溺れる事は簡単で、故に難しい。 第十一話


 初めてのキスは甘く蕩けるように心地が良かった。
 有沢が作ったパフェは砕いたクッキーに、生クリームとチョコシロップ、それにバニラアイスを添えるというシンプルなものだった。身体の芯まで痺れるような甘さに舌鼓を打ち、夜は共に酒を飲んで過ごした。肴は唐揚げや焼き魚を中心にしたものだった。
 普段食べる弁当は冷めているが、それでも充分旨さを感じ取る事が出来た。しかし、その日食べた出来立ての総菜たちはいつもの弁当よりも更に旨く、口に入れる事が幸せだった。
 一緒に手を繋いで他愛もない会話を交わし、時折口づけをする。触れ合った唇は柔らかく温かい。太陽が顔を隠してしばらくした頃、南野は酒のまわった身体で有沢の家を後にした。
 泊まっていけばいい、と言う有沢を振り切るのは至難の業だった。――泊まりたくないわけではない。出来る事なら泊まってしまいたかったが、このまま泊まってしまえば、キス以上の全てさえも受け入れてしまいそうだった。
 いつかは受け入れなければいけないのだと言う事はわかっている。ただ、今はまだその覚悟は出来ていない。
 身体を繋ぐ事は、心の繋がりもそれなりに欲しかった。――有沢の方からの想いはきっともう充分なのだろうが、南野の方はそうではない。もう少しだけ確固たる想いを築いておきたかった。
 電車に乗って自宅に帰り、扉を閉める。先ほどまでは有沢と一緒にいたはずなのに、今は一人きりだ。楽しかった分、余計に孤独が増していく。
 服を着替えてベッドに倒れ込むように寝ころんだ。
 このままでは前へ進む事はできない。けじめをつけてしまわなければ、有沢に対しても彼女に対しても、不誠実なままだ。
「有沢……」
 ここにはいない人間の名を呟く。
 有沢の腕に溺れるのはきっと簡単な事なのだろう。何も知らないフリをして、過去の事も全て忘れたフリをして、どこまでも優しい腕に飛び込んでしまえばきっとその腕は南野を受け止めるのだろう。
 電気を消すと部屋は暗闇に包まれる。
 思い返すのは唇に触れたあの柔らかく温かな感触だった。キスをしたのは、有沢が三人目だ。
 彼女との思い出が上書きされていく気がした。彼女と築いたものが、音を立てて壊れていくような気がした。それを望んだのは紛う事なく自分のはずなのに、後悔が溢れそうになってしまうのはなぜだろうか。
 忘れたいと願うのに、崩れて零れてしまう思い出が切なかった。
 目の奥熱に熱さを感じて、無理矢理瞼を閉じてみる。程よく酒がまわっているせいか睡魔はすぐにやってきた。
 寝ている間だけは、現実の全てを忘れられた。

「おはようございます」
「おはよ」
 いつも通り――見慣れたスーツ姿の有沢と自身のデスクで挨拶を交わして一日がはじまる。
 ここ最近、休日も有沢と会ったり、会わなくてもメールや電話をしているせいで南野にとって有沢の比重が大きくなりつつあった。
 仕事をしている最中は互いに仕事に集中しているので私語を交わす事はないが、ちょっとした休憩や仕事終わりなどの時間には共に過ごす事も多かった。
 昼休みには有沢の手作り弁当もまだ続いている。昼休みになると有沢のデスクに南野の椅子を入れ、ぎゅうぎゅう詰めになりながら弁当を食すのだ。
 だから今日も南野は昼休みの合図とともに仕事を切り上げ有沢と一緒に弁当を囲んでいた。
「今日は昆布巻き作ってみました」
 ぱかり、と開けた弁当の中には見慣れたたまご焼きやから揚げ、ちくわのチーズ詰めなどに混じって、濃緑色の何かに巻かれた橙色の物体があった。
 最近は一人一人に弁当箱を用意するのではなく、重箱のように大きな容器に二人分のおかずを詰めたものを一つ、一人前のご飯を詰めた容器を二つが用意されていた。時折デザートにカットフルーツやクッキーなどがついたりもする。
「昆布巻き……って、俺食べた事ないかも」
「えっ……!?昆布巻きですよ……!?お正月のおせちとかで食べないですか?」
 南野が言うと、有沢は驚いた風に目を見開き南野の方を見た。
 そんな顔で見られても、食べた事がないというのはそこまでおかしなものなのだろうかと思いながら恐る恐る昆布巻きを取る。
「俺の実家、おせちとか作らなかったし……」
 知識の上では昆布巻きがどういったものなのかは知っている。が、今まで遠ざけていたわけではなかったが縁遠かったため、食べた事はなかった。
「そうなんですか……。最近おせち作らない家庭って多いですもんね」
 初めて口にする昆布巻きは、簡潔に言えば素朴な味をしていた。確かにうまいと思うし、酒と共に食べるのならば格好の肴だろう。しかし、会社で食べる昼食の弁当としてはいかがなものなのだろうか。――作ってもらった分には文句を言わず食べるし、味も申し分のないものだがご飯は進まなかった。
「有沢の実家はおせち作ってるんだ?この昆布巻きは実家の味?」
 昆布巻きも口にしつつ、他のおかずでご飯を食べながら有沢に話しかける。
「ええ。うちは田舎で、祖父母とかも同居してたんでおせちは毎年作ってました。祖母も母も嫁姑関係なんですけど二人とも料理好きな人で仲も良くて、俺も姉や妹と一緒になって料理を教えてもらったんです」
 有沢の過去の話を聞くのはこれが初めてだった。思えば兄弟がいるという話も今はじめてきいたものだ。
「へー……料理好きな血筋なんだな」
 料理が出来ない南野にとっては夢のような話だった。
 二人で弁当を食べすすめ、楽しい時間はあっという間に終わってしまう。
「ごちそうさま。今日もうまかったよ」
 有沢に弁当箱を返し、礼を言う。
「いえいえ、こちらこそ食べてくださってありがとうございました!」
 すると有沢は嬉しそうに笑うのだからたまらない。
 有沢の弁当を食べる事も勿論楽しみだが、その後の笑顔はもっと楽しみだった。大人になった今、有沢のように純粋に笑える人間を南野は知らない。
 あまり長時間こうしてぎゅうぎゅう詰めになっているのも他の社員の目についてしまう。南野がそろそろ椅子を元に戻そうかと腰をあげかけて、その手を有沢に掴まれた。
「なに」
 南野たちの背後は壁で、前と左右はパーティションで区切られている。だから、ブース内に誰かいる事はわかっても、覗き込まない限り何をしているかはわからない。
「しーっ」
 有沢は唇の前で人差し指を立てて、静かに、とポーズを作った。
 その唇が近寄る。
 ここは会社で、今は昼間で、周りには他の社員たちがたくさんいる。そんな場所で――と、抵抗しようにもパーティションに阻まれて大きな抵抗はできない。――しようと思って出来ない事はないのだろうが、そうすれば何かしらの音を立ててしまう。そうして周りの注目を集めてしまっては南野の不利にしかならないはずだ。
 明るい蛍光灯と、背後からは眩しい程の太陽に照らされて、パーティションに隠れた二人の唇は合わさった。触れるだけの、まるで挨拶かのようなそれだった。
 触れ合っていたのはほんの一瞬だろうか。けれど、南野には永遠のような長さに感じられた。
「……」
 ゆっくりと唇は離れ、南野は赤く染まった頬で目を逸らす。
「午後からも頑張りましょうね」
 真っ直ぐな瞳に捉えられて、南野は静かに頷いた。
 何もしなくても時間は流れ季節は過ぎていく。蝉の煩さも消えてなくなる頃もまだ、南野と有沢の関係は変わらないまま続いていた。平日は一緒に有沢の作った昼食を食べ、人目を盗んでは戯れのようなキスを交わす。仕事帰りに何か食べに行く事もあるが、食べた後はすぐに解散して明日の仕事へと備えた。休日は二週間に一度は二人でどこかへ出かけ、会えない日はメールや電話で連絡を取り合っていた。
 次への一歩を探っているのは、南野だけではない事も察している。有沢だって、大人の男なのだ。キスだけで満足できるはずもない。
 そして、南野もそれを受け入れるタイミングを探り続けていた。



 その日の仕事を終えた南野が自宅に辿り着くと、既に先客がいた。
「よっ」
 南野の部屋の玄関ドアにもたれかかった朝倉は、南野の姿を認めるなりそう片手をあげて挨拶をする。
「……よ。って、何してんの」
 南野も返事をしながら、呆れたような溜息を吐く。朝倉がこうしてアポイトメントなしにやってくるのはいつもの話だ。どうせ来るなら何か連絡をくれればいいのに、と思うのだがその癖は治らないようだ。
 学生の頃ならいざ知らず、今の南野はそれなりに忙しい。予定外に仕事が長引く事もあれば、会社の同僚に誘われて夕食を済ませる事もある。有沢との予定がある時だってある。
「たまたま近く寄ったからさ。ほら、飲みに行こうって前言ってたじゃん?」
 そう言われて、南野は合点がいった。日々を過ごす事に追われてうっかり忘れていたが、そう言えばそんな約束もしていた。あの日約束をして以来、連絡さえとっていなかった。
 南野は左腕に嵌めた腕時計を見る。明日も平日で仕事があるが、旧友と過ごす時間も捨て難い。
「ったく、仕方ないな。どっか行きたい店あんの?」
「安くてうまい酒が飲めればそれでいいや」
 そうして南野は帰宅する事なく、朝倉と連れ立って近所の居酒屋へ向かう事にした。
 その居酒屋は徒歩十分程の距離にある。全席が衝立で区切られた簡易的な個室になっていて、海鮮を売りにしていた。価格帯も平均より少し安いくらいの設定だ。
 南野たちが案内された部屋は掘りごたつになっていて、個室に入って奥が南野、手前が朝倉、という風に向かい合って座る。適当に酒と食事を注文し、ほどなくそれらが運ばれてきた。
「じゃ、乾杯」
 カキン、とよく冷えたビールグラスを重ね合わせ、口を付ける。
 正面の顔は少し懐かしい。昔は毎日一緒に過ごしていた。中等部から高等部まで、毎日同じ教室で勉強して休み時間には戯れ合い、部活動に勤しんで放課後にはまた笑い合った。休みの日だって同じ様なもので、共に歩んだ青春は輝かしく、今の南野を形成するには必要不可欠な時間だった。
 南野にとって朝倉はかけがえのない親友だったし、朝倉にとってもそれは同じだろう。それなのに、近頃は一ヶ月に一度会えればいい方だった。
 しかし、友情を確認する頻度が減っても友情に亀裂が入るわけではない。こうして酒を飲み交わしながら近況を確認しあうのも楽しいものだ。
 二人はだらだらと注文した刺身をつまみながら酒を飲み、他愛のない会話を繰り広げていた。
 有沢と話をするのも楽しいが、朝倉との会話は単純に楽だった。
 幼い頃からずっと一緒にいて、互いの趣味趣向は理解している。余分な説明はいらなかったし、会話に気を遣う必要もない。会話が尽きたとしても、沈黙を恐れる必要はなかった。沈黙で険悪になる事はないからだ。
 四杯目の酒を注文したところで、朝倉はふと思い出したように口を開いた。
「そういえば恋人とはうまく言ってんの?」
「まあ、普通な感じ」
 有沢の顔を思い出す。会社を出る時に別れたっきりでそれから携帯電話を確認していない。いつもの調子なら恐らくメールが入っているのであろう。
 南野が答えると、朝倉は無表情にふぅん、と頷いた。
「なにその反応」
 てっきり、そこから何か話を広げるのかと思っていたのに、そんな反応をされてしまっては南野も戸惑ってしまう。南野がそれを問うと、朝倉は肩を竦めて言った。
「すぐ別れるかと思ってた」
 朝倉は酒を呷り、背もたれに体重を預けた。
 普通ならばそれは怒るところなのだろうが、南野は曖昧に笑うだけだった。――否定は、できなかった。
 有沢の隣は温かくて過ごしやすい。有沢の腕に掴まっていれば、今までの過去も全て忘れられる気がした。
 乗り越えられる気がした。
 けれど、その壁はいまだ南野の前に高くそびえたつ。有沢との関係が深まる度、南野の罪悪感は増していく。
「まあ、お前が恋愛できるようになったなら良かったよ」
 そう言われて、南野はどこか遠くを見る。
「恋愛、ねぇ。してんのかね」
 有沢の隣は心地良い。罪悪感が溢れてしまう程には楽しかったし、ほんの少しだけ幸せだったあの頃に戻れたような気分にもなれる。もしかしたら自分だって幸せになれるかもしれない、全ての罪を忘れて、人並みの幸福を手に入れる事が出来るかもしれない、とさえ思える。
 けれど、有沢に恋心を抱いているのかと問われれば、それは違うとはっきりと言える。有沢を可愛いと思うし、大切だとも思う。しかし、その感情はきっと、恋人という関係になる前から抱いてた『年下の後輩』からの延長線上のものにしかすぎない。
「俺はやっぱ、恋愛なんかできないかも」
 手の中のコップを手持ち無沙汰に揺らすと、グラスの中の氷がぶつかって冷たい音を立てた。
 触れる事を許し、唇を許し、いずれはその先へ。だが、そこに恋心は伴わない。――言わば、対価だ。過ごしやすい有沢の隣にいるための対価を支払っているような気分だ。
「そろそろ切り替えてもいいタイミングなんじゃねーの」
 朝倉の言葉に曖昧に首を傾げた。
 それは、南野自身もずっと思っていた事だ。いつまでも過去に囚われて、しがみついて、この先の一生を過ごしてしまってもいいのだろうか――そう考えて、有沢と付き合い始めたはずだ。進みたくて、立ち止まってしまった足をもう一度動かしたくて、その手に縋ったはずだ。
「そんな簡単には無理だよ」
 南野の声に力はない。
 彼女を想う事は贖罪だ。守れなかった彼女への、幸せにしてあげられなかった彼女への、贖罪だ。
 彼女がもしも今も時間を続ける事が出来ていれば、南野の気持ちは揺らぐ事なくずっと彼女の方を向いていたはずだ。だから、南野は彼女がいなくなった今も思い続けている。それが彼女への弔いで、償いだった。
 何の意味もない、自己満足である事は南野自身が一番よく理解している。けれど、己にかけてしまった呪縛は日を追う毎に強さを増し、解けない。
「……簡単に、ねぇ?」
 朝倉は言葉を繰り返し、酒を呷る。
「もう充分だろ。お前は一人で背負いすぎてたんだよ。……そもそも背負う必要なんてなかったのに、無理矢理背負いこんで苦しんで、本当意味わかんねーよ」
 その語調はまるで嘲笑しているかのようなそれだ。
 足元が、ぐらりと揺れる様な感覚。己の存在を、否定されるかのような感覚。
「なに、それ。あいつが死んだのは俺のせいなんだし」
 問う声は僅かに震えていた。その声を朝倉が遮る。
「そうやって、さやかさんの為だ、つって逃げんなよ。さやかさんが死んだのはお前のせいじゃないのに、なんでお前がそこまで気に病む必要があるんだよ」
 彼女が亡くなったのは事故だった。歩道を歩いていた彼女は、運転を誤った車に巻き込まれてその生涯を閉じた。
 日本のどこにでもあるようなありふれた事故で、不幸な事故だった。
「俺が守っていれば――あいつは、死ななくてもよかった」
 そして、その場には南野も一緒にいた。彼女の隣には南野がいた。
 もしも二人の立ち位置が逆ならば、もしもあと三歩立っている場所が違っていれば――結果は変わっていたのだろう。
「……事故だったんだ。お前にはどうしようもできなかった」
 朝倉は拳をぎゅっと握りしめる。
 運が悪かった、その一言で済ませるような現実ではない。起こってしまった現実は覆る事はない。
「お前は今まで充分苦しんだだろ?さやかさんだってそうやっていつまでも過去を引き摺って苦しんでるお前なんか見たくないはずだ」
 過去を思い出す事は嫌いだった。
 幸せだった頃を思い出すから。自分の罪を思い出すから。あったかもしれない未来を想ってしまうから。悲しくなってしまうから。
 自分の非力さを痛感するから。
「お前に、俺の何がわかるんだよ」
 その声音には憤りが含まれていた。低く静かに、唸るように声を出す。
 いくら南野が想っても、自己満足の償いをしても、何も変わらない事は知っている。過ぎ去った時間は返る事はないし、彼女がもう一度呼吸をする事もできない。
 それをわかっていながら、自分ではどうする事もできなかった。
「お前に、さやかの何がわかるんだよ」
 目の奥がやけに熱く、泣いてしまいそうだった。
 程よくまわっていたはずの酔いはもう感じる事が出来ない。テーブルの上に並べられた惣菜たちを見ても食欲はわかなかった。
 今はただ、酒を飲みたかった。
 南野はグラスの中に半分以上残っていた酒を一気に飲みほすと、テーブルの上の呼び出しボタンを押して店員に酒を注文した。
 朝倉はもう何も言わなかった。酒を呷る南野をぼんやりと眺めながら、時折唇を湿らすかのように酒を口に含む。
 やってきた酒も喉に流し込み、テーブルの上の食べ物を押し込む。有沢の飯に慣れ過ぎたせいか、食に対しての感動は得られなかった。いくら飲んでもまわらない酒をあてつけの様に流す。
 南野が追加した四杯目を飲みきったところで、二人は席を立った。会計は丁度半額ずつ出して済ませる。――その間も二人が話をする事はなかった。それどころか目も合わせず店を出た。
 どこからともなく虫の鳴き声が響く夏の夜はどこか切なさを覚える。
 南野は後ろを見る事もなく自宅の方向へと歩き出した。朝倉はその後ろ姿にぼそりと呟いた。
「俺は、もう一度お前と音楽がやりたいだけなんだ」
 聞こえたその声を無視して歩みを進める。朝倉が追ってくる事はなかった。



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