闇夜の憂鬱 第三話



 歩がメールを送信してから僅か3分足らずで、携帯電話がメールの受信を告げるメロディを鳴らした。根強いファンも多い二つ折りの携帯電話、けれど歩の使っている機種は、そんなレベルの話ではなくずっと昔のものだ。その携帯電話を開き、受信したメールを確認する。
 歩のメールボックスは、九割以上をメルマガが占めている。親族以外からのメールを受信する事は初めてだと言っても差し支えない。
『待ってたよー。 歩くんとメールできるって夢みたいで嬉しい(((((ノ´3`)ノ』
 歩にはそう喋る佐原の顔が想像出来るようだった。
 佐原の表情筋は歩と違って随分と発達していて、その瞬間瞬間で豊かな色を見せるのだ。それを見ている歩に、見ていて飽きないと思わせる程の変化。部位毎の変化は微細でも、その組み合わせで様々な数の表情を生み出す事が出来るのだ。
 心の内を全てひけらかしたような表情と、身振り手振りを混じえながらの巧みな話術。初めこそ佐原の相手は面倒だと思っていたが、今では佐原と話を聞く事が少しだけ楽しみになっていた。
 けれど、会話となると話は違ってくる。歩は基本的に誰かとコミュニケーションを取る事は苦手なのだ。それは対面であろうとメールであろうと変わらない――いや、顔の見えないメールの方がやり辛い。
 歩は佐原への返信に迷いながら布団を敷いて横になり、文面を考える。
 歩の聞きたい事は毛布の受け渡しについてだ。けれど、それをそのまま切り出してもいいものなのか。佐原からのメールに対して何かしらのリアクションはとったほうがいいのだろうかと、対人スキルの低い歩はすっかり躓いてしまっていた。
 堂々巡り。いくら考えたところで、こればかりは解決するはずもない。同じ事ばかりを考えているうちに携帯電話を握ったままの歩の瞼は今にも落ちそうになっていた。
 しかし、それを覚醒させる着信メロディーが目の前の携帯電話から鳴り響く。購入した時から変更していないデフォルト設定のままだ。
『ごめん。冗談だよm(__)m 怒ってる?』
 案の定佐原からのメールだった。
 文面を読み、歩は首を傾げる。何故怒っているのか問われているのかが理解出来ていなかったのだ。
 ふと、時計を見遣る。前回のメールの受信から既に一時間が経とうとしている。歩の返信が遅くなってしまっているのは、怒っているからだと佐原が思ってしまっているのか。それにしたって怒る要素がないのだから、何故そんな事に――。
 と、歩は前回の佐原からのメールを見返したところで気付いた。
『(((((ノ´3`)ノ』
 含まれているのは、キスを示す顔文字。
 二通目のメールで佐原が謝っているのはこれに対してだろうと、歩はようやく解読する事が出来たのだった。
『怒ってないです。大丈夫です。』
 初めてのメールに引き続き、二通目のメールも素っ気ない。佐原の文面と比べれば尚更に引き立ってしまう。もっと愛想のある文章をと思ったのだが、佐原が歩を怒らせてしまったかどうかを気にしているのなら、早くそうではない事を知らせないと、と文面を練るよりもスピードを優先させた。とは言えど歩の返信は、佐原の二通目のメールよりも更に二十分が経過していた。PCメールならともかく、携帯電話上のメールとしては早い方ではない。
『良かった(*´▽`*) 歩くんに嫌われちゃったらどうしようかと思ったよ』
 佐原からの返信スピードは相変わらず早い。そこらの女子高生にも負けないくらいだ。
 休む間もなく訪れた佐原からのレスポンスに歩は
「……またかよ……」
 と、珍しく溜息混じりの独り言をもらす。
 店で対面で話をする分には曖昧な相槌でも、佐原が勝手に話を進めてくれていた。佐原のペースで進んでいく話は決して不快ではなく、聞いているだけで楽しいものだった。けれどメールではそうはいかない。
 対面とは違って、互いの言葉を確実にキャッチボールさせなければ何も成立しないのだ。
 言わずとも知れたメールの特性。けれど歩はあまり理解出来ていなかったようだ。
 歩はまた迷いながらメールの文面を考える。その作業はあまりにも苦痛で、佐原が悪いのではないとはわかっていても、もらったメールの通り佐原を嫌いになってしまいそうだった。
 襲い来る眠気に耐えながら、歩が三十分以上かけて考えた返信は
『嫌いじゃないです。俺、メール苦手なんで、たくさんメール出来ないと思います。』
 だった。
 その後携帯電話がメールの着信音を鳴らしていたような気もするが、もう歩には眠気に抗えるような体力は残っていなかった。

 翌朝、歩が目を覚ますと同時にメールの着信音が鳴った。
 まだ現実に戻りきれていない瞼を擦りながら、携帯電話を開く。開いたカーテンの隙間からは朝陽が漏れている。
『おはよう((o(´∀`)o)) メール苦手なんだ? 無理に返さなくてもいいから! 僕はこれから仕事だよー。 今日もまた帰りにコンビニ寄るね★ 今日はシフト入ってる日?』
 そのメールで歩の脳裏には昨夜の出来事が鮮明に思い出された。
 正直なところ、面倒だと言う感情が大半を占めている。
 自分の意思を言葉にする事は、とても面倒でやる気なんて欠片もおこらなかった。佐原にメールが苦手な事は伝えた。佐原も無理に返さなくていいとは言っているが、それでもメールをそのまま無視するわけにはいかず、歩は文章を作成する。
 昨夜数通メールを作っただけだったが、歩は自分がメールに向かない事はよくわかった。
『おはようございます。 今日は昼から夜までです。』
 簡潔な文章。
 無理に言葉をひねり出そうとすると、無駄な時間と体力を消耗する事がわかった。佐原だって返さなくていいと言ってくれているのだし、この辺りが妥当だろう、と歩は半分開き直って送信ボタンを押す。
 携帯電話の中では、白い鳥が手紙をくわえて大空に舞っていくアニメーションが流れていた。
 歩は送信完了の文字が表示されるのを確かめてから携帯電話を閉じた。もう長い事使っているせいで、そろそろヒンジ部分が弱くなってきている。そろそろ修理に出さなくてはいけないかもしれない。
 布団から身を起こし、両手を真上で組んでぐっと伸びをする。そして立ち上がり、備え付けのミニキッチンで顔を洗って歯を磨く。
 今日は昼からのバイトの時間まで、家事をして過ごすつもりだ。家事といっても、歩が絶対にやらなければいけないものは洗濯だけだ。平日の昼間はほとんど学校、その後はバイト、と洗濯機を回せる時間に歩が自宅にいる事は、一週間に一度あるかないかなのだ。
 掃除もしなければいけないが、歩は掃除が嫌いだった。この家には掃除機がないので、畳の上を固く絞った雑巾で拭く事になる。掃除は必要だと思うが、多大な労力を伴うそれは自然と後回しになってしまっていた。
 歯を磨き終えた歩はカーテンを開ける。カーテンの向こうはベランダだ。とは言っても人間一人が出れば一杯になってしまう程度の小さなものだ。
 東南向きの空を見上げると、雲一つない清々しい程の青空が広がっている。
 歩はベランダの扉を開けてからそこへ敷き布団を運び、ベランダの柵へひっかけて洗濯バサミで抑えた。ベランダを開放したため、やや冷たい風が室内に入り込むけれど、新鮮な空気はとても気持ちが良かった。
 部屋の中に引っ込んだ歩は、部屋に点在する脱ぎ散らかした服たちを纏めて洗濯機へ放り込む。更に粉洗剤を入れて、後は待つだけだ。
 そこで歩は尻のポケットの中で携帯電話のバイブが鳴っていることに気付いた。
 相手は確認するまでもなく佐原だろう。念の為に携帯電話を取り出して確認してみるが、やはり歩の予想通りだった。
『やった! じゃあ今日も会えるんだねー(*´▽`*) 歩くんに気持ちよく会うために仕事頑張ってくるよ! あっそうだ。今日バイト終わった後に毛布渡そうと思うんだけど、時間作れる?』
 佐原からのメールは、歩とは段違いに情緒豊かだ。文面から楽しげな雰囲気がひしひしと伝わってくる。文面なんていくらでも取り繕えるものだ――と斜に構えてもみるが、歩は自分が人気者になったみたいで、悪い気はしなかった。
『作れますよ。有難う御座います』
 比べる事すらバカらしくなるような程簡潔な歩の返信。
『いえいえ(*´▽`*) じゃあまた後でね♪』
 佐原からの返信を確認した歩は携帯電話を机の上に起き、畳の上に仰向けで横になる。両手を頭の後ろで組んで枕を作る。
 見えるのは色気のかけらもない天井。
 洗濯は後一時間程待たなければいけないし、掃除はやる気が起きない。学校の勉強なんて言う気分ではなかったし、他に特にやるべき事もなかった。
 つまりは手持ち無沙汰。
 普段忙しい毎日を送っている歩は、こうした暇な時間が苦手だった。
 余裕ができれば、いらない事を考えてしまう。考えたくない事を考えてしまう。
 自分の事。人の事。周りの事。欲求だとか、色んな事。
 性欲はあって当たり前なのだと知っている。
 生物だから、繁殖するために生きているのだから。けれど、歩の性欲は繁殖するためのものではない。雄が雄に性欲の対象を向けたところで、それは生産性の欠片もない無駄な欲求にしかならない。
 己の快楽を求めるだけの、自己満足的な欲求。
 それが歩は大嫌いだった。
 生物である自身の存在を否定されているようで、社会の一員である事を拒否されているようで――。
 それでもついてまわる欲求に一度火がついてしまえば、処理しなければ収まる事はない。
 歩は身体を横に向け、部屋着を下着ごとずりおろしてペニスを取り出す。
 普段、性欲はなるべく抑えこむよう意識している。今日のように限界を迎えるまで自己処理だってする事はないのだ。
 ペニスを擦り己に刺激を与える。溜まったものを吐き出すための自慰。そこに垣間見える快楽に伴うのは耐え難い程の自己嫌悪。
 束にしたティッシュの中に白い液体が溢れかえる。
 肉体を支配する倦怠感。
 泣きたくなる程の絶望感。
 周りとは違う。一般とは違う。普通とは違う。
 周囲のように幸せになれない事を知っている。知っているからこその苦しみ。
 『普通』が憎くなったのはいつ頃だっただろうか。自分が普通ではないと気付いたのはいつだっただろうか。迫害される事を必要以上に恐れはじめたのはいつだっただろうか。けれどそれすらも空回りし、結果的にひとりぼっちになってしまったのはいつからだっただろうか――。
 歩の脳内に巡るのは、過去への懺悔と後悔。そして絶望。
 何度となく繰り返して、答えは出ない。けれど考える事はやめられない。
 異端だと知っている。
 人生を終わらせたいと思った事は数え切れないほどだ。
 しかし、それを止めたのは自分を思う家族がいる事を知っていたからだ。
 憎い程に羨ましく、けれどそれ以上に大切なもの。
 人と違う事を知られたくない。悲しませたくない。けれど、迷惑なんてかけたくない。
 狭間で揺れる思いは今でも昇華出来ずにいる。
 後処理を済ませた歩は手早く身支度を整える。気分はどん底まで落ち込んでしまっていた。それでも無理矢理気分を切り替えて、バイトの準備をはじめる。
 こうやって気分が落ち込むのはいつもの事なのだ。もうすっかり慣れてしまった。


「おはようございます」
「うん、おはよう」
 歩は店長に挨拶をし、タイムカードを切る。
 いつもに増してローテンション。けれどいつだってローテンションな歩だ。歩以外の人間からは今日が特別ローテンションだなんてわかりはしない。
 普段通りロッカーで制服を羽織って店頭に出る。
 変わり映えのしない日常。けれど、夜になれば佐原がくると思うと、少しだけわくわくしてしまう歩がいた。
 省かれるのが怖くて、好奇の視線を送られるのが嫌で人から離れるようになったが、決して人間が嫌いなわけではない。好意を持たれて悪い気などするはずもなかった。
 それを決して表に出したりする事はないのだけれど。
 店内に設置された時計を、何度も見てしまう。どうかしてる、と思う。
 よく知りも知らない人間が気になってしまう。
 迷惑だと思っていたのに。
 変な人だと思っていたのに。
 嫌な考えが歩の脳裏を掠めた。
『恋愛感情』
 恋愛なんてした事はないけれど。
 恋愛なんて一生するべきではないと思っていたけれど。
 佐原の事がやけに気になってしまうのは、実は恋愛感情なのではないか――。
 その考えは歩の心をぎゅっと締め付けた。
 痛いほどに、苦しいほどに。
――そんな事、あるわけない。
 恋愛はしないと決めた。
 男性にしか性欲が向かないからと言って、男性を恋人にするのは生物として間違っている。
 それに――佐原が自分なんかを相手にするはずもない。
 この気持ちが知られてしまえば、佐原は歩から離れてしまうだろう。それだけならまだしも、噂を広めて歩が後ろ指指されるような状況にだってなってしまうかもしれないのだ。
 もちろん、佐原がそんな事をするとは思ってはいないが、最悪の場合、の話だ。
 歩は胸に残る痛みを抑えこむように下唇を噛み締め、小さく頭を振った。
――恋愛感情なんかじゃないんだ。……大丈夫。
 自分を言い聞かせ、仕事へと集中する。幸いにも昼飯時で店内には昼休みを迎えたサラリーマンたちが、コンビニ弁当を求めて続々と来店しているところだった。考え事を忘れ去るにはぴったりの忙しさだ。
 時間を意識する間もなく客を捌く。特にこれといったトラブルもない、いつも通りだ。
 次から次へとレジを打ち、商品を袋に詰めて客に渡す。あまりの忙しさに時間は一瞬のように過ぎ去ってしまっていた。
 ようやく客が途切れ、歩が一息ついて時計を見遣った頃には夕方近くになっていた。
――後、少し。
 佐原がくるいつもの時間まで、後少し、僅か一時間程だ。
 楽しみが半分、そして不安が半分。
 佐原が何故自分を好いてくれているのか、歩の持っている佐原への感情は本当に恋愛感情なのか、もしも恋愛感情であるならば、早急に佐原から離れるべきではないのか――。
 業務をこなしながら、頭の片隅ではそんな事をずっと考えている。繰り返し繰り返し、答えは出ない。
「やあ、歩くん。今日も一日お疲れ様」
 そんな事を考えているうちに、レジに経つ歩の目の前には佐原がいた。にこにこと、どこか嬉しそうな笑みを浮かべて。
「……おつかれさまです」
 ぽつり、と言葉を返す。
 接客業の人間としてはマイナスの評価しか得られないレベルのものだったが、それでも佐原は意に介した風もない。
「今日も歩くんは可愛いよね」
 そんな、決して男に向かって言うべきではないような台詞を吐きながら、佐原は一旦レジを離れ、お菓子売り場へと向かった。
 いつもならレジ横の冷蔵庫にある缶コーヒーだけなのに、と疑問げに首を傾げていると、佐原はスナック菓子を片手にまたレジまで戻ってくる。
「冬限定じゃがバター味なんだよー」
 佐原は嬉しそうにそう言う。心なしか頬も染まっている気がした。
「限定モノとか好きなんですね」
 歩の問いかけに、佐原は勢いよく頷き、
「うんうん。なんか特別って感じを出されると買わずにいられなくてさぁ~。地雷ってわかってるのとかでも全部買っちゃうんだよ」
 えへへ、と恥ずかしそうに笑った。
「へえ、俺は普段お菓子とか食べないんで、よくわからないですけど……」
 そんな佐原に、歩は申し訳なさそうに眉を八の字に寄せる。
「ん?お菓子とか嫌い?」
 佐原は首を傾げる。真ん丸で黒目がちな瞳が疑問を浮かべている。まるでどこぞの犬かのようだ。
「嫌いってわけじゃないですけど……」
 口ごもる。まさかお金がないから菓子が買えない、とは答えられないだろう。
「?……まあいいや。嫌いじゃないなら、今度一緒に食べようか」
 佐原は敢えて深く突っ込むことはせず、話を流す。
 以前からずっとそうだ。歩の嫌がる場所には決して踏み込んでこない。
 歩にでさえ側にいる事が心地よいと思わせる程の、絶妙な距離感。
 二人はその日も辺り触りのない会話を済ませる。
「じゃあ、これとこれお会計お願いします」
 そう言って佐原はレジ向かいの歩に、いつもの缶コーヒーとスナック菓子を差し出した。
「二百七十円です」
 歩の言葉通りの金額を佐原から受け取り、レシートを吐き出す。