溺れる事は簡単で、故に難しい。 第八話


 ハンバーグ店の会計は、自ら払おうとする有沢を押し切る形で南野が支払った。
 南野のリクエストでハンバーグに決めたのだから、と言ってしまえば有沢も渋々受け入れるしかなかったようだ。二人でおよそ四千円程だろうか。映画と合わせればそこそこの出費だ。休みの日にどこかに出かけて最低限の食事以外に金を使うのは久しぶりだった。
 物欲もなければ特に趣味もない南野は、金を使う場所がない。毎月、貰った給料の半分以上はそのまま貯まっていくばかりだった。
 南野たちはその複合ショッピング施設地下にあるカラオケ店へと向かった。土曜日の昼間、周囲の他の客たちは十代ばかりが中心で、二十代半ばをすぎる二人は少しだけ居心地が悪かった。しかし、それも個室に入ってしまえば気にはならなくなる。監視カメラがあるとは言え、立派な密室だ。
 案内された部屋はほんの三畳程の個室で、大きな画面のカラオケ機器とテーブル、それにソファが詰め込まれている。ソファはL字型に配置されていた。
 南野は迷わずそのソファの入り口から奥まった方へと腰掛ける。
「ワンドリンク制ですよね。なに注文します?」
「じゃあ俺メロンクリームソーダがいい」
 すると、有沢は室内に設置された電話を手に取り、メロンクリームソーダとアイスコーヒーを注文した。注文したドリンクはほんの数分程で運ばれてくる。ちょうど、有沢が机の上に開かれたフードメニューを片付けたりや、カラオケ機器の脇に置かれたリモコンやマイクを用意した頃にやってきた。
「クリームソーダお好きなんですか?」
 店員から受け取った冷たいグラスを南野の前に置いた有沢は、南野の隣に座りながら言う。
「甘いものは割と好きだし……」
 そう答えながら、違和感を感じた南野は少し尻をずらして有沢から離れる。
 前述したが、ソファはL字型に配置されている。部屋自体が狭いので一辺に座れるのは二人までだろう。そして、この部屋は四人で使う事を想定しているのではなく、基本的には二人連れの客のためであると予測される。一辺に一人ずつ座れば広くはないが十分に余裕がある。
 だから、南野のすぐ隣ーー同じ辺に有沢が腰掛ける事は違和感でしかなかった。
 南野が腰をずらして離れた分、有沢は距離を詰める。
 密着、という程でもない。太股の外側の服が触れ合っているくらいだ。これならば職場で昼飯を食べる時のように、一人掛けのデスクのあるブースに二人で並んだ時の方が密着感は上だ。
 それなのに、やけに緊張を誘われるのはなぜだろうか。カラオケ店特有の、抑えられた照明のせいだろうか。
「甘いもの、ですか。なんか以外ですね」
 有沢は南野のその動揺に気付いているのかいないのか、会話を続行させてくる。
「アイスとか、生クリームとか好きでさ」
 動揺していると悟られるのが悔しくて、南野も意地で言葉を紡ぐ。有沢が動く度に服同士が擦れる。呼吸のタイミングまでわかるその距離で、南野は有沢の方を向く事が出来なかった。
「へぇ……もしかして、おかず系の食べ物よりそういうお菓子系の食べ物とかの方が好きな感じなんですか?」
 有沢は自身の膝に肘をつき、身を乗り出すようにして南野の顔をのぞき込む。いつもより暗い場所で見るその顔は、明るいところで見るようなどこまでも無垢なそれとは違って見えた。
「っ――!」
 まるで何も知らない子供のように動揺してしまう自分が悔しくて、恥ずかしくて、思わず顔を逸らしてしまった。
「……」
 近すぎる距離に頬が熱くなる。真剣な瞳から放たれる視線は今もなお南野の頬に突き刺さっていた。
「……何も、しませんよ。大丈夫です。南野さんに許可を頂くまで、無理に何かする事なんて絶対にないですから」
 聞き慣れた声は、いつも耳にする声色と同じだ。嘘をついた事のないそれだ。南野が信じようと思った、それだ。
「……だったら、何で近寄るんだよっ……!」
 顔は逸らしたまま、声を出す。鏡を見なくとも己の顔は赤く染まっているのであろう事はわかった。
「好きな人には、少しでも近くにいたいじゃないですか。・・・・・・怖がらせてしまったのならすみません」
 高鳴ったままの鼓動は落ち着き方を知らない。色々な女性に言い寄られ、いくら思いの丈を打ち明けられても、世間的に美人と評される容姿を持つ子に見つめられても、南野の心が揺らぐ事はなかった。それなのに、有沢だけに関してはどうも心がすぐに狼狽えてしまう。
「怖・……く、はないけど」
 怖いわけではない。覚悟はやはりできていなかったけれど、今の動揺はそういうわけでもなかった。強いて言うならば、有沢への免疫が足りなかったというところだろうか。
 南野に言い寄る人間は様々にいる。だが、南野の選んだ相手は過去に”彼女”一人きりだ。それ以外に恋愛経験と呼べるようなものはない。それに、ここ七年とは色恋沙汰と全くの無縁だった。身体だけの関係を築いた事はあったが、色恋沙汰への免疫は皆無と言っても間違いではないのだろう。
「……手、かして」
 南野は迷った挙げ句、そうして有沢の手を取った。顔を背けたまま有沢の手を掴み、その体温を感じる。ただ手を繋ぐだけで安心する事が出来た。
 人の体温が、こんなにも心を落ち着けるのだと生まれて初めて知った。
 カラオケ機器の画面の中では絶え間なく売り出し中の曲や、カラオケメーカーの企画案内などが流れている。二人は何も言わずそんな音に耳を傾けながら、ただ手を繋ぎ合っていた。
 それからどれくらいの時が経っただろうか。有沢はテーブルの上に置いていた画面一体型のリモコンを取って膝に置き、繋いでいない方の手でタッチペンを操り選曲をはじめる。その頃には南野の緊張は大分和らいでいたようで、目を合わさないまでも顔を背ける事はなくなった。
「有沢ってなに歌うの?」
 操作するリモコンの画面を覗き込んでみる。
 南野がまだ音楽をしていた頃も、興味があるのは自分たちで作る楽曲ばかりで、日本のメジャーシーンで流れる流行曲にそう興味はなかった。しかし、興味はなくとも情報は自然に集まるため、それなりに流行歌は知っていた。だが、意図的に遠ざけている今では流行の音楽は全くわからなかった。カラオケ機器から絶え間なく流れて来る曲も、リモコンの中に立ち並ぶ最新曲のタイトルも、南野には覚えのないものだった。
「んー……特に決めてなくて、わりとその日の気分によっても違うんですけど」
 タッチペンが画面に触れる度、特徴的な電子音が鳴る。有沢は選曲を迷っているのか、時折首を傾げながらタッチペンは空中を彷徨った。そんな動作を繰り返しながらもしばらくすると心も決まったようで、部屋のスピーカーからは今まで流れていた宣伝用の案内とは違う大きな音でイントロが流れ始める。やはり、南野の知らない曲だった。
 有沢はリモコンをテーブルの上に返してからマイクを取り、スイッチを入れて歌い始める。ゆったりとした曲調のそれは恋愛を綴った曲のようだ。刻まれるドラムスのリズムが心地良く、主体となっているピアノの音に有沢の声はよく合っていた。
 いつも聞いている喋り声とは少しだけ違う有沢の声が部屋に響く。伸びやかな歌声はどこまでも優しい。職場の皆では何度かカラオケに来た事があるのだから、南野も有沢の歌声を聴くのはこれが初めてではないはずだ。それなのに――やけに新鮮で清々しい。荒削りではあるがのびしろを感じられる――と、つい考えてしまうのは南野がかつて音楽で食べていく事を目標にしていたからだろうか。
 サビまで到達してみれば、南野もその曲に心当たりがあった。曲名やアーティストこそ定かではないが、何度かコンビニでかかっているのを聞いた事がある。耳に残るメロディアスなそれは今夏、近年では稀な大ヒットを生み出し話題になっているのだという。
 どちらにせよ、さほど興味はわかなかった。
 音楽を聞けば思い出してしまう。己の中に燻る歌いたいという欲求を。
 けれど、いくら願ったところでもう歌う事は出来ない。もうここにはいない――南野の中に生きる彼女を、裏切ってしまう事になるのだから、歌う事は出来なかった。
 隣で楽しげに歌う有沢の横顔を見詰めながら、改めて思ってしまう。リズムに乗せて歌を奏でる事は何よりも気持ちよかった。内に秘める己を全て出せるようで、なんでも出来る気がした。身体を包む鼓動のようなビートに身を任せ、持てる全てをぶつけて表現する喜びを――南野は知っていた。
「なんか、南野さんに聴かれてると思うと緊張しちゃいますね」
 知らぬ間に物思いに耽ってしまっていた南野は、有沢のその声で曲が終わっていた事に気付き、はっと顔を上げた。
「……緊張してた割にはうまかったと思うけど」
 その言葉に嘘偽りはなかったが、後半はほとんど聞いていなかった。
 誤魔化すように繋いでいた手を解き、目の前のクリームソーダをとる。温かった有沢の手と打って変わってグラスは凍えそうに冷たい。ストローで緑色の液体をすすってからささっていたスプーンで一番上にのっているバニラアイスをつつきはじめる。
 有沢も南野を真似てアイスコーヒーを飲み始めるが、二口目で首を傾げてみせた。
「俺もコーヒーフロートにすればよかったかな」
「アイスちょっと食べる?」
 アイスを口に運びながら、グラスを傾けて有沢の方に寄せる。
「え……いいんですか……?」
 戸惑いと期待の入り混じった視線を向けられて、遅れてスプーンを銜えた南野もその意味を理解した。
 この部屋にあるのは南野が使っているスプーンただ一つだ。有沢がアイスを食べようと思えば必然的にそれを使う事となる。――つまり、間接キスだった。
 小中学生でもあるまいし、間接キスなど意識するだけ無駄である。身体はどこも触れる事はないし、スプーンや箸の共有は家族間や友人間でも普通に行われるはずの事だ。
 それなのに――意識していなかったのに、そんな瞳で見詰められれば気になってしまう。なんでもない事のはずだ、とわかっているのに、やけに緊張してしまう。
「……別にいいよ」
 刹那の動揺を隠すかのように南野は咥えていたスプーンを口から離し、ややぶっきらぼうに差し出した。
「えへへ。じゃあ遠慮無く頂いちゃいますね」
 頬を弛めた有沢の顔はどこまでもだらしない。
 スプーンを共有する事のどこがそんなだらしない笑みに至る理由になるのだろうか――同じ男であるのだから気持ちはうっすらとはわかったが、あまり認めたくはない現実だった。
 有沢は南野から緑色の液体を湛えた冷たいグラスとスプーンを受け取り、上にのったアイスとその緑色の液体を混ぜ込むようにしてスプーンへ掬い、口に運ぶ。
「……甘いですね」
 有沢はやや顔を顰め、そんな事を言う。
「まあ、そりゃ甘いだろうな。アイスなんだから」
 有沢の言わんとする事を理解できず、南野は怪訝に首を傾げた。
 渋い顔をした有沢は南野にグラスとスプーンを返し、自身の注文したアイスコーヒーを手に取る。
「いや、その、甘いのはわかってたんですけど、俺、甘いもの食べるの久しぶりだったんで予想外に甘かったっていうか」
 そうしどろもどろに答えながらアイスコーヒーを啜る。
 と、そこで南野は得心した。
「有沢って甘いもの苦手?」
 よくよく見てみれば、今飲んでいるアイスコーヒーも添えられているミルクとシロップには手をつけていない、ブラックのままだった。
「うーん、それくらいの甘さのなら苦手っていう程でもないとは思うんですけど、自分から食べる事ってないのでちょっとびっくりしちゃって」
 柔らかく表現してはいるものの、端的に言ってしまえば苦手という事で差し支えなさそうだ。
 南野は困ったように笑いながら
「じゃあスイーツデートとか出来ないな」
 と言った。
「……スイーツデートってなんですか? 南野さんが行きたいって仰るなら俺、なんでも構わないですけど」
「んー何か美味しいケーキ出すお店で気になってる所たくさんあるんだけどさ、そういうスイーツ専門店って女の子ばっかだから一人では行き辛くて」
 食べ物に好き嫌いはない。特筆して好きな食べ物もなければ食べられないものもない――のは、普段の食事に限った話だ。ケーキやアイスクリームをはじめとした甘いものは南野の大好物に値する。
 普段ももっと積極的に摂取したいとは思っているが近場で手頃に手に入れられる美味しいスイーツはなかなかなかった。コンビニのスイーツも最近では随分と美味しくはなったものの、専門店に較べれば天と地の差もある。
「そういえばさっき甘いもの好きだって言ってましたよね。途中で話変わっちゃったから聞けてなかったですけど。じゃあ、次のデートはスイーツデートにします?」
 元気よく頷こうとして、南野は踏みとどまった。突き返されたグラスの中身は、南野が行きたいどの店で出されるスイーツよりも甘くないはずだ。
「行きたい……けど、おまえ甘いもの食えんの……?」
 有沢は眉を寄せ、考え込むように腕を組む。
「甘いものが嫌いってわけじゃないんで……味は嫌いではないんですけど、たくさん食べると胸やけしちゃって。……ケーキ……一つくらいなら俺にも食べられるはずなんですけど……多分」
 その弱々しい声音の返答は随分と有沢らしくないものだった。南野は呆れたように笑みながら「じゃあ期待してる」と答えた。
 それから有沢は二曲をたて続けに歌い、南野はその歌声に聴き入った。――歌う有沢は、確かに楽しそうだった。楽しそうで、羨ましい。
 もう戻れない過去のように、何も考えずに歌う事ができればどれほど幸せなのだろうか。
 昔のように、朝倉の弾くギターにのせて歌を奏でる事が出来るようになる日は来るのだろうか。
 歌いたいと願えば願う程、闇は深さを増す。彼女のために捧げた日々が、歌が、心が、悲鳴をあげて泣き叫ぶ。
 いつまでも過去に囚われ続けるわけにはいかないと、自分でもわかっているのに囚われてしまう。
「そろそろ時間ですね」
 有沢に促されて二人はカラオケ店を後にした。建物を出ると、空は夕焼け色に染まっていた。人々の喧騒に紛れて時折カラスの鳴き声が聞こえる。
「今日は本当にありがとうございました。南野さんと過ごせて本当に楽しかったです」
 駅までの道を辿る二人は、だらだらと歩きながら会話を交わしていた。
「俺の方こそ、付き合ってもらってありがとな」
 この時間に解散すると決めていたわけではないし、どちらかが解散すると言ったわけでもない。デートにしては解散時間が早いような気もしたが、それはまだ恋愛事に戸惑いを見せる南野への、有沢の気遣いなのだろう。
 駅に到着した二人はそれぞれに切符を買い、改札へと入る。乗る電車が来るホームは別なので、別れはここになる。
 ほんの少しだけ名残惜しい気がするのは気のせいなのだろうか。
「あの、俺、お菓子作りも練習するんで、上手く作れるようになったら食べてくれますか?」
「もちろん。楽しみにしてる」
 そう言うと有沢はどこかの大型犬のように満面の笑みを零すのだから気持ちが良い。
 また会社で、と互いに軽く手を振って踵を返した。
 南野にとって久しぶりの充実した休日だった。



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