獰猛な指先 第三話



 やはり恋なんてするものじゃない、ともう何度も思った事を、本山はまた思い浮かべた。頭上から降り注ぐシャワーの水流は心地よく、昨夜の名残を全て洗い流していく。
 まさか、長岡からあんな提案を持ちかけられるとは想像すらしていなかった。長岡がそういう人間だとはつゆほども思っていなかった。けれどそのおかげで――本山の恋心は脆くも崩れ果てたのだ。深入りしてしまう前で良かったとすら思う。
 少しの虚しさと、腹の奥から込み上げるような怒り、しかし、その感情の発端は自分にある。本山が長岡を好きになる事がなければ、酔った勢いに任せてセックスを強要する事がなければ――知らずにいられたはずだったものだ。行き場を失った感情はぐるりと巡り回って自分に諦めだけを植え付けていく。
 シャワーをお湯から水に切り替えて冷水を浴びる。いつまでも尾を引きそうな諦めの感情を無理矢理断ち切って頭を切り替える。切り替える、なんてそんな簡単に出来るものではなくて、実際のところはただ考えないようにしただけだ。考えないように、深呼吸をしながらそちらから視線を外すだけなのだ。
 長岡に身体を許す事――それは別にどうでもいい。今更誰に抱かれたところで何の感傷も抱かない。そんな純粋な時期は遠に終わってしまっている。そこに快楽が伴うなら、本山としても夜な夜な一夜限りの相手を探し求めるよりも都合がいい。
 シャワーを止めて脱衣場に持ってきていたバスタオルをとり、身体についた水分を拭きとって服を纏う。
 終わってしまった事は仕方がない。過去は変える事が出来ないのだから、今を受け入れるしか他に道はない。したところで何も進む事のない後悔はしない主義だった。
 寝室に戻ると、長岡はベッドの上で上体を起こし、所在なさげに携帯電話を弄っていた。
「風呂、入れよ」
 棚から取り出した新品のバスタオルを差し出す。
「ありがと」
 パチン、と音を立てて携帯電話を閉じた長岡はバスタオルを受け取り、浴室へと消えていった。見送ったその後ろ姿は、昨夜まで恋心を抱いていたその人のままなのに、今では言い様のない苛立ちしか募らなかった。
 誰かを裏切った事なんて数えきれない程にある。今までに何回も、その時の気分で快楽を優先し、大切な人の気持ちを踏み躙ってきた。相手を傷つけ、時にはその刃は自分にも跳ね返って己を傷つける。けれど、何度傷付いても懲りる事なく人を踏み躙ってきた。
 今までそうして生きてきたのだから、今更誰かに傷つけられる事を恐れているわけではない。長岡の事にしたって、自分が勝手に思い描いていた理想図に恋をし、あげく自ら襲った結果だ。
 期待と違った――そんな落胆した気持ちはあれど、裏切られただとか傷つけられたなんて被害者ぶるつもりはない。
 清廉潔白な人間などいない。理想通りなだけの人間などいない。そんな事は十分にわかっている。
 そして、長岡も所詮はその程度の人間だった。長岡に文句を言うつもりはない。本山自身だって――そう褒められた生き方はしてきていないのだから。長岡に股を開いて、ただそれだけで今までの日常を維持できるのなら安いものだった。
 恋なんてものはつまらない。心を渦巻く熱く滾る想いでも、何かきっかけがあれば一瞬で泡のように消え去ってしまう。ならばはじめから恋なんてしなければいいのに、と本山は今までに何度だって思ってきた。
 けれど、己の心はコントロールする事が出来ず、何度だって――過ちを繰り返す。

◆◆◆

 口封じのために身体を開く、そう約束はしたけれど、週末の休日の間に長岡から誘われる事はなかった。あの日、シャワーを浴びて身体を清めた長岡は、先程までの意地悪そうなニヤニヤとした笑みは消えていて、いつも会社で見ていたような爽やかな笑顔に戻っていた。戻っていた――どちらが長岡の本性なのかは推して知るべしなのだが、長岡のプライベートな一面を見た事のなかった本山にとっては、会社で見るものが「いつもの長岡」だった。
 風呂からあがった長岡は昨晩から今朝にかけての一件については一切触れてこず、それも気味の悪いくらいに見事に、まるでなかった事のように思えるくらいの扱いなのだ。
 髪を乾かして手早く身支度を整えた長岡は、まるで会社での別れ際と同じ様に「じゃあ、おつかれさん」と本山の家を後にしたのだった。次に会う約束もせずに。
 好き好んで長岡に股を開きたいわけではない――確かに、無理矢理襲ってしまったのは本山だったが、それとこれでは事情が違う。相手を自分の好きなように扱いたくても、好きなように扱われるのは嫌いだった。
 だから、長岡がその一件をなかった事にすると言うのなら、本山の方だって何の問題はない。酔った勢いでの事故だと許してくれるなら、これ以上長岡に近づかないようにする努力くらいはする。
 恐れているのは本山の性癖を社内の人間たちに吹聴される事だ。誰も見ていない、本山の自室で起きた出来事で証拠はどこにもない。しかし、長岡を襲った事は事実だ。嫌がる長岡を縛り上げ、痴態を見せつけながらセックスを強要した。悪いのは本山だけなのだ。
 長岡に求められるまま股を開く事で、その事を絶対に誰にも吹聴されないとは限らないし、そもそもの原因を作った本山の罪がなくなるわけでもない。それでも、このまま長岡を野放しにしておくよりはずっとマシだった。
 長岡に連絡をして誘ってみようか、と思ったところではたと気が付く。
「連絡先……知らねーわ」
 携帯電話の番号もメールアドレスも知らない。唯一知っているものと言えば会社で一人につき一つ与えられている仕事用のメールアドレスくらいだろうか。だが、そちらはあくまで仕事用で、会社でしか見る事ができないし、不定期に監査だって入っているのだから私用はご法度だ。
 休みがあけて月曜日になって出勤すれば嫌でも顔を合わせる事になる。出来ればその前に話しをつけておきたかったのだが――連絡する手段がないのだから仕方がない。本山は焦燥に塗れる心を誤魔化すために、今晩の相手を求めて夜の街へと出掛けた。
 快楽が好きで、セックスが好きだった。けれど、それよりももっと誰かと過ごす夜が好きだった。人の温かみを感じられる夜が好きだった。
 一人で自宅で過ごす夜は――寂しくて嫌いだった。

◆◆◆

 月曜日の朝はいつもより一本早い電車に飛び乗った。誰かに何かを言われる前に、長岡に会っておきたかったからだ。
 自分の部署のあるフロアに到着するなり周囲を見回して長岡の姿を探した。始業開始時間にはまだ少しある今は、フロアには人はまばらで、長岡の姿も見つからなかった。
 ほっとする反面、焦りも込み上げてくる。まだ出勤していないなら会社の出入口で待つ方が確実かと思い直し、降りたばかりのエレベーターに再び乗り込もうかとボタンを押した。
 フロア内はよく冷房が効いているが、エレベーターホールはそうではない。漏れてくる冷気のせいで、外気温よりはいささか低い気温を指し示しているが、ほとんど換気もせずにいるせいで淀んだ空気がたまり湿気と埃っぽさを含んだ熱気があった。
 エレベーターが動く際の動作音がし、それが徐々に頭上に表示された階数表示のランプと共に近づいてくる。そして、ランプはいよいよ本山のいる階数に灯り、エレベーターに乗り込むために視線を上から前に変えると、遅れてその扉が開いた。
「……あ」
 思わず声を出してしまったのは、その箱の中に長岡がいたからだ。
 細身の黒いスラックスに半袖のワイシャツを着用し、今日のネクタイは薄い青色のストライプだった。首から社員証をぶら下げていて、駅から歩いたためか首筋はほんのりと汗ばんでいるのが見てとれた。
「……おはようございます」
 長岡の方も僅かに驚きの表情を見せていたが、そのすぐ後には平静を取り戻したようで、いつものようにそう他愛のない挨拶をしながら、エレベーターを降りた。エレベーターの入り口真正面を陣取る本山の脇をすり抜けて自分の部署に続く廊下を歩こうとする。
 エレベーターの中にも、そしてこのエレベーターホールにも他に人はいない。こんなチャンスを本山は逃すわけにはいかなかった。
「おはようございます……話しがあるんだけど」
 先に進もうとする長岡の腕をガシリと掴み、それを阻んだ。
 長岡は一瞬だけ驚きの表情を浮かべたものの、すぐに諦めたように笑った。
 二人は場所を変え、エレベーターホールとは真逆の場所に位置する非常階段へと移った。自社ビルを有するこの会社だが、他階の部署と行き来するような業務を取り扱っている部署は少ないし、それらの移動はおよそ全てエレベーターを使って行われる。二人が移動した非常階段はあくまで『非常階段』としての使われ方か、もしくは疲れた社員が一時的にサボるために使われる事が多い。そして、今はまだ始業開始前の時間だ。全階を通してこの時間に非常階段を使用するものはまずいない。
 長岡と本山のように、人に聞かれたくない話しをする者以外は、だが。
 非常階段へやってきた本山は壁に背を預け、少し睨むようにして長岡を仰ぎ見た。そのまま、どう話しを切り出したものか少しだけ迷って――結局、ストレートに切り出す事にした。
「この前の事なんだけど」
 そんな事を言わなくても、何についての話しなのかは長岡の方もわかっているだろう。それ以外にこうして二人きりでしなければいけない話しはないのだから。長岡は「うん」と、本山の言葉の先を促すように頷く。
「……お前の相手したら、誰かに言いふらしたりしないんだよな」
 朝っぱらから何でこんな話しをしなければいけないんだろう、とその原因が自分であるだけに行き場のない怒りが渦巻いた。
「一応、そのつもりだけど」
 ビジネスバッグを足元に置き、腕を組んだ長岡は剣呑な雰囲気さえある本山の視線を真正面から受け止める。
 本山にしてみれば相手を威圧しているつもりの視線だ。それをどこか余裕を持って受け止められると、焦りさえ湧き出てくるのを感じた。
「連絡先、知らないのにどうするつもりだったんだよ」
 無意識のうちに語調に少し苛立ちを紛れさせながら、それでも己の頼りないプライドを維持するために、精一杯に格好をつけて虚勢をはりながら自身の携帯電話を取り出した。
「ああ……、そういえば知らなかったっけ……。忘れてた」
 長岡は見せつけられた携帯電話と本山の顔を交互に見比べながら、なんとも間抜けな返事をする。その様子から窺うに、どうやら本気でその事実を失念していたようだ。ワイシャツの胸ポケットから、本山と同様に携帯電話を取り出した長岡は
「これ、俺の番号」
 と、自身の携帯電話番号を示す画面を提示する。
 その提示された番号を携帯電話に打ち込み、発信をして長岡の携帯電話が鳴るのを待ち、すぐに切る。愛想の欠片もない連絡先の交換だった。
「夜は大体暇だし、休日もお前の都合に合わせるられるから」
 そう告げて、時計を確認すれば、始業時間は刻一刻と迫っていた。始業まで残りあと十分も残っていない。この時間になれば社員の九割方は揃っているだろう。
 そろそろ自分のデスクに向かおうかと、壁に預けていた背を起こしたところで、正面の長岡はふっと噛み殺した笑みを表した。
「……なに、なんかおかしかった?」
 何か笑われる要素はないはずなのに、と怪訝に眉を寄せ不機嫌に唇を尖らせる。
「いや、本山が結構ノリ気だから、つい……。普段真面目そうな顔しといて、本当、淫乱だよな」
 けれど、ニヤニヤとした下卑た笑みで出されたその答えは、本山の苛立ちを更に増させるには充分なものだった。実際のところはどうあれ、真正面からそんな事を言われて喜ぶ人間はそういないだろう。
 つい先日までは恋心さえ抱いていた男なのに、今では本当に、何故こんな男が好きだったのだろうか、と不思議でたまらなかった。
 確かに、真面目そうな顔をしていて、優しそうな雰囲気もある。顔もスタイルも整っていて、異性にも人気があるだろう事は予想がつく。しかし、一歩プライベートに足を踏み入れてしまえば性格の悪さが露呈する。
 本山が自分の性癖を――乱れた性生活をひた隠しにするのと同じように、彼もそんな性格の悪さを――自覚の上であるかどうかは本山の知った事ではないが、隠しているのだろう。
 人は誰しも二面性を持つ。プライベートを隠して集団に埋没し、この社会で生きていくのだ。それは社会人になる前の学生の頃から、気がつけば学んでいた事で、社会人になれば自ずとそういう生き方になってしまう。
 自分を隠して集団に馴染むのは、現代社会で生きていく上での常套手段だ。
 だから、人との距離が近付いて、相手のプライベートな姿をはじめて見れた時には、今までの本山なら――長岡以外の相手なら、少なからずときめきを得ていた。
 それなのに、長岡の場合は違う。長岡の場合は、知れば知る程に嫌いになっていく。今までときめいた心が急速に輝きを失い、それどころか真っ黒な暗闇に飲み込まれていきそうになる。
 長岡に惚れた事実を、汚点だとすら思う。
 本山は苛立ちを隠そうともせず、長岡を睨み上げながらその脇をすり抜け、非常階段を出ようとしたところで――
「んっ……」
 肩に手をかけられ、その唇を塞がれる。柔らかい唇が強引に押し付けられ、その隙間から濡れた舌が、本山の口内の侵入しようと試みるが、必死に唇を噛み締めて抵抗する。
 それが例えば、まだ長岡の事を好きでいれたなら、受け入れていたかもしれない。でも今は、とてもではないけれど、そんな気分にはなれそうになかった。
 攻防は数十秒といったところだろうか。どうしても唇を開かない本山に、長岡は諦めたように唇を離す。その表情は心底がっかりしたような残念そうな表情で、ざまあみろ、と思ってしまった。
 唾液で汚れた唇を手の甲で拭い、本山は今度こそ乱暴に分厚い防火扉をあけ、非常階段を出た。そのすぐ後に支えるものをなくした防火扉は派手な音を立てて再び閉じられた。廊下に行き交う同僚たちは驚いた様子でそちらを見たが、始業時刻が迫っているせいで皆そう余裕はなく、すぐに興味を失ってそれぞれの作業へと戻った。
 長岡と離れても、まだ苛立ちは収まらない。小走りに自分のデスクへと向かい、ビジネスバッグを乱暴に投げ置くと、同じく乱暴に椅子へと座った。ぎしりと椅子が軋む音に周囲のデスクの者たちは怪訝そうに本山を窺ったが、明らかに怒りのオーラを発しているそれに近付く者はいなかった。
「……最悪だ」
 ぼそり、と誰にも聞かれない程の声量で小さく呟く。
 朝から本当に最悪な気分だった。このまま体調不良で帰って男漁りでもしようかと思えるくらいの苛立ちに胸を占拠されていた。
 こんなコンディションで仕事をしても――勝った苛立ちで仕事はスムーズに進まない事は考える間でもない。けれど、それでも、一端の社会人としてそんな事で早退をするわけにもいかなかった。
 例え仕事が全く進まなかったところで、早退をするよりはずっとマシだ。早退をして逃げる事で一時しのぎを出来ても、それが今後に繋がるわけではないのだ。
 大人であるという事は責任があるという事だ。何をしても、どんな理由があり、その結果どんな行動をとっても、それは全て自分の責任だ。
 生き辛い社会だ、と思う事はよくある。よくあっても変え方なんてわからないし、わかったところで変えられるわけでもない。ただ流されるまま、飲まれるままに生きていかなければいけない。
 そのためには、まともな会社へ勤めてそれなりの給料を貰うというのは最善の選択の一種だと思っている。だから、例え長岡に自我を乱す程の苛立ちを覚えても、いくらこの先の長岡との関係が不安でも、今の会社だけは――出来る限り長く勤めていたかった。転職する覚悟だってそれなりにはあるけれど、ゆっくりと間違えないように選びたかった。
 本山はもう様々なやり直しが効く程に若くはないのだから。
 始業のチャイムが鳴り、仕事が始まる。フロア内には同様に仕事をする長岡もいるが、なるべくそちらに視線をやらないよう気を配った。幸いな事に、今のところは一緒のプロジェクトはなく、業務上で交わさなければいけない会話もなかった。
 自分に与えられた会社のパソコンに向かいながら淡々と仕事をこなしていく。他の社員も同じようなもので、フロア内にはキーボードを打つカタカタとした乾いた音が響いていて、社内電話の着信音が響く。
 いつもと何も変わらない業務の光景に、本山の怒りも少しずつではあるが解されていくのがわかった。