溺れる事は簡単で、故に難しい。 第二話


 好きになってもらうだけなら構わない。誰かに好いてもらえるのなら嬉しかった。南野はその容姿ゆえ、誰かに好意を向けられるのは慣れている。例え自分に想いを向ける人間が男であろうと、そんな些細な事は気にしない。
 だが、即ちそれが向けられる想いに応えられる、という意味ではない。相手が男であるにしろ女であるにしろ、南野は恋人を作る気はなかった。
 南野の意識はまだ過去にある。もう時を刻む事の出来ない彼女の腕の中にある。
 新たな恋愛など、考えられるわけもなかった。
「えっと……」
 思いをそのまま口にする事が出来れば、今目の前で期待に満ちた眼差しでいる後輩を傷付ける事はないのだろう。
 しかし、そんな事も出来ない程、南野は現実を受け入れきれていなかった。
 今までの全ては夢で、目が覚めればあの頃の彼女が隣にいるのではないか、と毎夜思い続けている。
「なに、俺もしかして口説かれてたりするの?」
 強いて明るく、笑ってみせる。
「一応、そのつもりです」
 けれど有沢は、やはり真面目な瞳で南野の瞳を見詰め返すのだ。南野は僅かなため息を吐くと、すっと笑顔を引っ込める。
「悪いけど俺は今は恋人とか作る気ないから、有沢の気持ちには応えられない」
 先程とは打って変わった真摯な口調で応じる。
 いくら南野が冗談として流そうとしたところで、有沢が引かないのであれば難しい話だった。それでもこのまま有沢の気持ちに向き合わず、無理矢理流してしまう事だってできただろう。
 南野がそうしなかったのは、真正面から向かってくる有沢の気持ちを無下にしたくなかったからだ。ここで誤魔化すだけでは、有沢は次へと進めない。
「なんで、ですかね……? さっきも言ってましたけど、もし本当に仕事に集中したいとかいう理由なら、俺も邪魔にならないようにしますし……!」
 有沢の感情表現はいつだって一直線だ。必死に訴えるその声色は、言葉を紡ぐにつれてほとんど泣きそうな潤みをも帯びてくる。
 一途に保つ想いが強ければ強い程、届かなかった時の切なさは増していく。もう二度と届かぬ想いを抱えた南野は、それを一番よく知っていた。
 容赦なく有沢を切ってしまう事は容易だ。今は誰とも付き合う気がない、と理由も告げず頑なになってしまえば、きっとそれほど簡単な事はないのだろう。
「仕事にも集中したいけど……今はその……一人の時間を大切にしたい」
 それなのに南野は、有沢を出来る限り傷つけまいとする。抱えた想いの辛さを知っている故の優しさだった。
「なら、南野さんのプライベートには出来るだけ関わらないようにします! 南野さんの邪魔になる事は何もしませんから、だから……!」
 有沢は南野を逃すまいと執拗に食らいつく。
 その姿を遠い昔の自分の姿に重ね合わせる南野がいた。まだ彼女が生きていた頃――恋人と呼ばれる関係になりたいと、今の有沢のように一つの機会も逃すまいと必死だった。
 目を眇め、懐かしさに少しだけ表情を和らげる。
「プライベートに関わらないって、それ恋人になる意味あんの?」
「あっ……ありますよ! 俺は南野さんにとって特別な存在になりたいんですっ!」
 あまりの必死さは、一種の憐憫さえ覚える程だ。
 かつての自分を見ているようで心が痛む。
 手を伸ばせば届く距離にいる彼女を掴もうと必死だった。もしも彼女がまだ手の届く存在ならば、南野は今も目の前の有沢のように必死になれるはずだった。
 だから、そうして必死になれる有沢が、ほんの少しだけ羨ましかった。
「……今は本当に誰かと付き合うとか考えられなくて。有沢が悪いっていうんじゃなくて、お前は本当にいい奴だし、付き合ったら楽しいとは思うんだけど」
「なら、なんでですか」
 それでもなお有沢は食いついてくる。
 唇を閉じて曖昧に笑うと、心の根っこ、胸の奥深くがずきりと疼いた。
 刹那だけ迷い、口を開く。
「好きな人がいるから」
 言葉に出して、言う。
 行き場のなくなった想いを誰かに告げるのはこれが初めてだった。
 死んでしまった彼女の事を、もう一緒に時を歩む事が出来ない彼女の事を、思い出す。
 強いて明るく、笑みさえも浮かべて泣きたい気分を誤魔化しながら、現実に目を遣る。
「もう随分前に亡くなってるんだけど、今でも俺は忘れる事が出来ないし、多分この先もずっと、一生忘れる事は出来ないと思う」
 そこまで言葉に詰まらず淡々と話す事が出来たのは奇跡にも近い。
 彼女がいなくなってからというもの、南野の心には常に空虚が宿っていた。
 彼女と築いてきた思い出を懐かしんでは孤独に苛まれ、自分だけに流れ続ける時間を感じて絶望に触れてきた。
 深すぎる絶望は光の届かない暗闇で、そんな暗闇の中を南野はいつも手探りで彷徨っていた。暗闇なんて知らないフリをして、彷徨っていた。
「そう……だったんですか」
 有沢は先程までの勢いはどこへやら、肩を落として俯く。
 その姿を見て心が痛まない南野ではない。ほんの一時とは言え、期待させてしまったのは南野自身だった。
「だから俺は恋人は作らない」
 はっきりと自分の思いを告げる。
 南野は今もまだ、彼女の事を愛している。今はもう手の届かない幻の存在だとしても、南野は彼女を愛し続ける。
 二人の間には重苦しい空気が流れた。どちらとも何も言わず、室内にはコチ、コチ、と時を刻む秒針の音がやけにうるさく響く。
 南野がその空気をどう打ち破るべきか悩みはじめたところで、先に口を開いたのは有沢だった。
「あのっ……二番目なら、どうですか……?」
 その言葉の意味が解らず、きょとんとした顔で首を傾げる。
 ほとんど泣きそうな潤んだ瞳は熱く、南野を見詰めていた。
「二番目……?」
「南野さんがその彼女さんを大事にされてるのはよくわかりました。そこまで一途に誰かを想えるってすごいですよね。なんていうか凄く南野さんらしくて格好いいな、って思います」
 一旦そこで言葉を区切り、再び言葉を紡ぐ。
「南野さんの気持ちを否定する気はありません。……だから、一番の恋人は、一番好きな人はその方で、その次の位置に――二番目に、俺を置いてもらえませんか?」
 熱い瞳は一直線に南野を見詰め、言葉を吐き出す。
 後輩に好意を抱かれて純粋に嬉しいと思う反面、そのあまりに真っ直ぐすぎる想いは戸惑うばかりだった。
「そんな事……言われても、」
「困り……ますよね。俺も同じ事言われたらすごく困る自信があります」
 けれど、戸惑う南野をよそに有沢は自分の想いを表し続ける。
「俺は、南野さんの事が好きなんです。ずっと一緒にいて、たくさん面倒を見てもらって、南野さんの背中にずっと憧れてました。背中を追うだけでなくて、いつか隣を歩けるようになれたらいいなってずっと思ってました。――南野さんの事が、好きなんです」
 一途に純情に相手を想い続ける気持ちは、南野だってわかる。どうにかして相手の特別な特別な位置にいたいという気持ちは――かつて南野が”彼女”相手に抱いていた気持ちと全く同じだ。
 まだ学生だった頃、年上だった”彼女”を振り向かせるために必死だった。背伸びをして大人ぶり、誰よりも一番でありたいと願った。
 だから、有沢の気持ちはまるで自分の事のようによくわかる。
 生半可な覚悟で想いを抱いたわけではないのだと、絡んだ恋心に焦がれ掬われ毒のように身体に沁み渡らせる。
「俺は誰よりも一番、南野さんの事が好きです。他の人との恋愛も考えられないくらいに南野さんの事が好きなんです。」
 ごくり、と息を飲む。
 真っ直ぐで、一直線。いつだって素直で真面目な瞳は熱を持ち、南野の視線を捉えて離さない。
 痛々しくて、見ていられない。かつての自分を見てるようで可哀相だった。
 今まで告白された経験は決して少なくない。一言断って諦める人間もいれば、食い下がる人間もいたが、言葉を重ねれば結局は皆諦めた。今の有沢のように二番目でいいと言われたのはこれが初めてだった。
 キィ、とオフィスチェアを左右に少しだけ回転させ、自分の動揺を隠す。
「俺は二番目で構いません。南野さんが、彼女さんの事を想い続けるのなら、それはそれで構いません。俺の事を二番目に好いてくれるのなら、それだけで幸せです」
 南野の言葉を遮って有沢は言う。
 潤んで縋る熱い瞳はまるで子犬のようだ。
「……」
 心が、痛む。
 今ぶつけられている想いの丈が本当ならば、孤独に絡まり動けない自分を――拾い上げてくれるのではないだろうか、と、迷ってしまう。
 愛してる。愛してる。今でも彼女を愛してる。
 けれど、それと同時に愛し続けてももうどうにもならない事も自覚していた。
 そろそろ変わるべきなのだと、自覚していた。
 二番目の恋人を作るという事は、彼女に対する裏切りになるのではないだろうか。
 差し出された手をとってみたいと思う反面、足に絡まる呪縛が気になった。
「南野さんの事が、好きなんです。南野さんにとって特別な人間になりたいんです」
 愛し続けるだけではなく、愛されたかった。
 もう抱く事の出来ない彼女の代わりに、目の前の後輩を受け入れる事は間違いではないのだろうか。
 刹那の迷い。
 葛藤が心の内を荒らす。
 空虚を知っている。取り残される寂しさを知っている。大切な物を失う絶望を知っている。
 一人は、寂しかった。
 引き摺ってきた思いを簡単に捨て去る事はできない。けれど
「……わかった。二番目でいいなら」
 けれど、有沢が二番目でいいと言うなら、受け入れてみたかった。
 もう歩む事の出来ない彼女と一緒に留まってしまった自分を、少しだけでも変えてみたかった。一歩を踏み出したかった。
 言葉を告げた瞬間、有沢はぱぁっと霧が晴れたような朗らかな笑みを見せた。
 あまりに素直なその感情表現に、南野だってつられてしまう。
「やっ……やったぁ……!」
 諸手をあげて春の到来を喜ぶ笑みは幸せそうで、純粋に羨ましかった。そんな風に笑えた過去が自分にもあった事を思い出して懐かしかった。彼女とそうして笑い合った日々が、懐かしかった。
「南野さん、大好きです」
 屈託のない笑顔は同性ながらに魅力的に思える。
「そりゃよかった」
 他人事のようにつぶやきながら、これから自分にもそんな風に笑える日々が訪れるのではないかと思うと、少しだけ切なかった。



 有沢を家に帰すつもりが思いのほか時間を食ってしまい、南野も集中力を途切らせてしまったため、その日の仕事は諦め共に帰路についた。
 会社から駅までを終始機嫌の良さそうな笑みを浮かべた有沢と一緒に歩き、駅からは家の方向が違うためそこで別れる事になる。
「あの、えっと、これから仕事じゃないメールとかってしてもいいですか……? ご迷惑ならしないんですけど……!」
 終電も間近な平日の駅は人がまばらだった。
「いいよ。メール待ってる」
 電車はもう間もなくやってくる。改札を通り抜け、そこで足を止めた。そこが二人の分かれ道だった。
「有難う御座います! メール送ります! 南野さんもメール送ってくださいね!待ってます!」
 電車の到着するゴトゴトとした煩い音を聞きつけた有沢はぶんぶんと周囲も気にせず手を振り
「お疲れ様でした」
 と、踵を返しやや駆け足にホームへと繋がる階段へと向かっていった。
「おつかれさん」
 南野はその背中を見送ってから、小さなため息を吐き、有沢とは反対方向に位置するホームへと向かう。
 留まり続けていた日常が動き始める予感は、秘め続けていた焦燥と罪悪感を思い起こさせる。
 有沢の乗る電車よりも数分遅くやってきた電車に乗り込み、自宅を目指した。
 堪えようのない孤独が込み上げる。
 一人で過ごす時間は嫌いだった。
 思い出したくない事を思い出してしまうから、いくら求めてももう手に入らない事を実感してしまうから、嫌いだった。
 いっそ全てを忘れたいとさえ願う。
 ひとかけらも失いたくないはずの彼女との思い出を全て忘却する事が出来たのならば、今胸に抱える孤独も絶望も忘れる事が出来るはずだった。
 だから、柄にもなく縋ってしまった。
 自分を好きだという後輩の手は、希望の光のように思えた。
 息苦しいような気がして、ネクタイの結び目に指を引っかけて緩める。
 変わりたい、と思う。一歩を踏み出して、先に進みたかった。
 彼女の時間はもう進む事はない。彼女はもう、先を歩む事ができない。彼女を置いて進んでしまっていいものなのか、迷いは絶える事がなかった。
 電車を降りて駅を出て家を目指す。
 南野の家は駅から徒歩三分の場所にある単身向けマンションの一室だった。
 そのマンションの隣にあるコンビニで夜食のおにぎりと、明日の朝食にするパンを調達してから家へと帰る。
 五階建てマンションの二階に位置するその部屋の鍵を開け、中へと入り込む。
「はぁ……」
 後ろ手に鍵をかけ、息を吐くと今日一日の疲れが身体にぐるりとまわる。
 玄関から続く短い廊下は、小さな台所と洗面所に続く扉に挟まれている。そこを抜けて部屋に入り電気を点けると、もう見飽きた何もない自分の部屋が見渡せた。
 廊下から続く板張りの床の上には、ベッドと小さなテーブルが一つ。スーツを吊るすための衣装ケースが一つ、それ以外の衣服をいれた段ボール箱が一つという、随分あっさりした部屋だった。テーブルの上には白い写真立てが伏せて置かれていた。
 会社のデスクからでも見て取れるように、片付けの苦手な南野でも、そもそもの量が少なければ散らかしようもない。
 南野にとって、この部屋は寝るためだけの場所だった。仕事以外に趣味と言えるものはなにもない――昔はあったはずだが、彼女を失ったその時からやめてしまっていた。
 何かを楽しむ心の余裕なんてものはなくなり、彼女を思い返しては手の届かない存在になってしまった事を悔やみ、現実から目を逸らして忘れようとするばかりの日々だった。
 買ってきたおにぎりを詰め込むように食べ、シャワーを浴びて眠る準備を整え、電気を消して布団に潜り込む。
 目を閉じれば彼女との楽しかった思い出が蘇る。蘇って、そして辛かったあの瞬間が心を切り裂く。
 泣き出したくなるのを必死で堪えているうちに意識は眠りの深淵へと導かれていた。
 



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