闇夜の憂鬱 第四話



 歩からレシートを受け取った佐原は「あ」と思い出したように言葉をはじめた。
「今日、毛布渡すんだけど、向こうの大通り沿いにある大きな公園ってわかる?でっかい亀の滑り台あるところ」
 適当な身振りをくわえながらの場所の説明。歩はすぐに合点がいった。
「わかります。隣に郵便局があるところですよね?」
 歩は脳内で地図を広げながら、場所を思い出す。
 このコンビニを軸に、歩の自宅とは丁度反対方向に位置する公園だ。ここからなら歩いて十分かからないだろう。
「じゃあ、今日も二十二時まで?バイト終わったらそこ来てくれる?」
 佐原の言葉に歩が頷くと、佐原は「じゃあ、また後で」と言い残し、店を後にした。
 いつもより喋っている時間が短かったのは、この後また会える事がわかっているからだろう。
 歩は自動ドアの向こうに佐原の背が見えなくなるまで見送り続けた。


 人気のない夜の公園。
 見上げた空には真ん丸の月が一つ、ぽっかりと何もない暗闇に浮かんでいる。
 二十二時きっかりでバイトを終えた歩は、その足で佐原と待ち合わせをした公園に来ていた。
 この辺りでは『亀公園』と呼ばれていて、正式名称の方では通じない程に通称が浸透してしまっている。
 亀公園の由来、それはその公園のど真ん中に、亀を模した大きな滑り台が設置されているからだ。
 亀を横から見、甲羅を山型にして尻尾の方に階段があり、甲羅の頭頂部まで登れるようになっているのだ。そして頭の方へ向かって滑り落ちる。
 この辺りの児童は必ず一度は遊んだ事があるし、つい最近引っ越してきた歩でさえ知っている名物スポットのようなものなのだ。
 昼間は必ず誰かいて楽しそうな声を響かせている分、夜の誰もいない公園は一層寂しく思えた。
 歩はきょろきょろと辺りを見回し、佐原の姿を探す。しかし姿は見えず、仕方なく近くのブランコに腰をおろした。亀の滑り台を横から眺める事が出来る位置だ。
 不意に強い風が吹く。それにあおられて、歩の隣の誰ものっていないブランコがきぃきぃと錆びた音をあげた。歩は乱れてしまった髪を手櫛で軽く整える。
「お待たせ」
 背後から聞こえた声に反応して歩が振り返るのと、整えたばかりの髪をくしゃりと暖かい手で包まれるのは同時だった。
「……こんばんは」
 びっくりして手で振り払おうとしたが、それでは佐原の手に触れてしまう事に気付いて、その寸前でやめた。
「びっくりした?今日も寒いねー」
 佐原の笑顔はいつだって変わらない。片手には大きな紙袋を携え、空いた方の手は柔らかな歩の髪の毛先を弄んでいる。
「……ですね、寒いです」
 まだ驚きの方が勝っていてまともな返事を考える事が出来なかった。
 レジで接客をしている時に客と手が触れ合う事はあっても、頭を触れるなんて事はまずない。誰かに髪を触られるなんて言う事は、幼い時以来ではないかと緊張に固まった歩がぼんやりと考える。
 すぐそばにある佐原の手。佐原の匂いだってわかってしまいそうな程の距離で、とても暖かい。
 佐原と目が合ってしまう事が怖くて、歩は視線を足元に落とした。
「あぁ、ごめん。勝手に触っちゃって……。綺麗な髪だったから、つい」
 歩の様子に気付いたのか、佐原は申し訳なさそうな声を出し、名残惜しげにゆっくりと手を引っ込める。
「いえ、……別に、構いません」
 視線は床に落としたまま、しかし佐原に返した言葉は本音だ。佐原に髪を触られる事は不快ではなかった。
「……そう?」
 佐原は、もう一度歩の髪に手を伸ばそうとしたが、それを途中でやめ、歩の正面にまわって足元に紙袋を置く。
「これ、言ってたやつ」
 歩に中が見えるように紙袋を大きく開くと、毛足が長めのふわふわの白い毛布が見える。
「わっ……有難う御座います……!」
 見るからに上質で暖かそうな毛布。思わず漏れたのは歓声のようなものだ。歩が佐原を仰ぐと、その優しげな瞳と視線がぶつかった。
「出してみてもいいですか?」
 歩の問いかけに、佐原はこくりと頷いた。
 歩は紙袋を受け取り、毛布を取り出す。分厚い二重の作りになった保温性に優れた毛布だ。肌触りの良いその毛布に顔を埋めてみると、微かに佐原の匂いがする気がした。
「……喜んでもらえてるようで、何よりだよ」
 毛布に顔を埋め、心なしか微笑みさえ浮かべているようにも見える歩に、佐原はにこりと笑む。
「本当に有難う御座います……!」
 歩はようやく毛布から顔を起こし、ぺこりと頭を下げながらもう一度礼の言葉を述べる。
「他にも何か困った事があるなら何でも言ってね。俺に出来る事なんて限られてるとは思うけど、出来るだけ力になれるように協力するから」
 佐原は歩と視線の高さを合わせるように腰を屈める。
 一点の曇りもない澄んだ綺麗な瞳。純粋で真面目な瞳。それがじっと、歩を見詰める。
「……有難う御座います」
 思わずたじろぎそうになってしまいそうな程の視線だ。その視線の意味――佐原の瞳の向こう側が読めず、歩は戸惑いながらもそう答えた。
 それに満足したのか、佐原は歩から視線を外しぐっと伸びをする。
「それ結構大きくて嵩張るけど、家まで持って帰れる?なんなら車出そうか?」
 言われて歩は腕の中の毛布を見る。
 確かに嵩張って、紙袋にいれてぶら下げれば歩の足首くらいまで届いてしまうだろう。しかし、重量はない。ほんの十数分歩くくらいであればなんら問題はない。
「いえ、これくらいなら大丈夫です。お気持ちだけ、いただいておきます」
 歩はふるふると首を振り、佐原の申し出を断った。
「そうー?……送ってあげたかったんだけどなぁ」
 心底残念そうに、佐原は眉根を寄せる。笑顔ははりつかせたままなので、泣き笑いのような表情だ。
 そんな佐原を無視し、歩は紙袋に毛布を詰め直して立ち上がる。佐原が持ってきた時のように綺麗には詰まらず、少し紙袋が歪んでしまった。
「もう帰っちゃう?」
 言いながら、佐原は歩の隣に並ぶ。レジカウンター越しではあまり意識した事がないが、佐原は歩よりも十センチ程身長が高い、高身長の部類となる。
「ええ、明日は朝から学校なんです」
 そう言うと、佐原は納得したように何度か頷いた。会うのはもっぱら歩のバイト先のコンビニで、ふとすれば学生である事は忘れられがちだが、今までの会話の中で何度か学生である事は伝えている。
 二人は公園の出口に向かって歩き始めた。歩みを進める度、公園特有の砂砂利が音をたてた。
「学校、楽しい?」
 佐原はなんとなしに歩にたずねる。意味なんてない。無言の空間をなくすためだけのものだ。
「…………普通です」
 楽しいか楽しくないかで訊かれれば、圧倒的に楽しくない方が勝ってしまう。喋る相手もおらず、ただ授業を受けにいくだけの毎日。それが学生の本文だと言われてしまえばそれまでだ。
 しかし、それが異常だと言う事は十分に自覚している。自ら人から離れていながら、周りと馴染みたいと思う。矛盾した感情が歩に渦巻いていた。
 それに、勉強自体は楽しい。
 決して好きなわけじゃないけれど。
 楽しくないと楽しいが合わさって、普通。
「……そう」
 佐原は歩の表情を探るような目を見せながら、ただ頷いた。
 一見すれば歩なんかに興味はない、と言うような。
 それでいて全てを見越しているかのような。
 二人はそう広くない公園の出口に辿り着いた。亀公園の出口からは、道路が東と西に分かれている。二人は互いに自分の家の方向を指でさす。見事な逆方向を示した。
「あら、じゃあここでお別れになるね」
 佐原はくるりと身体を半転させ、歩に向き直る。
「ええ、おやすみなさい」
 歩も佐原の方へ身体を向けると、会釈をした。
「おやすみ。毛布、使ってね」
 ばいばい、と顔の横で手を振る佐原に、歩も会釈を繰り返して応え、そして背を向ける。
 歩が歩き始めてからしばらくすると、背後でも遠ざかっていく足音が聞こえた。

 家に帰った歩は、早速貰ってきたばかりの毛布を部屋に広げた。
 未使用だと言っていたが、微かに佐原の香りがするのは開封して保存していたせいだろう。
 敷き布団を敷き、掛け布団を重ねてその上に毛布をかける。手早く部屋着に着替えた歩は、敷き布団と掛け布団との間に身を滑りこませた。
 最初こそひんやりとした綿の感覚があるものの、徐々に布団の中が温まってくると、昨夜とは段違いに暖かかった。
――これなら、朝までぐっすり眠れそうだ。
 人から施しを受けるのはなかなかに抵抗があるものだ。けれど、それが佐原からならまだずっとマシだ。
 人の優しさに触れるのはいつぶりだろうか。それも、家族以外の。
 自分の事を気にかけてくれる人がいる。何故佐原が赤の他人の自分にこんな気をかけてくれるのかは、さっぱりわからなかったけれど、随分と心強いものだ――。
 そんな事を考えながら、歩はうつらうつらと夢の狭間に意識を落としていった。
 夢の中に、佐原が出てきたような気がした。

 翌朝、歩はいつも通りの時間に目を覚ました。いつもは寒さに震えて目を覚ましていたのに、今朝は驚く程に身体が温まっている。布団から身を出す事に抵抗も感じないくらいだ。
 基本的に目覚めの良い方だが、それでも今朝はいつもに比べてすっきりと起きる事ができた歩の機嫌はすこぶる良い。佐原と出会えて良かったと、心から思う。
 物を貰って評価を上げるとは、歩は自分自身がこんなにも現金な奴だとは露ほども知らなかった。
 羽毛布団程ではないのだろうが、十分に暖かい。まだ冬に入りたての今くらいの気温ならこれで不自由する事はないだろう。
 名残惜しげに温まった布団から出た歩は出かける準備をはじめる。
 大して行きたいとも思わない学校でも、親に学費を払って貰っているからには行かなければならない。それがせめてもの歩の親孝行だった。
 風呂に入って着替えを済ませた歩はメッセンジャーバッグを取り出し、中身を確認して必要なものが入っているかチェックする。友達のいない歩には、忘れ物をすると言う事は致命傷になりかねないのだ。
 忘れ物がない事を確認した歩は、そこに財布と携帯電話を放り込んで肩からぶら下げる。そして自宅の鍵を持ち「いってきます」と誰もいない部屋に声をかけて出発した。
 もう随分と歩き慣れた道を通り、最寄りのバス停から学校までのバスに乗る――。



 常日頃からずっとマナーモードで、着信してもバイブはならないようにしてある。理由は至極明快なもので、歩の携帯電話に入ってくるメールはメルマガや迷惑メールだけだったからだ。
 それでもずっと携帯電話を持ち歩いているのは、時計代わりに使っているからに他ならない。腕時計を買う程頻繁に時間を見るわけでもないし、学校内やバイト先では至る所に時計が設置してあるののだから、歩にはそれで十分だった。
 だから歩はその日、講義の途切れた夕方にようやく鞄の中から携帯電話を取り出した。未読メールを知らせるランプは点滅しているが、歩がそれを気にする様子はない。重要なメールではない事がわかっているからだ。
 歩はメールボックスを開き、未読のメールを開封していく。鬱陶しいランプの点滅を消すためだ。
 届いたメールの内容を確認する事もなく、ただぼんやりと携帯電話を眺めながらする作業。
 が、歩の動きが止まる。
――佐原?
 メルマガとメルマガに挟まれて、うっかり見逃してしまいそうになったが、昼前頃に佐原からのメールが届いていた。
『おはよう。 今日も一日頑張ってね!』
 脳裏に浮かぶのは佐原の柔らかな笑み。少しだけ、心の内側が暖かくなるような感覚。
 受信してからもう随分と時間が経ってしまっている。歩はメールを返すか返さないかしばし迷って――メールを返す事にした。
『こんにちは。頑張りました。』
 返信の内容としてそれはどうかと疑問に思う点もあったが、他に何か思い付くわけでもなく、歩は送信ボタンを押した。
 平日の真っ昼間。佐原の事をそこまでよく知っている歩ではないが、普通の会社員である佐原は就業時間内のはずであろうと予測する事はできた。だから、返信がすぐに来る事はないだろう、と携帯電話を鞄にしまいかけたその時――。
 携帯電話の上部に取り付けられた通知ランプが点灯した。マナーモードでバイブすら鳴らない携帯電話でも、メールを受信すればランプが光るのだ。
 歩はしまいかけた携帯電話を開き、メールを確認する。
『良かった(*´▽`*) 僕も頑張ってるよ!あと半日頑張る~! 毛布は使ってくれた?』
 歩の予想通り佐原からのメールだった。相変わらずレスポンスのはやい男だと、歩はふっと笑みを漏らす。
 そしてカチカチと携帯電話を操作し、メールを作成する。こんな風に何かを尋ねられるメールばかりなら返信文も作りやすいのに、とぼんやりと思った。
『毛布暖かかったです。有難う御座いました。』
 メールを打つ度、自分の語彙の少なさや愛想のなさ、人とコミュニケーションを図る能力のなさを痛感させられる。今までだってわかってはいたけれど、人と関わらなかったのでそれが悩みの種になる事はなかった。
 だから今まで、それを改善したいと思う事はなかった。
 けれど、今は違う。もう少しだけでも自分に人と関わる事の出来る能力があれば、と。そう思う事も増えてきていた。
 それは歩自身が気付かない程の僅かな変化。些細すぎて、変化と言うには小さすぎるようにも思えてしまう程だ。
 なぜなら、思った所で改善する事が出来ないからだ。
 改善する手立てを知らない。もしも知っていたら、とっくの昔に実行している事だろう。
 歩は今度こそ携帯電話をしまい、学校を後にする。少し早いがバイト先へ向かうためだ。
 正門から続く坂道を少し下った先にあるバス停に向かう。
 このバス停から出るバスは、揺られて五分程のバスターミナル行きだ。つまり、歩が自宅やバイト先に行くには乗り換えを要すると言うことだ。バスターミナルへは歩いても十五分かかるか、といった距離にあるので、バスが混んでいる時は歩いて向かうと言う選択肢もある。
 坂道の多いこの近辺では、自転車よりも徒歩やバスの方が有力な交通手段となる。それに、区間は定められているが、同じ会社の運営するバスなら定期で乗り放題だ。
 歩がバス停に着いて数分程で、緑と白で塗装されたバスが車体を揺らしながら到着した。
 乗客は何人かいたけれど、車内は閑散としていた。
 歩が車内の後ろの方の座席の窓側に座ると、バスは大きなエンジン音を立てて出発した。
 窓から眺める景色が後ろへ流れていく。
 歩は冬の景色があまり好きではなかった。木々は葉を落としてしまい、淋しげに素肌を露出させているものが多く、弱い日差しと冷えた空気は風景の寂しさを増幅させる。
 それなのに、街中には手を取り合って楽しげに歩く家族連れや、恋人同士が目立つ。
 自分が本当にひとりぼっちになってしまったかのような錯覚。
 錯覚――。
 それが錯覚でなくて事実な事はわかっていても、いざ突き付けられてしまうと、逃げ出したくなってしまう。
 自業自得だとは思う。
 テレビの中の同性愛者の芸能人たちは皆楽しそうで、朗らかで、一人ではない。それを見る度、あの人たちみたいに生きる方法もあったのだと、切なさが心を占拠する。
 ああいう風になりたいとは思わないけれど。
 けれど、もっと自由に生きる事が出来たんだと、足元がぐらつくような気がした。
 後悔したところで、どうにもならない事は知っている。
 知っていたところで、後悔をなくすことが出来ない事も、知っている。
 胸に去来する寂しさを抱えながら、歩は窓の外を眺め続けた。