闇夜の憂鬱 第二話



 平日の十八時過ぎ。少し前まで橙色だった空の色は、今では太陽の気配を感じさせない濃紺の色をしていた。
 街中にほぼ等間隔で街灯と、ビルやマンションから漏れだす灯りに照らされてしまって、さして曇っているわけでもないのに歩の瞳に入る星の光はほんの数個だ。
 歩の生まれ育った街は山々に囲まれ、夜もずっと早かった。近年は開発も進んできたとは言え、それでも晴れた日に空を見上げれば満天の星空が拝めたのだ。とてもではないがその空と、今見上げているこの空が同じものだとは思えなかった。
 歩は夜が嫌いだった。
 眠れない夜、実家のベッドの上で幾度もなく栓のない考えを繰り返した事を思い出す。
 人とは違う自身の性癖について、だ。
 自分ではどうしようもない不安に襲われ――けれど、それを解決する方法もなく、一人で過ごす布団の中は酷く孤独だった。
 いつも一人なのに。一人は平気なのに。
 夜の孤独は嫌いだった。
 歩は頭を振って、頭を切り替える。物思いに耽っている暇はない。今はバイト中なのだ。バックヤードから商品の段ボールを引っ張りだし、品出しの準備をはじめる。
 近隣はオフィスビルに囲まれているせいか、夜の客数は昼間に比べればとても少ない。歩のように近所に住むような常連客ばかりで、一見の客が来る事はほとんどない。
 いつもと変わり映えのしない日常。同じ事が繰り返されるだけの日々。つまらないだけの毎日。
 けれど、その日はいつもとは違った。
「どうも」
 そんな声と共にレジに入っていた歩に差し出されたのは缶コーヒーだった。甘いものが苦手な歩の好みからは外れた、砂糖とミルクがたっぷり入っているものだ。
 歩が顔を上げるとそこに居たのはつい先日、日曜日の昼間に限定商品を探しにやってきたサラリーマンだった。この前と同じようにきっちりとネクタイを締めて、今日は眼鏡もかけている。銀縁のフレームが切れ長の目にはよく似合っていた。
「いらっしゃいませ」
 接客は苦手だ。常連客の中には歩に雑談を持ちかけてくる客もいるが、歩はそれを出来る限り流すようにしている。接客態度としては如何なものかとは思うが、雑談を受けたところでそれにうまく反応できるような会話スキルは持ちあわせていないのだ。話して不快にさせるよりは曖昧な態度で終わらせてしまう方がいいはずだ。それに、どうせたかが知れた時給で働いているバイトだ。どこの店員だって皆そんなものだろう、と歩は割り切る事にしている。
 歩は差し出された缶コーヒーを機械的に受け取り、バーコードを読み取る。
「百二十円です」
 そして表示された文字を読むだけの、誰にでも出来る仕事。仕事にやり甲斐を、と言うのはよくきく話しだったけれど、それを見いだせる程に歩は仕事が好きなわけではない。生活のため、生きていくために仕方なくやっているだけのルーチンワークだ。
 そんな歩の様子に、男は困ったように笑った。
「クールなんだね」
 男はこの前と同じように、袋はいらないと歩の手から缶コーヒーを直接受け取った。以前は気づかなかったが、男性にしては細く長い指先がとても綺麗だった。
「え、あ、すみません」
 歩は無愛想を責められているのかと頭を下げる。今までクレームこそ入った事はないものの、いつ入ってもおかしくないくらいに自分が接客に向いていない事はよく知っている。
 けれど、男は
「ああ、違う違う。そう言う事じゃなくて」
 と、首を左右に振って言葉を続けた。
 整った顔立ちがくしゃりと崩れて、笑みを作る。歩のように中性的な整い方ではなくて、彫りの深い、男らしい顔立ちだ。
「そういうところがいいと思ってさ」
 何を言われているのかが理解できず、歩は眉根を寄せる。その歩の表情に、男の笑みは増すばかりだ。
「え……と?」
 普段から人との交流を避け続けている。世の中の普通とされる程のコミュニケーション能力を持ちあわせていない事は、歩自身自覚している。
 歩は男の意図がこれっぽっちも汲み取る事が出来ず、首を傾げるばかりだった。
「この前は昼間だったよね。普段はこの時間にバイト入ってるの?」
 困惑する歩に構わず、男はにこやかにそう問うた。
「……いつもって言うわけじゃないですけど、この時間帯が多いです」
 あまりにフレンドリーな様子で歩に接しようとする男に募るものは不審感。他の従業員に助けを求めようとそっと店内を伺うが、皆バックヤードにいってしまっているのだろうか、店内には従業員どころか他の客もいないようだった。
「へえ、そうなんだ。じゃあまたこの時間にくるよ」
 そんな歩の雰囲気に気付いたのだろうか、そう言って男は踵を返しレジを離れ、自動ドアへと向かっていった。去り際に眼鏡の奥で光る瞳が、やけに扇情的で――。
「……有難うございました」
 顔だけでなく、プロポーションまで整った男の後ろ姿。引き締まった腰に見惚れていたわけではないが、歩は男が店を出てから少し遅れて、そうマニュアル通りの言葉を口にしたのだった。
 不審者、というには不審ではない。けれど普通の客とは少し違う。どこが違うのかと問われれば、それはそれで答えに窮してしまうのだが――。
 この日の歩の男への印象は『変な人』だった。
 限定もののスナック菓子を買い求め、やけにフレンドリーで色気溢れる美丈夫。冷静に見てみれば、そこまで変な人材ではないようにも思える。何万人もの人間が暮らすこの都市では、それも個性の一つに収まる範囲だろう。けれど普段、まともに人と接する事の少ない歩には、それだけで十分に印象に残る『変』な部類に入るのだ。
 歩はこの日、ぼんやりとその男の事を記憶に留めながら、またいつもと変わりのない業務へと戻っていった。



「……また来たんですか……佐原さん」
 はあ、と溜息を一つ。歩はレジ越しに例のサラリーマン――佐原を見上げる。佐原の身長は歩より五センチ程高い。
「相変わらず連れ無い態度だねぇ」
 そう言って佐原は、もうお約束となっている缶コーヒーを差し出した。歩には甘すぎて飲む事の出来ない銘柄だ。
「あんた毎日暇なんですか」
 差し出された缶コーヒー。それを歩がレジを打ち、値段を読み上げる前からレジの上には百二十円ぴったりの小銭が置かれていた。その小銭をレジに収めてレシートを吐き出させながら、歩は呆れたように眉をしかめる。
「んー?別に、暇ってわけじゃないけどー歩くんに会いに来てるんだよー」
 歩くん、やけに親しげに呼んでくれる。その呼び方を歩が許可したわけではない。歩の来ている制服につけられた名札から名前を知った男は、いつからか勝手に歩の事をそう呼ぶようになっていた。
「……本当、意味わかんないですよね」
 再び溜息を一つ。
 歩の目の前の男、佐原は二回目の来店以降、毎日同じ時間に店にやってくるようになった。そして歩の姿を認めると――雑談を仕掛けてくる。それがもう二週間も続いているのだ。平日も土日もお構いなし、毎日定刻での来訪だ。
 しかし、歩だって三週間毎日連続で出勤しているわけではない。せいぜい五連勤止まりだ。男は歩の姿が見えない日は、他の従業員に歩が休みな事を確かめるといつもの缶コーヒーを一本買い、そのまま帰っていくのだという。歩以外の他の従業員相手だと、雑談は発生しないらしい。
 買うものは決まってあの甘い缶コーヒーだけ。歩が他の従業員にレジを任せ、品出しをしている時でさえ、歩に寄ってきて無理矢理にレジを開かせる。個性の内で抑えるのはそろそろ厳しいのかもしれない、もう紛れもない『変な人』だった。
「ああ、でも釣れない態度の歩くんじゃないと、歩くんは歩くんじゃないよね」
 柔和そうな笑み、それも第一印象だけだった。笑顔の質自体は何も変わっていないはずだ。まるで作り物のようにも思える整い過ぎた姿形。黙ってさえいれば、男女問わずひと目を惹きつけ、どこぞの芸能人かと思わせるくらいなのだ。
 しかし、その軽薄なセリフや、ここ最近の歩への奇行も重なり、このコンビニの従業員や、同時刻帯の常連客には変人としてのポジションを不動のものにさせていた。
「はぁ……そうですか」
 歩だっていい加減、うんざりしてきている。元々会話は苦手だ。けれど男は適当な相槌を打つ歩に構わず、一方的に喋るのだ。しかし、害はない。せいぜい十分程度歩の時間が奪われるだけだ。
 店長に佐原の事を相談してみたりもしたのだが、佐原が来る時間は暇な時間だったし、他の客がいれば早めに雑談を切り上げる。一応それなりの良識は持ちあわせているようで、実害がない限り出入り禁止の処置を下す事も出来ず、とりあえず歩が少しだけ我慢をすればいいと言う話しに落ち着いた。
 上からそう言われてしまえば、歩にはそれ以上逆らう事もできない。これも業務の一環だと割り切る以外に方法はなかったが、消耗は激しい。
 本日もほとんど一方的な雑談――それも、相手が歩でなくても出来るような、今日の天気や駅前に新しくオープンするカラオケ店の話しばかりをして、男は帰宅の途についたのだった。
 よくもまあ「はぁ」とか「へぇ」とかの相槌ばかりの自分相手に、あれだけ喋れるものだと歩は素直に関心する。
 男の背を見送った後、歩は無駄に消費した十分間を取り戻そうとするかのように、手早く仕事を再開させた。

 業務内容に変化があったからと言って、それが歩の日々の生活に大きな変化をもたらすわけではなかった。
 それから更に一週間が過ぎ、ほとんど毎日佐原と顔を合わせる日々にもだいぶ慣れ、もう一週間が過ぎる頃には佐原に対する不審感は薄れつつあった。
 慣れからくる油断もあるのではあろうが、一方的に喋られるとは言え、それでも歩はここ一ヶ月で佐原の事をよく知る事が出来たし、歩に執着する目的は不明だったが、何か害ををなそうとしているわけではない事も十分にわかった。それに、佐原に好意をもたれていると言う事は、その好意がどういう種類のものであれ決して不快ではなかった。佐原は優しすぎる程に優しく、毎日歩に執着する事を除けば単なる善良な一般市民だった。
「――それでさ、そろそろうちも羽毛布団出そうと思ってさ」
 いつも通りの大した内容を伴わない佐原との雑談。
「歩くんの家では羽毛布団使ってるの?」
 佐原との話も大分慣れてきた。話に慣れた、というかどちらかと言えば佐原の人柄に慣れた、と言う方が正しいのかもしれない。
「……いえ、普通に綿布団です」
 歩は首を横に振る。
「羽毛布団いいよ。質のいいもの買えば凄く暖かくて眠る時に暖房もいらないしね」
 歩は昨年の冬を思い返す。歩が今使っている布団は掛敷枕がセットになった定価五千円の代物だ。防寒性と言うものは皆無で、去年の冬はセーターや分厚い下着を着込み、寒さに震えながら眠った覚えがある。
「……ちなみに、その質のいい羽毛布団っていくらくらい出せば買えますか……?」
 近頃では、こんな風な歩からの発言も増えてきていた。元々無口の人見知りではあるが、全く喋らないというわけではない。
 男は何かを思い出すように顎に手をあて、うーんと唸った後
「三万から五万くらいあれば十分だとは思うけど……」
 と、答えた。
「…………」
 歩は思わず、無言になってしまう。寝具は良いものを使ったほうがいい、それは一人暮らしをはじめるにあたって、家族や、その手の読本などでもよく言われていた話しだった。
 けれど食べる事に精一杯で寝具に回す金はなかった。――その結果がセットで五千円の布団だ。
 今だって生活に余裕があるわけではなかったけれど、それでも一人暮らしをはじめた当初に比べれば落ち着き、僅かずつではあるが、毎月貯えを作る事だって出来ている。
――せめて二万であれば……。
 快適な眠りを手に入れるためなら、出費は仕方ないと思う反面、今の歩には三万円という金額は大きすぎた。昨年度の真冬の光熱費と較べても、あまりにも高すぎる。
 青ざめた顔色をした歩に、何かを察したのか佐原は困ったように眉を寄せた。
「……学生にはちょっと大金だよねぇ。今使ってる布団じゃ寒いの?」
 佐原の問いに、歩はこくりと首肯する。普段、十円二十円をどう倹約するかで悩んでいる歩が二万円までなら出せると思う程に、冬の寒さは身にしみる。
 昨年は余分な金は全くなく、どうする事もできなかったが、出来るならば今年は暖かい冬を過ごしたかった。しかし、予算を一万円もオーバーしてしまえば、今年も見送る事になりそうだ。
「羽毛布団……は、無理だけど、うちに余ってる毛布があってさ……。それでよかったら、歩くんどう?開封してあるんだけど、ずっとしまいこんだままで使ってない新品なんだよ」
 願ってもいない申し出だ。歩は飛びつきたくなる衝動を抑え
「え、いいんですか……?」
 と、遠慮を交えた態度をとってみる。普段とかわりのない無表情。けれどその瞳は今まで見せた事もないような程にキラキラと輝いていて、佐原を苦笑させる。
「いいよ。どうせ使ってないんだから、使ってもらえる人のところにいったほうが、毛布も幸せなんだし」
 そう微笑む佐原に、歩は
「……じゃあ、いただきます」
 と、あくまでも遠慮がちに答えた。
 佐原はその場でビジネスバッグから名刺を取り出し、その裏面に何事かを走り書きをして、歩に手渡した。
 表面には、歩の働くすぐ近くにある地元の中堅企業のロゴと佐原の名前。裏側には手書きのメールアドレス。アドレスから察するに私用の携帯電話のメールアドレスらしい。
「じゃあ、バイト終わったらここにメールしてよ。毛布ってそれなりに嵩張るから、ここで渡すわけにはいかないでしょ」
 ここ、と佐原は自身の足元を指さす。それがこのコンビニを指していると言う事は、対人コミュニケーションに乏しい歩にでもわかった。
 ここはバイト先で、佐原は客だ。いくらなんでも従業員が客から何か私事の物を受け取るわけにはいかないだろう。
「わかりました。……二十一時すぎになると思いますが、メール送りますね」
 歩の返答に、佐原は「わかった」と頷いて店を後にした。
 人は嫌いだ。人付き合いは苦手で、人と関わる事はなるべくしたくない。しかし、背に腹は代えられない。今冬も厳しい寒さが予想されているのだ。目の前に差し伸べられた手に縋らない手はない。
 歩は本日もいつもと同じように仕事を終わらせて帰路についた。
 自宅アパートの踏み込む度に足音が響く、錆が目立つ鉄製の外階段をのぼり、玄関の鍵を開ける。一ヶ月前と比べて気温は随分と冷え込んでおり、もうすぐ秋と呼べる気候も終わってしまう。
 部屋の明かりをつけ、バイト先でもらってきた弁当を開ける。相変わらず温めもしないまま冷たく冷えたご飯をかきこむ。作業と化した食事はほんの五分もあれば終わってしまった。
 歩は携帯電話と、佐原の名刺を取り出してメールアドレスを見る。歩の携帯電話は、高校に入学する時に購入したものだ。五年も前の機種は前時代的だと嘲笑される事もある。
 この携帯電話の契約にあたって、歩はいらないと言い張ったのだが、出先での連絡に便利だからと過保護気味な母親に半強制的に持たされていたものだった。勿論、母親の目的はそれだけでなく、頑なに周囲との交流を持とうとしない歩を心配してのことだった。携帯電話のウェブ機能を使った未成年の犯罪被害などが騒がれた事もあったが、その反面ソーシャルネットワークサービスも一般化し、ウェブだけの独自のコミュニティが出来上がりつつある頃だった。どんな形であれ、歩に友達を作って欲しいと願っていたのだ。
 しかし、残念な事に歩がそういったものに手を出す事はなかった。
 歩の携帯電話のウェブ機能は主にわからなかった事を検索するための辞書ツールとして用いられている。ちなみに電話帳に登録してある電話番号は家族とバイト先だけだ。
 歩は佐原のメールアドレスを登録するかどうか迷い――結局、電話帳に登録はしなかった。メール作成画面で送信先に佐原のメールアドレスを打ち込み、本文を作成する。文面に少し迷ったけれど、何を書けば正解なのか検討もつかなかった。
 だから歩は
『コンビニの中村歩です。』
 という愛想のへったくれもない文面を送信したのだった。