闇夜の憂鬱 第十一話



 揺れる電車は歩を運ぶ。窓ガラスの向こうに映る夕焼けがやけに綺麗で、歩の心を酷く締め付けた。
 また一人に戻ると言う事。少しだけ寂しくて、けれどまた平穏で変化のない日々が戻ってくるのだと、少しだけほっとする。どちらかと言えば、それは諦めの感情に近いものがある。歩はいつだっていろんな事を諦めて生きてきた。必要以上に傷つく事を恐れて、内にこもって人を避ける。そんな生き方に変化をもたらしたいと思って見た事もあったけれど、それも諦めてしまった。
 諦める事は今更な事なのだ。今こうして歩の胸を覆っている苦しさも、いいようのない悔しさや悲しみも、何回も夜を過ごして時間が経てば、過ぎ去った過去の事に変わるのだ。
 一人で過ごす夜は憂鬱だったけれど、それが自分に与えられた罰なのだから仕方がない。人間として生まれ損なった自分への、人類の反映から外れてしまったと言う罪への罰なのだ。だからそれは、一生背負っていくしかないのだろう、と回らない頭で考える。
 これで終わったしまったのだ、と少しだけ安心する。夢のような時間は、所詮は夢でしかないのだ。
 歩を運ぶ電車はあっと言う間に駅へ到着し、歩を降ろす。真冬と言う事もあって、太陽が沈むのはとてもはやい。先程まで空をオレンジ色に照らしていた太陽の姿は、もう地平線の彼方に沈んでしまっている。街灯の光を頼りに、駅から自宅までの道をひたすら歩く。
 明日からはまた、いつも通りの毎日が始まる。だから、今日だけは。
 ほんの少しだけ泣きたいような気分だった。

 恐らく精神の問題だろう。今にも崩れそうになる身体に鞭をうち、やっとの思いで帰宅した。脱いだ上着をハンガーにかける気力も起きない。そのまま布団に潜り込んでしまう。携帯電話も鞄にしまいこんだまま――見るのが怖くて、存在を忘れたフリをした。
 そこに佐原からの連絡があってもなくても――とにかく怖かったのだ。
 自分の一方的な都合で佐原を傷つけてしまって、一体どんな恨み言を言われてしまうのか――。
 ずっとこのまま携帯電話を放ったらかしにしているわけにはいかないけれど、今日だけはこのまま眠りについてしまいたかった。
 掛け布団を頭まで被り、暗闇の中で瞼を閉じる。眠るには随分とはやい時間で、眠気なんてものがやってくるわけもない。渦巻く後悔の中、頭の中では何度打ち消しても佐原の姿を思い出してしまう。もう会えない、もう手の届かない存在を思い浮かべては、これでよかったのだと自分に言い聞かせる。押し寄せる後悔を全て振り切ろうと、足掻く。
 眠れない夜は、まるで永遠のような長さだ。もうこのまま朝は訪れないのかとも思える程に孤独な夜は長い。
 しかし、そんな夜にもいつか終わりは来る。歩が眠ろうと眠れまいと、どれだけ長く感じた夜であろうとも、太陽の光は暗闇を押し退けてしまうのだ。
 朝陽が昇り、カーテンの隙間から室内を明るく照らす。いつもなら起床する時間ではないが、このまま布団の中で悶々としているわけにはいかず、歩はゆっくりと身体を起こした。一睡さえもできなかった目元は僅かに赤みを帯びて腫れている。
 昨夜、帰ってきてそのまま床に投げ出していた鞄と上着をとる。上着は丁寧にハンガーへかけ、鴨居にかける。鞄を開き中の物を取り出す。とは言っても、財布と携帯電話、それに手帳くらいだ。
 手に取った携帯電話をじっと見つめる。メールの受信を知らせるランプが数秒置きに点滅している。開くまでもなく、それが佐原からのメールである事は予想がついた。
 ごくり、と息をのむ。
 少し――ほんの少しだけ迷って、二つ折りの携帯電話を開いた。メールの受信件数は七件。恐る恐るメールボックスを開いてみれば、その七件全てが佐原からのメールだった。

『歩くん?今どこ?ちゃんと話がしたい』

 メールを全て既読にして、携帯電話閉じる。七件全てのメールに、もっときちんと話がしたい、とそう書かれていた。しかし、歩はそれに応える気はなかった。
 今まで散々迷って佐原の前から消えると決めたのだ。今佐原と話をすれば、それが揺らいでしまいそうで――。
 携帯電話をしまい、布団を畳む。昨日までの出来事は全て夢だったのだ。ほんのひと時だけの、淡い夢――佐原の事はもう忘れなければいけない。これ以上、自分が傷つきたくないから。佐原に嫌われたくないから、佐原から離れる。その行動に矛盾にはひどい矛盾が伴っている事も、自分で気付いている。
 しかし、それ以外に選択肢はないのだから仕方ないだろう。
 元々、物の少ない部屋だったが、その辺に放ったらかしにしていた弁当のゴミなどをさっと片づけると、更にがらん、とした印象が広がる。雑巾をとって洗面所にいくと蛇口をひねり、凍ってしまいそうな程に冷たい水で、その雑巾を濡らして固く絞る。
 考えたくない事を考えないようにするには、何か作業をするのが一番だと言う持論のもと、歩は掃除をする事にしたのだ。幸いな事に学校へ行くまで、まだ時間は有り余っている。普段、拭き掃除なんてする事がない。年末の大掃除も兼ねているのだ。歩は冷たい水に触れたせいで一気に冷え切った指先どうしを擦り合わせると、軽く袖をまくって掃除をはじめた。


 普段はしない事をして、気晴らしを試みる。その効果は絶大で、確かにその作業の最中は佐原の事を忘れられた。しかし、作業が終わればまた考えてしまうのだ。
 汚れて見える雨だれや、砂塵のあとも全て綺麗に拭き取り、照りつける太陽光をあます事なく室内に通す窓ガラスを見ながら、歩は壁に背を預ける。
 この狭い部屋では掃除すべき場所も限られているのだ。壁から畳、窓ガラスの全てに入念な拭き掃除を終え、今はサッシの隙間にも塵一つ落ちていない。室内の空気はどこか清々しかった。
 ずっと見ないように意識していた携帯電話だったが、歩が掃除をしている間にも何度かメールを受信していた事を知っている。相手は大体誰だか察しはつくし、携帯電話を開く気にもなれなかった。
 佐原の事は諦めなければいけない、そうは思っても、そうすんなりと心の整理をつけられるものではない。
 本日、もう何度も吐いた溜息を吐く。溜息をつくと幸せが逃げていくと言うが、どうせ自分は幸せには縁がないのだから、と自虐的な事を考える。
 通知ランプを何度も点滅させている携帯電話を見遣る。逃げているだけでは何も解決しない事はよくわかっていた。
 覚悟を決めるようにごくりと唾を飲み込み、そちらに手をのばす。携帯電話を手に取り、二つ折りのそれを開き、カチカチとボタンの音を慣らしてメールの受信ボックスを操作する。
『誤解があるようだし、きちんと話をしたい。』
 開いたメールにはそう書かれていて、やはり佐原からのものだった。
「誤解……」
――一体なんの誤解だろうか、誤解しているような点は何もないはずで――。
 歩は佐原が何を言いたいのかよくわからず、小首を傾げた。そしてまた携帯電話を操作し、メールを返信する。
『誤解ってなんですか?』
 用件だけを簡潔に訊ねるその文面は、やはり愛想の欠片もない。
 溜まっていた佐原からのメールを新しいものから順に目を通しながら、ぼんやりと思い出す。
 これまで佐原と一緒に居た日々を、楽しかった日々を。
 昨日までは確かにその楽しかった時間の中に居たはずなのに、今は違う。それが切なくて、悲しくて、そうする事しか出来なかった自分を呪ってしまう。
 佐原の事が好きで、好きすぎて――切なさが心を覆う。
 忘れようと、諦めようとすればするほど、佐原への想いが増していくようで、歩の気持ちは暗く淀んでしまうのだ。
 このまま全て忘れてしまう事が出来れば簡単なのに――と、携帯電話を閉じようとしたところで、手の中の携帯電話の画面はメール受信の画面に切り替わり、聞き覚えのある電子音を鳴らす。
『電話していい?電話番号教えてくれないかな?』
 それを読んでから時計を見る。時刻は午前十時を指していて、今日は平日だ。普段通りであるはずなら佐原も就業時間中と言う事になる。平日のこんな時間に真面目な佐原からメールが来る事なんて初めてだった。
 それだけ、歩が佐原にいらぬ心配をかけてしまっていると言う事なのだろう。昨日を思い返して、少し反省する。あんな伝え方では佐原が納得いかないのも理解できた。
 ちゃんと説明しなければいけない。何をどう説明すればいいのかはわからず、ただ思いついたままにメールを打つ。自分の考えている事を誰かに伝える事は苦手だ。
『電話はしたくないです。俺は佐原さんの事が恋愛対象として好きなので、これ以上そばに居たくないです。だから、もう連絡とかもとりたくないんです。』
 打ち終わった文章を読み返す。これでは昨日言った事とほとんど何も変わらないような気もするが、何を改善すればいいのかわからなかった。
 昨日一度言ってしまっているとは言え、好きだ、と伝える事は緊張してしまう。これが最後なのだ――と、その緊張に震える指で携帯電話を操作し、メールを送信した。



 メールを送信してからすぐに支度をし、学校へ行くために家を出た。携帯電話はいっその事家に置いてきてしまおうかとさえ思ったくらいだったが、流石にそれは気が引けた。佐原以外に特に誰かから連絡がくるわけでもないし、携帯電話がなくて困るような事態には陥る事はない、とわかっていても携帯電話を持っていないと不安になってしまうのは現代人の宿命だろう。結局、携帯電話はメールを受信しても着信音やバイブが鳴ってしまわないよう操作してから鞄に放り込んだ。
 歩いていても、バスに乗っていても、教室で授業を受けていても――佐原の事が頭から離れない。
――佐原から離れたいなんて、言わなければよかった――。
 友達としてでもそばに居るという選択肢をとっていたなら、今のこの辛い思いもなかったはずだった。散々迷った挙句自分が決めた事だと言うのに、後悔の念は留まるところを知らない。自分のあまりの女々しさに苛々が募る。
 基本的に歩は不器用なのだ。
 自分の思いを抱え込んでしまって、そうと信じ込めば他の誰かの声は耳に入らない。不器用で頑固な性格だ。
 携帯電話を見ないままに学校が終わり、バイト先へと向かう。
 バイト先のコンビニは、佐原と出会った場所で、毎日のように顔を合わせていた場所だ。
 本当なら、バイトは休んでしまいたかった。メールは無視する事が出来るが、もしも佐原が店まで来れば逃げる事は出来ないからだ。けれど、そんな私情で仕事に穴を開けるわけにはいかない。たかがバイトではあるが、そこには賃金が発生しているのだ。歩は最低限の仕事へのプライドを持っている。それに、自分を受け入れてくれている店長を裏切る事は出来なかった。
 バイト先についた歩はいつものように制服に着替えて店頭に出る。いつ佐原が来るかわからないと思うと、少しだけ不安だったが、それを打ち消すように何度か深呼吸をして思考を入れ替える。起こっていない事を想像して不安になっていても仕方がない。とりあえず、今は仕事の事だけを考えるべきなのだ。
 着々と仕事をこなしているうちに、時間はどんどんと過ぎ去っていく。いつも佐原が来る時間もとうに過ぎ、もうあと三十分程で勤務終了の時間という頃合いだ。
 佐原の事だから、きっと今日もこのコンビニに現れるのだろうと思っていたが――歩の予想は外れた。ずっと佐原からのメールは無視しているし、佐原は察しの良い方だから、もう諦めてくれたのかもしれない――そう思うと少しだけほっとする反面、やはりそんなものなのかと言う寂しさにも襲われた。
 佐原とはもう一緒に居る事が出来ない、顔も合わせたくない、と思っていたのは確かだが、心のどこかで自分が拒んだだけでは佐原は離れていかないのかもしれない、と淡い期待を抱いていたのだ。
 人間関係なんてものは、口ではなんとでも言えても些細な事で崩壊する。絶対なんてものは存在しない、儚く脆く崩れていく――。
 しかし、それで今更失望するなんて事はない。そんな事はもう知っていたのだから。
 時計の針は進み、刻々と時間は過ぎていく。佐原と過ごした夢のような時間は、所詮はただの夢にしか過ぎないのだ。
 だから、つまらない現実にまた戻るだけ。ただそれだけだ。
 午後十時をまわり、歩はタイムカードを押した。仕事は終わり、あとはもう帰るだけだ。帰り支度をさっと整え、挨拶を済ませて店を出る。吐く息は白く、いつもより一段と寒いような気がした。
 店を出て少し、初めの曲がり角の手前で――気配に気付く。
「……っ」
 ダークグレーのスーツの上から黒いコートを羽織り、ガードレールに腰かけるようにしてそこにいるのは紛れも無く佐原だ。
 まさかそんなところにいるなんて予想もしておらず、驚きのあまり足を止めてそちらを見詰める。
「……ああ、良かった」
 佐原は歩の姿を認めると、にこやかに笑みを作りながらガードレールから身体を離した。長い時間外気に晒されていたのであろう、頬や唇からやや血の気が失われていた。
「このまま会えなかったらどうしようかと思ってた」
 そうして笑う佐原はいつもとなんら変わらない。変わらなすぎて、歩のほうが怖じてしまうくらいだ。
 どう行動すべきなのか、少しだけ迷って――歩はまた歩き始めた。佐原から目を逸らし、そこに何も存在しなかったかのように振る舞う。
「ちょ……待ってって」
 佐原は自分の前を通り過ぎる歩に、慌てて小走りで駆け寄る。歩の歩くペースはいつもより少し早めで、それを佐原は必死で追った。しかし、歩はスピードを緩めるばかりか更に速めていくのだ。
 佐原は少し焦れたように歩の腕を掴み、無理矢理に足を止めさせる。
「歩くん、無視しないでよ。話をしに来たんだ。……落ち着いてさ、ゆっくり話がしたい」
 足は止めたが、佐原を振り返る事もせず、地面を見詰めてその言葉を聞く。
「あのさ」
 まだ喋っている途中の佐原の言葉を
「俺は何も話す事はないです」
 歩が遮る。
「今朝メールで言った事が全部なんで、それ以上喋る事なんて何もないです」
 言葉を吐き出す。拒絶を――吐き出す。緊張と居心地の悪さで指先から熱が引いていく。痛いほどに冷たくなってしまった指先が、温かさを求めて震えた。
「恋愛対象として――僕の事、を……?」
 そう訊ねる佐原に、歩は背を向けたままゆっくりと頷いた。掴まれたままの腕から、布越しに佐原の体温が伝わってくる。
「それで、なんでもう連絡もとりたくない、なんて結論になるのかが意味わからないんだけど」
 少し苛ついた様子の佐原は掴んだ歩の腕をぐい、と引っ張る。すると、その動きにつられた歩の身体は反転し、佐原の方に向く。けれど、やはり顔はあげないままだ。
「ゲイ、とか気持ち悪くないですか……?」
 苦しそうに、言葉を紡ぐ。歩は自分を見詰める佐原の視線が怖くて、このまま消え去りたい気分だった。足元から崩れてしまいそうな、そんな感覚だった。
「気持ち悪いだなんて、思わないけど」
 佐原はそんな歩を真正面から受け止めるかのように、真面目に答える。いつものようにおちゃらけた雰囲気ではなく、至極真面目な、そんな雰囲気だ。
「それに、恋愛対象として歩くんが好きなのは、僕の方も同じなんだけどな」
 その言葉で歩はようやく顔をあげた。驚いた様子で、しかしその表情はどこか半信半疑な、佐原を疑っているそれだ。
「まさか……」
 自分が好きな相手がそんな都合よく同性愛者であるなんてご都合主義はそう見られるものではない。互いにそういう性癖だと知っていて知り合ったならまだしも、互いの事は何も知らなかったのだ。
 歩が見詰める佐原は、少し居心地悪そうに言う。
「僕は歩くんが好きだから、もっと側に居たい。ずっと側に居たい。……ダメ、かな?」
 まさかそんな事があるなんて、にわかには信じられず――歩は再び視線を落とす。
 ここが現実である事が疑わしくなってしまう。もしかしたらこれは夢で、自分が創りだした妄想なのではないかと――。
 けれど、頬を撫でる風の冷たさも、腕から感じる佐原の体温も、耳から入るすれ違う車の音も、目の前の佐原も、全てがリアルだった。
「ダメ……ではない……ですけれど……」
 現実なはずなのに、変な浮遊感があってそれをすんなりと受け入れる事が出来ず、しどろもどろに答える。これは紛うことなく現実だとわかっているのに、起きている現象を信じる事が出来なかったのだ。
 そんな都合のいい事があるはずがなくて――。
「だったら、何も問題はないよね?僕は歩くんとこれからも仲良くしていたい……もし歩くんが良ければ、その……恋愛対象として」
 目の前で喋っているはずなのに、まるで声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。しかし、歩を見詰める佐原の瞳は真剣そのもので、その言葉に嘘偽りがない事は歩にだってわかった。
 世間一般に受け入れられる事のない性癖、男が男を好きであるという事――普通ではないという事。自分だけが特別におかしくて、排除されるべき存在なのだと、そう思っていた。身近にまさか自分と同じ性癖を持つ人間がいるだなんて思ってもみなかった。
 しかも、それが自分の好きな相手だった、なんて事は想像の範囲外だろう。
「え……えっと……俺も、佐原さんの事が…………好き、で……」
 混乱のあまり言葉が纏まらず、途切れがちに紡ぐ。けれど、途中でそれすらも詰まって言えなくなってしまったので、歩は目を逸しながらも佐原に歩み寄り、空いた方の手で佐原のコートの袖を摘んだ。
 今の歩の、精一杯の意思表示だ。
「…………有難う」
 佐原はそう言うと、歩の腕を掴んでいた手を滑らし、手先の方へと移動させた。冷たい風に晒されていたせいで冷たくなってしまっている歩の指先を、佐原の温かい手のひらが包んだ。
 布越しではない佐原の体温が愛しくて、歩はその手をしっかりと握り返したのだった。