獰猛な指先 第六話



 その翌日から、本山は月曜日とは違って晴れ晴れとした気分で出社した。どうせ変える事のできないものなら、とことん楽しんでやる、と。元はといえば楽天主義なのだから、そう考えを改める事は容易だった。
 会社に執着したい気持ちが消えたわけではない、仕事についての責任も同様だ。それでも――今を楽しみたいと思った。楽しんで生きていたいと、そう思った。ぐだぐだといつまでも悩んで引き摺るのは性に合わないと、そう思ったのだ。その辺りの切り替えの良さは本山の長所でもあり、短所でもあった。
 もしもの事態についての覚悟は出来ていた。転職先だってひっそりと探してみる。そうして自分のフォローをしつつも、追い込まれたこの状況を楽しく過ごしていたかった。
 一度考えを改める事に成功すると、その後は楽なものだった。今まで気にしていた事がまるでちっぽけでくだらない事のようにしか思えない。人生は自分がどうあがこうと転ぶようにしか転ばないのだから、くだらない事で悩んでいては勿体ない、少しでも楽しみたい。というのはこれまでの人生経験に基づいた本山の主張だった。
 そう言い切れる程たくさんの経験をしたわけではなかったけれど、それでも自分で築いたそれなりに誇りのあるプライドだった。

◆◆◆

「本山、昼飯一緒に行こうぜ」
 パーティションに手をかけ、区切られた本山のスペースを覗き込むようにしている長岡に誘われて、机の上に散らばった書類を纏めながら返事をして振り返る。ほんのりと茶色の混じる本山の髪が揺れた。
「何が食いたいの?」
 午前の仕事が終わり、しばしの休憩を挟んで午後の仕事がはじまる、この昼休みという束の間の休息を皆個々に思い思いの時間を過ごす。以前の本山のように一人を好む者も少なくはないが、大多数は皆と昼食を楽しみながらの談笑の時間と捉えているようで、どうやら長岡もそちら側の人間のようだった。
 今までの本山ならば長岡の誘いは断っていた事だろう。
「うーん」
 と、長岡は両腕を組み、昼食を何にするか考えているのだろうか、軽く眉を寄せて視線を彷徨わせる。
「本山は何か食いたいものないの?」
 しかし、いい案は浮かばなかったのであろう、本山の出した質問はそっくりそのまま返ってきてしまった。
 今日も窓の外からは絶え間なく蝉の鳴く声がし、寒いくらいの冷房が効いた室内の中、五月蠅い程の夏を感じている。
「……じゃあ、食堂にしよう。社外出るのめんどくさい」
 窓から差しこむ陽光に目を眇めながら本山が告げると、長岡は「おっけー」と笑った。
 この会社にある社員食堂は値段とバランスの良い栄養に重きを置いたメニューを提供している。低カロリーでヘルシーなメニューは体重を気にする女性社員や、定期的にある健康診断で医師に渋い顔をされた中年男性社員に大変人気である。だが、そんな事よりもボリュームを重視する――特に若手の男性社員にはあまり人気がない。会社の周囲には低価格で量のあるランチを提供する店がたくさんあるせいだった。
 それでも、外に出る事さえ億劫になるほどの強い日差しと高い気温の夏では、今日の本山のように社員食堂を選ぶ者も少なくはない。
 社員食堂に着いた二人はそれぞれに思い思いの品の食券を券売機で購入し、カウンターで商品と交換すると同じ席に着いた。特に会話もなく――長年一緒に仕事をしていたとは言え、プライベートに踏み込むような付き合いはここ数日だけで、すべき会話も見当たらなかった。
 それに昨日とは違って食事についての感想も特にはない。決して不味いわけではないが、わざわざ感想を口に出したくなる程美味いわけでもない。良くも悪くも”ただの社員食堂”だった。
 さっさと食べ終わった本山は箸を置いて冷えた水を口に含む。のどごしの良い冷えた水が喉を滑り落ちていった。
「あ、俺ももう食べ終わるから待って」
 そう言って長岡は丼をかきこもうとする。
「ゆっくり食えばいいよ」
 けれど、本山は静かにそう応え、丼を持ち上げかけた長岡を制した。
「昨日よりは時間もあるし、待ってるから」
 チラリ、と腕時計に目を落としつつ、携帯電話を取り出した。
「……わかった」
 長岡は短く答え、通常通り――よりも少し急いた様子で食事を再開させる。そんな様子を尻目に携帯電話の十字キーを操作し、画面をスクロールさせる。新聞社のニュースサイトのページを開き、興味もない記事にただひたすら目を通していく。ほんの僅かに空いた時間でも情報収集に費やす事のできる近頃は良い時代になったものだ、と切に思う。それに何より携帯電話一つで済むというあたりが何よりも魅力だ。新聞は保管するのにも持ち運ぶにもそれなりに場所をとるのだ。
 そうして三つ目の記事を読んでいた頃、時間にして五分強といったところだろうか。長岡はようやく飯を食べ終わったようで、箸を置くカラン、という音が聞こえた。
「お待たせ」
 本山が顔をあげると、ニッと口角をあげた長岡と目が合う。迂闊にもすっかり油断していたせいかその瞬間、心臓が跳ねあがる。頬が熱く、火照っている事が自分でもわかった。せめて、それを悟られまいと目を逸らしたが、僅かに遅かったようでニヤニヤと意地の悪そうな顔をした長岡はテーブルに肘をついてその手の上に顎を乗せ、本山の顔を覗き込むようにした。
「本山が俺の事好きって、やっぱ本当なのな」
 テーブル越しに少しだけ顔を寄せて、少しだけ声をひそめる。とは言ってもここは社員食堂で他の従業員の目だってある。
「なっ……そ、そんなわけ、ないだろっ……!俺がいつそんな事……!」
 皆、食事をしながらそれぞれ話をしていたり、本や携帯電話を見ながら思い思いの時間を過ごしている。そんな公の場所での長岡の発言に、本山は口をぱくぱくとさせ、しかし声は大きくなってしまわないよう、なんとも挙動不審な慌てっぷりを見せた。
「初めてシタ時、かな」
 しかし、長岡の方と言えば本山の動揺など意にも介さず話を続けるのだから堪ったものではない。本山は耳まで真っ赤にしてバン、とテーブルに手をついて立ちあがった。喋り声ならいざ知らず、その音で周囲の何人かは二人の方を振り返ったが、何事もない事を確認するとまたすぐに目を逸らした。
 羞恥と怒りで僅かに肩が震えている。
「……行くぞ」
 空になった食器が乗ったトレイを持ち、苛々としたやや乱暴な動作で返却口に突き返してそのまま社員食堂を後にする。ずんずんと大股で進む後ろからは数歩遅れて長岡が追った。本山とは違って冷静で、返却口ではその向こうにいる係り員に「ごちそうさま」と声をかける余裕もある。
 エレベーターホールにつくと二人はエレベーターに乗り込んだ。他に乗り合わせた者はおらず、二人だけの空間だった。本山は階数ボタンを迷わず押した。目指す場所は地下、あのほとんど人の来ないトイレだ。それを言わずとも長岡もわかっているのだろう、エレベーターを降りた本山の後を無言でただついていく。
 地下は地上階と同様の照明が施されているにも関わらず、窓がない分ほんのりと薄暗く、圧迫感もある。紙の資料や書籍類は全て倉庫として使用している一室に収められているのに、エレベーターホールまで乾いた埃と古い書籍の匂いに満たされていた。
 トイレに到着すると本山はようやく一息つく。そして、それも束の間に長岡の方へと向き直り鋭い目つきで睨みあげた。
「お前っ……あんな場所でなんて事言うんだよっ」
 誰もいない事がわかっているこの場所では先程の社員食堂での時とは違って、はっきりと大きな声で言う。
「ちょっと自意識過剰すぎるんじゃね?誰も他人が喋ってる内容なんて聞いてねーよ」
 壁を背にして軽くもたれかかっている長岡は、本山の全力での睨みつけも全く気にしてはいないようだ。
 吐き捨てるようなその物言いに怒りは更に煽られる。
「ふざけんのもっ……」
 更に声を荒げて怒鳴ろうとしたのに、それを実行できなかったのは唇を塞がれたからだった。
 ぎゅっと手首を掴まれて抱き寄せられ、身体のバランスが崩れて長岡に倒れ掛かる。その隙に背中に手を回されてしまうと同時に唇を塞がれた。
 柔らかい唇が重なり合い、その隙間を割って舌が侵入する。抵抗しようとしても身体を押さえられていてはそれも出来なかった。口内を犯す舌は上顎を擦り、そこから身体の中心にむかって情欲が走る。
 次第に身体の力が抜けていく。怒っていたはずなのに、本山はそれを素直に受け入れた。身体の芯を犯す様な心地の良い快楽には抗えなかった。
「俺だって、誰かにバレるような真似なんてしないっつーの。あんな会話の断片で全てを察せられる人間なんているわけないだろ」
 そう言われてみれば、確かにそうだと思った。
 自分が思っているよりも他人は自分の事を気にしていない。少しばかり違った事をしていても、他人にとってそれは一瞬で過ぎ去っていく大多数の知らない誰かに過ぎない。
「んっ……」
 強く抱き締められながらの粘膜の触れ合いに恍惚とし、瞼を閉じてただ蹂躙されるままに身を任せ、更には自分から下を絡める。
 気付けば夢中で長岡の舌を貪っていて、抑えきれない声と、飲み込む事の出来なかったどちらの物とも知れない唾液が唇の端から漏れた。
 これからを予感させる情欲の波は身体に熱い疼きを注ぎ込んでいく。
 永遠に続けばいい、と思わせる程のぬるま湯の快楽は、長岡の唇が離れた事で終わった。離れる唇に縋ろうとしても肩を軽く押し返されてしまう。
 温かい唇は離れ、唾液に濡れた唇が空気に晒されて籠っていた熱が逃げる。二人の唇の間を唾液の糸が引き、やがてそれは自らの重みに耐えきれず切れてなくなる。
 本山が情欲の火を灯した瞳で見上げると、同じく濡れた瞳とぶつかった。今まで本山の知らなかった、仕事中には決して見せないプライベートの瞳だった。
「本山って、ほんとスキモノだよな」
 見上げた瞳は意地悪く嗤う。
 スキモノだという自覚は――ある。だから、長岡の言葉には何も答えずに、唇が離れてしまった分そっと背伸びをして体重を預けた。今度は長岡もそれを受け入れた。
 再び触れ合った唇は、今度はちゅ、と音を立てて啄む様なキスを何度も繰り返す。体内に燻る熱を煽られ、煽る。長岡の下腹に手を伸ばしてスーツの上からまさぐり、硬さを持ち始めているそれを確認すると今度はベルトを外しはじめる。
 キスを繰り返しながら、下着の中に手を突っ込んだ。
「俺がスキモノなら、お前も同じようなもんだろ」
 硬く熱い性器を手に取り、本山は笑む。下着の中からそれを引っ張りだすと同時に屈みこんで口に含んだ。僅かな汗の香りが興奮を誘う。
「違いねぇな」
 そう言って長岡は自嘲を含んだ声で笑った。
 膝をトイレのタイル張りの床についてしまう事は躊躇われ、スーツが汚れてしまわないようにしようとしてみたが、それも僅かな時間だけだった。膝と腰を曲げて屈んだ体勢ではとても窮屈で、結局すぐに膝をつく事になってしまった。
 口を窄めて含んだ男根を吸い上げたかと思えば、裏筋に沿って舌を這わす。先端から染み出る蜜液を嚥下し、脈打つそれを唇で扱く。
 そうすると頭上から降ってくる長岡の快楽を秘めた荒い吐息に、本山の情欲も煽られるのだ。男の性器を口に含み興奮を得られるなど、本山はマゾヒストの傾向があるのかもしれない。――その自覚はないわけではなかったが、一度手を出すともう二度と戻ってこれなくなりそうで、一般的なプレイとかけ離れたような事はまだ一度も経験した事はなかった。
「……っ本山、お前も脱げよ」
 びくびくと脈打つペニスは更なる快楽が欲しい、と訴えていた。
 けれど、本山は僅かに見上げると静かに首を横に振った。
「口の中に、ちょうだい」
 そして、少しだけ恥ずかしそうに視線を彷徨わせてから更に言葉を紡ぐ。
「……仕事終わったら、どっかホテル行かないか……?」
 昼休みにヤると後片付け面倒なんだよ、と毒吐きながら再び口淫をはじめた。
 長岡の大きな手が本山の髪を撫でる。それはきっと同意の合図なのだろう。喉の奥までいっぱいになってしまう程のペニスを咥え、奉仕を施す。
 奥まで銜え込みすぎてペニスの先端に喉を刺激され、吐き気さえも催して目尻には生理的な涙が浮かんだ。呼吸が出来ない程の苦しさも伴いながら、それでも口淫を止める事はない。
 脈打つ男根に舌を絡める。飲み込みきれなかった唾液が男根を伝い、タイル張りの床に零れ落ちて濡らした。
 次第に長岡の呼吸は荒くなり、限界が近い事を知る。
 どこをどういう風に弄れば気持ちいいのか、なんて事は手に取るようにわかる。強く吸い込みながら激しく出し入れし、唇で茎を扱く。
「――っ」
 長岡の低い呻きと共に腹筋が微かに震え、快楽の証が吐き出される。口の中に広がる苦みを、本山は迷う事なく全てのみ込んだ。
 身体の中に燻った熱はそのままで解放される事はない。
 その熱を無理矢理抑え込んで身支度を整え、じゃあまた帰りに、と約束をして別れた後、本山は社内の自動販売機で冷たい缶入りのアイスコーヒーを買った。理由は至極明解なもので、まだ喉に絡んでいるような気がする精液を流し込んでしまうためだ。
 行為に夢中になっている間は飲み込む事に抵抗はないのに、正気に戻るとうんざりする事も少なくはない。
 買ってすぐに自動販売機の前でプルタブを引いて缶を開け、喉に流し込む。苦みと甘みが生臭さを沈めていき、本山はほっと溜息を吐いた。
 僅かな期待を秘めた身体の熱の事なんて今は忘れたフリをして仕事に集中しなければいけない。無造作にゴミ箱へ投げ入れた缶は他の缶とぶつかって派手な音を立てて転がった。