闇夜の憂鬱 第六話



 冷たい空気が頬を撫でる。
 冬の日没は速く、まだ十七時にもなっていないと言うのに空はもう暗かった。
 太陽のあかりを失っても、人の多いこの辺りでは真っ暗になってしまう事はない。道端の街灯だったり、背の高いマンションの窓から漏れる各々の部屋の光だったり、立ち並ぶ商店の看板、道行く車のヘッドライト――様々な光が夜道を照らす。中でも、歩の働いているコンビニの照明は一際明るい。看板も明るいが、道路に対する面がガラス張りになっているので、店内の照明が全て漏れだしているのだ。その光のおかげで、遠くからでもそこにコンビニがあると判る。
 タイムカードを押した歩は、仕事を始める事にした。夕方からシフトの時は、必ず一番に品出し作業をしなければいけない。もう既に大量に届いている弁当やおにぎりの入ったコンテナを転がし、目的の場所へと移動する。
 大して好きでもないこのコンビニでのバイトだが、品出しの作業はどちらかと言えば好みだった。少なくとも客と話をする必要のあるレジ打ちや、商品の売れ行きや在庫、消費期限にも気を遣わなければいけない発注作業に比べれば、何も考えずに行えるこの作業は格段に楽だと言える。
 それをしながら、店内に設置された時計をちらりと窺う。
 ――佐原が来るまで、まだ時間がある。
 ダメだとはわかっていても、佐原の事を意識してしまうのだ。いくら自分から離れようと望んだところで、心の奥底の本心は偽りきれない。歩ははじめてのその感情に、戸惑いをかくしえなかった。
 はぁ、と一つ溜息を吐く。
 特別な事を何も考える必要のない単純作業は、考えなくてもいい事を考えてしまう。
 考えたところで何も解決しない事を考えてしまう。
 ただ気分が落ち込んでしまうだけの、意味のない思考。
「あれ、そんな溜息吐いてどうしたの?何か悩み事?」
 と、しゃがみこんだ歩の頭上から、何やら声が聞こえた。
 それは聞き覚えのある声で、歩が毎晩想う声だ。
「え――」
 歩はびっくりした様子で勢い良く背後を振り返る。
 佐原が来るにはまだ早いはずだ、と。けれど、その声を聞き違えるはずもない。予想通り背後には佐原がいた。
「やあ」
 少しだけくたびれた様子でスーツを着こなし、やはり顔には疲れの色が浮かんでいたものの、昨日までとは違ってどこか朗らかな様子さえも見える。
「……今日ははやいんですね」
 顔を見た途端、後ろめたさが溢れ出てくる。昨日の行為や、決して届くことのない自分の想い、好かれたいと言う気持ちと、離れなければいけないと言う気持ち。綯い交ぜになる感情。
「ん?うん。最近忙しかったからね。その仕事も今日で終わったから、早めに帰ってきたんだよ」
 あー疲れた、と肩のこりを解すような動作をしながら、佐原は口元を綻ばせた。
「歩くんも、疲れてるんならあんまり無理しちゃ駄目だよ。何事も身体が資本なんだから」
 そう言って佐原は弁当の品出しをする歩の隣に並び、冷蔵ケースの中を覗きこむ。
「……気をつけます」
 その距離がやけに近い気がして――歩の鼓動が高鳴る。
 少し動かせば手と手が触れてしまうような距離。歩の目の前にあるパスタを見たいのだとわかっても、緊張で退く事が出来なかった。
「たらことイカか、ほうれん草とベーコン、どっちがいいと思う?」
 そんな歩をよそに、佐原は更に身体を密着させるようにパスタを二つ交互に指さした。
 触れそう、どころかもう触れてしまっている。
 布越しとはいえ、佐原の体温が直に伝わってくるようで――触れ合っているその部分が一気に熱を持つ。ジンジンと、主張する。
「え、えっと、その……」
 口ごもる歩に、佐原は「ねぇどっち?」と首を折り曲げて顔を覗きこませた。
 目が合う。
 歩は感情が表に出る方ではない、いくら悲しくても、嬉しくても、今のように緊張していても――周囲にはいつだってクールだと、そう思われている。
 だから、大丈夫なはずだ。今緊張している事は佐原には伝わっていないはずなのだ、と歩は震える心に鞭を打ち、口を開いた。
 佐原と話す事はだいぶ慣れたが、それでも目を見て話すとなるとまだまだハードルが高い。
 けれど、レジ越しならいざ知らず、こんな至近距離であからさまに目を逸らすわけにはいかなかった。
 歩はやっとの思いで
「ほうれん草とベーコンの方が……そっちの方が、俺は好きです」
 と答えたのだった。
「へぇ、そうなんだ。じゃあそっちにするよ」
 佐原はニコリ、と笑みを作ると、手を伸ばしてパスタの器を取り上げた。その瞬間、佐原の動きに合わせて、佐原の独特な甘いような香りが歩の鼻腔をくすぐった。
 動けない歩はその場に硬直したまま。佐原はぐるりと店内を見渡してから、菓子売り場のコーナーへと歩を進めだした。
 佐原と離れて、歩はようやく胸を撫で下ろした。緊張の余韻か、指先が僅かに震えている。
――びっくりした。
 びっくりして、少しだけ嬉しくて、そして切ない。
 歩は油断すれば脳内を占領されてしまいそうなその想いを振り払うように軽く頭を振り、仕事を再開させた。
 胸の昂ぶりが完全に収まったわけではない。仕事をしていないと頭がどうにかなってしまいそうだったのだ。
 いつもと変わらないのであれば、この後また佐原に話しかけられる。せめてその時までには冷静さを取り戻しておかなければいけない。
 人の気持ちも知らない癖に、と佐原を恨みがましく思った。
 歩が弁当コーナーの品出しを終えると、佐原がそれを待っていたかのように歩の元へとやってきた。
 いつの間にか青色の買い物カゴを抱えていて、中には先程とったパスタや、スナック菓子、缶ビールなどの酒も入っていた。勿論、いつものコーヒーも忘れずに。
「たくさん買われるんですね」
 珍しい、まで言いかけてやめる。
 佐原にしては多い量で、弁当類を買っていく事は滅多になかったし、酒に至っては歩の知る限り初めての購入となる。
「いつも歩くんの時間とっちゃってるからね。たまにはたくさん買わないと、店長さんにも悪いからね」
 そう言って佐原はいたずらっこのように口角をあげた。
 大人びた余所行きの笑みも魅力的だったが、時折見せるまるで子供のような無邪気な表情も、歩にとっては極上の逸品だった。
 今朝の佐原からのメールを思い出す。歩の顔を見ると元気になる――佐原の顔を見て元気になれるのは歩も同じなのだ。
「……有難う御座います」
 そう頭をさげる。
 冷静になろうと強いた歩の努力は虚しく、鼓動は早鐘を打ち続けている。
「そう言えば歩くんはお酒は?」
 突然切り替わった話に、歩は首を傾げた。
「俺はまだ未成年なんで、飲んだ事ないですが……」
 質問の意味が汲み取れず、歩は正直に答える。未成年とは言っても、周囲の同年生まれの学生たちは飲み会だとかに行っている。大学生にもなってしまえば、見た目はそう変わらないのだ。まして集団になってしまえば尚更だ。
 歩も入学当時なんかに飲み会に誘われた事もあったし、今だって歩の容姿につられた女生徒から声を掛けられたりもする。けれど、依然として断り続けていた。理由は至極簡単なもので、金銭的な理由だ。
 他人との交流に興味のない歩にとって飲み会への出費はドブに金を捨てるようなものだったし、飲み会に出席している間は時給が発生しないと言うのもの痛かった。
 身体的、精神的な疲れも考慮すればトータルの出費は計り知れない。
 だから、歩は今まで健全過ぎる程に健全で、酒を飲んだ事はなかったのだ。
「えっ、そうだったの?!誕生日いつ?今度の誕生日でハタチ?」
 驚いた様子の佐原は、そう矢継ぎ早に質問を投げかけた。
「えっと……、誕生日は再来週です。ハタチになります」
 そう言えばきちんと年齢を言った事はないと記憶を手繰り寄せ、脳内のカレンダーをめくる。
――誕生日、すっかり忘れてた。
 誕生日が楽しみだったのは、小学生までだ。美味しいご飯とケーキを食べ、両親から貰えるプレゼントにわくわくしていた。
 思春期にあがった頃から、小学生の時のような特別な料理やケーキへの感動は薄れ、プレゼントは物ではなく現金になった。
 一人暮らしを始めて一年目の去年は、当日に母親から「おめでとう」と言う電話がかかってきたのと、両親の連名で現金書留が届いた。僅かな送金だったが、今の歩にとっては何よりも有難かったのをよく覚えている。
 今年も同じような感じで誕生日は過ぎ去っていくものだと思っていた。
「そうなんだ!じゃあお祝いしないとね。誕生日って何曜日?当日の予定はどう?あ、でも僕と一緒にお祝いじゃ迷惑かな?」
 テンション高く佐原は更に質問を続ける。
 歩の対人能力では処理が追いつかないスピードだ。
「え?え、えっと、誕生日は……7日の土曜日で、学校は休みで、えっとシフトは……えっとどうだっけ、あ、思いだしました。休みです」
 戸惑っているせいか言葉が思うように出てこなかった。やっと言い切った歩は少し考えこむように俯く。
「あれ?お、お祝い?一緒に……?」
 先程の佐原の言葉を心の中で反芻する。
 確かに、一緒にと言ったはずだ。
 歩はよくわからない、と言うように眉根を寄せ、目の前の佐原を仰ぎ見る。
「うん、一緒に。歩くんがよければ、だけど」
 相変わらず優しげな佐原の視線が歩を包み込む。少しだけ照れくさそうな、レアリティの高い表情だ。
 その表情に見惚れながら、歩はこくりと首肯する。
「……是非」
 歩の返事を聞いて、佐原は満面の笑みを見せた。飛び切りの、はちきれんばかりの笑顔だ。
「やった!」
 笑顔と共に見せたのは小さなガッツポーズ。
「じゃあ、頑張って準備するよ!どこでお祝いしようかなぁー。あ、お酒解禁だけど飲んでみる?やめとく?」
 その瞳は、何か面白いものをみつけた子供のようにキラキラと輝いていた。
「あー……、佐原さんが飲まれるなら、飲んでみたいです」
 歩は少し考えてから、そう答えた。
 健全である事に何かポリシーがあったわけではない。酒にも少なからずの興味があったのだ。
 佐原からの唐突な誘いはまるで夢のようで、いつ目が覚めてしまうのかと怯える気持ちもあった。
 けれど、佐原にしては大量の品々の会計を済ませる時に触れてしまった手は確かに暖かく、これは夢ではないんだと確信した。
「じゃあまた場所とか時間とか、相談のメールするよ!折角の誕生日なんだから盛大にお祝いしないとね!」
 そう言って店を後にする佐原の背中を見送る。
 いつも佐原がいなくなった後は、やっと一人になれたとほっとする。佐原といる事が嫌なのではない。一緒にいれば楽しいし、少しでも長い時間を一緒に過ごしたいとも思う。しかし、普段一人で行動する事の多い歩には、佐原のテンションに合わせる事がやっとだ。
 今日はいつも以上に刺激の多い日だった――と、歩は仕事をしながら考える。
 夜のピークを迎え、接客をしながらでも心はどこか上の空で、佐原の事を考えているのだ。
 思わず頷いてしまったために、一緒に過ごす事になってしまった誕生日。
 期待と不安。
 佐原と過ごせるのは魅力的だ。けれど、それで佐原が迷惑ではないのか――今更ながらに、そんな不安が沸き起こる。
 佐原が言い出した事なのだから、そんな心配をせずとも、と思うものの、その反面あれはリップサービスで断った方がよかったのかとも思えてしまう。
 如何せん対人経験が少なすぎる歩には、何をどう選択すれば正しいのかもわからない。本音と建前を見誤っていないのか、誰かを傷つけてはいないか、自分の行いはおかしくないのか――過剰な程に心配になり、不安になる。
 この心配性な面は昔から、物心ついた時からそうだったのだから、きっと生まれ持った性格なのだろう。
 歩は客の切れ目に今日何度目かの溜息を吐いた。
 再来週の誕生日が楽しみで、不安。
 心が落ち着かない。
 いっそ何か理由を付けて断っておけば良かったと、自分の行動を悔いる。
 そんな風に心ここにあらずな状態で歩はバイトを終えた。いつものように廃棄品を貰い、自宅に帰る。いくら心配事があろうとも、腹は減るのだ。
 数時間留守にしていた部屋の電気をつける。部屋の温度は外気温とそう変わらず、すっかり冷えきってしまっていた。
 ジャケットを脱ぎ、部屋着に着替える。しかし部屋着の薄手のジャージでは冬の寒さには耐え切る事ができない。去年までならこの上にジャケットを羽織る事で凌いでいたのだが、今年は違う。
 この狭い部屋の中で、歩の一番のお気に入りの毛布を布団と一緒に押入れから引っ張り出し、それを肩から巻きつけて丈の長すぎるポンチョのように使う。
 佐原に貰った毛布は毛足が長いので手触りも良く、暖かさも抜群だった。その毛布に包まれながら食べこぼしをしないように気を付けてコンビニ弁当にがっつく。
 佐原の言葉をどこまで信用してもいいものなのか――。
 それは考えれば考える程、マイナスの方向へと転がり落ちていってしまうような色みを帯びていた。
 佐原の考えている事がわからなくて、疑心暗鬼になってしまう。どうして自分なんかの誕生日を祝おうとしてくれているのか――。
 抱いてしまいそうになる甘い期待を千切り捨て、その裏を考える。悪い人ではない事はわかっていても、だからと言って佐原の言葉をそのまま信用できるわけではない。
 信用して裏切られるのならば初めから信用しない方が傷口はずっと浅いはずだ。
 歩は自分の意気地なさを自嘲する。
 不安で心配で、しかし自分で何か行動を起こす事は出来ない。
 メールや電話で佐原の真意を訊ねるなり、約束を断る事だって出来るはずだ。
 叶わない恋だとわかっているのだから、これ以上佐原を好きになってしまいたくないのだから、もう自分に関わらないでくれと言う事は簡単ははずだ。
 それはつまりのところ、店に来るなと言っているのにも等しい。けれど所詮、歩だってバイトに過ぎない。店の人たちを裏切ってしまう事にはなるが、佐原一人の売上で店が傾くわけでもない。居辛くなって辞めたとしても歩の代わりはいくらでもいるし、歩だって探せば他のバイトはいくらでもあるのだ。
 それをしないのはなぜか。
 歩の中では、明白だった。
 店長がそう望むから。大事な常連である佐原を傷つけるわけにはいかないから。そうやって他人のせいにして、結局のところは自分が傷つきたくないだけなのだ、と。
 至極単純な理由。
 面倒事を避けて、世間体ばかりを気にして、自分を守る。自分の事だけを守る。
 そんな自分が、大嫌いだった。
 生物として出来損ないなだけではなく、人間性も最低なんだと、誰かと関わる度に思い知ってしまう。
 そして歩の心に芽生えるのは、周囲の人間への嫉妬だ。
 楽しそうに当たり前のように普通の人生を過ごせると言う事が、羨ましくて恨めしい。
 腹の内にどす黒い感情が渦巻いてしまう。
 そうなってしまったのは、きっと歩だけの責任ではなくて――自分だけの責任ではないからこその嫉妬だった。
 歩は食べおわったゴミをレジ袋にひとまとめにし、その持ち手を固く結ぶ。次のゴミの日には絶対にゴミを出さないといけない、と部屋の片隅に溜まっている同じようなゴミの詰まった白いビニールの群れを横目で窺いながら、布団へと向かう。
 毛布と布団をセッティングし、素早くその中へ潜り込んだ。
 入ってすぐはとても冷たくて、けれど数分我慢すればあっという間に暖かくなる。
 嫌なことを忘れるには、寝る事が一番だ。
 窓の外では強い風が吹き荒れていて、窓ガラスが音を立てて揺れた。