闇夜の憂鬱 第十話



 全てのルートを回り終えた二人は、出口の手前に設置された土産コーナーを物色していた。とは言っても、歩の方は商品を見てまわるだけのウインドウショッピングだ。水族館の名前が入ったクッキーや、魚を模したスプーンや携帯ストラップ、ぬいぐるみなどの様々なグッズが所狭しと陳列されている。折角来たのだから何か買って帰ろうかとも思わないでもないが、自分の現状を考えるとそんな無駄遣いはできない。毎日食べる事に必死なのだから。
「お昼ご飯食べるよね?何が食べたい?」
 佐原は買い物カゴにいくつかクッキーと、カトラリー、ぬいぐるみを入れていた。甘いものが好きなんですか、と訊ねると、「このクッキーは職場で配る用のだよ」と、笑った。
「特に希望はないんで、佐原さんの食べたいものでお願いします」
 あまり高いところは困るのだけれど、と言う言葉はなんとなく控える事にした。
「んー……あ、隣になんかご飯食べられるとこあったよね、そこ行こうか」
 隣、とは、この水族館に併設された施設だ。今いる土産物屋と同規模の土産物屋や雑貨店、いくつかの飲食店やコンビニなどが入った小さめのショッピングモールだ。水族館に訪れた客に向けられて作られている事が窺える。
 はじめから佐原に丸投げしたのだから、歩に異論はない。歩は先に土産物屋を出て佐原の会計を待ち、二人は移動をはじめた。時刻は昼を少し過ぎた頃だ。日曜日である事も手伝って飲食店はどれも短いながらも行列が出来ていた。佐原は少し迷う素振りを見せながらも、全国にチェーン展開しているオムライス店に入る事を決め、行列の最後尾へと並ぶ。とは言っても、三十分も待てば入れる程のものだ。
「オムライス、好きなんですか?」
 店の前に用意された順番待ちの客用の椅子に並んで座った歩は、佐原の方を向いて首を傾げた。
「ん、まあね。普段はそうでもないんだけど、たまに無性に食べたくなる時があるよね」
 その答えに歩は得心する。佐原の気持ちがよくわかったのだ。
 家でも作りたいと思う気になる時があるのだが、オムライスに使うケチャップやバターと言った調味料は、普段料理をしない歩は新たに買い揃えなければいけないし、そもそも調理器具も必要最低限のものしかないので、材料費や手間の事を考えると踏み出せない一品だ。店の前に置かれていたメニュー表にかかれていた値段は、どれも八百円代から高いものだと千円を超えるものもある。歩の普段の食事の二倍から三倍といったところだろうか。しかし、それを考えても家で作るよりは安上がりなのだ。
「俺も、そんな感じです。美味しいですよね」
 これからオムライスを食べる、そう思うと急激に腹が減ってきたような気がした。
「そう?ならよかった。なにを頼もうかなぁ……せっかく来たんだし、変わり種とか頼もうかな」
 そう言って佐原は、店の入口に掲示されている大きなポスターを指さした。
 この店は定番のケチャップで食べるオムライスや、デミグラスソースのオムライスもあるが、それ以外にもコロッケを添えたものや、少し和風に味付けされたもの、どちらかと言えばドリアに近いようなものの変わり種も豊富なのだ。佐原の指さしたポスターは、期間限定メニューのクリームソースで仕立てたオムライスだ。
「美味しそうですね。……俺は、どうしようかな」
 折角食べにきたのだから変わったものを、とは思うが、先程みたメニュー表では変わり種系は全て料金が高めだったと記憶している。お金は余裕を持って用意しているが、それでも余るに越した事はない。それに、変わり種と言う事は自分の口に合わない可能性だってある。外れのない定番メニューを食べたいと言う気持ちもそれなりにあるのだ。
 そうこうしているうちに順番が回ってきたようで、二人は店員に案内されて店内へと入った。レンガ造りを模したインテリアで、暖色系の照明を使って温かい雰囲気が出されている。二人掛けの席に向かい合わせ座り、佐原は店員からメニューを受け取ると、歩に見やすいように広げてみせる。
「ありがとうございます……。俺デミグラスの……あ、でもやっぱりケチャップ……クリームソースのも美味しそうですよね……」
 こんな時の歩はとことん優柔不断になってしまう。いつもはほとんどコンビニの大して美味くもない弁当ばかりなせいか、食欲は眠ってしまっているが、その分こうやって選択の余地がある時はどれも食べたくなってしまうのだ。
 佐原はそんな歩の心中を察したのか、苦笑を漏らしながら
「迷ってるなら、歩くんはクリーム以外の頼んで、僕のクリームのと半分こする?」
 と言った。
「え……でも、そんなの悪いですよ……」
 願ってもない申し出だ。しかし、それに甘えるわけにはいかないだろう。歩は困ったように眉根を寄せる。
「僕も他の食べてみたいし、歩くんが半分こしてくれるって言うなら、凄く嬉しいんだけど?」
 そんな歩に畳み掛けるように佐原は言う。そんな言い方をすれば、歩が断れなくなる事を知っていて、だ。
「……でも」
 それが歩に気を遣っての事だと、歩自身も理解している。けれど、【お願い】の形を取られてしまうと、対人関係が希薄な歩はそれを断る術を知らないのだ。
「……わかりました。半分こするなら、何がいいですか?」
 だから結局、佐原に甘えてしまうのだ。これから佐原を傷つけなければいけないのに、自分は一体何をやっているんだろうかと自問しつつも、歩はメニューをくるりと反転させ、佐原の方へ向けた。
「歩くんの好きなのなら、なんでもいいよ」
 しかし、佐原はメニューを見ようともしないのだ。テーブルに肘をつき、その手を頬に添える。普段会う場所はコンビニばかりなせいか、オレンジ色の照明に照らされたその姿はとても様になっており、歩の目を惹きつける。
「じゃ、……じゃあ、デミグラスソースの……で、いいですか……?」
 慌てて佐原から目を逸しながら、おずおずと訊ねると、佐原は小さく微笑みながら「うん」と頷いた。そんな姿さえも決まっていて、歩はもう佐原を直視する事さえできなくなっていた。直視すれば、あまりの格好良さに思わず緩んだ表情さえ浮かべてしまいそうだったのだ。
 佐原は片手を軽くあげて店員を呼ぶと、手際よく今しがた決まったものを注文していく。そんな佐原の事を聞きながら、歩はおとなしく机を見詰めて座っている事しかできなかった。
 店員が去り、歩が無言で俯き続けているせいだろう。どことなく気まずい空気が漂う。そんな歩の様子に、佐原はどうしたものかと困り顔で考えあぐねいている様子だ。
 そう時間を開けずに頼んだ品々が到着した事に、互いに救われたのだった。
「いただきます」
 佐原のその声につられるように、歩も「いただきます」と声に出して言う。
 久しぶりにこんなまともな物を食べるかもしれない、とチキンライスを包む卵の舌触りに、歩は感動を隠し得なかった。ご飯だって、コンビニ弁当とは比べ物にならない程のうまさだ。
「どう?美味しい?」
 オムライスを口にした事で、幾分話しかけやすくなっていたのだろう。佐原は歩の顔を覗きこむようにして、そう訊ねた。
「ええ、美味しいです。佐原さんのはどうですか?」
 歩は先ほどまでとは打って変わった愛想の良さでそう答えると、佐原の方の皿を見遣る。
 黄色い卵の上には白いクリームソースが掛けられていて、ブロッコリーや人参が彩り良く添えられている。
「うん。これも美味しいよ。定番のとは少し変わってるけど、大当たりかもね」
 歩は勢い良く半分まで食べきり、自分の皿を佐原に差し出す。もっとよく噛んで味わった方がいい事はわかっていても、空腹な事も手伝って思わずがっついてしまったのだ。間もなく半分食べた佐原は、差し出された皿を受け取って、自分の皿は歩へと渡した。
「関節キスだねー」
 佐原はそんな呑気な事を言いながら、デミグラスソースのかかったオムライスを一口食べる。歩もクリームソースのオムライスを食べようとしたのだが、そんな事を言われてしまえば今まで全くしていなかった意識が、また頭をもたげ始めるのだ。食べかけのオムライス。関節キスどころか、スプーンも介した関節関節キスくらいにはなるのだろうが、それでも、だ。
 なんだかとても恥ずかしくて、頬が熱を持つ。けれど、このままいつまでオムライスを見詰めているわけにはいかないので、歩は覚悟を決めて食べかけのオムライスにスプーンを突き刺した。口に運ぶ瞬間が緊張の絶頂で、一口口に入れてしまえばあまりの美味にそんな事は考えられなくなってしまった。
「これ……美味しいですね」
 そんな言葉を最後に、もう歩はオムライスを口に運ぶ事で必死だ。夢中になっている歩を佐原は微笑ましげに見詰めた。

 食事を食べ終えた二人は、食後のコーヒーを飲みながら、オムライスについての感想を述べ合っていた。店内はまだ満員だったが、店の前に出来ていた行列は消えてしまっているので、食後の余韻を楽しむ事に抵抗はない。
「あ、あの……電車賃、いくらでした?今渡しますね」
 歩はメニューに書かれていた自分の頼んだオムライスの値段を思い出しながら、佐原にそう問うた。
「んー……電車賃くらい、いいよ。って言うか、ここの代金も僕が持つし……ちょっと格好つけさせてよ。僕の方が年上なんだからさ」
 けれど、佐原は歯切れ悪くそう言うのだった。
「え……ダメですよ。自分が食べたものとか、それくらい俺にだって払えるんですから、払わせてくださいよ」
 佐原の申し出は大変有り難いものだったが、それを素直に受け入れるわけにはいかないのだ。歩にだって、プライドくらいはある。それに、今日はまだ一円だって払っていないのだ。佐原の厚意に甘えてばかりではいけない。それに――。
 それに、今日で終わりなのだ。
 だからこそ尚更、甘えるわけにはいかなかった。
 歩は財布を取り出し、オムライスの代金と電車賃に確実に足りるであろうと思われた金額、千円札を二枚取り出し、それをテーブルの上に滑らせるようにずい、と佐原の目の前に置いた。
「……どこか行こうって、初めに誘ったのは僕だし、ここは、今日だけは奢らせてくれないかな……?」
 しかし、佐原がそれを受け取ろうとしない。困った顔で、歩の表情を窺おうとするかのように覗きこむだけなのだ。
「ダメ‥…です。お金の事とかは、きっちりしないと……」
 流されやすい歩だったが、ここで流されるわけにはいかない、と、首を左右に振る。
 しばしの無言の攻防のあと、佐原は小さく嘆息した。財布を取り出し、差し出された札をそこに仕舞う。
「もっと、甘えてくれたっていいのに」
 佐原は少しだけ残念そうにそう呟いた。歩にも聞こえていたが――どう返事をするべきかわからなかったので、答えを返す事はなかった。
「ねえ歩くん。今日は付き合ってくれて有難う。……これ、よかったら受け取ってくれないかな?」
 そう言って佐原が財布を仕舞うのと入れ替わりに取り出したのは、透明の袋に入り、赤いリボンのかけられたペンギンのぬいぐるみ。歩が片手で掴める程の小さなものだ。見覚えのあるそれは、先程の土産物屋で佐原が購入したものだ。
「え……」
 予想もしていなかった展開に、歩は返す言葉を失った。
 差し出されたそれを受け取るべきなのだろうかと――迷い、受け取ろうと手を出しかけて、やめる。
「……貰えないです」
 静かに首を左右に振る。
 言うか言うまいか、戸惑って、決める。
「俺、……佐原さんとは友達にはなれなくて」
 一度言葉にのせてしまえば、後は流れるように溢れ出る。
「友達に……なりたいけど、もっと仲良くなってみたいけど、でも、……俺はダメな人間だし、佐原さんのそばにいることは、出来ないんです」
 人間として、欠陥だから。傷つく事が怖いから。佐原への想いを諦める。
 行き場を失ってしまった愛らしいペンギンのぬいぐるみが、どこかさみしげだった。
「……どういう、こと?」
 絞り出されたような佐原の声に、歩は視線をあげた。今までに見た事のない、苦しげな佐原の表情が目に入る。こうなる事はわかっていたのに。佐原を傷つけてしまう結果になる事はわかっていたのに――。
「……佐原さんはいい人だから、俺みたいな人間には眩しすぎるんです」
 胸が痛む。佐原を傷つけなければいけない事に、自分が傷つく――。
――最後の思い出に、なんて事をは言わず、初めから来なければよかった。電話か何かで友達になれないと伝える方が、まだずっとマシだったのかもしれない――。
 そんな今更どうしようもない思いが、胸の奥で湧き上がる。
「……理由に、なってないと思うけど。……僕、何かしたかな?歩くんに嫌われるような事……教えてくれたら、もうしないし、僕に悪いところがあるならそれも直すからさ、だから」
 佐原にそんな事を言わせてしまう自分が嫌で。
「だから……。僕は歩くんと一緒に居られるだけで楽しかったし、出来ればこの先もずっと、仲良くして欲しいって、そう思ってる」
 歩だって、そう思っている。この先もずっと、佐原の隣に居られればいいと、そう思っているのだ。けれど、佐原の申し出を素直に受け入れてはいけない理由がある。今頷いてはいけない理由があるのだ。
 歩は覚悟を決めたようにぐっと唇を噛み締め、真っ直ぐに佐原を見る。
――今どんな事を言ってても、俺がゲイだって知れば離れていってしまうに違いない――
 自分が男から恋愛対象として、性的欲求の対象として見られている事に気付いたなら――気持ち悪い、と離れていってしまうに違いない。
 いつかそうやって傷つく日がくるのなら、全てを今終わらせた方が、傷つく深さはずっと浅いはずだ。
「佐原さんが、好きです。――その、恋愛対象として」
 真っ直ぐに、臆すことなく、伝える。
 嫌われる事への、傷ついてしまう事への不安が消えたわけではないけれど、伝える。
 どうせ終わってしまう恋ならば、どうせもう会えなくなら相手ならば――全て吐き出してしまいたかった。
「だから俺は、佐原さんと一緒に居る事は出来ません」
 歩がそう言い終えると、呆気にとられているような表情の佐原を無視して立ち上がった。
「今まで色々、有難う御座いました。本当に、楽しかったです」
 今まで経験した事もなかった事を、佐原は経験させてくれた。知らなかった感情を教えてくれた。言葉だけでは言い表せない気持ちがある事を――教えてくれた。
 歩は荷物をまとめて軽く一礼すると踵を返し、その場を後にする。
 後ろで佐原がどんな表情をしているのか、とても気にはなったけれど、振り返る事は出来なかった。もう終わったのだから。歩のせいで佐原を傷つけ、一方的に終わらせてしまった関係なのだから。歩さえ正常な人間であれば、少なくとも、佐原を恋愛対象として見ていなければ、佐原の希望通りまだまだそばに居られたかもしれないのに、これからもずっと友達として仲良くする事が出来ていたかもしれないのに――それを歩が全てぶち壊したのだ。
 友達なんかではおさまりたくない、と言う自分の欲求を抑えこむために。
 自分の罪深さは言われるまでもなく知っている。人間として生まれてきたのに、生命を育む事が出来ない自分が、どれほど無意味な存在で、他人に迷惑をかける存在なのか――そんな事は今までだって散々考えてきたのだ。
 オムライス店を出て、ショッピングモールを後にし、真っ直ぐに駅へと向かう。
 屋外へ出ると冷たい風に頬を撫でられる。けれど、今は興奮のせいかやけに身体が熱く、寒さを感じなかった。頭の芯がぼんやりとしているかのような、まるで夢の中を歩いているかのような感じだ。
――夢だったら、良かったのに――
 こうして佐原に別れを告げた事も、否、そもそも佐原と出会った事さえも夢であったなら、こんなにも悲しい思いをする事はなかったのに。
 楽しかった時間を思い出す。今まで誰に相手をされる事もなかった歩を、散々構ってくれた相手。たまには鬱陶しいと思うような事もあったけれど、それでも。それはまるで、夢の中の出来事のように、甘く淡い時間だ。
 もう二度と来ない日々を思い返しながら、駅に着いた歩はちょうどタイミング良くやってきた電車に飛び乗った。