溺れる事は簡単で、故に難しい。 第十三話


 南野が乱れた服を整えて一息ついていた頃、有沢はトイレから帰ってきた。
「映画、もう一本見ていいですか?」
 南野が頷くと、プレイヤーにディスクをセットし、先程と同じように南野の座る隣に腰掛ける。そして間もなく映画がはじまった。
 また何かあるのではないかと身構えていたが有沢は、映画に集中しているようでその視線は真っ直ぐに画面の中だけを見詰めていた。
 触るだけならば、と許したのは南野で――実際には触るだけでなく、舐められていたのだが、それは許容範囲の内だ。
 確かに、有沢は嘘をつかなかった。己の欲望を一人で処理してまで南野との約束を優先してくれた。
 そういう有沢の誠実な部分を信用していた。
 ほっと一息つくと、南野は隣の有沢の肩に頭を預けた。伝わる体温が気持良かった。
「ねぇ、南野さん」
 呼びかけられて、南野は有沢の方を窺った。
「今度南野さんの家にも遊びに行きたいです」
 画面の中では見覚えのある映画スターが異国の言葉を喋っている。
 南野は小さく首を傾げた。
「なんで? 俺んち何もないから来ても楽しくないと思うけど」
「うちだって何もないですよ。普段、南野さんがどういうところで生活してるのかとか気になるじゃないですか」
 二人は映画に視線を向けたまま言葉を交わし合う。有沢に肩を抱き寄せられ、密着度が増した。
「んー……でもなぁ、テレビもないし調理器具とか置いてないから飯食えないし」
 南野は脳内で自室を思い浮かべる。小さな洋服ダンスとベッド、それにテーブルだけしかない部屋だ。暇を潰せるものはないし、来客を饗す準備もない。南野の私物は、家具を除けばスーツケース一つに収まってしまうくらいのものしかない。
「調理器具って、フライパンとかもないんですか?」
 南野が頷くと、有沢は驚いたように目を見開いた。
「いやでも、電子レンジとか電子ケトルとかはありますよね?」
「どっちもない」
 その発言に有沢は映画の事はもうどうでもよくなってしまったようだ。目を白黒させて南野を見るその表情は険しく眉を寄せた怪訝なそれだった。
「それじゃカップ麺とかどうしてたんです? 冷凍食品も温められないじゃないですか」
 料理が苦手な南野は一切の調理器具を持ちあわせていない。有沢が言うように一般的な調理家電くらいは買うべきなのかと迷う事もあったが
「コンビニ近いからカップ麺は買ったコンビニで湯入れて帰ってくるし。冷蔵庫ないから冷凍食品を家で食う事もないし」
――二十四時間年中無休のコンビニエンスストアが徒歩二分の距離にあると、そうそう困る事はなかった。
「え……? 今の日本で冷蔵庫なくてどうやって生活するんです?」
 しかし、有沢の眉間の皺は増々深く刻まれる。
 冷蔵庫がなくても、食料の買い置きをしない南野にはなんら問題のない話なのだ。
「だから、コンビニが近いんだって」
「いや、それはもうわかりました。でもだからってあんたコンビニで全部済ませてたんですか?」
 しかし、それはどうやら有沢の理解の範疇外のようで、詰問するような口調で問われてしまう。
 この現代の日本では、コンビニさえあれば困る事はない。置いている品揃えに偏りはあるが、腹を満たすという面においては満足だ。冷蔵庫がなければ食事の度に買い出しに行かなければならないが、冷蔵庫を買うという煩わしさに比べればなんのことは無い。
 それに、南野の性格では冷蔵庫の中はすぐに荒れ果ててしまうだろう。
「はぁ……」
 有沢は大袈裟な溜息を吐き、南野を抱き寄せる。
「あんた本当に健康とか気を遣いましょうよ……」
「今は有沢の飯食ってるし」
 有沢の腕の中で子供のように悪態をついてみた。
 有沢と付き合い始めてからというもの、平日の昼食は全て有沢の作る弁当だったし、夜や休日もこうしてご馳走になったり、外食に行く事も増えた。
 栄養面の事は南野にはあまりよくわからないが、コンビニだけで済ませていた頃に比べれば明らかに良くなっている事は確かだ。
「……遊びに行く時は温めなくても食べられるものをお弁当に詰めていきますね。だから、南野さんちに遊びに行ってもいいですか?」
 なぜ有沢はそこまでして自分の家に来たいのだろうか――南野がその疑問を口に出す事はなかった。考えるまでもなく、その気持ちはよくわかったからだ。いつか南野も抱いたことのある気持ちだった。
「……考えとく」
 けれど南野は、そう言葉を濁した。
 何の面白みもない部屋だ。有沢を招いたところで、何もする事はない――さっきも述べた通りの理由は建前にすぎない。
 自身の部屋は盾でもある。自分を守る盾で、自身と外界を隔てるものだ。
 誰にも見せたくない内面がある。有沢の温もりを感じながら、いまだに彼女を想い続けている事は、南野の秘密だ。そんな事を有沢に知られてしまえば、傷付けてしまうのは目に見えている。
 何もないがらんどうの部屋は、南野の心そのものだ。何もない場所に今にも崩れそうな想いだけを詰め込んでいる。
 あの部屋には、まだ有沢を招きたくはなかった。



 いつまで有沢に甘えているつもりなのだろうか。いつまで有沢に甘えられるのだろうか。
 いくら有沢が一途であろうと、南野がその想いに応えなければ、その愛もいつしか尽きてしまうだろう。
 それをわかっていても、南野は有沢との距離をそれ以上詰められずにいた。
 飯の世話をしてもらって、時にキスを交し、時に身体を触ってもらう。そのどれもが一方的なもので、南野は有沢に何もできていなかった。
 このままの関係を続けていれば、いずれ終わってしまうのだろう。そう思うと寂しいような気もしたが、それはそれでいいのではないだろうかとも思っていた。
 結局のところ、南野は彼女以外愛せない。いくら想いを傾けられようとも、それに応える事はできない。手での愛撫は受けようとも繋がる事は拒否し、だからと言って南野が有沢に手を使うわけでもない、家への訪問は断固として拒否しつつも、その他の場所には誘われれば行く。それがどれだけ我儘な事なのか南野自身理解していた。理解しながら、続けていた。当然、それでは有沢の不満も溜まっていく一方だ。関係を続けていくには無理のある話だった。
 一人きりの部屋の中で、見慣れた天井を見上げる。いつか有沢を招ける日は来るのだろうか。彼女への想いに終わりを付けて――朝倉ともう一度、音楽を出来る日はくるのだろうか。
 その日を願うのに、歩みは進まなかった。
 深夜零時をまわった頃、コンコン、と玄関の扉がノックされた。
 南野は音のした方向をちらりと見てから溜息をを吐き、玄関の鍵を開けるために立ち上がる。一体誰が来ているのか――答えは一人に決まっている。
 ガチャリと扉を開け、顔も見ずに声を出した。
「だから、来る時はなんか言えっつの。俺が寝てたらどうするんだよ」
 ドアの向こうには予想通り、朝倉がいた。
 ギターを背負い、少し伸びた黒髪を首の後ろで縛っている。
「そん時は朝まで待つさ」
 へらへらと笑いながらそう答えた朝倉を南野は部屋へと招き入れた。有沢の訪問は頑なに拒むくせに、朝倉の訪問は受け入れている。
 関係が違う。一緒にいた時間が違う。有沢はかりそめの恋人でも、朝倉は本物の親友だ。どちらも同じくらいに大切だったが、過ごした時間が長い分、朝倉の方が心許せる関係だ。
 しかし、その朝倉にも南野の心全てを許したわけではない。
「飯、食う?」
 朝倉は手に持っていたコンビニのビニール袋を掲げて見せた。
「ああ」
 いつだったか、酒を飲みに行って以来久しぶりに顔を合わせる。あの日、険悪な雰囲気でろくに別れも告げずに去ったのに、今はこうして普通に喋っていた。あの日朝倉が触れたのは、いわば『タブー』だ。南野の触れられたくない場所に執拗に触れたせいで、南野は機嫌を損ねた。
 その怒りをいつまでも引き摺る程南野も子供ではない。あの日の事は、あの日で終わりだ。
 二人でコンビニの弁当をつつきながら、他愛のない話をする。けれどどこかぎこちないのは、あの日と同じ轍を踏むまいと互いに気を遣っているからだろう。
――あの日、朝倉はもう一度南野と音楽をしたいのだと言った。学生の頃のように、夢を見ていた頃のように。今はもう夢を見れないとしても、好きなものを信じて生きていきたいのだと言う。
 南野だって、それは同じだった。己の全てを表現できる音楽をもう一度したかった。朝倉の弾くギターにのせて歌う事は何よりも心地良く、一緒に音楽をやっていたあの瞬間は何よりも輝いてた。
 けれどもう今は、歌う事が出来なかった。
「……このトンカツさ、なんか微妙じゃない?」
 今日の弁当は二人とも同じもので、トンカツ弁当だった。白いご飯とトンカツ、形だけの漬物とポテトサラダが入っているシンプルなものだが、コンビニ弁当にしてはうまいと評判のものだ。
 そのトンカツを口に運びながら、南野は首を傾げた。
「そーか?」
 けれど、朝倉はそれを理解できなかったようで南野と同じく首を傾げた。
「んー……なんか、あんまり美味しくない」
「愛妻弁当の食いすぎなんじゃね。……男の場合は愛妻、じゃないか……」
 朝倉に言われて合点がいく。
 ここしばらく食事はほとんど有沢と一緒にしている。有沢の手作りが八割を占めていたし、残りは外食だ。それらと比べれば、いくらうまいと言われているコンビニ弁当でも所詮はその程度のクオリティなのだ。
「まあ確かに、あいつの飯うまいしなぁ」
 南野が言うと、朝倉は肩を揺らして笑った。
「愛されてんねぇ」
 からかう口調で言うと伸びた前髪をかきあげ、口に飯を運ぶ。
 美味くないとは言え食べられないわけではない食事を南野も再開させた。


 その日も南野は有沢の自宅に呼ばれていた。明日に休みを控えた金曜日の夜は有沢の家にいくというのがここしばらくの恒例だ。
 有沢の家に言って何をしているのかと言えば、答えは一つだけだった。
「ん……」
 狭いソファの上で正面から抱き合いながら唇を重ね、舌を絡める。ジーンズのベルトは緩められていて、寛げたその隙間からは有沢の手が侵入していた。局部を冷たい手に握られて思わず吐息が漏れる。
「南野さんの、もう濡れてますね」
 そう言いながら手は輪を作り、男根を扱きあげる。根元から先端へ絞るように強弱をつけて動かされると、腰が震えるような快感を覚えた。
「あり、さわ……」
 名を呼ぶ舌を絡め取られ、身体に電流が走る。己の欲望をぶつけるかのように激しく口内を犯され、南野の呼吸は絶え絶えだった。それと同時に陰茎を摩擦されて追い立てられる。上と下から与えられる刺激は酷く蠱惑的で今にも陥落してしまいそうだった。
「南野さんっ……」
 向かい合った膝に男の股間があたる。余裕のないその声の通り、そこはもう成長しきっていて服越しにでも硬さがわかるほどだ。
 有沢に触れられた事はあっても、有沢に触れた事はない。有沢が南野に触れるよう求めた事はなかったからだ。その局部をぐりぐりと押し付けられ、緊張で身体が強張った。
 南野はあらゆる性癖に対して寛容だったが、自ら男のそこに触れたいと思った事はない。
 何も言わないだけで有沢も触れて欲しいはずで、そこに手を伸ばせばきっと喜ぶのだろうとは思いながらも、それをする事が出来ないのは、その先に進む事が怖いからだ。
 男の手に扱かれて快楽は高まっていく。
 自分でするそれとは比べられない程に大きな快感に呑まれて、虜になってしまいそうだった。
「あっ……イキそ……」
 先端からだらだらと蜜を溢れさせている男根を容赦なく扱かれて、身体に渦巻く快感が溢れ出る。
「――くっ」
 抑えようと息を詰めてみたものの、男の手に煽られる快感は簡単に我慢できるようなものではなかった。
 精道を白濁が駆け抜ける感覚に腰を痺れさせ、有沢の手を白い蜜で汚した。有沢はそれが零れて服やソファを汚さない様に受け止め、用意していたティッシュで拭いとる。青臭い独特の香りがやけに羞恥を煽った。
 肩で息をする南野を引き寄せた有沢は、その頬に何度もキスを落とす。絶頂を迎えて落ち着いたのは南野だけで、有沢はまだ体内に熱を燻らせている。
 その熱を押し付けられても、南野は気まずそうに身体を強張らせるだけだった。
 有沢の喜ぶ顔を見たいとは思っていても、そこに手を伸ばす勇気はない。それでも勇気を出すべきなのかとそちらに視線を遣ったところで、聞き覚えのある電子音が部屋に響いた。
 その音の出処は、ソファの前に設置されたテーブルの上に放り出していた南野のスマートフォンだ。
「あ……悪い、電話だ」
 南野のは有沢を押し退けると、その電話をとった。
『なんか、留守なんだけど』
 名も名乗らず、相手が聞いているかどうかも確認せず、通話が開始された途端に本題を切り出すような男は朝倉以外に知らない。
「そりゃまぁ、出掛けてるから」
 有沢は南野の隣で不服そうに唇を尖らせながら息を静めていた。南野は耳と肩にスマートフォンを挟むと有沢の手を取り、そっと己の指を絡めた。
 うっかり電話をとってしまったが、本来であればあのタイミングで出るべきではなかったのであろう事は南野にも想像できる。
 その失態を取り繕うために、いわば媚を売っているのである。
『折角仮眠しにきたのに』
「おまえ、人の家をなんだと思ってんだよ。寝るなら自分ちで寝ろっつの。っていうか前から来る時は事前に言っておけって言ってんじゃん」
 携帯電話の向こうの朝倉はそう言いながらも声の調子は怒っているわけではないようだ。
『えーそれはメンドイからやだ。まぁいいや、今日は帰るわ』
 冗談めかして言う声は快活に笑う。なんだよそれ、と言い返そうとしたところで横顔に強烈な視線を感じた。
 有沢の方を見ると、ぱちりと目があう。あまり機嫌が芳しくないようだ。
「はいはい。ほかに用事ないなら切るけど」
 確かに、目の前で恋人が中身のない長電話をしていれば不快にもなるだろう。
『んー、また出直すわ』
 その声を確認すると、手短に「じゃあな」と、声をかけて通話終了ボタンを押した。
 有沢と付き合い始めてしばらく経つが、機嫌の悪い有沢というのはあまり見た事がない。
 電話を終えた南野が有沢を視線で窺うと、有沢は低いテンションと声で言葉を紡いだ。
「……男、ですよね。友達ですか?」
 眉間に皺をいれ、訝しむ感情を隠そうともしていない有沢ははじめて見るものだった。
「友達……だけど」
 普段、常に笑顔な男なだけに機嫌が悪そうだ、というだけでそれなりの迫力がある。
「その友達は家に泊めたりとかよくするんですか」
 ぎろり、と睨まれて背筋が寒くなる。
 疚しい事は何一つない。朝倉はただの友達で幼馴染で、まるで兄弟のような存在だ。
「よく……ではない、けど、たまに……?」
 それなのに、答える声がしどろもどろになってしまうのは何故だろうか。
「南野さんって、俺が南野さんちに行きたいって言っても絶対呼んでくれないですし、俺がここに泊まっていけって言っても絶対にヤダって言いますよね」
「それは……」
 恋人と――親友では扱いが違う。まだ踏ん切りのつかない場所へ進もうとする有沢と、ただ同じ時間を過ごすだけの朝倉では、心構えだって違う。
 有沢の事は可愛いとは思うし、情だってある。有沢と過ごす時間は心地良く幸せだ。
 けれど、まだ己の部屋に入れる勇気はない。何もないがらんどうの部屋を見せる勇気はない。それ程までに――いまだ彼女を想い続けている事を打ち明ける勇気はない。
「……」
「……」
 有沢の鋭い視線に睨まれて、南野は紡ぐ言葉の続きを失った。
 有沢が何に対して怒っているかは説明されなくてもよくわかる。



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