獰猛な指先 第四話



 昼休みを迎える頃にはすっかり、とまでは行かないものの、仕事に没頭しているうちに、いつも通りの平静を装えるくらいの余裕は取り戻しつつあった。
 確かに朝は不快だったものの、それをいつまでも引き摺るのは非効率この上ないし、周囲にだって迷惑をかけてしまっていて申し訳ないとは思っている。
 昔から感情のコントロールはあまり得意ではなかったが、もう三十路も近いというのにそんな甘えた事は言ってもいられないだろう。
 気分転換に昼はいつもより奮発して少しいい所で昼食をしようか、と午前の業務終了の合図を心待ちにしていた。
 それなのに――。
「本山、昼一緒に食おうぜ」
 まるで、旧知の友達に話しかけるかのような気軽さで、今一番聞きたくない声の持ち主から話しかけられてしまうのだ。
 その姿だけ見れば、性格の悪さは今は鳴りを潜め、爽やかな笑みを湛えた好青年で――本山がいつか恋心を抱いた相手だった。なまじ顔が好みなだけあって、いくら中身を憎々しく思っていようと、その無邪気とも言える笑みに思わず見惚れてしまう。
 そして、そんな自分に対して、収まりかけていた苛立ちが再度熱を灯す。自分の軽さが――自分で嫌になる。
「……嫌だ。なんでわざわざお前と飯食わなきゃなんないんだよ」
 ちょうど仕事もキリのいいところまでやってきた。パソコンにロックをかけ、机の上に散らばった書類たちを軽く纏めたところで昼休みのチャイムが鳴った。財布と社員証、それに携帯電話を持っている事を確認した上で席を立ち、長岡の脇をすり抜けて足早にエレベーターホールへと向かう。
「あ、待てよ」
 長岡は慌てた様子で小走りに本山を追った。無理に横に並び顔を覗きこもうとするが、それを拒否するかのように俯いて敷き詰められたオフィスマットを睨む。
「なぁ、なんでイヤなんだよ」
 ずんずんと歩を進め、エレベーターホールに着いた本山の横に並ぶ長岡の声を無視し、エレベーターの呼び出しボタンを押す。言葉に応じないどころか、視線すらも遣らない、存在そのものを無視した。長岡の声が酷く癇に障った。
 そうこうしているうちにエレベーターは到着し、本山がそれに乗り込むと当然のように長岡も続く。
「あのさぁ、無視すんのやめて欲しいんだけど。俺なんか悪い事した?」
 整った顔は眉を八の字に寄せ、困ったような表情を浮かべた。
 そこでようやく本山は一瞥をくれ、しかし、言葉には応じない。
 先週末の出来事さえなければ、性格の悪ささえ知らなければ――まだ長岡に恋心を抱いていたのだろうか、こうして昼食に誘われていたら、その時の自分はきっと今とは真逆に舞い上がっていたのではないだろうか、そう思うと複雑な気分だった。
 そもそも、やはりこんな事態に陥ってしまったのは自業自得でしかない。それに、このまま無視を続けているうちに長岡の気が変わり、誰かに吹聴されるような事だってあるかもしれないのだ。長岡の性格の悪さはつい最近知ったばかりで――何をすればどんな行動に出るのか、計り知れない部分があった。
 外面がいいだけに、その内に秘めたものを見透かしにくい。そんな冒険をするくらいなら、まだ長岡の言いなりになっている方がずっと安全だったし、楽だった。
 本山は溜息と共に、長岡へ向き合った。
「……いや、特になにも。腹が減って機嫌悪かっただけ」
 諦めて、口からでまかせに言葉を紡ぐ。理由を言ったところで何の解決にもならないし、今はそうして必要以上に長岡と会話をする事さえ億劫だった。
 諦めたからと言って苛立ちが収まるわけではないので、その口調は些かぶっきらぼうなそれだった。
「へぇ、ならいいんだけど。……飯、一緒に食いに行かね?」
 どうしてこうも執拗に誘ってくるのだろうか、身体を重ねる関係になったとしても、恋人になったわけではないし、まして友達でもない。ただ、同じ会社で働いているというだけだ。これまで昼食を一緒にした事なんて一度たりともない。
 それなのに、なぜ。
 本山は基本的に仕事とプライベートは完全に切り離して考えるタイプの人間だ。昼休みがプライベートな時間かどうかと問われるとそこは微妙なところなのだが、折角の休憩時間にまで会社の人間と食事をしたいと思った事はなかった。
「別に……いいけど、何食いたいの?」
 それでも、向こうに弱みを握られていると思うとどうしても強くは出られない所があった。
 本山が問うと、長岡は「うーん」と、顎に手をあててエレベーターの階数表示のランプを見詰めながら唸る。そんな行動さえいちいち様になっていて、それが無性に苛立つのだ。
「あ、うどん屋どう?俺、あそこのカツ丼食べたいんだけど」
 うどん屋、言われて会社のすぐ近くにある店の事だとすぐに見当がついた。うどんとそば、丼ものを出す店で、手打ちの自家製麺が評判だ。
 腹は減っていたものの、特に食べたいものが決まっていなかった本山は
「じゃあそれで」
 と、簡潔に答えた。
 二人きりの静かな空間に、エレベーターの作動する機械音だけが響く。手持ち無沙汰で居心地が悪かった。
 弱みを握られている――これからの関係を思えば、それはお互い様のはずだった。しかし、元々ゲイであり異性に興味のない本山は、自分に向けられる世間の目の冷たさを知っている。
 それに、周囲からの信頼の違いだってある。いつだって誰に対しても明るく、整った容姿を持つ長岡なら、例え男と寝る事が出来ると言っても許容できる人は多いのではないだろうか。しかし、壁を作り内にこもりがちな自分は――恐らく、気持ち悪がられて――疎まれる。その思いが本山を卑屈にさせていた。
 一階に着いたエレベーターの扉が開き、一歩足を踏み出す。二人きりの密室空間から解放され、ほっと息をついた。
 うどんにするか、そばにするか、それとも丼ものにするのか――。隣の長岡についての悩みはさて置いて、目下の悩みは本日の昼食についてだ。
 長岡と足並みを揃えて――けれど、互いに無言でうどん屋まで足を進めつつも、本山は真剣に悩んでいた。 そばよりはうどんの気分で、しかし丼だって捨て難い。こういう時の本山は優柔不断極まりなかった。
「……どうかした?」
 真剣な表情で腕を組み、眉根を寄せる本山に、長岡は怪訝な表情でその理由を尋ねる。思わず尋ねずには居られない程の悩み方だったのだろう。
「うどんにするか丼にするか悩んでる」
 基本的に米が好きなのでここは丼にしようか、しかし、うどんだって捨て難い。けれど、うどんだけではきっと夕方くらいには腹が減ってしまう――。だからと言ってうどんと丼を一つずつ頼んでもとてもではないが食べきれる気はしない。
 ため息と共に腹が鳴った。
「……セットにしたら?好きな丼選んでそれにミニうどんつけられるやつ」
 頭痛がしてくる程に悩んでいた本山は、どこか呆れたような響きを伴ったその言葉に勢い良く長岡の顔を覗いた。
「え?なにそれ、そんなのあんの?」
 ぱあ、と明るい表情までつけて、瞳はキラキラと輝かせて。
 今までの機嫌の悪かった無愛想な反応とは打って変わったそれに、長岡は相当驚いた様子で一歩引きつつも頷いた表情は口の端が引き攣っている。
「前行った時はあった……けど」
 長岡の歯切れが悪くなってしまったのも仕方ないだろう。
 なにせ、本山の瞳はキラキラと輝いて期待に満ち満ちているのだ。そんな表情は仕事中には決して見られないものだったし、プライベートでも怪しい――食べ物が絡んでいる時にしか見られない類のものだ。もし、何かの理由で店がそのメニューをやめていて、本山の期待を裏切ってしまっては申し訳ない、そう思わせるくらいの期待っぷりだったのだ。
 本山は性欲と食欲には限りなく素直な男だった。普段は捻くれて他人の目線だとかを酷く気にする癖に、性欲と食欲に関する事は一途に追い求める傾向があった。
「じゃあそのセットにするとしてー……丼は何食おう」
 そして、本山は再び思考を開始させる。丼、と一口に言っても様々な種類がある。長岡が食べたいと言ったカツ丼や親子丼、天丼や山かけ丼まで様々だ。
 今日の気分はカツ丼か親子丼の気分だった。その二択まではすぐに絞り込めたのだが、そこから先が問題だ。
 唸って悩む本山と、それを半ば呆れの表情で見詰める長岡は店前まで着いた。出発したのが早かった事も手伝ってか昼時だというのに店内は混んでおらず、すぐに席に着ける状態だった。
 店内は無垢材を多用し、自然で素朴な雰囲気を重視した造りになっている。席数はそう多くなく、四人掛けのテーブル席が四つ、カウンター席も四つあったがそのどれもが窮屈な印象だ。しかし、味の方は抜群で雑誌に掲載された事もある。平日の昼間は周辺の会社に勤めるサラリーマンが、休日になれば遠方からの客が列をなす。
 テーブル席に案内された二人は、向かい合って座った。
「カツ丼か……親子丼か……木の葉丼もいいかも……」
 本山はメニューを見ながらぶつぶつと声に出して悩む。長岡は既に決まっているのか、手持ち無沙汰に出されたお冷を啜って本山の様子を窺っていた。
「本山って……なんか、知れば知る程イメージとかけ離れていくよな」
 やっぱりカツ丼にしよう、と思ったところで、顔をあげる。長岡の言葉は心外――という程でもない。プライベートと仕事では意図的に雰囲気を変えている。悪目立ちしないように猫を被り、普通を装っているのだから。
 そして、それは恐らく長岡だって――長岡に限らず、社会人なら皆似たり寄ったりだろう。
 本当の自分、なんてものを会社で出している人間を、本山はあまり知らなかった。
「……それは、お互い様だと思うけど」
 そう言ってパタリとメニューを閉じた。
「結局、何にすんの?」
 しかし、長岡はそれ以上その話を続ける気はなかったようだ。
 もう店員を呼んでもいいか、という長岡の目配せに頷きながら短く「カツ丼」と答える。
 散々迷った結果だった。長岡がカツ丼を食べたい、というのを聞いてから本山も食べたいという思いが強くなっていったのだ。かといって、親子丼も捨てきれない。基本的にはカツよりも鶏派だ。普段なら迷った挙句親子丼を選択したところであろうが、今日はカツ丼の気分――だと思い込む事で迷いを捨てる作戦だった。
「親子丼じゃなくていいの?」
 それなのに、長岡はまた決心が揺らぎそうな事を言うのだ。今日はカツ丼の気分――そう決めたばかりなのに、そんな事を言われてしまえばやはり親子丼も捨て難い、とそう思ってしまう。優柔不断な性格はなのだ。
 黙りこくってしまった本山に、長岡はにこりと笑って告げる。
「カツ丼わけてあげるし親子丼にしたら?その替わり親子丼もちょっとわけて欲しいんだけど」
 それは夢のような提案だった。本来であれば、友達でもなく恋人でもない、ただの同僚なのだから遠慮すべきなのであろうが、腹をすかせた本山にはそんな判断をできるわけもなかった。迷わず長岡の提案にのった。
 店員を呼んだ長岡は手際よく二人分の注文を済ませ、後は頼んだ商品が出てくるのを待つだけだ。実は長岡はとてつもなく良い人なのではないだろうか、以前想像していた通り優しい人なのではないだろうか、そう思えてしまうのは、腹が減っているせいなのだろう。
 うっかり揺らいでしまいそうになる心を必死で律しながら、平静を装った。――恋愛を否定しながらも、俗に言う『恋愛体質』である事は自覚のうちだ。ちょっとした事で惚れてしまうのだから世話がない。
 そんな自分を嫌いだと思いながらも、思ったところで生まれ持った性質が改善されるわけではない。優柔不断なところも――恋愛体質なところも。
 昼休みの時間帯はどこの店もそれなりの準備をしているので、素早く商品が出てくる。注文から間もなく、二人の前にはそれぞれが頼んだ丼とミニうどん、漬物が並べられた。
 割り箸を割り、「いただきます」と手を合わせる。
「じゃあ、先交換しよっか」
 そうして長岡に促されるままに、まだ口をつけていなかった箸で互いの丼を交換して一口ずつ食べた。
「やっぱここのカツ丼うまいよな」
 本山の食べたカツ丼はごく一般的なもので、トンカツをたまねぎや出汁などと一緒に卵でとじたものを白飯にのせたものだ。そのトンカツはしっかり衣がついているのに油気は少なく、いくら食べても胸悪くならないと中高年を中心に評判だった。
「親子丼もうまい――っていうか、ここの料理で外れはないよな」
 丼を再び交換し、二人はそれぞれの注文したものにようやく手をつけはじめる。長岡の評した通り、親子丼もなかなかの美味でぷりっとした歯ごたえが特徴的な鳥もも肉と蕩けるような卵の組み合わせは至極だ。親子丼とカツ丼を比べても甲乙なんてつけられない、どちらも素朴でありながら共に美味く、また食べたいと思わせるような味がこの店の人気の理由だった。
 丼に舌鼓を打ち、ミニうどんものびてしまわないうちにたいらげた二人は、そこでようやく息をついた。二人が食べているうちに店内はあっという間に賑わいをみせ、店の前には数人の行列が出来ている。
 こうしていると本当にただの同僚みたいだ、なんてくだらない錯覚をしてしまう。ただの同僚だった数年の間に、一度だってこうして食事を一緒にした事はなかったのに。
 長岡程の容姿や人望があればセックスの相手なんていくらでも見つかりそうなものだったのに、何故自分に固執してくるのかはわからなかった。恐らく――面白いゲイを見つけた、だとかオモチャ感覚なのだろうとは思う。今更その程度の扱いで傷付くような神経は持ちあわせてはいなかったので、それはどうでもよかった。
 およそ三十年も生きていれば、自分に対する諦めもある程度は許容出来るようになってしまうのだ。
 店の前の行列の事を思えば、あまり長居は出来なかった。
「じゃあ、行くか」
 自分の食べた分ちょうどの小銭を長岡に託し、席をたつ。長岡がレジで会計をしているのを、本山は店の外で待った。
 ジリジリと肌をやくような太陽の暑さに目を眇める。満腹になった事も手伝ってか頭上に広がる青空は気分が良い。
 気分の浮き沈みが激しい――と言えば聞こえは悪いが、感情の切り替えの早さは元来の本山の性格だった。誰かと喧嘩をしていやな気分になっても、何か良いことがあればその刹那には上機嫌になってしまう。しかし、大人になって様々な経験をしていくうちに意地を張って頑なにもなってしまっていた。自分に素直になれずに関係を抉らせて縁を切る事になってしまった男は今までに何人いただろうか。
 そんな男たちに思いを馳せる度、もう二度と恋をしたくないと思うのだ。もう二度と――傷つきたくない、と。
 長岡と馴れ合っても何もいいことはない。いつか必ず壊れてしまう関係なのだから、その壊れてしまった時の傷口がより一層深くなってしまうだけだ。自分を苦しめるだけだ、と、本山はそう思っていた。
「お待たせ、早めに出たから結構時間余ってんね」
 ガラリ、とうどん屋の引き戸が開き、会計を終えた長岡が顔を見せる。
 長岡への恋心は消え失せた。恋はしたくないと思っていたのだから、それは好都合だった。
「こんだけ時間あるんならさっさと会社戻って昼寝でもしようかな」
 左手首にはめた腕時計を一瞥し、踵を返して歩き始める。社内はどこも冷房が効いていて、立っているだけで汗が流れだしてくるような外とは違って、心地良く過ごせる。昼寝、と言っても自分のデスクに突っ伏してほんの十分足らずのものだ。たったそれだけでも午後の頭の働きが違うような気がして、本山は昼寝を好んだ。
「本山、ちょっとつきあって欲しいんだけど」
 太陽光で熱せられて、もしも転んで手を着こうものなら火傷してしまいそうなコンクリートを踏みしめる会社への帰路、例えばそんな誘いもあるのかもしれない、とは思っていた。けれど、本当にあるだなんて、思わず笑い出したいような気分にもなる。
 一旦回復しかけた長岡への評価が、また再び急降下していくのがわかった。
「別に、いいけど」
 昼寝に関しては諦めて長岡を振り返るその表情は、どこか憂いを帯びた、しかし怪しげな色香も含んだそれだった。