楽は、永遠に続くようにも思えた。
 けれど、その快楽もいずれ終わる。
 一際奥深くまで貫かれ、埋められた男根の脈打ちを感じる。生きている証は、終わりの合図だった。何も孕む事のない腹に子種を流し込まれ、その背徳感に打ち震える。
 萎えたペニスをずるりと引き抜かれて、本山の膝は崩れ落ちた。
 快楽を貪っている間は何も思わないのに、終わった後の自己嫌悪と疲弊感はどうにもならなかった。
「大丈夫か?」
 かけられた声は、形だけのものだ。本山を心底気遣っているものでない事くらいわかる。
「……ああ」
 先程まで散々に喘いでいたせいか、喉が引き攣れるように痛んだ。水を飲もうと疲れた身体を引き起こすと、流し込まれた精液が溢れて内腿を伝う。不快ではあったが、あとで風呂に行けば済む事だ。今はそれよりも先に喉を潤したくて冷蔵庫に向かう。
「……いい眺め」
 伝う精液を見て揶揄する長岡の声を無視し、備え付けの冷蔵庫から、定価の倍程の値札が貼られたミネラルウォーターを取り出した。よく冷えた水が、荒れた喉に心地良かった。
「今日は圭吾呼ばなかったんだな」
 二人でのセックスでもよかったが、先日の三人でのセックスを思い返す。ひょっとしたら今日も圭吾が来るのではないかと少しだけ期待していた。
 圭吾とセックスできるのではないか、と――ほんの少しだけ、期待していた。
「ん、呼んだ方がよかった?そんなに気に入った?」
 にやにやと、長岡が嫌らしい笑みを作る。会社の他の人間たちの前でする事のない、本山もこの関係になってから知った笑顔も、もう随分と慣れたものだ。
「別に、そういうわけじゃないけど」
 とってつけたように言いかえし、水を口に含んだ。
 くだらない恋を繰り返そうとしている。長岡に対して失敗したように、圭吾に対しても恐らく失敗してしまう。だから、踏み出せない。――もとより、本山のそれは恋ではない。見た目に少し惹かれているだけで、一般に言う恋心とは別のものなのだろう。
 だが、本山はそれを恋心と勘違いをしていた。だから今まで失敗ばかりを繰り返していたのだ。しかし――気付く事はない。
「もっかい、する?」
 長岡に誘われて、本山も僅かに口角をあげる。セックスはスポーツの一種にしか過ぎない。快楽を求めて汗を流す。本能に突き動かされるままに身体を動かすだけだ。
「できんの?」
 嘲笑するようなそれに、長岡は「当たり前だろ」と答えて腕を広げる。
 飲んでいたミネラルウォーターのペットボトルのキャップを締めると、その腕へと飛び込む。普段スーツに隠されている胸板は男らしく分厚い。滑らかな肌の感触を楽しみながら、口付けを交わした。
 肌を這いまわる指に身を任す。
 まるで恋人かのような優しい指先が、何故かはらだたしかった。それでも首筋から鎖骨、鎖骨から胸元へと下りていく指に情欲を煽られる。
 体内に再び炎が灯る。
「ん……」
 羽のように這う指から、痺れるような快感が腰へと伝った。
 どちらからともなく、キスを交わす。互いの舌を貪るそれは肉欲を煽るための手段にすぎない。
 一度は恋をしたと思った男と視線を絡ませる。初めて夜を共にするあの日までは、確かに運命だと思っていたのだ。そして嫌いだと思い、今度は普通へと戻った。
 長岡の感情はひとまず置いておいて、本山だけの視点でよいならば、また身体を繋ぐ前までの関係に戻る事だってできる。ただの同僚、他人へと戻る事ができる。
 今ならば、戻る事ができる。今こうして抱き合っている事も、互いに貪りあった快楽も、全てを忘れる事ができる。
 しかし、現実的に考えてみればそう簡単な話でもない。
 きっかけは本山だった。酔った勢いに任せて長岡を襲ってしまった。だが、関係を継続させているのは長岡だ。周囲に性癖をバラす、と本山を脅した事で本山は嫌々――近頃は楽しんでもいるが、嫌々関係を継続させている。
 周囲に性癖をバラすと言ったところで、それは長岡も同条件なはずだ。一夜限りのあやまちならともかく、長岡はもう何度も本山を求めた。二人でホテルで待ち合わせ、時には就業の場であるはずの会社でも身体を繋いだ。
 もちろん周りの目に触れないよう気を付けてはいるが、他の誰かに何かを勘付かれていてもおかしくはない。
 自身の性癖が周囲に露呈する事は、それが例え異性を対象にした所謂『普通』の性癖だとしてもよく思う者はいないだろう。
 長岡が本山の性癖をバラすと言ったのは、本山が特殊な――同性愛者だったからだ。
 ジェンダーフリーも浸透してきたとは言え、そういった恋愛に理解を示さない者の方がまだ多数だ。
 同性にしか興味がない本山と、同性でも抱ける長岡は本質的には別物だ。けれど、世間からの目は似たようなものだろう。
 長岡の脅しは、恐れるものではない。本山の性癖を露呈させる事は、即ち自らの性癖をも露呈する事になる。
 本山はキスの最中、そっと薄目を開けて自身を求める男の顔を窺う。
 一度惚れた男の顔は凛々しく、やはり本山の好みの顔をしていた。
 本能の赴くままに突き動かされているその欲情が自分に向いているのだと思うと、嬉しくも思える。
 長岡の背中に腕をまわし、体温を共有する。
 恋愛なんて、より気持ちの良いセックスをするためのスパイスでしかない。
 長岡とは恋人同士になりたいと夢見ていた。――恋人同士になり、抱かれてみたいと夢見ていた。
 恋人同士にはなれなかったけれど、結果として望みは叶った。
 恋に希望を抱かないのであれば、今の関係を崩してしまうのは馬鹿らしいのではないのだろうか。
 圭吾が必ず本山のものになるとは限らない。
 ならば、長岡とこの愛のない関係を継続させるべきではないのだろうか。
 唇はやがて離れ、顎から首筋、鎖骨から胸元はと下っていく。敏感な肌の上を泳ぐ男の唇に、倒錯する。
 背中にまわした腕へ力を込める。
 恋愛なんて幻覚のようなものだ。生まれては消え行く儚いものだ。
 そうわかっていても、愛が欲しかった。
 誰かに愛されたかった。
 誰かの特別になりたかった。
 いくら望もうとも手に入らないものがある。そんな事は今までの経験でわかっている。
 それなのに望んでしまうのだから、自分の業深さに自嘲する。
 それを与えられる快楽で誤魔化して、溺れる。
 男の剛直に絡む粘膜が、絶えず快楽は感じる。
 長岡に、愛されてみたかった。身体だけではなく、心も愛されてみたかった。


 終電ギリギリにホテルを出て、二人はそこで別れた。
 本山は自宅に帰り、ため息をつく。一人きりの時間は誰に気を遣う必要もなく気楽だ。
 行為の余韻と気怠さ、それに日中の仕事の疲れも溜まっている。今すぐに眠りについてしまいたかった。
 ベッドに寝転びながら携帯電話を弄る。目的はただ一つだった。
 電話帳からつい最近登録したばかりの名前を呼び出し、電話をかける。鳴り響くコール音に緊張が増していく。
 数回目のコール音が過ぎ去り、ひょっとして今は出れないのか、と諦めかけた頃、唐突に通話が繋がった。
『はい』
「……も、本山、ですけど」
 声を聞いたのは、初めて会ったあの夜以来だ。回線を通して聞く声は、あの夜と同じはずなのに違うようにも思える不思議な感覚だった。
 恋をしている。
 幻の恋をしている。
 愛されるために恋をしている。
「……今度、二人で会えませんか」
 用件は、ストレートに、簡潔に。
 肉欲と混じった恋心は、複雑に絡み合っていく。
 答えが返ってくるまでのその間、時間にすれば数秒にも満たないはずの間がとても長く感じられた。
『いいよ』
 今度こそはうまくいきそうだ、などと根拠のない自信が溢れてくる。
 そうして何度も失敗した事を忘れて、溢れてくる。
 本山は飛び上がりそうな心臓を何とか押さえつけ、具体的な日時を決めた。
 約束は今週末の金曜日、場所は前回三人で使用したホテルだった。
 身体が欲しいわけではない。肉欲と恋愛感情は切り離して考えるべきだと思っていても、圭吾とはそもそも身体から始まった関係なのだからそれも難しかった。
 電話を切り、そのままベッドに突っ伏す。身体は限界まで疲れていて眠りを欲しているが、何故か精神は眠りを拒んでいた。
 長岡の事も圭吾の事も、上手くいっているはずだ。今のところ何の不満も、問題もなくて――それなのに、まるで出口のない迷路にさまよいこんだかのような気分だった。
 怠さの中、瞼を閉じてみるものの、やはり眠気は訪れない。それでも寝ないという選択肢はない。
 明日も仕事で、寝ずに仕事ができる程もう若くはないのだ。眠れなくても身体を横たえて瞼を閉じ、長い夜を過ごした。
 
 窓から太陽の光が差し込む。明け方頃にようやく眠りにつく事ができたが、当然の事ながら睡眠時間は足りていない。あまり眠れなかった頭はぼんやりとしていて、抜けきらなかった倦怠感が全身を覆う。
 まだ寝転んでいたいという欲求を無理矢理はねのけ、身体を起こす。刺さる日差しは、真夏のものから柔らかな秋のものへと変わりつつあった。
 立ち上がり、真っ直ぐに浴室へと向かい、服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。昨晩も行為の後ホテルでシャワーを浴びてから帰ってきたが、こうして自宅で浴びるシャワーはその穢れを全て落としきるかのようだ。
 最後に水流をお湯から水へと切りかえた。冷水は肌に突き刺さるようだった。
 ノリの効いたワイシャツを着てネクタイを締める。常日頃からつまらないと思っている仕事だったが、現実逃避をするには一番だ。仕事に集中している間だけはプライベートを全て忘れる事ができる。
 本山は鞄を手に持ち、会社へと向かった。変わり映えのしない毎日が続く。


■■■


 約束の日はすぐにやってきた。元々そう遠い日付ではなかったが、仕事に集中し続けるうちに心の準備も忘れてしまっていた。
 誘いにのってきた、という事は圭吾だって多少はその気があるはずなのに、本山の心はすっきりしなかった。恋愛感情を介在させずとも身体を重ねる事ができる。長岡とは今はその関係で――出来れば圭吾とは恋愛をしたかった。
 けれど、恋愛感情とは不確かなもので、いつ裏切られるともしらない幻の感情だと思っている。
 だから恋愛感情を介在させない、身体だけの関係でもいいから、圭吾とのつながりが欲しかった。――はずなのに、いまいち乗り気になれないのは何故だろうか。
 それでも約束をしたからには、それも自分の方から取り付けたのだから、本山は業務終了の定時をチャイムと共に仕事を無理矢理切り上げて待ち合わせ場所へと向かった。
 待ち合わせたのは利用するホテル近くの公園で、本山が到着する頃には辺りはうっすらと暗くなっていた。日中はまだまだ暑いとは言え、陽が暮れてくるとさすがに肌寒くなってくる。そろそろ夏服も終わりだと考えながら公園内を見渡し、目的の人物を発見する。
「……こんばんは」
「やあ」
 本山が声をかけると圭吾の方もすぐに気が付き、朗らかな笑みを見せた。
 その笑みは本山の好みで――ここに来るまでに抱いていたよくわからない不安が一気に消し飛んでいく。
 スーツに身を包んだ本山もどうやら仕事帰りのようだ。
 外見の良さで熱があがってしまう自分の軽薄さに嫌気もさすが、持って生まれた性質は変わらない。自身を戒めたところで繰り返してしまう。
「じゃあ行きますか」
 ろくに言葉も交わさず、ホテルへと向かう。肉欲を満たすためだけではない恋人が欲しいと願っているのに、こうして肉欲に縛られている。
 もう大人なのだから中高生のような純粋な恋愛は出来ないが、身体を優先した関係にもいい加減うんざりしていた。
 長岡との関係も、出来る事ならやめたかった。
 長岡に抱かれたいと思っていたのは確かだ。その腕に抱かれて、体温を感じたいと思っていた。
 けれど、それ以上に愛されたかった。
 そして、それは圭吾に対しても言える事だった。
 身体から始まってしまった関係ではあるが、身体だけの関係はごめんだった。
 ホテルに到着した二人は交互にシャワーを浴び、身体を清める。部屋は大した特徴もないシンプルなものだった。
 部屋の照明を落とし、ベッドへと潜り込む。
 恋愛感情なんて幻なのだと散々に思いながら、それでも愛を求めてしまう自分が馬鹿らしかった。
 そんな自分への嫌悪感を誤魔化すかのように圭吾へ唇を強請る。すぐに気付いた圭吾は唇を重ね、粘膜を慰める。
 長岡のものではない舌は久しぶりな気もした。
「ん……」
 上擦った声が漏れる。内腿を男の手が這ったからだ。くすぐったさの勝つその刺激だったが、すぐに甘さも加わった。
 撫でる指先が期待に昂ぶるペニスを掠めて腰が震える。
 指先は焦れたように急いた動きで後孔へと滑りこんでいく。事前に準備もしていた孔は男の指も難なく飲み込んだ。
「ひぁ……けいご、さん……」
 ひくつく内壁を骨ばった男の手に掻き回される。長岡の指より一回り程太いのではないかと思えるその指は、内壁を拡げるように掻き回し、本山の感じるふくらみを強く押し込んだ。反射的に体内の指をきつく締め付け、より一層男の指の形を知る事になる。
 ここ数ヵ月すっかり慣れ切っていた長岡ではない人間に与えられる愉悦は、何故かとても不安を煽る。その不安の正体は本山自身でもはっきりと断定する事ができないものだった。
 不安が気になって、快楽に身を任せる事が出来ない。心から溺れる事ができない。しかし、本山の心をよそに圭吾の手は愛撫を続ける。
「うぁっ……」
 ぐるり、と内壁を拡げられ、二本目の指が埋められる。不安を感じていても抵抗する気はない。が、二本の太い指は好き勝手に本山の体内を動き回る。その動きは必ずしも性感を刺激するものではなかった。
 前立腺のあたりを掠めればそれなりに気持ちが良かったが、やや乱暴な手付きで内壁を掻き回す動きは時折痛みさえ覚えた。いくら本山が慣れているとは言え、後孔は優しく取り扱わねばならない場所だ。
「っ――」
 近頃は長岡ばかりを相手にしていて――そういった不満は全くなかった。今まで盛り上がっていたはずの圭吾への気持ちが急速に萎んでいく。
 前回の時は気付かなかったが、圭吾の愛撫はお世辞にも上手いものではない。苦痛とまではいかなくても、快感を見知った身体には少し物足りない。
 セックスが下手な相手にあたったのはこれが初めてではない。今までに付き合っていた人間の中にも、身体の相性がよくない男はいた。
 以前の本山ならある程度の事は我慢できたのかもしれないが、ほんの数日前にも抱き合っていた長岡と、している事は同じはずなのに感じられる愉悦は数段違う。
 圭吾の指はそんな本山の心境に気付かず後孔を掻き回す。
 適度に慣らした、と圭吾が思ったのか、本山の後孔に男根が押し当てられる。
 痛みを予感して、本山は力を抜くために息を吐いた。
 恋人になってくれ、とうっかり先走って言わなくて本当によかったと安堵しながら、今はその強引なセックスに耐えるだけだ。
 粘膜を行き来する男根を感じながら、冷めた目で圭吾を見る。好きになったはずの外見なのに、ときめく事はなかった。
 セックスが下手な男に、セックスが下手だと言ってやるような優しさを本山は持ち合わせていない。これから多くの時間を共にするのならまだしも、今のこの時点で、既に圭吾と次に会う機会はないだろうと思っている。
 自分の上で快楽を追う男の顔をぼんやりと見詰める。
 苦痛を伴うほどでないにしろ、長岡の時のようには楽しめない時間だった。