闇夜の憂鬱 第一話



 夢見ていたような大学生活とはかけ離れた生活。反対する両親を押し切って一人暮らしを強行した結果だ。毎日毎日時給八百円のアルバイトに通い詰めなければ食べていく事すら危うい。休む暇も遊ぶ暇もないのは勿論の事、本分である学業の方にも支障が出てきている。
 代わり映えのしない毎日。同じ大学に通う周囲の友人達は皆、たくさんの友達や恋人を作って学生生活を満喫していると言うのに、彼らの誘いを振りきって今日も食べるために働く。
 不景気の世の中だ。反対した両親たちにも仕送りする余裕はないと散々言われていたし、こうなる事態は容易に想像が出来た。それでも歩(あゆむ)が実家から遠く離れた大学に通って、一人暮らしをする事を選んだ事にはそれなりの理由があるのだ。
 父と母と歩と弟の四人暮らし。少し田舎に位置し、土地が安いとは言え庭付きの一戸建てで、何の変哲もないこの国のごく平均的な『普通』の家族だ。年齢なりの収入のある父と、ほんの少しだけ過保護な専業主婦の母。二つ年下の弟は成績も良く、スポーツも万能だ。中学生の頃から付き合っている彼女もいるらしい。
 そんな『普通』の家族の中で歩は一人、どうしようもない『異端』さを感じていた。普通ではない事を自覚しているからこその異端。
 成績は至って普通で、決して悪い方ではない。運動も、弟に比べれば苦手な部類に入るが平均よりは上にあたる。容姿だって良い方に入るのだ。癖のない艷やかな、ほんの少し茶色がかった黒髪に、ぱっちりとした天然の二重瞼を持った黒目がちな大きな目。異性からは可愛いと評される事の多い柔和な顔立ちに、吹き出物一つない白い肌。
 これといって抜きん出た才能こそ無いもののそれでも十分に恵まれている事は自覚している。けれど、歩がどうしても家族と一緒に居たくない、離れたかった『異端さ』の原因は性癖にある。
 人目を引く容姿のせいか、今まで何度も愛の告白を受けてきた。けれど、歩の女性経験は今まで零人だ。付き合った事さえない。
 歩が、自分は女性に性的魅力を感じないと気付いたのは中学生になって間もなくの頃だった。
 最初の方こそ、そのうちいつかと思っていたが、二次性徴も終える頃になれば自分が女性に魅力を感じないだけでなく、同性にしか惹かれない事は認めざるをえない事実になっていた。
 迫害される事を恐れ、同級生からは距離を置くようになり、普通の幸せな家庭を築く家庭が、自分が普通とは違う事で壊れてしまう気がして相談する事も出来なかった。
 そうして歩は人に対して一線引いた関係を強いるようになり、中学・高校と親友と呼べるような友達も作らず、悩みは全て心の内に溜め込んだ。
 そんな歩と相反するかのように、何もかもが順調な家族が羨ましかった。そして羨ましいのと同時に憎くもあった。
 家族は悪くないのだとはわかっている。家族と同じように普通に幸せでありたいと願っているだけなのだ。しかし、生まれついて持ってしまった性癖は歩にはどうする事もできない。
 もう普通にはなれない事はわかっている。だからせめて、幸せにだけはなりたい。そして歩は、無理を承知で家族から離れて単身の生活へと身を投げ出したのだ。
 家族から離れた生活。経済的には困窮しているが、歩の精神は家族と暮らしている時よりも安定していた。
 一人の時間が十分に取れ、目の前で歩には決して手の届かない幸せを見せつけられなくて済むと言う事が大きかった。



 そろそろ風も冷たくなってくる頃だ。衣服に関しては高校時代に購入したものがあるので、贅沢さえ言わなければ困らない。それに仕送りも全く零と言うわけではなくて、食料や少額の現金なら二ヶ月に一度は送ってもらっている。
 歩の周囲と比べれば随分と少ない仕送り額だが、学費は全額出してもらっているし、一つ下に今年大学受験を控えた弟がいるのだ。贅沢は言えまい。
 歩はタイムカードを押して前開きのパーカーを羽織る。二十三時を少し回ったところだ。
 勤め先のコンビニは時給こそ少ないもののシフトに随分と融通がきく。それに自宅から徒歩五分と言う近さも相まって、歩がこちらに引っ越してきてからずっと働いていた。
 そのコンビニで一週間に五日も六日も働き続けている歩だ。このコンビニの常連とも随分と顔なじみになり、道端ですれ違えば軽く挨拶の言葉も交わす程だ。
 人気のない一方通行の道路を、簡素な街灯が照らす。今どきの街灯はLEDになっているらしいが、歩には昔ながらの蛍光灯との違いはあまりよくわからなかった。
 左手には本日の夕食がぶら下げられている。茶色いビニールに入ったコンビニ弁当で、バイト先のコンビニで出た本日の廃棄品だ。
 歩の夕食はほとんどがコンビニ弁当だ。それを知った友人や同僚には栄養が偏ると口酸っぱく言われるのだが、今の歩には腹が満たすだけが精一杯で、栄養に気をまわす余裕はない。
 家賃と光熱費、雑費や食費と、人間一人が暮らしていくにはずいぶんと金がかかる事を一人暮らしをはじめてから知った。
 ずっと働き詰めで苦学生だと評される事も多い。しかし今の生活は実家で暮らしている時よりもずっと幸せなのだ。
 歩むはカツンカツンと足を慣らして、自宅アパートに設置された金属製の外階段をのぼる。全部で六室あるこのアパートの二階の真ん中の部屋が歩の部屋だ。
 風が吹けば揺れるような薄い玄関扉の鍵を開け、室内に入る。
「ただいま」
 言ってはみたものの、もちろん返事はない。
 ただいまといってきます、いただきますとごちそうさまは、もう癖になっていて一人暮らしになった現在でさえその挨拶を欠かした事はない。
 六畳の和室と三畳のキッチン。そんな簡素な部屋でも都心にほど近いこの場所では、歩の実家周辺の同じ間取りの相場よりも二倍は高い値段だ。それでもこの地域の相場よりは随分と安い部屋なのだ。この部屋が空いていなければ歩の一人暮らし生活も叶わなかっただろう。
 ふう、と溜息を一つ。和室の真ん中にある小さなテーブルに持って帰ってきたコンビニ弁当を置き、部屋着に着替える。半袖のTシャツに動きやすいジャージだ。外は寒くなってきたとは言え、自宅に篭っている分にはまだ半袖で十分だ。
「いただきます」
 手を合わせ、冷えたコンビニ弁当に食らいつく。この部屋に電子レンジなどと言う贅沢品はない。
 所持している調理器具は炊飯器と小さな片手鍋だけだ。味や見た目にこだわらなければちょっとした自炊もそれだけでこなす事が出来る。
 もう何度も食べて、食べ飽きてしまったコンビニ弁当の味。美味いとも不味いとも思わないジャンクな味。いつの頃からか食事は空腹を満たすための作業になっていた。
 夕食を食べ終わった歩は布団を敷き、身体を横たえる。実家にいる頃はベッドでの生活だったので知らなかったが、畳と布団の組み合わせは寝心地が良く、布団の上げ下ろしの手間なんて許容出来てしまう程だ。
 布団の上に横になると、一日の疲れが一気に全身に巡っていくようだった。
 じんわりと身体が痺れるような感覚に侵され、意識も夢の世界へと落ちていく。夢なのか現なのかわからない狭間。土曜日の明日も朝からバイトなのだとぼんやりと思いながら、歩は眠りに落ちていった。



 歩は朝に強い。目覚ましがなくても毎朝決まった時間に起床する。
 昨日は電気を点けたまま寝てしまったのだと、心の中で軽く舌打ちをしながら電気を消し、シャワーを浴びる準備をする。朝食がないのはいつもの事だ。
 服を脱ぎ、外気の温度に近いタイル貼りの浴室へと足を踏み入れる。
 流石にシャワーだけでは厳しい季節になってきたが、歩の済むアパートに備え付けられた湯船は足を伸ばす事さえ出来ないものだったし、湯船に湯を張ったところでそれにゆっくり浸かっている時間もなかった。
 髪と身体をさっと洗い、また部屋に戻る。この家の空調機器はエアコン一つだけだ。今年の殺人的な夏の熱さに耐え切れず購入したものだ。タイミング良く昨年度の型落ちモデルを格安で入手する事が出来、この夏は随分と救われた。型落ちとは言え、性能は最新のものと大差はない。電気代も数年前の機種に比べれば随分と安い。
 シャワーを浴びた事で冷えてしまった身体を温めようかと、エアコンのリモコンを探す。しかし、今このタイミングでエアコンを作動させるのはもったいない気がして、歩は見つけたリモコンをわかりやすい場所に置いて、エアコンの電源を入れる事はやめた。
 後三十分ほどで出発の時間なのだ。今つけると出かける事が億劫になってしまう事は目に見えている。
 歩はバスタオルで素早く身体の水滴を拭い取り、衣服を着こむ。冬と言うにはまだ早すぎる季節なので、それだけで身体に感じる寒さはなくなった。
 あまりゆっくりしている時間はない。昨日食べたまま放置していた夕飯のゴミを片付けたり、この一週間で溜まった洗濯物を洗濯機に放り込んだりの細々とした家事をしているうちに、あっと言う間にもう家を出なければいけない時間になってしまっていた。
 時刻は九時少し前。今日はこれから十七時までのシフトになっている。
 歩は使い古された二つ折りのサイフをポケットにつっこみ、小さな熊と鈴が連なるキーホルダーのついた鍵を片手に玄関を出た。
 鍵なんて、かけようがかけまいが泥棒なんて入る気も起こらないような外観の古いアパートだ。それでも鍵を掛けずに家を出る気にはなれないのは何故なのだろうか、などとぼんやりとくだらない事を考えながら足を進める。
 一人の時間には随分と慣れてしまった。
 自分の性癖に気付いた中学生の頃から、友人と呼べるような存在も作らず、家族や親類との縁も随分と希薄になった。しかし、そうして一人きりになる事が歩は苦ではなかった。
 一人の時間は誰に何の気を遣う必要もなく、自分のペースで事を進める事が出来る。生来無口な方である歩だが、進学に際してこちらに引っ越してきた頃からそれは以前より顕著になった。
 地元を遠く離れ、幼い頃から歩を知っている人もおらず、学校では特に誰かに話しかけられる事もない。バイトでも接客や仕事での連絡事項などの必要最低限の言葉しか口にしない。バイト先の同僚たちは、無口で感情の起伏を表に出さない歩を怖がって、歩に話しをしにくるのはごく一部だ。
 何も知らない他人から見てみれば、随分と寂しい日常だ。しかし、それは歩が望んだ事であって、今のこの現状には納得していた。
 肌を撫でるほんのりと冷たい風。歩はバイト先のコンビニについた。正面の自動ドアが設置された入り口を大きく迂回し、店舗の裏側に設置された従業員用の出入口へと足を進めた。
「おはようございます」
 ドアを開けてバックヤードに足を踏み入れると、この店の店長に出くわしたので、歩はぺこりと頭を下げながら挨拶をした。すると、店長も人の良さそうな朗らかな笑みを浮かべながら「おはよう」と返答する。
 四方を在庫の詰められた棚と、従業員のロッカーで囲まれた狭いバックヤード。五人も入ってしまえばいっぱいになってしまいそうな程の部屋だ。その部屋の真ん中には四人がけのテーブルが置かれていて、歩をはじめとしたバイトの面接も全てここで行われる。照明は家庭用の蛍光灯だけで、剥き出しのコンクリートも相まってか室内は随分と暗い印象だ。
 この店は全国区に展開している大手チェーンのフランチャイズだ。本部経営の店舗に比べれば規則も緩く、歩は本来であれば禁止されている廃棄品の食料の持ち帰りを許されている。人の良さげな、そして実際に人の良い店長に甘える形となっているのだ。
「朝食食べてないんなら、適当なもの自由に食べていいからな」
 店長はバックヤードに設置された自身のロッカーの前に立つ歩にそう声をかける。
「有難うございます」
 歩は店長の方へ向き直り、再び頭をぺこりと下げる。
 正確な年齢は聞いた事がないが、歩の見立てる限り五十代の半ばといったところだろうか。目尻に深く刻まれた笑いジワが特徴的だ。このコンビニで歩が怖がらずに話しを出来る僅かな人間のうちの一人だ。
 バイトを初めて一年半と少し。歩の真面目な勤務態度が気に入られているのか、最近では暇な時間帯には一人で店を任される事も出来てきた。
 歩はロッカーから制服を取り出して着替える。とは言っても、上着を脱いでシャツの上から制服を羽織るだけだ。制服につけっぱなしにしていたプラスチックの名札がカチャカチャと音をたてる。
 バックヤードからレジに入り、ホットスナックのショーケースを覗きこむ。歩が店内を伺うと客はいないようだった。そして、程よく廃棄時間の切れそうなフランクフルトがあったのでそれを手に取り、またバックヤードへと戻る。
 油がまわっているフランクフルトに齧りつくと、口の周りがベタベタになってしまうので、そうならないように唇が触れないよう気を遣う。
 少しだけピリ辛いジャンクな味。
 歩はそれを素早く食べ、バックヤードに置かれたタイムカードを切る。後一時間でもう一人のバイトが来るが、それまではこの店舗は店長と歩の二人きりだ。休日の朝そこまで忙しくならないのだ。歩は朝から深夜まで、二十四時間営業のこの店のどの時間帯のシフトも勤めた事があるが、この時間帯が一番好きだった。
 ふと、入り口の自動ドアが開く音がし、それに反応したセンサーが来客を告げるメロディーを慣らす。
「いらっしゃいませー」
 そう声を張りながら、バックヤードから出る。客は自動ドアの入り口を入ってからすぐ、お菓子コーナーへと向かっていった。ネクタイをしめたスーツ姿の男だった。そして、男はきょろきょろと舐めるようにスナック菓子の棚を見回し、首を傾げた。
 歩はじっくりと男を観察していたわけではないが、それでも男が何か特定の目的があって、探しものをしている事はわかった。その歩の予想は当たったようで、男は店員である制服を着た歩の姿を認めると、まっすぐにそちらへと歩いていった。
「あのー、すみません」
 男の澄んだ声が歩を呼ぶ。
「はい」
 接客業であるにも関わらず、歩の顔に笑顔は浮かばない。バイトを初めた当初の頃こそ頑張って作り笑顔をしてみたりしていたのだが、あまりにも不自然すぎたため、店長直々に笑顔は作らなくていいと命じられた。その代わり、笑顔以外の接客は最大限に丁寧にして補え、との事だった。
 それが実践出来ているのかどうかは歩自身にはよくわからなかったが、今まで接客態度に対してクレームが入った事はない。
 そんな歩と相反するかのように、男は柔らかい笑みを浮かべている。二十代中頃といった歳だろうか。細身の身体にはストライプ柄の濃いグレーのスーツがよく似合っていた。
「数量限定で発売された柚子胡椒味のポテチってまだありますか?」
 その男の訊ねる商品に、歩はすぐに合点がいった。そして、口元に手をやって少しだけ考えてから
「申し訳御座いませんが店頭に出ていないのでしたら、当店に在庫は御座いません」
 と、小さく会釈をする。
 その歩の答えは男の予想通りだったのか、男は残念そうに「そうですか……。有難うございました」と歩に会釈を返した。そして踵を返し、自動ドアへと向かう。
 コンビニでは店内に入ってきても、何も買わずに出て行く客も多い。歩は男の動きにさして気にもとめず、自身の業務へと戻る。レジの上にファイルを広げて書類の整理を行う。
 それから数分、歩のいるレジにコツンと音を立てて缶コーヒーが置かれた。
 書類仕事に没頭し、店内に客がいないと思っていた歩は慌てたように書類を片付け、顔を上げる。
「いらっしゃいませ……」
 先程の男がレジを離れてから、誰かが自動ドアの開閉に合わせてメロディーが鳴るセンサーは反応していない。だから歩は店内に誰もいないと思い込んでいた。けれど、センサーが反応していなかったと言う事は、男も退店していなかったと言う事なのだ。
 歩はにこにこと理由のわからない笑みを浮かべている男が差し出す小銭を受け取り、釣りを返す。
「ありがとうございました」
 釣り銭を返す時は、なるべく客の手に触れないようにしている。けれどそれがわざとではなく触れてしまう時だってある。
 触れた男の指先は熱く、目眩を覚えそうな程だった。
「ありがとう。またくるよ」
 男はそういってビニール袋を取り出そうとする歩の目の前の缶コーヒーを持つと、今度こそ本当に退店していった。
 歩の残された店内には、今どき他できく事もあまりない、八和音の機械質な音が響く。