闇夜の憂鬱 第五話



 バイト時間中、歩が時計を気にしてしまうようになったのは、間違いなく佐原のせいだ。
 毎日毎日、寸分の狂いもなく同時刻にやってくる。本日も例外ではない。
「やあ」
 飽きもせずに毎日甘いコーヒーを買っていく。
 歩は差し出された缶コーヒーのバーコードを慣れた手付きで読み取る。佐原が毎日同じものを買っていくので、この缶コーヒーの発注数は僅かながらに増えた。限定もののスナック菓子が出ればそれも必ず買っていくので、売り切れそうになっている時は佐原の分を取って置くことだってある。
 佐原の相手をするために歩の仕事時間は多少奪われてしまうが、売上への貢献と、近隣住民へのサービスを重視するこの店の方針を考えれば、佐原は上顧客だった。
「昨日、ぐっすり眠れました」
 代金を受け取りながら、歩はレジカウンター越しの佐原を仰ぎ見る。
 佐原は唐突に告げられた歩の言葉に、一体何の話かと視線を彷徨わせたが、すぐに合点がいったようで、目を細めて歩の見慣れた笑顔を浮かべた。
「喜んでもらえて何よりだよ」
 出会って最初の頃にあった佐原への不審感は、今では全くなくなってしまっていた。
 そしていつもと同じように、レジ袋を断った佐原は片手に会計を終えた缶コーヒーを弄びながら、雑談を開始する。
 もうずっと、それが当たり前の日常だった。佐原と過ごす時間は歩にとって必要不可欠な日常で、心癒される僅かな時間だった。



「ただいま」
 誰もいないがらんどうの空間に声をかける。
 自分だけの家。一人だけのスペース。孤独の場所。
 二十四時間明るい照明のついたバイト先や、学校の喧騒に比べるとどうしても暗い。特に夜は。
 ずっと一人きりを望んでいた。だから、それを手に入れられて幸せだった。誰にも邪魔される事のない解放感。他人の目なんてものは欠片もない自分の場所。
 けれど、それも最近物足りなさを感じるようになっていた。
 一人が嫌なわけじゃない。何も知らない他人に囲まれるくらいなら、一人でもいいと思っている。
 でも、だけど――。
 持ち帰ったコンビニの弁当を食べ終えた歩は、押入れから布団を取り出す。下から順番に敷き布団、毛布、掛け布団で積んでいるものを畳敷きの部屋の上に引っ張りだし、寝る準備を整える。
 帰ってきてから暖房もつけていない部屋の中は冷えきっていて、歩の吐息は白く目視できた。
 佐原から貰った毛布。あれからあっと言う間に時間が経ち、もう一ヶ月も前の事になってしまっていた。その間に気温は随分と下がり、もうジャケットなしでは外に出られない程だ。
 さっと服を部屋着に着替えた歩は布団に入り込み、部屋の電気を消す。
 そして、温もりを求めるかのように毛布に顔を埋めた。そうして思い切り息を吸い込むと、佐原の匂いがした。心の奥をくすぐられるような、どこか甘く何故か懐かしい匂い。切なさが身体を駆け巡る。
 メールアドレスを交換してからというもの、歩は佐原とずっとメール交換をしている。とは言っても、毎朝佐原から送られる「おはよう」のメールに歩も「おはようございます」と返すだけだ。
 その後は佐原に時間の余裕があれば他愛もない雑談に発展する事もある。けれど最近は佐原の仕事も随分と忙しいようで、ここ最近はメールの数が少ない。夜にコンビニに現れる佐原の顔にも疲れの色が読み取れた。
 しかし、佐原の態度はいつもと変わらない。声の調子も元気なものだった。
 疲れているのはわかっているのだから、ねぎらいの言葉の一つでも、とは歩自身思うのだが、その一言が出なかった。
 そこに触れてはいけない気がしたから、だ。
 昔から、歩はそうなのだ。人に傷つけられたくない。人を傷つけたくない。不快な思いをさせたくない。不快な思いをしたくない。
 だから人の顔色を読みすぎて、勝手な裏読みを繰り返し――何も発言出来なくなる。
 他人を思いやるあまり、他人が離れてしまう。
 そして、今回も歩は佐原の事を思うあまり、何も話せなくなってしまっていた。
 仕事で無理をしていないのかはとても心配だ。
 しかし、いくら心配して声をかけたところで、学生の歩なんかに、と佐原が怒ってしまわないかが不安だった。
 佐原がそんな性格でない事はよく知っている。
 知っている。
 知っていても、一抹の不安が消え去る事はない。佐原に嫌われたくないのだから。
 歩はもう一度、大きく息を吸い込む。
 胸を満たす、佐原の匂い。
 ぞくりと背筋が震える。
 身体の奥から沸き起こるものは、紛れも無い肉欲だった。
――自分が嫌になる。
 望みのない行為。決して叶う事のない願望。
 それを自覚したのはいつだっただろうか。
 歩の中心部では、欲望が期待の熱を持ち始めていた。
「んっ……」
 瞼を閉じ、自身の熱に手を伸ばす。
 ウエストがゴムになっている部屋着と下着には、腕を簡単に滑りこませる事が出来た。
 自身を握りしめ、手のひらに擦り付ける。
 脳裏に浮かぶのは佐原に指だった。お釣りや商品を渡す時に、何度か触れた事のある、細く長い指。
 毛布に染み付いた佐原の匂いを嗅ぎながら、佐原の指を想像する。
 自身のペニスを撫で、太ももを掠り、その奥へと向かう指。
 こんな事は佐原を汚してしまうようで、嫌だった。けれど、一旦火がついてしまった欲望は止める事が出来ないのだ。
 歩は自身の指を唾液で濡らし、太ももの付け根に差し入れる。
 誰かにそこを触られたいと、ずっと思っていた。しかし、そこを自分で触るようになったのはつい最近の事だ。
 わざと人から距離をとってきた歩に、はじめて出来た具体的な想い人。
 一緒にいたい。側にいたい。触れ合いたい。抱き合いたい。――佐原。
「うっ……ん、……」
 自身の指が入ってくる異物感。声が出てしまわないように気をつけながら、ゆっくりと息を吐き出して受け入れていく。
 脳内で佐原の指に置き換え、それを味わう。
 あり得ない事だ、と理性が訴える。けれど本能はその声を抑えこみ、歩の身体を支配する。
 指になれた体内をぐるりとかき回すと、どうしようもならない快楽が背筋を這った。
 一番善い場所がもう一度抉って欲しいと疼く。
 歩はその疼きを抑えるかのように、欲望の赴くままそこを擦る。
「ひっ……」
 思わず大きな声が出そうになってしまう。それを息を飲み込んで耐え、自身を責め立てる。
 普段、こういった自慰行為を意識的に行わないようにしている歩だったが、一度火がついてしまえばもう抑える事はできなかった。いくら自分を否定したところで、身体は本能のままに快楽を求めゆく。
「さ、はらさ…ん……」
 自身のペニスを擦りながら体内をかき混ぜ、想い人の名を呼ぶ。
 報われないと知っていながら、胸に去来する切なさを知りながら、佐原を求める。
 ペニスの先端からとめどなく溢れ出る蜜は、さながら涙のように竿を伝い歩の手と茂みを濡らした。
 歩は浅い呼吸を繰り返し、内壁を抉る。それが佐原の手だと思い込む事で、快楽は今まで味わった事にない程に増幅する。
「んっあ……ひぅ……」
 いつの間にか歩の腰は後孔に挿し入れた指に快楽の場所を押し付けるように揺れていた。
 自身の指をより深く飲み込もうと内壁をうねらせ、ペニスを触る手は先端を責めあげる。
 敏感な場所ばかりへの刺激を、歩はもう自分の意思を持ってしても止める事は出来なかった。
 頭の中が白く、霞がかったように思考も出来なくなる。そしてその奥には見慣れた佐原の笑顔が浮かぶ。
 あの笑顔に抱かれたい――。
「あっ……」
 そんな想いを抱えながら、歩は自身の手に白濁の液体を吐き出した。
 どろり、と液体が手の中へ広がり、立ち込めるのは独特の臭い。快楽の余韻に身体を二、三度震わせた。
 毛布を汚してしまわないようにと気をつけながら布団を出て、枕元のティッシュに羞恥の液体を吸い取らせる。自己処理をしていて、一番虚しいと感じる瞬間だ。
 粗方の精液を拭った歩は気怠い身体に鞭を打ち、キッチンの水道の蛇口を捻り、唾液と精液で汚れた手を洗った。下腹も精液がかかってしまった部分があったが、既に乾燥してしまっていたので明日の朝に風呂に入る事にして、歩は布団へと戻る。
 再び、佐原の匂いに包まれる。
 自慰行為をしてしまった後では、その佐原の匂いにさえ後ろめたい気分だ。
 駄目なんだ、と。報われない想いを抱えたところで、傷つく事は目に見えているのだ、といくら想いを振り切ろうとしたところで、切なさが増すだけだった。
 目頭が熱くなっている気がして、歩は瞼を閉じた。
 もう、寝なければいけない。
 いくら悩んだところで、陽はまた昇る。陽が昇ってしまえば、また忙しい一日が待っているのだ。
 泣いている暇も傷ついている暇もない。誰かを想う余裕もない。それが片思いなら尚更だ。
 今日生きていく事が精一杯なのだ。
 歩は頭の中で子守唄代わりに一から順に数字を数えて、強引に眠りについた。



 歩が目を覚ますと、携帯電話は既に佐原からのメールを受信していた。
 カーテンの隙間から漏れる眩しい朝陽を感じながら、枕元の携帯電話をとった。布団から露出した手先や頬がやけに冷たい。
 以前までは時計代わりにしか使われていなかった携帯電話だが、ここにきて少しだけ変わってきていた。いや、本来そうであるべきはずの役割に戻ったと言うべきか。
 歩が朝起きて一番にする事は時間の確認ではなく、メールのチェックになった。土日は少し遅めの時間だが、平日は決まって早い時間に「おはよう」のメールが入る。そのメールを確認して歩の一日が始まるのだ。
 昨日、あんな事をしてしまったので多少の後ろめたさがあったものの、歩は手早くメールを返して携帯電話を枕元に戻し、再び布団に潜り込んだ。自らの体温で温まった柔らかな毛布が冷えてしまった頬にじんわりと熱を与える。
 今日は講義がないので大学に行く必要はない。バイトも夕方からで、久しぶりにのんびり出来る日だ。
 朝は強い方なので二度寝の欲求はない。けれど、この暖かい毛布の中は極上な幸せの空間だった。
 と、携帯電話が再び鳴った。
 聞き覚えのある着信音。その音を聞くと胸が高鳴る。
 数年間携帯電話を持っていて、歩がはじめて設定した送信者毎にメールの着信音設定する機能だ。ちなみにその着信音はプリインストールの中から選んだクラシック曲だ。
 歩は携帯電話を毛布の中に引きずり込んで開く。光のなかった空間に目に刺さるような眩しさの青白い光が溢れる。
『いつも早起きさんだね(*´▽`*)今日は学校とバイト?僕はいつも通り仕事だよー。最近忙しくてしんどいけど、週末の休みまで頑張る!』
 その文面を見て、歩の脳裏にはそう言って微笑む佐原の姿が浮かんだ。とても微笑ましく、思わず笑みのようなものが零れた。
 好きになってはいけないのだとわかっていても、佐原から離れる事は出来なかった。自分に執着してくれている佐原が、傷ついてしまってはいけないからだ。
 そうやって誰か他人のせいにして、勝手な理由をつけて甘んじる。昔からの悪い癖だとはわかっている。けれど、今だけはこのままでいたかった。
 佐原がなぜ自分に執着するのか――。もしかして、と言う気持ちもないではない。けれど、不用意な期待は傷口を大きく広げるだけだ。
 きっと物珍しいから、引っ越してきたばかりで友達がいないから、ただの話相手として自分が選ばれているだけなのだ。そうやって期待したい気持ちは奥にしまいこんでしまう。
『今日は夕方からのバイトだけです。あまり無理しないでくださいね。お仕事頑張ってください。』
 はじめに比べればメールを作成する速度はとてもあがった。
 送信ボタンを押し、一息をつく。自分からは言い出し辛い気遣いの言葉も、向こうから申告される事で随分ハードルは下がるのだと、歩は今更ながらに気付いた。
 自分なんかに気を遣われて迷惑ではないのか、重く受け止められたり、馴れ馴れしいと感じられる事はないのだろうか、と内心の不安もあったけれど――その不安はすぐに解消された。
 鳴り響く着信音。
 折り返しのメールはとても速く、歩がメールを送信してから二分も経っていない。
『ありがとう((o(´∀`)o)) 僕は大丈夫!毎日歩くんに癒やされてるからねー(笑) 歩くんの顔を見る度に元気が充填されていくみたいだよ!』
 相変わらず、佐原から言われる言葉は歩の心をこそばゆくする。嬉しいようで照れくさいような、そう純粋に受け止めたい気持ちと、どこまでが本当でどこからがリップサービスなのかと疑いたくなるような、ごちゃごちゃと入り乱れる感情が渦巻くのだ。
 それでも歩はメールを続ける。
 大事な常連さんだから。
 いい人だから。
 好きだから。
 決して気付かれてはいけない気持ち。先の事なんて何も考えていない。でも、少しくらいなら。ほんの少しだけ、今だけは――。


 歩が気が付くと、時刻は昼間際になってしまっていた。毛布に潜ったまま、片手に携帯電話を握りしめている。
 メールの文面を考えているうちに、毛布の暖かさに負けて眠ってしまっていたようだ。
 毛布から顔を出すと、太陽に照らされて上昇した外気温に合わせて、室内の温度も随分と上がっている事がわかった。この築年数の古いアパートでは、室内の環境は外の天候に大きく左右されるのだ。
 歩は作成中になっていたメール画面を携帯電話ごと閉じ、一気に上体を起こす。上体が冷たい空気に晒されるだけでなく、折角温もっていた足元の方の毛布の中の空気も逃げ、入れ替わりに冷えた空気が入り込んでくる。
 普段、二度寝をしないからか、朝起きるのとは少し違って頭が少しぼんやりとしていた。
 手近にあったパーカーを羽織、布団から這い出す。そこまで気温は低くないはずなのに、毛布の中と差がありすぎたためか、歩は寒さにぶるりと身を震わせた。
 もう一度入りたくなってしまう。そして入ってしまえばもう二度と出られなくなってしまうような幸せな空間。歩はそこに入ってしまわないように布団を片付け、炊事場に向かった。
 シンクに伏せてあったグラスをさっとすすいで、そこに水道水を汲み、それを乾いた喉へと流し込んだ。
 ごくり、とほんの少しのカルキの臭い。家にいる時の歩の飲み物はもっぱら水道水だ。冬場はそのまま、夏場は空のペットボトルに入れて冷蔵庫で冷やして飲む。
 ふう、と濡れた口元を手の甲で拭った歩は、グラスをすすいでまた元あった場所に戻し、部屋のカーテンを開けた。
 ガラス越しの冬場の太陽は、随分と柔らかい陽光を放っている。歩はそれが好きだった。
 冬の淋しげな景色は嫌いな癖に、と歩はその矛盾に自嘲のような溜息を漏らす。
 夜が嫌いで、冬の景色は嫌い。でも冬の太陽は好きで、夏の太陽は嫌い。
 随分と我儘なものだ、と。
 そんな我儘を言える程に偉くもないのに、と。
 高校生の時だっただろうか。担任の教師に「君の自己評価は低すぎるんじゃないかな」と言われた事がある。
 けれど歩はそんな事は指摘されるまでもなく知っていた。
 生物として間違っているのだ。
 何のために生まれてくるのか――。
 それは人間にとって史上最大の主題だ。けれど、それでどんな理由をつけようとも、結局の所は繁殖するために他ならない。
 他の様々な昆虫や爬虫類や、そこらにいる猫と変わらない、ただの動物なのだ。
 しかし繁殖するための行為が出来ない歩は、生物としての出来損ないだ。周りの反応はどうあれ、歩の主観はそうだ。なのだから、自己評価なんて高くなるはずがない。
 人と同じように幸せを望む事は贅沢だ。だからせめて、人の迷惑にならないよう、誰も傷つけないよう、ひっそりと生きていこう、と。そう決めたわけではなかったが、自然とそうなってしまっていたのだった。