闇夜の憂鬱 第八話



 いつもと同じで無表情。けれど今日は酒のせいか普段のような緊張感はなく、緩みきっていた。佐原はその歩の顔をじっと見詰める。歩の発言の意味を読もうとするかのように。
「……可愛い?」
 しばらくの探りあいのような沈黙のあと、佐原がようやく口を開いた。
「可愛いって、それってどういう意味……?」
 まるで気を逸らすかのように佐原は視線を逸らし、口を動かしながら手も動かす。いい頃合いに揚がった唐揚げをキッチンペーパーを何重にも敷いた皿にとっていく。
「んーふふ、そのまんまの意味ですよぉ」
 緩んだ顔と口調からは、とてもではないがいつもの歩と同一人物だとは思えない。酒の力は偉大なのだ。
「そのまんまの意味、ねぇ」
 佐原は歩の言葉を復唱する。
 嬉しい気持ちがないではないが、所詮は酔っぱらいの言葉なのだ。ある程度の本心は混ざってはいるだろうが――どこまでが本当かなんてわかるはずもない。それに、明日になって酒が抜ければこの出来事を覚えていない可能性だってあるのだ。
 真に受けて喜んではいられない。
 煮えたぎった油の中から唐揚げを全て取り終えると、佐原は歩を促すように肩に手を添え「席に戻らないと揚げたてが食べれませんよー」と笑う。そんな佐原に促されるまま、歩はふらつく足取りでソファーまで歩く。片手に唐揚げの皿、片手に酔っ払いの歩を支えた佐原は歩きにくい事この上ない。
「ふぅ~疲れたぁ」
 そんな事を言いながら、歩は元いたソファーにどっかりと腰をおろした。決して広い家ではないので、キッチンからここまでで十歩も歩いていないはずだ。
 すっかり酒に酔っ払ってしまっている歩を見て、佐原は苦い笑みを作った。
 普段見られない歩の姿を見られるのは結構な事だが、ほとんどシラフに近い状態の佐原としては心配で酔う事も出来ないのだろう。
「熱いから、よくふーふーしてから食べるんだよ」
 歩の隣に座り、佐原が自分の小皿を引き寄せたところで隣の気配に気付いた。歩は佐原の方を向いて、口をぽっかりと開けていたのだ。望んでいる事は――何も言わずともわかった。
 佐原は揚げたての唐揚げを取り、自分の息を何度も吹きかけてから、「あーん」と歩の口に放り込む。放り込まれた歩はもぐもぐと幸せそうな表情で咀嚼し、やがて嚥下した。
「おいしぃ~」
 酔いが覚めて、今の事を思い出せば歩は一体どんな反応をするのだろう、と佐原はくすりと笑う。
 いつもの何も喋らない歩も良いが、今のように素直でよく喋り、甘える歩も悪くなかった。ほんのりと赤くなった頬を見詰め、そんな事を思っていた。





 翌朝、歩は耐え難い程の頭痛と共に目が覚めた。
「いっ……て、……あれ?」
 瞼を開けて目に入るのは、いつもの狭い自宅ではない。白い天井はずっと高く、そもそも寝ているのは畳の感触さえわかるような薄っぺらい布団ではなくてマットレスだ。頭を抱え、記憶をたぐり寄せる。
――佐原さんに誕生日を祝ってもらって、シャンパン飲んで――
 それからの記憶は途切れ途切れ、あったりなかったり、だ。しかし、そんな断片的な記憶からでもわかるのは、佐原へとんでもない失礼な態度をとってしまっていたと言う事だ。
 思わず頭を抱えて転げまわってしまいたくなる程の焦りがこみ上げる。
「あ、そうだ、佐原さんは……?」
 とにかく今すべき事は佐原への謝罪だろう。歩は佐原を探して辺りを見回したが、この部屋には佐原は見当たらない。寝室であろうこの部屋の出入口は一つしか見当たらないので、とりあえずそちらへ行ってみる事にした。身体を動かすと連動するように頭が痛むので、なるべく頭を揺らしてしまわないようにゆっくりと立ち上がる。
 そして、立ち上がったところで気付いた。
「……着替えてる……?」
 見覚えのない服で、スウェット生地の部屋着だ。裾も袖も余っている事から佐原のものである事が予想できた。しかし、着替えた記憶も着替えさせてもらった記憶もない。
 導き出される答えは、どちらにせよ佐原にはあり得ない程の迷惑をかけた、と言う事だ。考えても仕方がないので、考えないようにする。逃避は割りと得意なのだ。
 ドアを開けると、そこは見覚えのあるリビングだった。
 ダイニングテーブルの上は、食器や燃えるゴミに分類されるようなものこそ片付けられているが、何本かの空き瓶が昨日を窺わせる。歩の頼りない記憶にもその瓶のパッケージは残っていた。――味は覚えていなかったが。
 歩が更に視線を巡らせてようやく佐原を見つけた。手足を縮込めてソファに横になり、幸せそうな寝息を立てている。
 家族以外の誰かの寝顔なんて、初めてではないだろうか。修学旅行なんかでも歩は少しでも夜更かしをしようとする同級生たちとは違って、真っ先に寝るタイプだった。
 初めて見る他人の寝顔は、なぜかとても新鮮だった。
 歩は向かいに座り、その寝顔をぼんやりと見つめる。
 最近はずっと見すぎていて歩の目も大分鈍っていたが、佐原の見た目は美形の部類に入る。普段は表情豊かに巧みな話術を披露しているが、今のように無防備な表情と言うものは見た事がない。歩は少しだけ、得をした気分になった。
「ん……」
 佐原は唐突に身動ぎをし、眉根を寄せ――もう目が覚めるのだと窺えたが、一体自分はどうするべきなのかと歩が戸惑っているうちに、瞼を持ち上げた。
「……おはよう」
 寝起きでまだ少しだけ眠そうな顔で、にこりと笑む。
「おはようございます」
 佐原につられて、歩もぺこりと頭を下げた。その途端、二日酔いの頭ががんがんと痛みを訴える。
「大丈夫?二日酔いなら水分たくさんとった方がいいよ」
 痛みを堪える険しい顔をした歩の表情を見た佐原は、見越したように話す。それは歩にとって羞恥でしかない。
「その、……すみませんでした」
 昨夜は本当に――どうかしていた。初めての酒とは言え、あまりに羽目をはずしすぎた。酒に酔うと言う事がどういう事かもわかっていなかったし、自分の限界もわからなかったのだ。
「まあ、お酒の失敗って誰にでもあるものだよ。そうやって美味しいお酒の飲み方覚えていけばいいのだよ」
 しかし佐原は、なんでもない事のように笑って流す。歩の覚えている限りでは相当鬱陶しい事この上ない絡みっぷりだったはずなのに、だ。
 正直、ほっとする気持ちの方が大きい。またこれでこれまで通り佐原と付き合えるのだと言う事に安心すると同時に、佐原の懐の深さに申し訳なくなる。
 先日から佐原には施されるばかりだが、まだ学生で金も時間もない歩には何も返せないのだ。
「……すみません」
 だから、歩は小さく言葉を繰り返すだけだった。
 そんな歩に佐原はくすりと笑い、立ち上がる。軽くのびをしながらキッチンへと向かい、食器棚からグラスを二つ取り出すと、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してそれぞれに注いだ。そしてそれを一つを自分で飲みながら、もう一つを歩の元へと持ってくる。
「あんまり気に病まないで、さ。友達なんだから」
 思わず佐原を見上げた。
 自分と佐原との関係――それを問われると、答える事が出来なかった。店員と客、と言うにはプライベートの親交があるし、友達同士、と言うには互いの事は何も知らない。だから、歩は戸惑ってしまったのだ。
「――あ、友達って嫌?僕は歩くんとはもっと仲良くなれそうだし、友達になれたらいいな、なんて思ってたんだけど」
 そう言って佐原はグラスを歩に差し出した。歩は視線で促されるままそのグラスを受け取った。受け取る瞬間、指先が僅かに触れて心臓が飛び上がる。
「……いや、では……ないです」
 歩の中の淡い恋心がふらりと揺れる。
 進展したのだと喜ぶ気持ちと、所詮友達止まりなのだと言う気持ち、どうせ辛い思いをするだけなのだから友達なんかにならない方がいいと言う気持ち。綯い交ぜになって、胸を焦がす。
「いやじゃない?なら、良かった。じゃあこれからさ、いっぱい遊びに行ったりしようよ。最近、近くに新しい水族館出来たの知ってる?おっきなマンボウがいるって新聞に載ってたんだけど」
 楽しそうに喋る佐原に歩は曖昧に頷く。自分の事なのに、どこか他人事で現実味を帯びなかった。
 友達なんて存在は生まれて初めてで戸惑いの方が勝ってしまう。
 今まで友達が欲しいと望んだ事はない。正直な話をすれば、たくさんの友達を持つ他人を見て羨ましいと思ってみた事がないわけではない。けれど、それは自分ではない誰かが、友達をたくさん持てるような存在である誰かが羨ましいのであって、決して友達が欲しかったわけではないのだ。歩自身、自分が友達を持てるような性格だとは思っていない。無口で根暗で――一緒にいた所で楽しくもないし、メリットは一つもない。
 だから友達が出来ないのは当然だと思っていたし、それがこの先もずっと続くのだと――。
「水族館、いや?」
 そう問われて、歩はおずおずと口を開く。
「いやでは、ないです」
 水族館なんて久しく行っていない。きっと小学校の時に家族で行った以来だろう。自分の記憶を手繰り寄せながら、目の前の佐原の表情を窺うと、佐原をふっと目を細めた。
「良かった。歩くんも行きたいところがあったら、なんでも言ってね。遠いところとかでも大丈夫だよ。車とか出すし」
 そう笑う佐原の気持ちはやっぱりよくわからなかった。
 何故自分を友達にするのか。年齢も離れていて、立場だって違う。友達と言うには互いの事を知らなすぎるのではないか――。
 思う事はたくさんあったけれど、友達になりたくないとは想わなかった。友達と言うものがどういうものなのか、そんな存在が居た事がないのでわからなかったが、少なくとも佐原の事が嫌だとは思えなかったからだ。
「……有難う御座います」
 どう答えれば正解なのかがわからなくて、歩はそう言ってぺこりと笑う。すると佐原が可笑しそうにくすくすと笑った。
「歩くんのそう言う所、好きだよ」
 どきり、と胸が高鳴る。爽やかなまでの佐原の笑みを正視する事が出来なくなって――目を逸らす。頬が熱くて、内心の動揺を佐原に悟られてはいないかと、心配になってしまう。
 その言葉にはきっと性的な意味は含まれていない。例えば愛らしい子供向けのキャラクターを見て「可愛いから、好きだ」とかそんなものと変わらないはずだ。そうわかっていても、心は慌ててしまうものなのだ。
「あの、俺……」
 なんとか誤魔化さなければ、と慌てた歩は話す内容も決まっていないのに言葉を紡ぎ始めた。
「その、……えっと、……えっと……あっ、ペンギン、とか見たい……です」
 必死で続きの話題を探し、いつになく歩の脳はフル回転だ。その歩の答えを聞いた瞬間、佐原の表情にぱあっと明るい色が差す。解りやすすぎる表情の変化は、人とコミュニケーションを取る事が苦手な歩でも難なく理解出来てしまう。その辺りはとても楽だった。
「わかった!ペンギンも見よう!ペンギン好きなの?」
 普段、自分からの意思表示が極端に少ない歩からのリクエストに、佐原は瞳を輝かせて話に乗る。
「そっ……それなり、ですかね。でも動物の中では割りと好きな方……かもです。よちよちして可愛いですし……」
 ペンギンの姿を思い浮かべながら、そうぎこちなく答えた。自分から話を振ったくせに、話の広げ方を知らないのだからどうしようもなかった。
 ペンギンを可愛いと思うのは本当だったが、好きかと問われるとそれは微妙なところだ。その辺り、多少誇張した嘘でも織り交ぜながらでも話をしていければいいものの――残念ながら歩にはそんな能力はなかったのだ。
 そんな歩の心の内を見透かしたかのように、佐原は笑む。ほんの少しだけ寂しげで、優しい瞳。その瞳に見詰められた歩の鼓動がとくりと高鳴った。早鐘を打つ心音が聞かれてしまいそうで、それを誤魔化そうと手の中のグラスの水を一気に飲み干す。乾いた喉には冷たい液体が染み入るような感覚をもたらした。
 惹かれているのだと、もう否定する事は出来なかった。
 自分を抑えこむ事はもう限界で――けれど、そんな想いを伝える勇気もなく。
 挨拶もそこそこに、これ以上一緒の空間にいる事が我慢できなくて――逃げ出すように佐原の自宅を後にした。失礼な事をしてしまったとは思うものの、佐原の声を聞く度、目が合う度に溢れそうになる想いを隠す事で精一杯だったのだ。
 どうせ実ることもない、告げたところで佐原を困らせてしまう想いを歩は必死で飲み込み、隙間風の酷い自宅へと戻った。
 自分だけのプライベート空間。誰にも邪魔されない自分の居場所。けれど、佐原の自宅とは違ってこの部屋は安らげる場所ではなかった。部屋にいる事で孤独が増す。孤独になる事で余計な事を考えてしまう。そして気分は落ち込んでいくばかりなのだ。
 どうにもならない自分の性癖。許されない性癖。男が男を好きだなんて、決して一般的に許容できるものではない。淡く芽生えた恋心の行く末なんて、考えなくてもわかりきっているのだ――。



 部屋に戻った歩が寒さ対策に布団に潜り込んでいるうちに、いつの間にか眠り込んでしまっていたようだ。目が覚めると既に空は夕暮れの色をしていた。初めての酒で二日酔いになってたとは言え、自宅に帰ってきたのは早朝だったはずだ。いくらなんでも眠りすぎではないか、と、歩は嘆息する。
 しかし、よく眠ったおかげか、昨日の酒は完全に抜けきったようだ。頭の芯が痺れるような重さはなく、気分だけは爽快だった。
 ほんのりと暗くなった室内は、携帯電話のメール着信を知らせるランプの点滅でさえよく見える。
 メールを開くのは、とても怖かった。別れ間際、本当に逃げるように帰ってきたために昨日のお礼さえまともに伝えられなかったし、その時の慌てぶりと言えば自分で思い返しても不審そのものだったのだ。それに、佐原が言っていたように、これからも友達として付き合っていく事――。
 そんな生殺しのような状態に、自分が耐えられるとは思わなかった。だから、さっさと断らなければいけない。自分が傷つく前に、佐原を傷つけてしまう前に。
 メールを開くと、いつも通りの文面が目に飛び込んできた。先ほどの事を怒っているのかと心配していたのだが、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。
 メールの内容は水族館に行く日程についての事だった。
 佐原との水族館。想像するだけで胸がときめくような響きで――それと同時に自分がそんな贅沢をしていいわけがない、と得も知れぬ不安に包まれる。
 佐原とは友達になれない、なりたくない。その思いがあるのなら水族館は断るべきなのだとはわかっていた。しかし、一度は約束した事だったし、佐原も喜んでいたし――と、迷う気持ちがあるのも本当だ。それにどう理由を付けようと、歩が佐原との時間を過ごしたいと思っているのも本当なのだ。
 だから。
 これが最後なのだと、これが、佐原との最後の思い出になるんだったら――と。
 歩は布団から起き上がり、軽くのびをするといつもバイトや通学の際に使用しているメッセンジャーバッグをに手を伸ばした。そしてごそごそと中身を漁り、取り出したのはバイトのシフト表だった。今月いっぱいの全員分のシフトが掲載されていて、歩の名前のところにはわかりやすいように黄色いマーカーでラインがひいてある。それとカレンダーを見比べながら、先のメールで佐原に都合がいいと提示された土日祝と合う自分のスケジュールを探しているのだ。
 基本的に、学校とバイトしか予定がない歩だったので、その作業はとても簡単なものだった。
 候補の日程を、まだシフトの決まっておらず事前に休みを願い出る事の出来る来月以降のものも合わせて三つ程出し、メールを返信した。いつもならすぐに来る返信だったが、佐原の方もスケジュールの都合があるのだろう。いつもより間をおいて――と言っても、一般的に比べればとても早い速度で、再びメールが返ってきた。