溺れる事は簡単で、故に難しい。 第四話


 夏の太陽は容赦のない熱気を放つ。うだるような暑さが身体を包み、ほんの少しの距離でも太陽に照らされた屋外の道を歩く事は億劫だと思える。
 だが、太陽が沈めば、それも少しはマシになる。昨日に引き続き、今日も有沢と南野は残業をしていた。フロアにはもう二人しか残っていない。
 活気のある昼間と違って半分程電気が消され、静まり返った薄暗い部屋の中でカチャカチャとキーボードの音を立てながら、互いに無言で仕事を進めていく。納期は近いが、終わりはもうすぐそこに見えている。今週いっぱい根を詰めれば、来週からは定時で帰れるような日々が戻ってくる事を予想できた。
「ん……」
 南野は椅子に座ったまま、凝り固まった身体を解すためにぐっと背を反らして伸びをする。頭上で腕を組み、左右に手を引っ張って肩を回す。ずっと猫背気味にディスプレイを見詰める姿勢でいたため、背を反らす事で滞っていた血液が流れる感覚がした。
「お疲れですね。肩でも揉みましょうか?」
 南野が動いた気配を、パーティション越しに隣にいる有沢も気付いたようだ。キーボードの音は止まり、有沢も伸びをしたのかパーティションの上部に伸ばされた手先が見える。
「疲れてんのはお互い様だろ」
「えーじゃあ南野さんが肩揉んでくれます?」
 軽口を飛ばすが、その声色には流石に疲れを見て取れる。連日終電間際まで残業をしていればそれも仕方のない事だろう。
「ヤだよ、なんで俺が」
 言いながら、再び画面を見詰めてみる。しかし、一度集中力が途切れてしまったためか、画面に表示されるコードを目で追っても頭に入ってくる気配がない。
「だって……」
 有沢の言葉の続きが気になり、仕事は一時中断させる事にし、背もたれに背を預けてパーティションを覗き込む。
「だって、何?」
 南野が問うと、有沢は振り返る。暗い部屋の中、ディスプレイから放たれる青白い光りに照らされた有沢の顔を見詰めた。ここ数年、平日は毎日顔を合わせている。その見慣れたはずの男の顔が、今は別人のように見えた。
「いや、ほら、まあ……なんていうんですか。その」
 言葉を濁し、視線を彷徨わせる。南野が首を傾げてその言葉の先を促すと、有沢は南野の様子を窺うようにしながらおずおずと口を開いた。
「その、……好きな人には触れたかったり、触れられたかったり……する、じゃないですか……」
 言いながら、有沢の頬は真っ赤に染まっていく。ゆでだこのように顔を赤く染めた有沢は定まらぬ視線を彷徨わせ、足元と南野を交互に行き来させる。
「好きな人……」
 仕事に気を取られてうっかり忘れそうになっていたが、自分は有沢と恋人になったのだという事を思い出す。もじもじと落ち着きのない有沢の姿はいつもに増して頼りない。けれど、それが何故かとても可愛く思えた。
 南野よりも年下だとは言え、成人式も終えてしばらく経った大人の男に可愛いなど、普通であれば感じる事ではない。現に、有沢に対してそう思ったのはこれが初めてで、有沢以外の男を可愛いと思った事はない。
「有沢って、俺に触りたかったり、するんだ……」
 恋人になるという事がどういう事なのか、今改めて自覚する。昨夜は勢いに飲まれ流され、何も考えずに恋人という関係を受け入れてしまった。隣に居させてくれと願う有沢を、受け入れてしまった。
 だが、恋人という関係はただ一番近くにいるだけの関係ではない。初心な子供ならいざ知らず、この年になってしまえば本能に基づく欲求は無視できないものだろう。
「え、あ、もちろん……! でも、ほら、南野さんが嫌だって言ったら絶対何もしないですし、無理矢理とかそんなの絶対にないんで! はい! 大丈夫です!」
 急激に湧いてきた南野の不安を敏感に感じ取ったのか、有沢は顔をあげ、目の前で両手をぶんぶんと振りながら勢いよく捲し立てる。この数年、仕事を通して有沢の人となりは見てきている。有沢の言う通り、南野が拒めば無理矢理迫ってくるという事はきっとないのだろう。
 男同士の行為自体に不安があるわけではない。――南野は過去に男同士での経験があった。生きてきた年数を考えれば、経験があってもおかしくはないだろう。ただ、その経験はやや特殊なものだ。
 有沢がもしも自分に純粋さを求めているのなら、その過去を知れば落胆させる結果になるはずだ。
「有沢」
 ほんの少しだけ迷ってから、恋人の名を呼ぶ。
「はいっ!」
 有沢は慌てた様子で両手を己の太ももの上に置いて背筋を正した。
「手、貸して」
 その有沢に、右の手のひらを差し出す。いずれ、進まなければいけない。捉われたままで生きていく事は出来ないのだから。
「……はい」
 有沢は一瞬の逡巡の後、差し出された手のひらにゆっくりと自分の右手を重ねた。南野はその重ねられた手のひらをそっと握る。その手は温かく、確かに生きている手だった。今を生きている手だった。長年一緒に働いてきて、手を触ろうと思って触れたのはこれが初めてだった。
「誰かと付き合うなんて久しぶりだし……なんていうか、俺も緊張してて……その、なんかするのはいいんだけど……ステップはゆっくり踏んでくれると、助かる」
 少しだけ恥ずかしくて、顔を俯かせ加減にゆっくりと言葉を紡ぐ。そんな南野とは裏腹に、南野を見詰める有沢の表情はみるみるうちに輝いていく。有沢の露わな感情はわかりやすくて良い。
「……っはい!」
 瞳に光をたたえて手を握り返した有沢に、南野はそっと満足げな笑みを返す。互いに向き合って右手同士を重ね、互いの体温を感じる。ただそれだけの事なのに、心に満ちていく何かがあるような気がした。手を重ねていた時間は一分にも満たない程の時間だ。手を離すのは名残惜しく――だが、ここは会社だ。誰もいないとは言え、まだ残業の途中で仕事が残っている。
「あと三十分くらいでキリのいいところまで出来上がると思うから、有沢もさっさと終わらせろよ。駅まで一緒に帰ろう」
「わかりました! ありがとうございます」
 そうして二人は各々のブースで机に向き直り、仕事の続きを始める。フロアには再び、二人分のキーボードを叩く音が響き始めた。南野は、有沢を恋人として受け入れた事が正しいのか間違っていたのか、まだ判断がついていなかった。
 一歩を進めたいという意思はある。だが、一歩を進めようとする度に抑えきれない程の罪悪感がわきあがる。南野の心はいつだって、彼女のものだった。忘れようと藻掻けば藻掻くほど、彼女は呪縛のように絡まり続けるのだ。
 そんな中途半端な状態では、いつか有沢を傷つけてしまう事くらいは理解している。けれど、終わりのない孤独は、もう耐え切れるようなものではなかった。
 後ろを向こうとする自分に嘘を付き、前を見ているフリをする。己を装って、己を傷付ける。明るい未来に向かうフリをしながら、開いた傷口を鋭利な刃物で切り裂いていく。そうして藻掻いた過去を思えばきっと今は前に進めているのだろう。
 キーボードを打つ度に、青白い光を放つディスプレイの中で見慣れた英数字の羅列が流れていく。
 南野はふっと息を吐き、データを保存する。先程の宣告通り、時計の針は三十分進んでいた。
「有沢、帰るぞ」
 パソコンの電源を落とし、帰る準備を進めながら隣の有沢へと声をかける。
「はいー俺ももう終わります……!」
 有沢は声こそ間延びしているものの、キーボードを勢いよくタイプする音がうるさい程に聞こえてきた。それも一分程待ったかというところで静まり、素早く帰り支度を整えた有沢を伴って会社を出る。
 敷き詰められたアスファルトを踏み締め、駅を目指す。有沢と横に並んで歩いているが二人の距離は近くない。日付が変わる時も近いこの時間は人通りも少ない。日本の夏特有の、肌に纏わりつくような重く湿気た空気が鬱陶しい。
「そういえば、南野さんは好きなお弁当のおかずとかってあります? 明日からお弁当の参考にしたいです」
 有沢は一歩分、隣を歩く南野の方に寄るとそう言って顔を覗き込む。だが、食事にこだわりのない南野にとって、その質問に対する答えはすぐに出てくるようなもでのはない。腕を組んで深刻そうに眉根を寄せ、思考を巡らせる。
 眩い程の駅の明かりが、歩みを進める度に近付いた。
「んー……好きなおかずとか考えた事もなかったな。嫌いな食べ物とかないから何でも好きなんだけど、美味しいたまご焼きとか食べたいかも」
 ようやく出てきた答えを伝えると、有沢の表情はみるみるうちに輝きを増していく。わかりやすすぎて見ているだけで清々しい気分になれる。
「俺、たまご焼き得意なんです! 任せてください! 甘いのと塩っ辛いのとどっちがお好みですか?」
 有沢に犬のような尻尾があれば、今頃ぶんぶんと残像が見える程の勢いで振っているのだと想像できる。そんな自分の想像に笑いを噛み殺した。
「どっちも好き。でもお弁当なら塩っ辛い方がいいな」
「わかりました! 明日を楽しみにしててくださいね!」
 そうして会話がひと段落したところで、ちょうど駅に到着する。それぞれに鞄から定期券を探り出しながら、改札の手前で足を止めた。
「今日はおつかれさん」
 向き合って軽く手をあげると、有沢も同じように手をあげて振る。
「お疲れ様です! 気をつけて帰ってくださいね。また明日!」
「ああ」
 改札を抜け、互いに別のホームへと別れた。ほんの少しだけ名残惜しいと思うのは南野の気のせいなのだろうか。
 電車の揺れは心地良く、うっかりすると物思いに浸りすぎてしまう。心に開いてしまった風穴から、夏に似つかわしくない冷たい風が入りこんでくる。住み慣れた街、見慣れた景色、飽きてしまう程の繰り返しの毎日。時は移ろい、それに伴って物事も形を変える。
 けれど、南野が想い続ける彼女はもう変わらない。いつまでも、未来永劫留まり続けるのだ。出来る事なら南野も留まっていたかった。彼女と共にいるためなら命だって惜しくない――そうは思ってはいても、死ねなかった。
 死が、とてつもなく怖かった。いつか必ず誰にでも訪れるものだと理解している。生きているものには避けられない運命だ。
 それならば自ら命を絶つ事も立派な選択肢のうちの一つだろうとは思う。だが、実際に己で命を絶つ事はできなかった。恐怖で足が竦み、身動きさえとる事が出来なくなる。
 だから南野は――歩む気力もないまま、時に流されて生き続けている。時折己の心を痛めつけては、生きている実感を得ている。
 心に巣食う空虚は南野を絶え間なく蝕み続けている。自宅の鍵を開け、電気を点ける。散らかす程の物もない、物を買う気力もない部屋の中にある、小さな机の上には伏せられた写真立てが置いてあった。
 ネクタイも解かぬまま腰を下ろした南野は、その写真立てを起き上がらせる。
「……ただいま」
 写真の中で、いつだって変わらない笑顔を振りまく彼女に告げる。
 返事はなかった。



 狭いブースの中で、今日も二人は肩を寄せ合って昼休みを過ごしていた。有沢の期待の視線が突き刺さる中、南野は弁当箱の蓋を取る。
 昨日、有沢が使っていたものではなく、一段の長方形をした青い弁当箱だった。昨日と同様に保温ランチポットも付属している。
「おお……すげー豪華……これ、朝から作ったの?」
 ご飯は全ておにぎりにされていて、俵型で海苔が巻かれている。たまご焼きにきんぴらごぼう、こんにゃくとじゃがいもの煮物に豚の生姜焼き、鶏のからあげと、彩りを補うためか隙間にはちくわのきゅうり詰めが詰まっている。
「もちろんですよ!」
 胸を張った有沢も手には自身の弁当箱を持ち、中には南野と同じメニューが詰まっている。ただしご飯はおにぎりではなく、敷き詰めた白飯に海苔を乗せただけだった。
「お前が料理得意とかなんか意外過ぎてびっくりだわ。じゃあいただきます」
 南野は軽く両手を合わせると、箸を手に取りおかずを取る。まずはたまご焼きからだった。
「……うまい!」
 箸で掴めば痕が残る程にふわふわで、齧ると何重にも重ねられたたまごの層が弾ける。ほんのりと出汁の風味が口に広がり、ご飯によく合う味に仕上がっている。
 コンビニ弁当に入っている工場生産のたまご焼きもどきとは味も食感も違う。一度食べればやみつきになってしまいそうな程だった。
 たまご焼きの次におにぎりを齧り、嚥下する。胃に流れこむその感覚がたまらなかった。
「そう言って頂けると有り難いです! 明日からも頑張りますね」
 照れくさそうに顔を伏せた有沢はそう言って、頬を赤く染めるのだ。まるで女子中学生のようなその反応は、どちらかと言えば気持ち悪いはずなのに、何故か可愛く思えてしまう。
 南野は他のおかずにも手をつけ、腹を満たすだけではない食事を楽しんだ。
 食事にこだわりはない。例え一ヶ月の食事が全てコンビニ弁当だったとしても、南野は文句ひとつ言わないであろう。正直に言えば手料理にあまり興味を惹かれていなかった。店で食べるものならいざ知らず、素人の手料理に期待する方がどうかしている。
 有沢が弁当を作ってくると言った時もあまり乗り気ではなく、流されてしまった結果がこれだった。
 だが、実際に有沢の手料理を食べてみれば、お金を払って頼み込んででも食べたい程の味なのだ。
 これだけで、有沢を恋人として受け入れて心底よかったと思える。自分がこんなにも現金な人間だと思っていなかった南野は、満ちていく心に頬を緩めた。
「ごちそーさま。本当に美味しかった」
 手を合わせて箸を置き、蓋を閉じる。嘘偽りのない心からの言葉だ。
「おそまつさまでした」
 嬉しそうに顔を綻ばせた有沢も食事を終え、二人分の弁当を片付ける。
「あのさ、毎日弁当作ってもらうなら、俺も何かお返ししたいんだけど……。材料費とか労力とか使っちゃってるし、フェアじゃないっていうか」
 南野が恐る恐るそう告げると、有沢は目を見開いたびっくりしたような表情で南野を見た。
「えっ、でも俺、自分が作りたいから作らせてもらってるだけなんですよ……! 見返りが欲しくてしてるわけじゃないですし……」
「それはわかってるんだけど、申し訳なくてさ。俺に出来る事で何かお礼がしたい」
 有沢は困ったように眉を寄せ、視線を彷徨わせる。視線を彷徨わせるのは悩んでいる時の有沢の癖だった。
「あ、じゃあ今度の休みにどこか遊びに行きましょうよ! 映画とか食事とか!」
 思い付いた有沢は、南野の机の上にある書類で下半分を埋められた卓上カレンダーを指さす。
「遊びに行くって……それは別にいいけど、そんなのお礼にならねーだろ」
 だが、なぜか嬉しそうな有沢とは裏腹に、南野は困惑の表情を浮かべる。
「えーっと、……じゃあ映画奢ってください! それならいいですよね!?」
 そう言われて、困惑は解けぬままであったが頷いてみせる。映画を奢るだけでは材料費と労力はまかなえぬはずだ。しかし、こういうものは有沢の望むものが一番いいはずだ、というのが南野の持論だ。食事に行くならばそれも奢る事にする、と勝手に決めた。
「じゃあ今週末? 映画は何見んの? っていうか今何やってんの?」
「……俺も知らなくて。今週末までに調べときますね。南野さんとデートなんてなんだかドキドキしますね!」
 その言葉に、南野はぴたりと動きを止める。
「でーと……」
 考えてもいなかったが、言われてみればそれはデートに該当するのだろう。今まで意識していなかったものを、急激に意識してしまう。
「楽しみですね!」
 ふわふわとした幸せそうな笑みを浮かべた有沢にそう言われ、南野は否定する事も出来ず
「ああ」
 と、頷いた。デートが嫌だというわけではない。恋人なのだから、デートをする事も当然の流れだろう。
 ただ――覚悟が出来ていないのだ。彼女以外の人間と、愛を深める覚悟が出来ていないのだ。



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