闇夜の憂鬱 第七話



『おはよう! お誕生日は僕の家に来て欲しいんだけど、どうだろう? これでも料理の腕には自信があって、歩くんの好きなものならなんでも作るよ(*´▽`*)』
 目覚めた歩が携帯電話を確認すると、佐原からは既にそんなメールを受信していた。
 そういえば、と一気に昨日の記憶が蘇る。
 寝る直前まではやっぱり断ろうかと本気で考えていたのだが――。
 こんなメールを送られてしまえば、もう歩には断る勇気なんてなかった。
 歩は寝ぼけた頭でメールの文面を考える。
 佐原の家。
 自分が行っても迷惑でないのか、料理を作ってもらうなんて贅沢ではないのか、気が引けてしまう思いもある。しかし、嫌だと言える空気ではない事くらい、歩にだって読み取れる。
『ありがとうございます。ご迷惑でなければ、それでお願いします。』
 メールを送信して携帯電話を閉じた。
 たったの一晩寝ただけで、昨夜の心中のもやもやは嘘のように晴れている。だからと言って悩みが解消されているわけでもないのだが。
 心配も不安も変わらずそこにある。
 しかし、それをいつまでも考えていたところで何も解決しない。自分自身への無駄な負担が増えるだけなのだ。
 だから腹をくくった。なるようにしかならない、と。
 要は開き直りと言う事だ。
 うじうじ考えてしまって、ないものねだりをする点は短所だが、この辺りの切り替えの良さは歩なりに長所なんだと思っている。
 一晩で考えが百八十度変える事が出来る。
 勿論、うまく行かない時もあるけれどその時はまた眠るだけだ。
 時間を置いてみる事で、今まで重要視していた事が些細だと気付く事も出来る。
――などと言う立派なものではなく、ただ単に諦めた、と言う方が簡潔だ。
 諦めて周囲に身を委ね、流れるままに流される。
 潔く諦める事が出来る点は長所なのだろうか、と自問しながら、歩は布団を押入れにしまった。
 ハタチの誕生日を目前にした、十代最後の僅かな時間。そんな感傷に浸れる暇もなく、成人への期待や責任も特に何も感じられない。
 ただ、目の前に積み上げられた日々の課題をどうこなしていくかで必死だった。
 佐原とのメールの頻度は少し増した。
 忙しい仕事は終わったと言うのには偽りなかったらしく、コンビニに現れる佐原の顔色も随分と元に戻っていて、歩はほっと胸を撫で下ろす。
 メールや対面で何度も誕生日の日に食べたい物を訊かれた。食べ物に拘りのない歩は悩んだ挙句、定番メニューだと思われる鶏の唐揚げをリクエストした。
 酒も食事も佐原の方で手配するとの事だった。そこまでしてもらうのは流石に後ろめたい。せめて材料費だけでも、と言う歩に佐原は頑なに首を左右に振り続けた。
 そうこうしているうちにあっという間に日は流れ、歩の誕生日を迎えた。
 12月7日土曜日。歩の二十回目の誕生日。
 会社員である佐原は休日で、歩も一日フリーだと言うレアコンディションの日だ。
 いつか毛布を貰った公園で、夕方より少し早めの時間に待ち合わせだ。
 特徴的な大きな亀の滑り台。この前来た時と違って、まだ日の暮れていない休日の今日は、その滑り台で遊ぶ親子連れの姿もあった。
 どこか懐かしく、微笑ましい。
 自分にもあんな小さな頃があったのだと思い出す。両親と地元の公園で遊んだ記憶も朧気ながらに残っている。
 何も知らなかった無邪気だった頃。幸せだったあの頃。
 自分が普通であると言う事を、皆と同じように幸せになれると言う事を信じて疑わなかったあの頃――。
 と、歩が感傷に浸りそうになっていると、ジャリ、と背後で砂を蹴る音がした。
「外で会うのはやっぱり新鮮だよね」
 振り返るとそこには予想通り、佐原がいた。
 今日は仕事ではないので、スーツではなく綿のパンツに黒いジャケットを着ていた。フードについている灰色のファーが、冬の風に揺られてたなびく。
「そうですね。なんか、緊張しちゃいますよね」
 普段、私服の佐原を見る事もままあるはずなのに、今日はやけに新鮮だった。佐原の言う通り外で会っているからなのだろうか。
「あはは。大丈夫だよ。もっとリラックスして。僕は歩くんともっと仲良くなりたいと思っているんだから」
 その佐原の台詞の意味を捉えきれず、歩が首を傾げた。
 けれど、佐原はそれを無視するかのように――
「こっちだよ」
 と、踵を返したのだ。
 疑問に思いながらもその背を追う。
 今まで幾度と無く見送ってきた背中。ずっと触れたいと思っていた背中。その背中を追うのは今日が初めてだった。
「歩くんって、嫌いなものある? 鶏の唐揚げは作ったんだけど、それだけじゃ足りないだろうから他にも色々作っててさ」
 佐原は首だけで歩を振り返る。
「嫌いなものって言うのは特にないです」
 少しだけ大股で歩き、佐原との数歩の差を埋めてしまう。しかし、完全に詰め切ったわけではなく、左斜めに一歩後ろまで近づいた所でその位置をキープする。
 あと一歩踏み出せば隣に並ぶ事が出来る。
 けれど、佐原の隣に並ぶ事は何だかおこがましい気がして――並ぶ事が出来なかった。
「そう。なら良かった。たくさん作ったから、遠慮なく食べていってね」
 場所を移動した歩を気にする様子もなく、佐原は淡々と言葉を続けた。きっと歩く立ち位置なんて気にしていないのだろう。
「なんか、すみません。ありがとうございます」
 そう言って歩はぺこりと頭を下げる。それを横目で視認した佐原はくすりと笑った。
 公園から歩いて五分もかからない距離にある白い外壁のマンション。佐原はその前で足を止めた。
「ここ。僕の家だよ」
 言われて、歩はそのマンションを見上げた。歩のアパートとは比べるまでもなく綺麗な外観で、頑丈さも桁違いである事が見てとれる。
 歩は佐原の続いてマンションのエントランスホールを通りぬけ、エレベーターに乗り込む。エレベーターのボタンを見る限り居室は九階まであるようで、佐原はそのうち『五階』のボタンを押した。
 ぐん、と重力に逆らって身体が持ち上がる独特の感覚。日々の生活の中でエレベーターと無縁な歩は、この感覚を味わうのは随分と久しぶりだった。
 そして到着の合図の電子音と共に、扉が開かれる。佐原はエレベーターを降り、その扉が閉まってしまわないように手で抑えながら歩を促した。
 佐原の紳士的なその行動がこそばゆい。
 エレベーターを降りると、右に三つ、左に三つの部屋が並んでいて、佐原は廊下を左へと歩いて行った。二つの扉を通り過ぎた一番奥にある扉の前で足を止める。
「ここ、五○六号室が僕の部屋だよ」
 そう言って佐原はジャケットのポケットから鍵を取り出し、扉を開ける。
「……お邪魔します」
 促されるままに、佐原に続いて部屋に足を踏み入れる。
 他人の家に入る事は、親族を除けば生まれて初めてだと言っても過言ではない。
「うん。いらっしゃい」
 玄関から少しだけ廊下が続いていてまた扉がある。そこを開くと歩の部屋よりも広いリビングがあった。
 部屋の家具は高くても腰までの位置のもので統一されていて、開放感がある。部屋の真ん中には毛足の長い絨毯が敷かれていて、その上にテーブルとそれに合わせたL字型の白いローソファーが設置されていた。
「ソファー座ってて」
 佐原はリビングと間続きになっている対面式のキッチンへと向かいながら、ソファーを指差した。
「……はい」
 まるでテレビの中にでも出てくるかのような空間だ。
 生活感は最低限にまで抑えられていて、壁には歩にはよくわからない絵画が飾られていたりもする。
 人の家をじろじろ見る事はマナー違反だとはわかっていても、それでも見てしまう。何かが気になると言う事ではなく、単純にお洒落で小奇麗に纏められたこの部屋を、もっとじっくり見たいのだ。
「あんまり見られると照れちゃうんだけどなぁ」
 佐原はそう言ってカウンターからソファに座る歩を覗きこんだ。
 ジャケットはもう脱いでいて、V字ネックの黒いセーターがよく似あっている。
「あ……えっと、そのすみません。……かっこいい部屋だな、って」
 しどろもどろに、それでも思っている事をそのまま伝える。すると佐原は照れくさそうな笑みを零しながら
「褒めても何も出ないよ」
 と言った。
「自分の暮らす部屋は、過ごしやすい空間にしたいんだよね。仕事から疲れて帰ってきてゴミが散らばってる部屋なんかだと、明日も頑張ろうなんて気持ちになり辛いじゃない?」
 目につくところにゴミを放置している歩には耳の痛い話だった。
「だから、帰ってきたくなる部屋を作ったんだよ」
 佐原は淡々と語りながら、キッチンから次々と料理を運んでくる。
 歩がリクエストした鶏の唐揚げや、ウインナーのベーコン巻、ほうれん草のソテーにチーズちくわもある。
 料理を並べ終えた後は箸や小皿、グラスなどをテーブルに並べた。テーブルの長辺に二人分のセットを並べる。向かって左から歩と佐原だ。
「お酒なんだけど、ワインとかシャンパンとか、焼酎やビールとかチューハイとかもあるけど、何か飲んでみたいものある?」
 そう問われ、歩は首を傾げた。
「…佐原さんは何を飲まれるんですか?」
 何を飲んでいいのかがわからなかったので、苦肉の策。佐原と同じものにしておけば間違いはないはず、という判断だ。
「ん?僕はシャンパンからにしようかな。で、その後に焼酎な感じ」
「じゃあ俺もそれと同じでお願いしていいですか?」
 歩の言葉に、佐原はにこりと笑んで了解の意思を伝える。
 そして佐原がキッチンから持ってきたのはよく冷えたシャンパンだった。少し緑がかった透明な瓶に、アルコールが揺らめいている。
 それをそれぞれの席に置かれたグラスに注ぐ。
「じゃあ、歩くん。誕生日おめでとう」
 佐原がそう言って歩の方にグラスを掲げる。目線で促され、歩も同じようにグラスを差し出した。チン、とガラスがぶつかる冷たい音が響いた。
 佐原がシャンパンを口に含むのを待ってから、歩も恐る恐るといった様子でグラスに口を付けた。
 初めてのアルコールは、爽やかな酸味と喉が灼けるように熱くなり、直後から頬がじんわりと熱を持った。
「どう?」
 そんな事を言われても、初めての飲み物への感想は思いつかなかった。
 不味くて飲めないわけではないが、ジュースのように甘いわけでもない。確かなものは口内を刺激する炭酸と、喉を灼くアルコールだけだ。
「……美味しいです」
 それでもそう答えてしまうのは、人の顔色を窺いすぎてしまう歩なのだから仕方がないだろう。
「……あんまり無理はしないようにね」
 その嘘を見透かしたのか、佐原は自分のグラスの分を飲みきってしまうと、おかわりをしてから箸をとった。
 ほんの少しだけ後ろめたい気分だ。
 歩も佐原の真似をして箸と小皿をとる。
 普段、コンビニ弁当や学食の食事ばかりの歩には、目の前の食べ物たちはごちそうに違いなかった。
 まずは鶏の唐揚げの唐揚げを小皿にとり齧り付く。その途端、口の中にじわりとジューシーな肉汁が広がる。
「うわっ……」
 思わず歩の口からは感嘆の声があがった。
 いつも食べる出来合いの唐揚げとは全く別の料理だと言ってもいい程に次元の違う美味さだ。
「気に入ってもらえた?」
 がっつく歩に、佐原は少しだけ得意げな顔をしている。
「これ美味しいです…!俺、こんなのはじめて食べました」
 唐揚げ以外の他の料理も順番に食べていく。どれも外れはなく、ほっぺが落ちそう、とはこの事なのかと未知の感覚を味わった。
「ふふ、本当に可愛いよね」
 食べ物に夢中になっている歩を見つめながら、佐原はグラスに入ったアルコールを揺らす。
 この部屋でそんな事をしていると、背景も相まってその姿はさながら恋愛モノの洋画に出てくるヒーローのようだ。
「……?」
 その言葉の意味がわからず、唐揚げを口に含んで右頬を大きく膨らませたまま、佐原の顔を見た。
 目が合って、にこりと微笑まれる。
 何故か視線を逸らす事は出来なかった。
 吸い込まれるような、瞳の誘い。
「えっと、それって……」
「シャンパンなくなっちゃったから焼酎持ってくるね」
 どういう事ですか、と言う言葉は、佐原の台詞によってかき消されてしまった。
「あ、はい。じゃあお願いします」
 歩は立ち上がる佐原を見て、グラスに残っていた自分のシャンパンを飲み干す。
 熱さを伴った液体が喉から食道を伝って胃へと流れ落ちた。



「佐原さん、お腹すきましたぁ」
 あれから約一時間――。
 歩はすっかり出来上がってしまっていた。
「唐揚げもう一回揚げようか?まだ残ってるんだよ」
 決して佐原が酒を促したわけではない。ただ請われるままに酒を与えただけなのだ。だからと言って、初めての酒だと言う事がわかっていて止めなかった佐原は確信犯だ。
「えへへ、じゃあお願いしますー」
 しゃべり方だって違うし、頬は赤らんでその表情も緩みきって笑顔のようなものが浮かんでいる。
 普段なら絶対に見せる事のない表情だと断言できる。
「わかったよ」
 そう言って佐原が立ち上がり、キッチンに向かおうとしたところで――シャツの裾を引っ張られた。ちょうど腰を少し過ぎ、尻にかかった部分だ。
「作るところ、俺も見たいです。見てもいいですかぁ?」
 佐原を見上げる瞳はじんわりと潤んでいる。
「……いいよ。歩くんたてる?」
 んー、と子供のような返事をしながら、歩はのっそりと立ち上がる。足元が若干覚束ないので、佐原は歩の手を取ってキッチンへと向かった。
「えへへーからあげーからあげー」
 酒の威力は絶大だ。
 この日の歩はシャンパン一杯と焼酎を二杯しか飲んでいない。単純にアルコールの量だけならばその倍は飲んでいる佐原は、まだ酔いはまわっていない。
 初めてアルコールを飲む歩と、普段からアルコールを嗜んでいる佐原との経験の差もあるだろうが、持って生まれた体質の差も大きいはずだ。
「はーい。じゃあ、油使って危ないから、歩くんはこっちの椅子に座っててね。」
 キッチンにたどりついた佐原は、冷蔵庫と戸棚の隙間に収納してあった折りたたみ式の丸椅子を取り出す。
 普段、踏み台代わりに使用しているものだ。
「わかりましたぁ」
 佐原に促されるまま、その丸椅子へと座る。
 普段のクールな印象とは大幅に変わって、言葉や仕草が一々子供っぽい。
 佐原は冷蔵庫から漬け込んだ鶏肉を出し、油に火を入れる。温度を見ながら唐揚げのおかわりを作り始めた。
「さっきの話なんですけどぉ」
 歩が唐突に話をはじめる。
「んー?さっきの話ってなんだろう?」
 丸椅子に座っている歩からは、佐原の横顔しか見えない。それも揚げ物をするために俯いているので表情は読み取れない。
「さっきのー、可愛いってやつなんですけどー」
 ぴくり、と佐原の肩が動いた。
 まるでその話題を恐れていたかのように。
「うん」
 けれど、声色に動揺の色は出ていなかった。
 歩は言葉を選ぶように視線を巡らせながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺も佐原さんの事、可愛いと思ってますよー」
 間延びこそしているが、発音は明瞭だ。
 佐原は歩の表情を窺うようにじっと瞳を見据える。その手元ではこんがりと狐色に唐揚げが揚がりはじめていた。