獰猛な指先 第一話



 想い人がいる。その相手を見る度に胸は高鳴り、甘酸っぱい何かが心に満ちていく。ただ隣に居られるだけでこの上なく幸せになれる。そして、それよりももっと、誰よりも近くに居たいと密やかに願う。それが決して叶わぬ願いだとわかっていながら、想ってしまう。束の間の幸せと、手が届かない焦燥と――自己嫌悪。
 そんな純粋な恋心を抱いたのは十代の何も知らなかった無垢な頃以来だった。成人しておおよそ七年程が経過しようとしている今になって、まさかそんな感情が心に芽生えるだなんて思いもよらなかった。
 全体的に色素が薄く、髪色も地毛にも関わらずほんのりと茶色みがかっていて、肌もまるで人形のように白い。男としては細めの体格で、アーモンド型の大きな目が特徴的な中性的だと評される容姿を持つ。学生時代はそれをからかわれる事も多かったが、成人してもう十年程経つ今ではさほど気にしていない。自分の容姿は武器になる。それを本山瞬(もとやましゅん)は理解していた。
 自分が同性である男しか愛せない事に気付いたのはいつだっただろうか。恋愛を子供のおままごとだとしか思えなくなったのはいつだったろうか。身体に潜む欲求なんて、行きずりの男相手で充分だと気付いたのはいつだっただろうか。
 世界は欲求と快楽に汚れていて、いつか抱いた淡く甘い感情なんて全て泡のように潰えて消える。そして、その後に残るのは黒い後悔だけだ。
 恋愛なんて、もう嫌になるほどした。けれどその全てが見るも無残に朽ち果て、今では何も残っていない。恋をしても辛く苦しい思いをするだけなのだから、もう二度と恋をしないと決めた。恋なんてしなくても、身体に募る欲求さえ吐き出す相手がいればそれで充分だった。
――それなのに。
 と、本山はパーテーションで区切られた半個室のようになっている自分の仕事机に肘をついて、軽く組んだ手に額を押し付ける。溜息を深呼吸で誤魔化し、自らに冷静を強いる。
 フロアは僅かな人の話し声と、カタカタとキーボードを叩く音が混じる。窓から入ってくるオレンジ色の夕焼けが恋しく、もうすぐ業務終了の定刻チャイムが鳴り響く頃合いだ。
 土曜日という休日を明日に控えた本日、本山の配属されているこの部署はちょうど納品を終えたばかりで、久しぶりにやってきた心置きなく過ごせる休日に皆色めき立っていた。しかし、本山だけは例外だった。納品を終えてすっきりはしているし、本来であれば皆と同じように喜び勇んでいたいところだったが、とてもではないがそんな気分にはなれなかった。
 その原因は明確すぎる程にわかっている。
 仕事も一段落し、今日は一人で飲みに繰り出そうかといそいそと帰り支度を進めていた時に、飲みに行かないか、と同じ部署の同僚である長岡隆之介(ながおかりゅうのすけ)の方から誘われたのだ。
 普段なら――長岡以外の誰かからの誘いならば、本山はそれを断っていただろう。タイムカードも切った業務時間外に、会社の同僚と顔をつき合わせて酒を飲まなければいけない、なんて想像するだけで胃が痛くなるような話しだ。本山は仕事や会社が嫌いなわけではないけれど、オンとオフ、仕事とプライベートの時間はきっちりと分けておきたいタイプの人間だった。
 しかし、今日の相手は――本山がかねてから想いを寄せる相手の長岡だ。断ろうと思って口を開いたのに、気がついた時にはその誘いにのってしまっていた。自分が安直で愚かな事は散々自覚してはいたが、後から後から自己嫌悪が湧いてくる。
 恋愛なんてくだらない、と今まで散々痛い思いをして思い知ってきたはずなのに、また性懲りもなく恋を繰り返してしまう。
 それに、長岡は恐らくノンケだ。本山がいつも同類を求めて彷徨っているバーなんかで出会った相手ならばいざ知らず、ただの会社の同僚である普通の男に望みが持てるとも思えなかった。それでも、芽生えた恋心は止められない。自己嫌悪と期待、期待なんて抱くだけ無駄なんだという絶望、本山は止めどのない悪循環に陥っていく。
 本日数回目の溜息を吐いたその直後、フロアに設置されたスピーカーから聞き慣れたチャイムの音が聞こえた。このチャイムは業務開始、昼休みの開始と終了、業務終了を知らせるためのもので、普段の金曜日なら待ち望んでいるものだ。それなのに、今日は更に溜息が積み重なっていくだけだった。
 長岡と飲みに行く事は嬉しいはずだ。好きだから一緒に居たい、少しでも同じ時間を共有したい、誰よりも近くに居たい、そんな想いは確かにあって、けれど、その想いが叶う事はないと知っているのだから、蛇の生殺しのようなものだ。掻き毟りたいような痒さが胸に渦巻いていく。それに――。
 それにもし、奇跡的に本山の願いが長岡に届き、恋人と呼ばれるような関係になったとしても――そんな関係が永遠に続くわけではないのだ。
 今までたくさんの恋をしてきた。十代の頃には甘くときめく恋を、大人になってから熱く燃えるような恋だって、どの恋も本気だったし、どの恋人だって一番に愛していた。それなのに、今ではもう一緒に過ごしたはずの男たちと連絡をとる事はない。
 別れた原因は様々だ。相手の心変わり、本山の心変わり、些細なすれ違いからの喧嘩の末の別れ、好きで付き合ったはずなのに、いざ時間を共有してみれば合わなかったと言う事もあった。
 恋愛なんて馬鹿げている。いくら相手の事を好きになっても、その気持ちにはいつか終わりがくる。
 長岡に恋心なんて抱きたくなかった。もしもその想いが長岡本人にバレてしまえば、どう転んでもろくな結果にならない事は目に見えているのだから。
 誘いにのるんじゃなかった、と後悔しているうちに背後に差し迫った長岡の気配に気付いて顔を上げる。
「お疲れ、そろそろ行こうか」
 笑顔の奥に本音を押し隠し、席を立った。長岡に想いを伝える事は決してない。今までもこれからも、ただの同僚というスタンスを崩したくなかった。
 恋愛なんてものにはいい加減嫌気がさしている。恋心なんて感情が一体なんのためにあるのか理解する気も起きない。一時の幸福があったとしても、その後に残るものは虚しさだけなのだから、もう二度と恋人を作る気はなかった。
 この飲み会が終わったら、またどこかで一夜限りの男でも探しに行こうかと考えながら、本山は長岡と共に居酒屋へと向かった。


「本山、あんま飲み過ぎると帰れなくなるぞ」
 静かな照明と、簡易的な壁で区切られた個室居酒屋の一室。上質な酒と新鮮な魚を売りにした居酒屋で、商品単価は少し高めだったが、その値段に見合うだけの雰囲気と味があった。
「平気平気、帰れなくなっても長岡が連れて帰ってくれるから」
 飲み過ぎてしまった、と後悔する事がわかっていても、酒を飲む事を止められない事がある。これ以上飲んでは理性を失ってしまう、という限界のラインを超えて浴びる程に飲んでしまう事がある。その理由は日々のストレスを発散するためだったり、その場の雰囲気に流されてのうっかりだったり、人によって様々なのだろう。
 本山は本日、その理性の限界ラインを遙かに超えて飲み過ぎていた。理由は明白で――目の前の人物、長岡が原因だった。
 想いを押し隠す、なんて器用な真似を出来るような人間ではない。緊張と焦りを誤魔化すため、いつもより酒のペースがあがってしまったのだ。この居酒屋に到着しておよそ一時間も経過していないが、本山の呂律は既に怪しいものになり果てていた。
 長岡は眉間に皺を寄せたかと思うと、そのすぐ後には何かを諦めたような深いため息を吐く。
「ま、明日は休みなんだし好きなだけ飲めばいいんじゃね」
 そう言って酒の入ったグラスをぐっと煽る。大きなロックアイスがグラスにぶつかってカラリと冷たい音を立てた。僅かに汗ばんだ長岡の喉は大きく上下し、思わずそれに見蕩れてしまう。
 他愛もない動作のはずで、今までそんな動作に魅力を感じた事はなかった。
 それなのに、今はそれにどうしようもないくらいに惹かれてしまう。我慢しようと思えば思う程――長岡の色香にあてられてしまう。鼓動が高鳴り、頬が赤らむ。その肌に触れてみたい。唇を重ねたい。身体が熱くなる。
 情欲が、溢れだす。
「なに?俺の顔になんかついてる?」
 じっと見つめていると長岡は不思議そうに首を傾げ、本山の方を見た。絡む視線に更に身体の熱を煽られる。
「べっ……別に、なんでもねーよ」
 普段なら、例えば相手が自分と同じくゲイだったりするのならば、本山は積極的に行動を起こす方だ。恋愛感情を伴う場合でも、伴わない場合でも、自らの整った容姿を武器に気になる相手を全力で落としにかかる。そのおかげか今までそういった相手に困った事は一度もない。
 しかし、今回の相手は長岡だ。ノーマルな性癖を持つ――会社の同僚だ。いくら理性が揺るごうとも誘うわけにはいかなかった。
 誤魔化すためにグラスに残った酒を一気に喉へと流し込む。食道から胃にかけてがカッと熱くなった。覚えのあるその感覚は、限界を超えてしまったサインだ。
――しまった。
 そう思う頃にはあとの祭りだ。一度超えてしまったのだから、もうどうにもならない。後はただ、己の本能お赴くままに身を任せるしか出来る事はない。
 酒を飲みこんだ瞬間から、吐き気には及ばないとしてもなんとも言えない胃部の不快感、それに微かな眩暈。そして、耐え難い程の眠気――。
「おい、本山っ……」
 遠くで長岡の声が聞こえた気がした。

◆◆◆
 見慣れた自宅、本山が社会人になった頃からずっと一人暮らしをしている部屋だ。この部屋に客人を呼ぶ事はあまりない。だから今、いつも一人きりの空間に長岡がいるという事実に興奮を隠し切れなかった。
「わざわざ送ってもらって悪かったな」
 本山はふらつく足元で冷蔵庫まで歩き、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、そのまま長岡に差し出した。
「まあ、そんなフラフラになってたら放っておけないだろ」
 長岡は呆れの色を見せた顔で本山の足元を指示し、受け取ったペットボトルを開栓し水を口に含んで口内を湿らす。
「っていうかさ本山って、彼女とか居たんだ」
 長岡は横目で隣の部屋――本山のベッドが設置されたプライベートルームに目配せしながら言う。1DKと呼ばれる間取りのこの部屋は、今長岡と本山がいるダイニングキッチンと、そこから繋がる八畳の部屋からなる。
 ダイニングキッチンと八畳の部屋を繋ぐドアは開け放たれていて、そちらの部屋は嫌でも中が見えてしまうのだ。その部屋には普段本山の使うベッドや衣装ケースが並べられているが、長岡が見てるのはそこではなく、ベッドの上だ。
「ああ……あれは彼女とかじゃなくて、俺が使うやつな」
 ベッドの上に無数に散らばるのは所謂大人の玩具というものだ。男性器を模ったディルドにバイブや、大小の様々な大きさの丸いボールが繋がる玩具、ローションやコンドームまで乱雑に散らかっていた。
 本山はそちらの部屋へずかずかと足を踏み入れると、その散らばった玩具を手に取って頬に寄せ、長岡に見せつけるようにして言う。
「……は?」
 口をあんぐりと大きく開き、本山の顔と散らかる玩具を見比べる。
 その玩具たちは本山が昨夜使用し、片付けるのも億劫でそのまま寝入ってしまい、今朝も片付る時間もなくそのままになってしまっていたものだった。
――これ以上はダメだ。後戻りできなくなる。
 それはわかっている。わかっているのに自分を止める事ができなかった。
「ねえ長岡、セックスしようよ」
 思考は霞がかり、理性はどこかへ吹き飛んでいた。足元はフワフワとまるで雲の上を歩いているかのようで心地よい。今なら――酒の勢いに任せて、なんでもできる気がした。
「セック……」
 ペニスを模った玩具片手に再びキッチンの方へ戻ってくると、絶句する長岡の胸にしな垂れかかり、少し上を向いてその唇を捉える。柔らかい唇を食み、夢にまで見た感触を味わう。柔らかく温かいそれは本山の想像した通りのものだった。
 しかし、すぐさま長岡に胸を突き飛ばされ、その衝撃で数歩後ろへよろめいた。
「な……んの冗談だよ」
 濡れた唇を拭い、引き攣った笑みで身構える長岡に、本山は妖しく艶やかに笑んでみる。そして、玩具を手放して後ろへ下がってしまった分再び距離を詰めた。
「なんで冗談だと思うわけ?……俺は、本気なんだけど」
 言うなり長岡に抱きつき、その背に腕をまわす。ぎゅっと抱きしめて体温を感じる。
「お前酔いすぎだって、わかったからもうさっさと寝ろよ」
 今度は抵抗せずかと言って受け入れるわけでもない。ただ本山に抱きしめられるままになっていた。
「長岡とセックスしたい」
 本山は静かに首を左右に振り、長岡の提案を退ける。
「俺はそんな趣味――」
 告げられる言葉を最後まで聞く必要はない。本山は隙をついて長岡の両手首を後ろ手にとり、背中側で手錠をかけた。手錠は先程ベッドの上に散らかっていた玩具に紛れていたもので、こっそりと忍ばせて持ってきたものだ。
「そんなの、やってみなきゃわかんないだろ?」
 いくら長岡が身じろぎをしようとも手錠はびくともしない。
「本山っ……!」
 上目づかいに言って、後ずさる長岡に唇を近づけると、長岡は顔を逸らしてキスから逃れる。何度もそんな事を繰り返して後ずさりを続ける長岡と距離を開けない様、歩を詰めていく。しかし、そんな事を続けていればこの狭い室内ではすぐに壁にぶつかってしまう。
 どん、と重い音が響き、長岡の肩が壁にぶつかった。
「別に、とって食おうってわけじゃないんだし、もっとリラックスしたら?長岡はちんこ勃たせてくれたら後は俺が勝手にするんだしさ」
 長岡の頬を掴んで後頭部を壁に押し付け、今度こそは、と唇を押し付ける。ふんわりとした柔らかい唇を食み、頑なに閉ざされた唇をこじ開けようとしながら、下腹に手を伸ばす。
 その瞬間、長岡の身体がビクンと飛び跳ねた。
「俺さ、ずっと長岡とセックスしたいと思ってたんだよね」
 一旦唇を離し、そっと囁くように耳元で言って、そのまま首筋に舌を這わす。ほんの少し塩味のある汗と、甘い長岡の香りが混じる滑らかな肌が、本山の気分を更に煽っていくのだった。
「んぅ……」
 僅かに漏れるのは呻きにも似た長岡の声。皮膚の薄い敏感な場所を舌で何度も撫でるとその度に長岡は身を捩らせて声を漏らす。それと同時に服の上から長岡のペニスに手を押し当て、その熱を感じた。
 初めこそ縮こまっていたペニスだが、本山が愛撫を続けるうちに徐々に成長の兆しを示しつつあった。
 片手で手際よく長岡のネクタイを解き、ワイシャツのボタンを外す。そして首筋から鎖骨を伝い、更に下へ下へと舌を進めていく。そして、自分のベルトを外して下着ごとスラックスを脱ぎ捨てて下半身を露出させる。まだ何も触っていないはずの本山のペニスは既に硬く勃起していて、期待のためか先端からは先走りの液体を漏らしていた。
「んぐっ……もとっあま……」
 指先をおもむろに長岡の口に突っ込んだかと思うと、そのまま口内を掻き回して抵抗を試みる舌にわざとらしく指を絡め、執拗に唾液で指を濡らす。
 その指を自分の中心部、勃ちあがったペニスの更に奥へとあてがった。
「長岡とセックスできるなんて、本当に夢みたい。ずっとずっと、好きだったんだよ、長岡の事が」
 恍惚とした様子でそう言うと、甘えたような微かな息を漏らしながら、長岡の唾液が絡んだその指を二本纏めて体内へ埋めていく。
 慣れた身体は自身の指をいとも簡単に飲み込んでしまった。
 入り口を広げるように体内を掻き回しながら、やや性急気味に長岡のベルトを外し、スラックスを膝上までずり下げる。長岡はやや身を捩るだけで、抵抗らしい抵抗はなかった。
 例えそれが強引な本山の行動による諦めの結果であろうと、勃起しはじめたペニスが何よりの合意の証拠だと受け取った本山はニヤリと口元を綻ばせた。
 長岡の足元に跪き、下着に浮き出たペニスの線を指で撫でると、頭上から振り落ちる甘い声に身体の芯の炎が燃え盛る。
「本山っ……もうやめろって……」
 しかし、言葉とは裏腹にペニスはびくびくと反応を続けるのだから、本山は愛撫の手を緩める事はない。下着をずりおろし、目の前に露出された男のペニスをぱくりと口に含んでしまう。
「うっ……」
 ペニスを包む生暖かい粘膜に、長岡が吐息を荒げた。
 舌で先端を穿り返すように弄ると、その肩が揺れて快感を示す。体内を掻き回しながら男根をしゃぶるという行為は酷く倒錯的で、やけに興奮してしまう。
 夢中で舌を絡めているうちにペニスはすっかり成長しきり、その怒張は既に本山の口に収まりきらない程だった。育ちきったペニスに唾液を絡め、敏感な裏筋を根本から先端までねっとりと舐めあげる。濡れたそれは室内の灯りを反射し、てらてらといやらしく光った。
「ねぇ長岡、セックスしようよ」
 自身に献身的とすら言える奉仕をする同僚を見詰め続ける長岡を見上げ、本山は妖艶に微笑む。
 ゴクリ、と唾を飲みこんだ長岡の喉が大きく上下するのがわかり、少しの間を置いて――長岡はゆっくりと、けれど確実に頷いたのだった。